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刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【刮目天の古代史】お知らせ!(;^ω^)

2025-04-18 17:35:26 | 古代史

#本日、「はてなブログ」より最初の記事

邪馬台国探究のための哲学と方法は?

を公開しましたのでお知らせします。最近、にも毎回、最新記事を投稿していますので、意見交換などで是非ご利用ください。

まだ引っ越しが完了していませんので、11月まではGOOブログの記事はこのまま置いておくつもりですが、それまでは皆様に特別に「お知らせ」で利用する以外にGOOブログには記事をアップしませんので、よろしくお願いいたします。「はてなブログ」の操作に慣れてくればいいのでしょうが、現状では覚えることが多いので、とても二つのサイトを管理できません。ということで、今後は「はてなブログ」だけの運用になります。ご面倒をおかけして申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いいたします。(2025.4.18)

 

2025年11月でGOOブログが閉店という連絡を受けて、少し戸惑いました。幸い、GOOブログが引っ越し手順を丁寧に教えて下さったので、今までの記事は一応新規登録したHatenaBlogに移ったようです。有難うございます。しかし、引っ越しを完了するにも、いろいろと作業しないといけないようですし、新しいブログの操作に慣れるまで、しばらくは、思うように対応できませんし、頻繁に記事をアップできないと思います。

フォロワーの皆様のご協力や応援のお陰で、謎の古代史をだいたい解明できました。とても有意義な時間を過ごさせていただき、心から感謝いたします。また、思い出していただいたらご訪問ください。疑問点などございましたら、いつでも遠慮なくこちらにコメントください。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 

【引っ越し先】 https://katumoku10.hatenablog.com/

(2025-04-17 08:37:44 公開)


【刮目天の古代史】奴国を語らずに邪馬台国問題は解けない!(;^ω^)

2025-04-14 00:00:01 | 古代史

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弥生時代に大国化を進めた奴国王!大遺跡群からわかる日本最古の倭人の国の真実
daffyduckissexy@YouTube


とてもいい話題を有難うございます。
奴国は北部九州の倭国の国々を治めた王が居た場所だったのです。奴はナーガ=龍蛇神を意味する漢字で、後漢が倭国王を貶めるために選んだ文字ですが、中(なか)の漢字が一番しっくりきます。

奴国の初代王は4世紀初頭に半島南部の金官国(任那)から遷都した呉の王族の天御中主(あめのみなかぬし)です(「任那(みまな)の正体は?」参照)。記紀でも高天原に最初に降り立った神とされています。早良平野吉武高木遺跡に日本最初の王墓が在ります。奴国三代の王と王妃や王族が葬られています。宋史王年代紀に初代王から二十三代の奴国王名が記載されていて、筑紫日向の宮に居たとあります。二代目が天村雲尊、三代目が天八重雲命なのです。剣・勾玉・鏡の三種の神器が副葬された木棺が二代目の墓です。

四代目の王の名前が天爾聞尊(あめのににぎのみこと)なのです。どっかで聞いたことないですか?記紀神話のアマテラス女神が孫のニニギに三種の神器を与えて葦原中つ国を平定するように命じた天孫降臨の話の基になった史実なのです。

天爾聞尊が祖父の天村雲尊に三種の神器を与えられて福岡平野に進出したのです。

その子孫の奴国王は福岡市比恵・那珂遺跡群に列島最大の交易センターを作り、繫栄し、後漢光武帝から金印を賜るまでに隆盛になったのです。新しい王都が春日市須玖遺跡群です。

シナの冊封体制に倣って、列島各地から珍しい産物を持ち寄るムナカタ海人族の部族長に鏡や剣などの青銅祭器を与えたのです。青銅器の官営工場を須玖タカウタ遺跡に作りましたが、冶金工人はBC.219年に奴国王(龍神)が招へいした徐福の一行だったのですよ。

光武帝が57年に奴国王に金印を与えたのは、シルクロードの最東端の珍しいものを買い付けに来る楽浪郡の華僑のために、倭人との取引を保証させる目的で冊封体制に組み込んだのです(岡田英弘「日本史の誕生」弓立社)。

ですから委奴国をイト国と読むのは間違いです。金印の蛇鈕がナーガ(奴=中)を信奉する民族(江南の倭人)の王(呉王の末裔)であることを示しています。地名も那珂、那賀、長柄、中山等々は倭人が開拓した場所につけられた名前なのです。

そして宋史王年代紀には奴国最後の王の四男が大和の橿原宮に遷都した神武天皇だとして64代花園天皇まで名前を記載しています。しかし、実は17代王伊弉諾尊の次の素戔嗚尊、そして19代王天照大神尊の名前がありましたので、記紀神話の謎が解けました。

古事記神話では姉のアマテラスを悩ませた乱暴者の神スサノヲが八百万の神に捕らえられて、髪の毛を毟られ、手足の爪を剥がされる拷問をされ、全財産を奪われて高天原を追放されたと史実を暴露していたのです。

107年に後漢安帝に160人もの生口を献上した倭国王帥升(倭面土国王師升)の記事が范曄後漢書にあります。師姓は周代以前から宮廷の祭祀を担当する楽師の官位を表すものだったのです。奴国の宮廷楽師師升らが反乱を起こしてスサノヲを捕らえて、金印の在りかを聞き出すために拷問したと分かります。

しかし、金印はすでにスサノヲの部下(江南の倭人アズミ族)が持ち出し、逃げる途中で志賀島に立ち寄って土に埋めたのでした。それが江戸時代になって発見されたものなのです。ですから、師升は倭国王に認められるために捕らえたスサノヲの部下を奴隷として後漢に献上したのでした。金印はこの史実の貴重な物的証拠だったのです(^_-)-☆

この反乱劇のあった博多を日本書紀仲哀天皇紀で儺県(なのあがた)と呼んでいますが、儺の漢字の意味は「鬼やらい」つまり鬼のような悪い奴国王のスサノヲを追放した史実を表す地名なのですから、日本書紀の編者もこの史実を知っていて隠したと分かります。

また面土国について白鳥庫吉は、魏志倭人伝の記事から面が回の俗字の誤写で土(ウィト)国だと指摘しました。つまり奴国王から倭国を奪った師升は王都を伊都国の三雲遺跡に遷したということです。師升王の墓は井原鑓溝遺跡と考えています。

このことから魏志倭人伝の邪馬台国への行程記事を書いた人物が景初三年(239年)六月に魏への朝貢のために帯方郡を訪れた大夫難升米だと特定できました。

難は、倭を委と書いたのと同じで、儺のニンベンを省略した減筆でした。儺升はスサノヲを追放した師升のことです。米は「メ」と呼んで、頭目(かしら)の意味がありますので、師升の子孫の難升米が伊都国男王という意味だったのです。

そして伊都国の「伊」は聖職者を意味し、伊都は殷(商)王朝初期の伝説の政治家伊尹(いいん)を連想する国名です。伊尹は放蕩者の王を追放したことでその評価の議論がある人物ですから、師升が奴国王スサノヲを追放した事績と重なるのです。奴国宮廷楽師の師升の反乱の史実を知って土国を伊都国と書き替えることができる人物は師升の子孫の難升米以外に居ません。

難升米が倭国の本当の国王だったということです。じゃあ、なぜ卑弥呼を女王としたのかは政治的な理由だったのです。これらの発見によって邪馬台国問題も日本の建国の問題も解決しました。詳しくは説ブログ「伊都国の意味がヒントだった?」「【刮目天の古代史】消された吉備の大王ニギハヤヒの謎?」をご参照ください。
どうも、長々とお邪魔しました(;^ω^)

【関連記事】

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)

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【刮目天の古代史】盲点はたった二つだよ(;^ω^)

2025-04-13 09:29:30 | 古代史

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49. 邪馬台国論争を振り返る~「邪馬台国論争と日本国家の起源」
丸地三郎@YouTube


邪馬台国研究史、とても参考になりました。

21世紀の現代になって科学技術は進歩しましたが、この問題がまだ解決しないのは、次のような大きな思い違いがあるからだと思います。

魏志倭人伝は西晋の史官の陳寿が書いたものなので、3世紀の倭人の世界が正しく書かれているはずだから、正しく解釈すれば正解が得られる。

記紀は天皇の歴史書だから、3世紀の倭人や邪馬台国のことが書かれていないが、神話の中に投影されているはずだ。


①については、陳寿が倭人伝を残した政治的な理由をしっかりと理解できていないで書かれた行程記事などの内容から邪馬台国の場所を想定して、自説に都合の好いように文章を解釈し、都合の悪い内容を無視しているのです。だから、万人が納得できる答えになっていないので、いまだに決着しないのです。

②については記紀が天皇の歴史書だと強く刷り込まれているので、何とか好意的に解釈して記紀の内容から仮説を立てているのです。しかし、事実、つまり考古学や民俗学などの成果と一致しないのはロマンだと感じるだけで、実際に編纂した藤原不比等の目的を見抜けません。科学的な探求になっていないのです。つまり、事実と一致する記紀の内容は真実を表している可能性がありますが、そうでない部分は虚構ですので、なぜ虚構が生まれたのかをきちんと探求しないとダメです。

これらのことを理解してアブダクションと呼ばれる科学的な推論法によって仮説構築することで日本の建国の過程を推理できます(詳細は「【必見!】考古学と民俗学からわかる日本の建国!」参照)。

その結果、邪馬台国は宇佐にあり、卑弥呼は古代豪族和邇氏の祖の宗像女神市杵島姫命で、「径百余歩の冢」とある卑弥呼の墓が宇佐市安心院町「三柱山古墳」であることが分かりました。

卑弥呼が何故登場したのかは倭国大乱の原因を正しく理解する必要があります。同時に、日本書紀と古事記の正体も正しく理解する必要があります。

詳しくは「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」および「【刮目天の古代史】日本書紀のひみつ?」をご参照ください。お邪魔しました。

【関連記事】

【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!

【刮目天の古代史】魏志倭人伝に騙されるな!

古事記・日本書紀の正体は?

日本書紀で隠された藤原不比等にとって不都合な史実をそれとなく暴露するのが古事記の目的だったのです。古事記が暴露した主な史実は以下のとおりですよ(^_-)-☆

(1)新唐書・宋史が記した王年代紀で示した初代奴国王天御中主を、日本書紀で高天原に最初に登場する神として古事記でも登場させ、日本書紀の神代七代前に五代の別天神を紹介することによって、神代の高天原の神々が、宋史王年代紀に記載した倭国を支配した奴国王のことだと示唆した(詳細は「王年代紀は記紀神話を正した!」参照)

(2)高天原を追放された乱暴者の神が、八百万の神々に髪の毛をむしられ、手足の爪を剥がされ、全財産を没収されて追放されたと書くことによって、107年に後漢に朝貢した倭の伊都国王師升が第十八代奴国王スサノヲを殺して倭国を奪った史実を示唆した(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。

(3)日本書紀の神武東征神話が真の初代応神天皇の即位の史実を誤魔化す話であることを示唆した。日本書紀で登場するナガスネヒコの別名をトビヒコと明かすことにより、トビヒコの正体の大国主がヤマトのニギハヤヒ大王の子孫に殺された後に大国主の祟りにより、大国主の子(応神天皇)が祭祀王として纏向遺跡に呼ばれてヤマト王権が成立した史実を示唆した(詳細は「ナガスネヒコの正体は大国主トビヒコだよ!」参照)。

(4)日本建国の主役であったスサノヲの子孫の出雲・丹後王三代の王八束命(出雲国風土記の神八束水臣津野命の略称)・日高彦(大国主高野御子の父)の正体を日本書紀は日向三代の神話で隠したことを示唆する神名を与えた。八束命は淤美豆奴神(オミズヌノカミ)とした。またその子日高彦(穂高彦)を天之冬衣神(アメノフユキヌ)としたが、冬の季語がホダ(木切れ)なので八束命と日高彦が木霊イタケルの子孫であることを暗示した(詳細は「日向三代神話は出雲三代がモデルだった!」参照)。

(5)空白の四世紀の謎を解明するためのヒントを与えた。仁徳天皇が、応神天皇の皇太子菟道稚郎子(ウジノワキノイラツコ、宇治天皇)を暗殺して皇位を奪った史実や卑弥呼の弟赤坂比古(記紀の日触使主、詳細は「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」参照)の孫の菟道稚郎子の妹八田皇女と仁徳天皇の子住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ、住吉天皇)が即位した後、異母兄弟たち(履中天皇・反正天皇)に暗殺された史実に加えて、倭の五王の系譜を示唆するために日本書紀と異なる崩年干支を記載した(「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その3)参照)。これによって富雄丸山古墳の被葬者が判明した(詳細は「【刮目天の古代史】今年の大発見第1位!(^_-)-☆」参照)。

(6)日本書紀が隠した天智天皇の真の系譜に気付かせるヒントを与えた。日本書紀が天智天皇の祖父とした押坂彦人大兄の妃糠手姫皇女(ヌカデヒメノヒメミコ)が、日本書紀が天智天皇の母とした宝皇女(タカラノヒメミコ、皇極・斉明天皇)と同じ名前の宝王(タカラノヒメミコ)だったことを明かすことで天智天皇(中大兄、中津王)の真の母が糠手姫皇女であったことを示唆した(詳細は「【刮目天の古代史】天智天皇の謎?」参照)。

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【刮目天の古代史】なぜ纏向遺跡なのか?(その2)

2025-04-12 18:33:09 | 古代史

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#前回の記事「【刮目天の古代史】なぜ纏向遺跡なのか?(その1)」と同様に、「【邪馬台国問題】畿内説はインチキだよ!」でご紹介した以下の動画のコメント欄でもうひと方と議論しました。こちらの方は畿内説でないようです。よく分かりませんが、よく研究されている方でほかの動画でコメントを見かける方のようです。よろしければ、またお付き合いください(*^。^*)

邪馬台国所在地論 考古学的には既に畿内説で決着

 【社会人のための高校日本史】@YouTube

 

@トミヤマサキオ
邪馬台国七万戸可の証明が出来ますから。畿内は三世紀から巨大な古墳が連続で造られた場所ですよ。

@katumoku10
三世紀初頭から造営された纏向遺跡は三世紀末のヤマト王権が成立した場所です。その物証が纏向型前方後円墳です。その後前方後円墳は全国で盛行しますので、政治の中心と考えられているのですよ(;^ω^)

つまり、纏向遺跡の勢力=狗奴国が邪馬台国連合倭国を倒して日本を統一したということです。物証は「【検証19】日本建国のための戦いだ!」をご参照ください。

@トミヤマサキオ

邪馬台国は魏志倭人伝のとおりに考察するなら七万戸、しかも鬼道の痕跡のある場所じゃないとダメなんです。北部九州には奴国があるのでその時点で邪馬台国の可能性は消えます。どうやって九州に14万戸も想定するのでしょうかね? 魏志の記述では7万戸なんて西日本一帯でもおかしくない数値ですから。数字を盛ってると考えるならむしろ畿内説には好都合ですね。 纏向はあくまでも祭祀的な施設なのは現時点でも可能性は高いです。当たり前ですが纏向遺跡=邪馬台国ではありません。あくまでも一遺跡ですよ。

@katumoku10

おっしゃるとおり、纏向遺跡は広大な遺跡ですが、祭祀に特化した政治都市なので、人口は大して多くないと考えられます。でも、単なる一遺跡ではなく、三世紀末には日本を統一してヤマト王権が成立した重要な遺跡ですよ(^_-)-☆

先に陳寿が倭人伝を残した目的を説明しましたが、これに気付かないで邪馬台国問題を議論すると決着しません。歴史学は文献と事実、つまり考古学や民俗学などの成果と一致する部分を探して仮説を構築しないと、書かれていることだけで仮説を立てても騙されます。

当時奴国の比恵・那珂遺跡群がは列島最大の交易都市でしたから、それが二万戸ならば、五万戸の投馬国も七万戸の邪馬台国も倭国を合計十五万の東夷の大国とするための潤色です。戦乱つづきの魏の都洛陽で十万戸、大月氏国も十万戸なので、それ以上の大国に見せかけるためですよ(^^;)

三世紀初頭から造営された纏向遺跡は三世紀末のヤマト王権が成立した場所です。その物証が纏向型前方後円墳です。その後前方後円墳は全国で盛行しますので、政治の中心と考えられているのですよ(;^ω^)

つまり、纏向遺跡の勢力=狗奴国が邪馬台国連合倭国を倒して日本を統一したということです。物証は「【検証19】日本建国のための戦いだ!」をご参照ください。

勘違いしてはいけませんが、弥生中期の時点で鏡は既に葛城地方で出土しています。同じ頃水銀朱を測る秤、貨泉は河内で出土していたり。 つまり邪馬台国の時代より数世紀前から畿内方面は大陸との交流は既に確認済みです。大陸に近い北部九州が先行して栄えるのは当たり前の話で、だからそこに首都機能を持つ伊都が出来たというだけの話です。 同じような例は半島の月支国と辰韓国のような関係でしょう。
 
@katumoku10
そうなんですよ。弥生時代の中期から後期前葉までは奴国王が倭国を支配していたのです。しかし、宋史王年代紀18代奴国王スサノヲの時代に宮廷楽師の師升らの反乱があって、スサノヲ大王が殺され、倭国は師升が乗っ取ったのです。
 
反乱を逃れた王族が出雲と吉備に拠点を作り奴国が再興されたのです

一方、伊都国を王都にした師升の倭国は、当初は繁栄しましたが、後漢王朝の内紛・混乱で半島支配が緩み、韓人らが暴れて、倭国が楽浪郡と交易ができなくなって衰退します。
 
一方旧奴国(狗奴国)の勢力は半島南部の鉄を支配して鉄のネットワークで隆盛になり、倭国の集落を攻撃して、倭国を滅亡寸前まで追い詰めました。これが倭国大乱です。
 
ところが公孫氏が半島を平定したので倭国は息を吹き返し、倭国の前線基地の菊池川沿いの集落を攻撃して狗奴国の官狗古智卑狗が戦死したと推理しています。そのために、半島の鉄の海運を支配していたムナカタ海人族の赤坂比古(和邇氏の祖)が狗奴国を裏切って倭国側につきます。赤坂比古の娘市杵島姫命卑弥呼が告げる太陽神の神託によって政治を行う条件でした。これによって倭国は繁栄し、九州から中国西部・四国の勢力が赤坂比古の傘下になりました

 (図は卑弥呼の死の直前の状況です)
 
狗奴国王卑弥呼弓は吉備から纏向遺跡に遷都し、旧奴国の勢力を集めて倭国と対抗し、卑弥呼の死後の経緯がありますが、最終的に倭国を滅ぼして日本を統一したのです。これは考古学や民俗学の成果によって検証を繰り返して得た仮説です。
 
ですから、九州の倭国と畿内の狗奴国の対立がありますので、それを考慮しなければ大陸・半島との交流を説明できません。詳しい話は拙ブログ「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」でどうぞ。
 
 【関連記事】

消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ

【検証9】奴国時代の話(その1)(その2)
 記紀が天皇の歴史書じゃないと分かれば、通説となっていた奴国に対する考えが変わるはず(^_-)-☆

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)

 

 

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【刮目天の古代史】なぜ纏向遺跡なのか?(その1)

2025-04-11 21:07:21 | 古代史

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#前回の記事「【邪馬台国問題】畿内説はインチキだよ!( `ー´)ノ」の以下の動画にユーザーの意見がありましたのでコメントで参加しました。このところネタ探しに苦しんでいたので、畿内説の方といい議論ができて、とてもありがたかったです。一度に二人の方と別々の議論をしましたので記事を分けることにしました。(;^ω^)

まだ続くかもしれませんので、その場合は追加する予定です。

よろしければまた、お付き合いください(#^.^#)

邪馬台国所在地論 考古学的には既に畿内説で決着 【社会人のための高校日本史】@YouTube

@MsIrina24
ちゃんと中身見てないけど
畿内説は無理しかない
ゴキブリ出てきたことくらいしか証拠がなかった記憶がある

@majesty164
漢鏡の入手主体が畿内にあり同時期の畿内に於いて王宮クラスの建造物が在ったのが纒向という大きな事実があります。

@katumoku10
 @majesty164  女王は城柵に囲われた宮室に居て兵士が厳重に守っているとありますので、防御施設のない纏向遺跡は該当しませんよ(;^ω^)

@majesty164
⁠​⁠ @katumoku10 辻地区居館域周辺は未だ未調査区域が多いですが、
近年の発掘成果から城柵の存在は蓋然性を増しています。

3世紀第二四半期には他に類を見ず隔絶的です。

@katumoku10
 @majesty164  今はまだ存在は分からないというのが現状です。そして居館だけどうして防御施設があるのですか?大型建物で重要な祭祀が行われているときに敵が襲ってきたらどうするのですか?

纏向遺跡が何故ヤマト王権の王都に選ばれたのかは、山に囲まれた盆地だからです。しかも東側の奥に作られていますから、やばくなったらいつでも山地に逃げることができるからです。生駒・葛城山系で西から攻撃する敵を監視すれば、いいわけです。
ですから居館跡でも城柵や環濠などは見つからないと考えるのが自然ですよ(;^ω^)

@majesty164
@katumoku10 
纒向(居館域)の立地やヤマト地域の地理を把握して下さい。
外敵が容易に入り込める立地ではない場所である事が非常に重要です。
何故纒向が王都として選ばれたのか容易にわかるはずです。

@katumoku10
 @majesty164  そうですよ。だから城柵や環濠など居館跡にも見つからないと考えるのが自然だと言っているのですよ!だいじょうぶですか?

そして纏向遺跡の勢力が想定する敵は西側の勢力、つまり邪馬台国連合倭国だったのです!卑弥呼の生きていた三世紀前半まで、纏向遺跡で北部九州の倭国の土器がほとんど見つかっていないのですよ!邪馬台国は九州にあって、纏向遺跡が狗奴国の王都だったと考えるのが自然です。

実際に、三世紀後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べると、ヤマト盆地では戦闘の痕跡はありません。四道将軍や景行天皇の九州遠征のルート上で戦闘の痕跡が見つかっていますので、ヤマト王権が周囲を武力で平定した事実が分かります。そして記紀は崇神天皇から景行天皇までの約200年の話に引き延ばして語っていたことが判明したのです。記紀は天皇の歴史書ではなく、藤原不比等による勝者の歴史書だったのです。藤原氏にとって不都合な史実を神話などの作り話で誤魔化していることが証明できたのですよ。詳しくは「【必見!】考古学と民俗学からわかる日本の建国!」ご参照ください(#^.^#)



@katumoku10
 @majesty164 漢鏡というのは三角縁神獣鏡のことだと思います。これは魏など大陸で一枚も出土していませんので、日本国内で製造したものだと考えられています。280年に西晋が呉を滅ぼして、日本列島に逃亡した呉の鏡職人が造ったと考えています。卑弥呼が居た時代、三世紀の前半、そして台与が西晋に朝貢した266年ころまで、纏向遺跡では楽浪土器が全く、出土していませんから推理できます。

@katumoku10

 @majesty164  おっしゃる意味が分かりません。伊都国が倭国の対外交渉の窓口で、交易も管理していました。三雲遺跡番上地区では楽浪土器が集中して出土していますから、楽浪郡などから来た華僑を滞在させて、注文を聞き、奴国の交易センター比恵・那珂遺跡で調達して、倭国王は利ザヤを稼いだのだと推理しています。防疫の意味もあったのかも知れません。

@majesty164

@katumoku10 刮目天さんの伊都国に関する返信こそが"楽浪土器の未出土=邪馬台国ではない" と言う論拠を否定する物なのですが…?

@katumoku10

@majesty164 そうですか、わかりました。三角縁神獣鏡以外の漢鏡が纏向遺跡で出土しているのは楽浪土器とは無関係だということですね。

であれば、三角縁神獣鏡以外の漢鏡が卑弥呼に魏から与えられた百枚のものである可能性があるということですね。

でもそれってどうやって纏向遺跡に運ばれたのですか? 伊都国どころか北部九州の土器がほとんど纏向遺跡で出土していないのですから

@majesty164

@katumoku10  畿内・纒向から九州系土器は出土しています。 全体から見ると比率は決して高くありませんが、 ほとんど出ていないと言うのは数十年前はそう言われていましたが現状はそうではありません。

@katumoku10

@majesty164 寺沢大先生も最近の著書の中で筑紫の土器が出ていると言いながら、図10で示された2021年の橋本氏のテータにも筑紫の土器は全く表れていません。あなたもしも、ご存じなら教えて下さい(#^.^#)

倭人伝の記述から邪馬台国と伊都国とは頻繁に相互に密接な関係があるはずです。もしも纏向遺跡が邪馬台国であるならば、比率が高くないなどということは納得できませんよ( ^)o(^ )

@majesty164

@katumoku10 筑前型庄内甕が纒向の領域内で複数出土しています。 『3世紀の筑紫の土器』に記載あり。 また伊都や奴国領域にて畿内系の土器も出土しており、 伊都・奴と畿内の関係性は明白です。 那珂八幡古墳にも畿内の影響が大きく現れています。これは3世紀半ば頃の両地域の関係を示すものです。

@katumoku10

@majesty164「筑前型庄内甕が纒向の領域内で複数出土しています。 『3世紀の筑紫の土器』に記載あり。」それはどこの文献ですか?なぜ寺沢大先生は外来土器についてそのことを詳細に述べないのですか?

北部九州には3世紀の半ばの卑弥呼の死後に畿内などの狗奴国勢が押し寄せて、そこで畿内の勢力が一部北部九州を占拠しましたので、庄内式土器を基にした畿内系土器がつくられたようです。

その後、畿内の狗奴国勢が北部九州を支配します。記紀の景行天皇の九州遠征のルート上から銅鏃などが出土しています。その時に那珂八幡古墳が造られました。270年頃の話です。

ですから、北部九州の外来土器は短い期間で入れ替わっていますので、ちゃんと仮説を検証しないと分かりません。 詳しくは「【検証13】奴国~邪馬台国時代の北部九州は?」 「【検証14】奴国~邪馬台国時代のつづきだよ」 「【検証15】台与からヤマト時代の北部九州だよ」などを参照してください(*^。^*)

@majesty164

@katumoku10 久住猛雄 2005 「3世紀の筑紫の土器」

@katumoku10

@majesty164 それは私も参考にしていますが、纏向遺跡の話ではないと思いますよ。上で述べた奴国の外来土器のはなしです。【検証15】で議論しています。ただ奴国の土器の編年と歴年代は改訂していませんので、古いままです。最新のものは「【必見!】考古学と民俗学からわかる日本の建国!」の付録にありますので、ご参照ください(*^。^*)



【関連記事】

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)


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