刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

『上記』(うえつふみ)に米神山伝承があった?(^_-)-☆

2024-11-10 00:00:01 | 古代史

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本当に実在したウガヤフキアエズ王朝...日本の歴史が変わる世界最古の謎の古代文明と発見された前代未聞の巨人のようなあり得ないものの正体とは?【都市伝説 最新研究 解明】雑学ミステリー通@YouTube

いい話題を有難うございます。

現存する最古の歴史書とされる古事記も9世紀の学者が突然表に出してきたものです。正史にその記録はないですし、日本書紀が参照した痕跡もないのです。日本書紀によって隠された史実をそれとなく暴露する暗号書の一種なのです。

ウガヤフキアエズは記紀神話の日向三代の最後の王で神武天皇の父ですが、本当の初代ヤマトの祭祀王の応神天皇と出雲・丹後王国の史実を隠すために日本書紀で創作された神話が日向三代と神武天皇なのです。古史古伝のひとつ『上記』(うえつふみ)がウガヤフキアエズと米神山の巨石文化とを結びつけているようですので、応神天皇とその本当の父大国主の隠された史実を暴露するものでしょう!長くなりましたのでブログ記事にしました。よろしければ「刮目天の古代史」にどうぞ(^_-)-☆

応神天皇の父は仲哀天皇とされていますが、日本書紀では父の日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になりますから、杜撰な作り話と直ぐに分かります。本当の父は仲哀天皇の熊襲征伐に登場する武内宿禰とされた、記紀神話に登場する大国主のことで、実在人物の高野御子です。日本海沿岸を根拠地とするムナカタ海人族を束ねる王で、父日高彦(魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗、大国主の先代久々遅彦)の王子「日高の御子」の隠語として「高野御子」が使われています。弘法大師空海が真言密教の修行場とした金剛峯寺の山号が高野山なのですから、大国主高野御子の鎮魂がその目的だと分かります(詳細は「高野御子の歌(その1)(その2)」参照)。

久々遅彦は豊岡市久久比神社の祭神でムナカタ族の王の襲名です。宗像女神市杵島姫卑弥呼の死後の内戦に勝利して列島の大部分を支配したので後世「大国主」と呼ばれたのです。ですから神武の父ウガヤフキアエズは大国主久々遅彦(高野御子)のことなのです。

 

大国主高野御子と卑弥呼(ムナカタ海人族和邇氏の祖)とはいとこになると、卑弥呼の墓の遥拝所「ヒカケ三女神社」の摂社から推理しています。卑弥呼の墓は宇佐市安心院町宮ノ原遺跡の三柱山古墳です。魏志倭人伝にあるとおり、径百余歩の冢(ちょう、直径約150mの土を盛り上げただけの円形墳墓)です(詳細は「卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?」参照)。

大国主が外交上女王に立てた13歳の台与と共に三柱山古墳に弔問に訪れて、安心院町妻垣神社奥宮の一柱謄宮でも祭祀を行っています。ここが卑弥呼の墓と言う地元の伝承もありますが、最終的には宇佐神宮の本殿下の亀山に葬られたという伝承もあります。宇佐神宮の二之御殿の比売大神が卑弥呼なのです。

一之御殿が八幡大神です。応神天皇とされたのは創建後で、創建時は大国主を八幡大神として祀っていたのです。一緒に創建された神宮寺が弥勒禅院でしたので本地仏は弥勒菩薩と分かります。

米神山にはたくさんの巨石構造物が置かれていますが、山麓にある日本一立派なストーンサークル佐田京石で勝利を父祖に感謝し、この地を最初の都と定める祭祀を行ったようです。ここが大国主神話の豊葦原中つ国の瑞穂の国と突き止めました(詳細は「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」参照)。


米神山の中腹の月の神谷に何本もの巨石棒を一斉に南西方向に向けていますが、二世紀末の倭国大乱の英雄日高彦の終焉地にある山鹿市茶臼塚古墳(4世紀に和邇氏によって作られた方墳)に向けられていることが、巨石棒の方位を測定して分かりました。


一方、古墳の墳頂に置かれた大日如来の石祠から、大国主の本地仏弥勒菩薩が曼荼羅で北東方向に描かれていますので、互いにそれぞれの方向を指しているのです。

さらにこの線を北東に約400km伸ばすと、豊岡市竹野町竹野の鷹野神社の元宮の五社大明神を正確に指していました(猫埼半島の付け根の小山)。鷹野神社の祭神は大国主に国譲りさせたタケミカズチ神ですが、相殿にアメノホヒが祀られており、浜の天神様と呼ばれています。菅原道真の祖神アメノホヒとスサノヲは共に牛が神の使いですので、アメノホヒがスサノヲの末裔と分かります。ですから、スサノヲの王子イタケルの孫日高彦の別名なのです。つまり、浜の天神様の伝承から元宮が日高彦の居城だったと分かりました。そして、その小山を半島側に下った浜に「誕生之浦」の石碑を発見しました。地元では大国主から国譲りさせたタケミカズチ神が上陸した浜だということになっていますが、竹野という地名は藤原氏が史実を隠すために強権で高野から変えさせたと推理できますから、石碑も藤原氏に配慮した伝承にしたようです。つまり、大国主高野御子の生誕地だったと推理しています。

              < 石碑の裏側に「誕生之浦」と彫られています。 2024.6.7 撮影>

すべては米神山の巨石群からの大発見でした。茶臼塚古墳・米神山・五社大明神の三地点を結ぶレイラインを狗古智卑狗の霊ラインと呼んでいますが、古代人には超能力があったようで、とても不思議な話だと思います。詳しくは「【大発見!】大国主命の生誕地か?」・「米神山で大国主に会ってきた!」などをご覧ください(;^ω^)

【関連記事】

猿田彦大神の石碑のなぞ?

(クリックするとMapが現れますので、ご確認ください!)

日向三代神話は出雲三代がモデルだった!
消された出雲・丹後王国の謎!(その1)八束命の話
消された出雲・丹後王国の謎!(その2)日高彦の話

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ほとんどの日本人が知らない?記紀神話と天皇(^_-)-☆

2024-11-09 00:36:57 | 古代史

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ほとんどの日本人が知らない『天皇』の正体
土岐総一郎の偏見聞録〜オトナの裏教養〜

興味ある話題を有難うございます(#^.^#)
多くの皆さんは記紀神話が江戸時代にできたと聞いて驚くと思いますが、本当です。それまでの日本神話は、720年に完成した日本書紀で創作されたものが、神仏習合や修験道などの影響を受けたナーガ(龍蛇神)信仰の中世日本紀と呼ばれるものになっていたのです(斎藤英喜「読み替えられた日本神話」講談社現代新書 参照)。

皆さんは現存する最古の正史日本書紀が、天武天皇の命令で編纂されたので天皇の歴史書だと教わっていますが、完成したのは崩御の34年後なのです。時の権力者は藤原不比等でした。3世紀までの日本建国の史実が不比等にとって都合が悪いので、神話を創って誤魔化し、人代もかなり歴史が改ざんされていることが、事実、つまり考古学や民俗学などの成果から分かっています。でも、天皇の歴史書だと洗脳されているので、古代史の謎はロマンと思っている方がほとんどです。

普通ならば、事実に基づいて文献批判を行うべきなのですが、津田左右吉からほとんど進んでいません。事実と異なるのが分かれば編纂者の意図が推理できますので、何を隠したのかをさらに事実で検証していけば古代史の真相が見えてきます(詳細は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」参照)。

古事記は712年に完成された最古の歴史書だと言われていますが、9世紀の学者多人長(おおのひとなが)が突然表に出してきたものなのです。正史に古事記の記録がありませんし、日本書紀が参照した痕跡もないのです。日本書紀が隠した史実をそれとなく暴露する暗号書だったことが、事実から分かり、更に暗号を解くと古代史の真相が見えてきました。ほとんどの古史古伝も、古事記と同じ理由で、荒唐無稽な内容の中に史実をほのめかした内容になっているのです。

古事記は神道祭祀の氏族が細々と伝えてきたのですが、江戸時代になって国学者の本居宣長が発掘して絶賛しました。神道家の平田篤胤がその影響を受けて記紀神話に基づく復古神道を提唱したのです。これが幕末の勤王の志士らに人気になり、明治新政府が神仏分離令を発すると全国的に廃仏毀釈運動が起こりました。ほとんどの仏教寺院で神様を祀っていたので打ちこわしに遭い、僧侶も無理やり還俗させられました。あまり酷いので政府は後で寺院を復活させたのです。そして記紀神話に基づく国家神道を創設して、学校で国史を教えたので、戦後の日本人も記紀神話が日本の太古からの伝承だと洗脳されているのです。
これに気付くと、古代史の謎は芋づる式に解けてきました。詳しくは「刮目天の古代史」をご参照下さい。

本居宣長

『國文学名家肖像集』所収の宣長像
平田 篤胤

『國文学名家肖像集』の平田篤胤

天皇の称号のルーツは中国神話の三皇の筆頭天皇伏羲に由来します。中国は正しくは「なかつくに」つまり「ナーガ(龍蛇神)の国」です。紀元前3500年頃の長江下流域の良渚遺跡が紀元前2500年頃に洪水で突然消滅し、生き残った伏羲と女媧(人皇)の夫婦が人類の始祖神という神話が伝えられています(詳細は「中国神話は日本人の神話だった?」参照)。そして天皇陛下が天皇伏羲の末裔であることの証拠を倉敷市楯築王墓で発見しました。詳細は「【大発見!】天皇家のルーツの証拠!」をご参照ください。どうもお邪魔しました(;^ω^)


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王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆

 

中国神話は日本人の神話だった?

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纏向遺跡の勢力が九州の倭国を滅ぼした証拠だ(^_-)-☆

2024-11-07 22:03:40 | 古代史

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2024-09-12 09:43:05の記事「卑弥呼は纏向遺跡には居なかった!」で紹介したYouTube動画

でユーザーの方たちとコメントのやり取りをしました。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

@buluemoon2008
奈良県立橿原考古学研究所の土器の説明では、
『また纒向遺跡からは、西部瀬戸内沿岸地域から北陸・東海に及ぶ広範囲の古式土師器が出土する。古墳時代初等の同遺跡が、列島の極めて広範囲に及ぶ交流の中心地であったことを示している。[奈良県立橿原考古学研究所] 』
と九州は含まれていません。一方、これらの土器にはヤマトの土で作られた地方の土器が含まれるため、地方の人が纏向に持ってきたものとされています。他地域の土器の割合から、他地域の人が2~3割纏向にいたとされています。しかし、北部九州の土器がほぼ出ていないということは、逆にこの時代(古墳時代初頭)に九州とは人的交流がなかった物証ということになります。九州と交流のない邪馬台国はありえないわけです。

@kei.suzuki
九州の遺跡から畿内由来の庄内式土器が出土しているので畿内から九州に人が流入しているのは明らかですよ

@buluemoon2008
纒向遺跡で九州の人の流入がないことの反論として、北九州では庄内式土器が見られ、畿内から九州への人の移動がみられるという指摘もある。纏向に九州以外の地方から来た人々はその建設にあたったと考えられるが、九州に入った近畿の人々の目的はなんだったのか。それは以下の論文に参照された内容をみれば推測できる。九州に前方後円墳を造りにきたのだ。 
 したがって、九州と近畿が交流を閉ざしていた時期と、近畿から人が九州に入った時期は違う。近畿からの流入があった時期に、九州が大和のネットワークに組み込まれたことをしめしている。

佐々木憲一2010「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」p.254
『 この古墳出現前後の時期,各地独特の土器が移動することが知られている。従来この現象は,その古墳出現と何らかの関係があるように理解されてきた。例えば岩崎卓也(1984)は,外来系土器が質・量ともに多い地域と古式前方後円墳の分布に「ある種の相関関係が存在した可能性」を認める。
 また井上裕弘(1991)も,北部九州において古墳出現前後に畿内系の土器が流入する地域に出現期の古墳が存在することを指摘し,弥生後期以来の伝統的でない四本柱の住居の出現と考え併せ,古墳を創出したヤマト勢力の動向を背景の一つに挙げている。』

@katumoku10
 @buluemoon2008  さん おっしゃるとおり北部九州に畿内の庄内土器が見られるのは卑弥呼の死後の古墳時代初頭からなのです。考古学的に畿内の勢力が北部九州の倭国を倒して、ヤマト王権が成立したことを示しています。二世紀末の倭国大乱と三世紀後半の建国の戦いの痕跡を発見しています。よろしければ「刮目天の古代史 鉄鏃・銅族の出土状況のデータ共有」をご参照ください!これによって卑弥呼の正体が玄界灘を支配していた縄文海人ムナカタ族の姫巫女(和邇氏の祖)宗像女神市杵島姫であったことが推理できます。
最も大事なことは、記紀が天皇の歴史書ではなく勝者藤原氏の歴史書だったことに気付けば、様々な謎が解けてきます。
乱暴者の神スサノヲが高天原から追放された神話は、一〇七年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升(正しくは奴国宮廷楽師 師升)に宋史王年代紀第十八代奴国王スサノヲが殺されて倭国を乗っ取られた史実を誤魔化すために作られた話だったのです。ここからイモずる式に謎が解けてきます。詳しくは「刮目天の古代史 王年代紀は記紀神話を正した」をご参照ください。

@buluemoon2008
『また纒向遺跡からは、西部瀬戸内沿岸地域から北陸・東海に及ぶ広範囲の古式土師器が出土する。』この地域が、古墳時代の東アジアからの渡来人の血が濃い地方(古墳人)と重なることに、気づいてしまいました。この時の渡来人は中国を出て真東に向かい、黒潮に乗って日本の太平洋側に着いたのでしょう。紀湊から紀路を通れば纏向地域へは一直線です。

@yamataikoku4in8miyazaki7zaki
 @kei.suzuki  
征服されたら連続性がなくなるんですか?

@yamataikoku4in8miyazaki7zaki
 @katumoku10  
「考古学的に畿内の勢力が北部九州の倭国を倒して、ヤマト王権が成立したことを示しています」
考古学的というか、遺跡ではそんな事は判りません
あなたがそう解釈しただけです

@kei.suzuki
 @yamataikoku4in8miyazaki7zaki  

そんな事書いてませんけど?

@katumoku10
 @yamataikoku4in8miyazaki7zaki  
3世紀前半の卑弥呼の時代の纏向遺跡から九州の土器が見られないのです。纏向遺跡で行われた石塚古墳などの初期前方後円墳での重要な祭祀に北部九州の倭国の人が参加していないのです。敵対していた勢力だと分かります。
そして、卑弥呼は倭国の女王とされていたとありますから、北部九州で畿内の庄内土器が見られるのは、卑弥呼の死後に纏向遺跡の勢力がやって来た証拠でしょう。3世紀末ごろに纏向遺跡でヤマト王権が成立しており、その頃つまり3世紀後半に鉄鏃・銅鏃の出土状況から戦乱の痕跡が見られます(詳細は「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。日本書紀の崇神天皇紀の四道将軍と景行天皇紀の九州遠征そして日本武尊の東国遠征などのルート上にそれらの痕跡が見つかっているのです。ですから、日本書紀の四道将軍から景行天皇紀の遠征までの約150年の話は史実を引き延ばして創作したものだと分かります。この内容がヤマト王権成立前夜に実際に起こった史実だと分かるのです。詳しい話は「鉄鏃・銅族の出土状況のデータ共有」を参照してください。


@katumoku10
 @buluemoon2008  さん 纏向遺跡の外来土器で、西部瀬戸内沿岸地域のものとされたのは、実は東瀬戸内地域、つまり阿波・讃岐の間違いだったことが、石野博信「大和・纏向[第三版]」学生社2011,pp.468-470にあります。西瀬戸内の人々は3世紀の纏向遺跡には来ていません。それから阿波・讃岐の人々も230年くらいまでは纏向遺跡に来ていたのですが、それ以降は纏向遺跡に来ていないようです。纏向遺跡の勢力(旧奴国=狗奴国)を見限って、楽浪・帯方郡や半島との交易を行っていた卑弥呼の倭国に出入りしているのだと思いますよ(^_-)-☆



王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆

 

ヤマト王権の成立過程と主要な人物の系譜については以下の図のとおり推理している。

 

 

 

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初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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知ってはいけない宇佐神宮の秘密?(;^ω^)

2024-11-06 00:01:33 | 古代史

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【日本の神様】宇佐神宮の謎をリーディング!

白蝶レイ@YouTube

 

そうなんですよ。宇佐神宮の一番立派な二之御殿の比売大神は卑弥呼ですよ。邪馬台国というのはヤマ国に住む女王の国という意味なのです。宇佐市街から駅館川を溯り、山地に入ると安心院町がありますが、宇佐市史(上巻P.324)によれば平安時代に作られた和妙類聚抄の宇佐郡野麻(ヤマ)郷に比定されています。安心院盆地は当時は葦が群生していて、弥生時代後期に人が住んでいたのは三柱山台地の宮ノ原遺跡でした。

そこに三女神社があり、日本書紀では宗像三女神が降臨した葦原中つ国の宇佐嶋とあります。三女神社の南側は深見川が流れていますが、その間は10m以上の崖になっていて、西側にはV字溝が発見されており、その中から銅鏃が1個発見されています。兵士によって護られた城柵があったと分かります。

さらに西側約500mのところに魏志倭人伝の卑弥呼の墓とされる径百余歩の冢(直径約150mの土を盛り上げた円形墳墓「三柱山古墳」)がありました(詳細は「宇佐は記紀が隠した秘密が満載だ」参照)

話が、長くなったのでブログにしました。よろしければご参照ください。一之御殿の八幡大神の話もありますよ。お邪魔しました(;^ω^)

卑弥呼の墓の西側の原野の地名が血野(現在、知野)ですから、百余名の奴婢を殉葬するためにそこで惨殺したと推理できます。さらに、南約400mの所の地名が日食を連想する「ヒカケ」という地名になっており、同じ名前の三女神社として墓の遥拝所になっています。三女神の墓石となる石塔が三基、卑弥呼の墓に正対しておかれています。さらに十数m先は人工的に土が盛り上げられて、墓を目視できないようになっていますが、そこに横穴が掘られて馬頭観音の石像が置かれていますから、247年3月24日の日食が原因で殺された卑弥呼の史実から作られた女神アマテラスの岩戸隠れを連想します(詳細は「卑弥呼の墓は見つかってるよ」「卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?」参照)。

日本書紀の高天ヶ原神話などは神代の話は藤原不比等にとって都合の悪い3世紀までの建国時代の史実を隠すために創作されたのです。人代もかなり歴史が改ざんされていることが、考古学や民俗学などの成果、つまり事実から判明しています。先に作られたとされる古事記は、実は9世紀の学者が突然表に出してきたものです。正史に古事記の記録もありませんし、日本書紀が古事記を参照した形跡もないのです。事実を調べると、日本書紀が隠した歴史の真相をそれとなく暴露する暗号書だと分かりました。これを解くと空白の4世紀に隠された二人の天皇や倭の五王の系譜、更には謎の天智天皇の系譜も判明しています(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その2)(その3)」「天智天皇とは何者だ?( その4 )」参照)。

そして一之御殿の八幡大神ですが、応神天皇は、本当の八幡大神で父の大国主高野御子(狗古智卑狗)を隠すために、宇佐神宮創建からずっと後に祀られるようになったのです。日本書紀では応神天皇の父は仲哀天皇とされていますが、仲哀天皇の父日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になりますので、杜撰な作り話なのです。日本武尊も本当の建国の主役の大国主(日本書紀の武内宿禰)を隠すために創作された英雄です。三之御殿に祀られている応神天皇の母神功皇后は台与のことなのです。大国主は卑弥呼の死後の内戦を勝利して、台与を外交上卑弥呼の後の女王として、魏を後ろ盾として、纏向遺跡の狗奴国王(日本書紀の崇神天皇)を裏切って対立しました。日本書紀では仲哀天皇の熊襲征伐の話にしています。

大国主は内戦で狗奴国王の王族の尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト)を討ったので、仇討ちで建稲種命が大国主と台与を討ちます。日本書紀の景行天皇の九州遠征の話としていますが、遠征のルートに尾張勢が使う銅鏃が出土しているので分かりました(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その2)(その3)(その4)」参照)。大国主の国譲り神話はこの史実に基づいて創作されたものです。建稲種命がタケミカズチ神、乎止与命はその父カグツチです。愛知県やその周辺にカグツチを祀る秋葉神社が集中しています。日本書紀では崇神天皇の時代に三輪山の大物主大神(大国主)が祟ったので子の大田田根子を呼び寄せて祀らせた話がありますが、崇神天皇が大国主の傘下を平定して統一したのですが、280年に倭国女王が朝貢していた西晋が呉を討って三国志の時代を終わられましたので、次は倭国を討った狗奴国が討たれることを怖れて、狗奴国王は大国主と台与の子応神天皇を呼び寄せて両親の鎮魂のために大々的に古墳を造り祭祀を行いました(前者の墓が桜井茶臼山古墳、後者が箸墓古墳)。そして、纏向遺跡を卑弥呼・台与の後継国とするためにヤマト(邪馬台国)と呼ぶようにしたのです(詳細は「何故、大和をヤマトと呼ぶのか?」参照)。

270年ころの日本建国の戦いとその後のヤマトの祭祀王即位(3世紀末)の史実が日本書紀では崇神天皇から応神天皇即位までの約350年間の話に引き延ばされていることが分かりました(^_-)-☆

 

【関連記事】なぜ宇佐神宮に多くの謎があるのか?以下の記事をご覧ください(#^.^#)
卑弥呼は何故隠された?(´・ω・`)
卑弥呼を不比等から護った人物?(;一_一)
卑弥呼はどのように隠された?(;´Д`)

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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邪馬台国を見つけるセレンディピティって何?(@_@)?

2024-11-05 00:00:02 | 古代史

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2024-11-02 00:05:55に掲載した【邪馬台国問題】魏志倭人伝にヒントが?でご紹介したハルキーさんのYouTube動画「魏志倭人伝における邪馬台国所在地論の分かれ目について語る(あくまでもこのチャンネルの見解です)」でユーザーの方たちといろいろと議論していますので、よろしければお付き合いください(#^.^#)

@YO-high

まさかこのタイミングで「邪馬台国」論ですかぁ。吉備の話の前なのにやりますね。 正直言えばワイとは違うんですが、考え方としては正しいかと存じます。 ワイは「女王国」≠「邪馬台国」と考えてますので、女王国が豊前というのはワイの「妄想」とは合致しております。 何というか、「押し付け」ではなくて、もう少しおおらかに考えたいと思ってるところですなぁ。さあて、次回も楽しみにしております。

@北島正隆-d5x

私は、水行10日陸行1月で至るのは「邪馬壱国の女王の都となる所」だと考えます。 (都という中国語には「先祖からの墓がある所」という意味もあり、この意味ととった。) 意訳すると「邪馬壱国の女王の母国」だと思ってます。

@takedaharuki

そういう解釈もあるんですね。都の中国の意味は興味深いです。

@takedaharuki

今回の動画は旅行記のおまけのような感じです。吉備の動画自体は2週間近く前に完成しているので、もう当日まではあまり考えず待つばかりです。

@katumoku10

@北島正隆-d5x さん 范曄後漢書では邪馬台国となっていますので、これが正しいと思います。邪馬台は ヤマ国に住む女王(台)という意味ですので、意味がはっきりします。邪馬壱(やまいち)だとバブルがはじけて倒産した証券会社しか思い浮かびませんから(;´Д`)

「臺(台)」は皇帝を意味する場合があるので、畏れ多いので「壹」と書き換えた可能性が大きいですよ(;^ω^) 「女王の母国」は正解だと思います。卑弥呼の墓の近くに父親の墓も発見していますから(#^.^#)

@北島正隆-d5x

@katumoku10さん 魏志に先行する広志という文献があります。ここには邪馬台国(邪馬臺國)でも邪馬壱国(邪馬壹國)でもなく 邪馬嘉國とあります。嘉という文字は壴(シュ)という文字から来ているとの事なので、

邪馬嘉 → 邪馬壴 → 邪馬壹 →(魏志の一部にみられる)邪馬一 →耶麻惟とか

          |            →邪馬臺 → 耶麻堆とか

このように表記がブレた可能性を考えています。 また魏の当時の発音は、邪は「ジャ・ジア」、馬は「ラ(マでもバでもない)」台は「アイ」だったようです。 邪馬台は「ジアラアイ」邪馬壱は「ジアライー」で、発音はどちらでもよかったのかも知れません。 いずれにせよ、直接ヤマトに繋がる発音とは思えません。 さて、邪にもいくつか意味があり、呉では今でいう「椰子」の意味でも「邪」を使ってました。 邪馬台国をヤマタイ国と発音したのは呉の発音かも知れません。

赤烏元年(238年)と赤烏七年(244年)という銘が入った鏡が出土しているので、どこかが呉と繋がっていたようです。 また赤烏とは「中国の伝説に登場する「太陽の中にいる三本足の烏」」と言う意味ですので八咫烏に通じます。 他にも日本の漢字の音読みには「呉音」はあるが「魏音」はないです。 魏は北部九州と、呉は琉球ルートで呉と繋がっていたことが示唆されます。 上記のように。無理にヤマトに近い音に合わせる必要もありません。 このように、元は邪馬嘉である可能性も考えられ、邪馬国の台(女王)と決めていいものでもありません。

あと、そもそもですが陳寿が書き残したであろう国名はちょっと変です。 魏略には對馬國・一支國なのに魏志には對海國・一大國とあります。 本当は邪馬台国という国があった「のかも知れません」が、陳寿が意図して邪馬壱国と書いたのかも知れませんし、 邪馬嘉国を、意図して邪馬壱国と書いたのかも知れません。 邪馬嘉国は、後にヤマカと読むようになったのであれば、熊本県山鹿市かもしれません。 陳寿が意図して邪馬壱国と書いたのなら、今の釜山(く邪韓国)から邪を、対馬から馬を、一支国から一(壱)をとり ベネルクス三国のような意味で邪馬壱国と言ったのかも知れません。 であれば、邪馬壱国は倭国の入り口という意味から、倭国全体或いは女王の勢力範囲を指し、その首都は伊都国 こういうことかも知れません。

邪馬壱は間違いで、邪馬台国が正しい、と言い切れるものでもありません。

@katumoku10

@北島正隆-d5xさん そうなんですよ。シナの古文献は原本がない場合が多く、誤写もあり、本当は何が書かれているのか混乱しますね。 だから、諸説が発生する原因です。 そこでいろいろな解釈の中でどれが正しいか、蓋然性のある解釈を見つける方法があります。 たとえばおっしゃるようにヤマカから山鹿とするならば、そこに卑弥呼の墓があるのか?を調べればいい訳です。わたしの知る限り卑弥呼の時代の径百余歩の冢と言えるものはないと思います。だからヤマカ説は失格となりますね!

邪馬壱国は倭国の入り口という意味」というのなら山門あたりでしょうか?そこにも径百余歩の冢は見当たらないと思います。

「邪馬台」ならば宇佐市安心院町が平安時代中期に作られた和名類聚抄の宇佐郡野麻郷に比定されています(宇佐市史 上巻P.324)。そこに弥生後期の集落宮ノ原遺跡があり、記紀に宗像三女神降臨の伝承のある三女神社があり、遺物から三女神、実は一人市杵島姫命であることが分かり、卑弥呼だったと推理できます。

 
その西側に径百余歩の冢と見られる「三柱山古墳」を発見しています。 だから邪馬台国というのが最有力で、その他は何らかの理由で書かれたものだと考えられますよ(^_-)-☆。 そしてここに何故、邪馬台国があったのかは倭国大乱の痕跡を二世紀末の鉄鏃・銅鏃の出土状況から発見していますので、卑弥呼は元は不弥国(ウミコク、宗像市田熊遺跡群)で生まれ育ったのですが、海に近いので戦乱期は物騒なのでヤマコクに疎開していたと分かりますよ(#^.^#)
 
こうやって物証をつないで史実を並べていくと仮説が生まれますので、その仮説が正しければこうなるはずと考えて物証を探してその仮説が補強されます。そういう作業を重ねると、蓋然性の高い仮説が生まれます。この手法は論理学で言うアブダクションというものです。こういう科学的な手法による推論で発見しています。詳しくは「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」・「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください(#^.^#)
 
【参考記事】とてもいい記事を見つけました。セレンディピティ (serendipity)= 「偶然に幸運な予想外の発見をする才能」という言葉を知り、題名にしましたので、以下の論文要旨をご覧ください。こういう科学的な探求をまじめにやれば、誰でも発見できると思いますので、特別な才能ではないというのがこれまでの実感でしたが。最近はいくつかの予想外の発見の体験から、今までならあきらめたことも、新発見できるかもしれないという意識をもって粘り強く探求できるようになっています。そういえば、「ひらめき」は集中して考え続け、脳みそで熟成させると、考えるのに疲れて、他のことを考えた瞬間にひらめく体験をしています。集中力は大事な要素でしょう!セレンディピティを研究すると、そのうち発見の定形化・体系化ができるのかも知れませんね(;^ω^)
 
要  旨
 本稿の目的は,科学の方法におけるアブダクションの位置づけを確認し,発見の方法とも呼ばれるアブダクションが,たんなる偶然のひらめきによりなされているのではなく,あらたな発見(の驚き)に対する心構えとしての習慣を必要とすると論じることにある。
 日本において「科学」という言葉は,理系,特に,自然科学をさすものと考えられがちであるが,「科学」を意味する英語の science は「知る」を意味するラテン語に由来するものであり,疑念を解消するために知ろうとする探求の営みは,社会科学や人文科学(人文学)にも共通している。本稿では,まず科学の方法について確認したうえで,科学の成立と現在における様々な科学の営みを確認する。そのうえで,そのような科学の方法を駆動させる推論としてのアブダクションに注目し,広い意味での科学的な発見がどのようになされるのかを自然科学,社会科学,人文科学(人文学)それぞれについて検討する。
 それらの検討を通じて,本稿では,一般にセレンディピティひらめきとよばれるものが単なる偶然によるものではなく,そもそもそのような機会をつかみ取る心構えとしての習慣,つまり,何かをあらたに知る,あるいは発見するためには,日頃からあらたなものに対する予測と,そのような予測が裏切られることに対して驚く準備ができている必要があると論じる。
 
 
イノベーションにおいて,偶然が重要な要素となるセレンディピティに関して,偶然の役割の核心を明らかにした。それは「偶然が,含意する真理を示し,人がそれに気付くこと」,あるいは「偶然が思考の触発契機となり,潜在的に継続していた思考において,創造が瞬時に成就すること」である。左記の核心の存否によってセレンディピティを識別した上で,偶然が創造活動(科学的創造,技術革新,市場創造)のどの分野に生起するか,加えて仮説構築過程または仮説検証過程のいずれに作用するかによってセレンディピティの六類型を抽出した。以上により,今後のセレンディピティ研究の全体フレームを提示する。
 
「アブダクション」に関する一般向けの最新の解説記事を「日経ビジネス」で見つけました。これからの様々な分野のイノベーションに役立つ論理手法ですよ。会員登録が必要ですが無料ですのでよろしければどうぞ( ^)o(^ )。

妄想と仮説で新分野を切り開く「アブダクション」という手法

会社員研究者が経営者からの宿題を9年がかりで解いた話(その4)

  • By 山中 浩之 Read time:13min 

この記事の3つのポイント

  1. 仮説先行で考える「アブダクション」は探求の論理学
  2. 自分の想像の外に出るには「まず作ってみる」
  3. 満足感のキーになる素材を単独で食べてみると……?

 

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
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