刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【刮目天の古代史】弥生時代の真実!(#^.^#)

2025-04-05 03:48:43 | 古代史

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#弥生時代を解説された、とてもよくできた動画を見つけましたが、邪馬台国問題が解決しないのはこのような通説のような思い込みがあるためだと思い、コメントしました。よろしければお付き合いください( ^)o(^ )

弥生時代の真実:稲作がもたらした日本社会の大転換と現代への影響
歴史の真実@YouTube

とてもよい解説を有難うございます。水田稲作の普及が社会を大変革したという通説ですが、確かに縄文時代に比べると豊かになったのはご説明のとおりですが、それによって富める者とそうでない者との階級社会が生まれて、社会矛盾による大規模な抗争・戦争をもたらしたという通説は、最新の研究で覆されつつあります。

水田稲作が導入された弥生時代になって起こった戦争の原因を、人口の増加・資源不足(適地や水の奪い合い)・蓄積された富の略奪・思考的変化とするのが従来の定説のようになっていました。受傷人骨の数と甕棺の数を福岡平野・宝滿川上・中流域で調査して、従来の弥生時代開始の年代観(紀元前5世紀から前4世紀)では人口密度が高いほど受傷人骨が多いことは言えたようですが、弥生時代が紀元前10世紀に始まる歴博の年代に変わり、そのようなことは言えないことが分かってきました(中田朋美等「弥生時代中期における戦争」情報考古学Vol.24No.1-2,2019)。

弥生時代になって弥生人が渡来して、社会構造が大きく変化したというのも間違いではないですが、弥生人の正体は皆さんが考えるような異民族ではないようです。

実はヤポネシア研究の斉藤成也教授が「核DNA解析によって推定される日本列島への人類集団の移住の歴史」の三段階モデルを示されています(wiki「日本人」参照)。その第二段階(約4400年前-3000年前)縄文時代後期になって、漁撈・園耕民である第二の渡来民が流入したとしています。詳細は「日本列島に集まった人々とは?(^_-)-☆」に在りますが、さらに最新の情報を入れてブログ記事にする予定です。今までの弥生時代のイメージとは全く異なります。二世紀末から三世紀初頭の倭国大乱で初めて大きな戦争が日本列島で起こりましたが、その原因を正しく理解すると邪馬台国問題も解決します。詳細は拙ブログPC版ブックマークにありますので、よろしければどうぞ!お邪魔しました(;^ω^)

第二渡来民の集団が日本列島中心部において縄文人と混血したとされていますが、そうではないようです。以下に説明します。

園耕民というのは農耕だけでなく、狩猟採集も生業とする、すでに8,200年前に遼河文明を開いた人々と同じ生活スタイルです。そのような人々が三内丸山遺跡(5,900年前~4,200年前)を営んだと考えられます。

最近、千葉県市川市の貝塚「雷下遺跡」で縄文時代早期といわれる約7,500年前の日本最古の丸木舟が発見されています。ですから7,300年前の鬼界カルデラの大噴火で南九州の縄文人は全滅したようですが、九州中部の人々は舟で半島に逃げた模様です。縄文時代前期(鬼界カルデラ大噴火後)の熊本県宇土市の曽畑貝塚からはじめて出土した曽畑式土器と非常によく似た櫛目文土器が朝鮮半島で出土していますので、縄文人のものと考えられます。

櫛目文土器の最古のものは遼河文明・興隆窪文化(紀元前6200年頃-紀元前5400年頃)の遺跡から発見されており、新石器時代の北東アジアの文化交流が明らかになっています( 王 巍 「東北アジアにおける先史文化の交流」中国社会科学院考古研究所 中国北方新石器文化研究の新展開【詳細報告】)ですから、縄文人が丸木舟で南西諸島、朝鮮半島、遼東半島、そして沿海州へと移動し、黒曜石などを運び交易を行っていたとわかります。

つまり、日本列島の集落では主に、男性が漁労や交易、女性が海女(アマ)・農耕・栽培を行っていた模様です。ですから、第二の渡来民というのも実は縄文人が出先で現地女性と結婚し、女性や子供を連れて集落に戻っ来たと考えられます。そのために、日本人の母系を表すmtDNAが多様になっているようです。


 

漢書地理誌燕地条の「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云」はこのような縄文系の集落から楽浪郡に交易に来ていた縄文系の人々のことだと考えられます。

ですから、遼東半島や沿海州では北東アジア系集団と混血し、紀元前11世紀ごろには朝鮮半島北部では箕子朝鮮の人々(殷(商)人系)、半島南部では江南出身の倭人と混血していたと考えられます。水田稲作技術は半島南部の倭人と交流し、唐津市菜畑遺跡、福岡市板付遺跡などにもたらしたのはこれらの縄文系倭人(あるいは倭人系縄文人)だと考えられます。

そして、日本で最初の王墓が紀元前4世紀前半(弥生時代前期末から中期初頭)の福岡市吉武高木遺跡です。三代の王と妃や王族の墓となっています。初代王は新唐書日本伝王年代紀に天御中主とあり、記紀の高天原に最初に現れ得た神とされています。宋史 日本伝王年代紀には二十三代の王名が記載されています。二代王は天村雲尊、三代王は天八重雲尊となっています(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。

 

四代王の名が天爾聞尊(あめのににぎのみこと)だったのです。三種の神器が揃って出土している木棺が天村雲尊のもので、孫の天爾聞尊に王標(三種の神器)を与えて周辺を平定するように命じた、いわゆる天孫降臨神話の基になった史実を表しています。四代目以降は王都を春日市須玖遺跡群に遷し、北側の比恵・那珂遺跡群に交易センターを設置して、縄文系海人ムナカタ族が各地の産物を持ち寄り、奴国王が交易税を徴収して、更に伊都国に奴国王族を配置して対外交易を管理させ、奴国が隆盛になったと考えられます。奴国王は須玖タカウタ遺跡などに官営工場を設置し、盛んに青銅祭器(銅鏡、銅剣など)を生産し、ムナカタ族の族長にこれらを下賜してシナの王朝に倣い冊封体制を構築したと考えられます。

十六代王沫名杵が建武中元二年(57年)、後漢光武帝より金印を賜ったと考えていますが、これは岡田英弘「日本史の誕生」(弓立社)に倭国の珍しい品物を買い付けにくる楽浪郡などの華僑の権益を保証してもらう目的で冊封体制に組み込んだとされています。

そして、十七代王伊弉諾が縄文海人ムナカタ族の姫イザナミを娶りましたが、奴国王が対外交易を独占する目的の政略結婚だったと考えられます。イザナミの父は米子市宗形神社を王宮と、山陰最大級の妻木晩田遺跡を拠点とするムナカタ海人族を束ねる族長アタカタスノミコトと推理しています。

個々の縄文系集落ではそれぞれの部族民が生活し、部族民を指導する人物が鳥の羽の装束をつけた太陽神信仰のイセ(祝=羽振り、巫=かんなぎ)で、姫巫女に太陽神が憑依して発した神託をイセが解釈して、部族民に告げて政治的決定を行う様式だったことが、奈良盆地の唐子・鍵遺跡の絵画土器から推理できます。

 

奴国王とムナカタ海人族との混血が日本の歴史を大きく変えました。二人の間に生まれたのが十八代王素戔嗚尊スサノヲです。奴国をさらに隆盛にするために辰韓(慶州市隍城洞遺跡)の鉄を支配し、丹後半島の玉造生産に力を入れました。そのために王宮を留守にすることが多く、たまに帰還したら、スサノヲが慣れ親しんだ縄文式の銅鐸祭祀を、奴国の伝統祭祀に導入するように、宮廷祭祀を司る師升に命じたと推理しました。師升らは反乱を起こし、スサノヲを殺して、倭国を奪いました。107年にスサノヲの部下160人を奴隷として後漢安帝に献上し、師升が倭国王に認められました。志賀島で出土した金印はこの時に埋められたものだったのです(#^.^#)

反乱を逃れた王族がムナカタ族の手助けで出雲・吉備を拠点にして倭国と対立します。後漢が衰退し、半島の支配が緩んだので韓人・濊人が強勢になって倭国は対外交易ができなくなって衰弱しました。一方、旧奴国王族は半島の鉄を入手して、列島に鉄のネットワークを築いて隆盛になり、大分県大野川流域から阿蘇山麓に鉄製武器製造のコンビナートを築き、菊池川流域に最前線基地を作って山陰や畿内の兵士を呼び寄せ、倭国側の集落を襲って倭国を滅亡寸前まで追い詰めました。これが倭国大乱です。その結果邪馬台国の女王卑弥呼が登場しますが、卑弥呼は上で述べたムナカタ族の姫巫女です。つづきは「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」をご参照ください(;^ω^)
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【関連記事】

【検証9】奴国時代の話(その1)(その2)
 記紀が天皇の歴史書じゃないと分かれば、通説となっていた奴国に対する考えが変わるはず(^_-)-☆

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)

 

最後まで読んでいただき、感謝します。通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

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白い渚を走る?アイツがやって来たのか?(@_@)?

2025-04-03 00:00:05 | 古代史

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#2022-06-20 18:58:16に記事にしましたが、本文冒頭の古代妄想について加筆修正し、図が古くなってリンクが切れていたので修理して、再度アップします。よろしければ、またお付き合いください( ^)o(^ )

#最近聞いてないので、なんかおかしいなと思って、YouTube見たら青いなぎさを走り~でしたね!ごめん(*^▽^*)

#以前にご紹介した桂川様のいい動画「卑弥呼の墓」の拙コメントへご意見いただきました。ちょっとくたびれて休んでいたのですが、大好きなサザンの曲を思い出してようやく復活しました。お付き合いください( ^)o(^ )

@波乗ジョニ夫 さん この時代の謎について、いろいろと想像を巡らすのは楽しいですが、事実に基づかないと空想や幻想(それに固執すると古代妄想という病気)でしかないですから、仮説は、例えば万有引力の法則のように、科学的な信念となるまで何度も検証を繰返す必要があります(拙ブログ「古代妄想のすすめ!しません(^_-)-☆」参照)。(2025.4.3 赤字修正)

しかし従来の仮説構築と検証方法に重大な欠陥があることに気付きました。当然、証人はいませんから、物証を探し出す必要があります。ところが物証となる、一つの事象に対しても、幾つもの解釈があるのが普通ですから、どの解釈が正解かがよくわからないということなのです。

 例えば、ある場所で親魏倭王の金印が見つかったとしても、発見された場所にもよるかも知れませんが、簡単に持ち運びできますので、そこが邪馬台国であると単純に決められません。邪馬台国かも知れないと言えるだけで推測でしかないのです。

 それでは卑弥呼の墓はというと、持ち運びできないので、それよりましですが、卑弥呼の墓と言い切るためには色々と傍証を固めなければ、だれも納得しないと思います。

径百余歩は当時では約150mですが、いや、短里で測ると約1/5の30mだとか、ここのコメントで見られたように、殉葬された奴婢の墓も含めた大きさだとか、「径」は差し渡しの意味だから必ずしも、円墳とは限らない等々です。色々と意見がありますから、どうしてそこが卑弥呼の墓だと言えるのかを、当時の社会状況の説明や様々な状況証拠が伴いますが、一つひとつの状況証拠が、確実なのかという疑問も生じます。

卑弥呼が証言してくれるわけでもないので、すべて推論で導くしか手はありませんが、このような従来の方法ではお手上げ状態です。仮説と言っているモノがすべての事実に合致しないものまでたくさん登場し、ほとんど検証もされません。わしは絶対大和だと思う!いや四国だよ!と、空想的なこだわりによって、こだわる人の数だけ仮説がありますね(;´Д`)

そこで、科学的な解決手法に気付きました。

波乗りジョニーが説明してくれるアブダクションという、良く知られた演繹法や帰納法ではない第三の推論方法を導入し、結果から原因を推理する科学的な手法を用いれば、複数ある事象の解釈のうち、仮説に合致するものを正解として選択することができますよ(^_-)-☆。



 このような事実に基づくこの解釈が正解であると分かると、その仮説は強化され、更に事実に基づくこの仮説によって推理を重ねることにより仮説の詳細化や仮説が説明できる範囲を拡張できます。

そして、すべての事象群を矛盾なく説明できるものが有望な仮説となります。

これによって、従来、関連性が分からずに誰も考えられなかったような大発見も可能なのです。

 もしも、どの解釈も仮説に合致しないならば、その仮説はどこかが間違っているかもしれない、ということで見直す必要が出てきます。

 このような科学的な推論手法で、今まで分かっている事象群によって仮説を検証して、事実に基づく蓋然性のある仮説を得ました。「古代史の謎を推理する」をご参照ください。

【古代史問題の科学的解決手法



推論結果の一部についてご説明します。刮目天の仮説によれば、卑弥呼の死の直前の状況は図のとおりです。

 

 



 卑弥呼の死後に狗奴国側の軍勢が北部九州に到着しました。玄界灘を支配するムナカタ海人族の姫巫女卑弥呼(ヒメゴ)の弟で族長赤坂比古(和邇氏の祖、愛宕大神、日触使主)が、卑弥呼が247年3月24日日没直前の日食のために倭国王難升米に暗殺されたことを知ったので狗奴国軍に投降しました。そこで、倭国王難升米は金印を持って半島に逃亡したと推理しています。
 無傷で倭国を手に入れた追討軍の主将の尾張王が、魏使張政の進言で、狗奴国王卑弥弓呼(奴国第19代王天照大神尊ニギハヤヒ大王の子孫ヒコミコ)を裏切って倭国王に立とうとしたことで、副将として参加していた山陰から北陸のムナカタ海人族を束ねる王狗古智卑狗(久々遅彦、豊岡市久々比神社祭神久々遅命で、奴国宮廷楽師師升らに殺された第18代奴国大王スサノヲの子イタケルの子孫)が反発し、内戦となります。
 結局狗古智卑狗側に立った赤坂比古が、尾張王を鳥栖市に追い詰めて討ち、九州最古級の前方後方墳赤坂古墳に葬りました。狗古智卑狗が内戦の勝者となり、結局狗奴国を裏切り、近江・北陸を支配するムナカタ族の13歳の姫巫女台与を卑弥呼の宗女として、卑弥呼と同様に対外的に女王として立て、魏を後ろ盾としたと推理しました。九州、四国、中国西部の倭国の領域に山陰から北陸・近江などを加えて列島主要部の大半を支配したので、記紀神話で大国主と呼ばれた人物です。265年に司馬懿の孫の司馬炎が魏から帝位を禅譲されたので、女王台与が266年に朝貢しました。
 その頃、狗奴国は劣勢に立たされていましたが、呉の紀年銘鏡が宝塚市安倉高塚古墳山梨県鳥居原狐塚古墳から出土していますので、呉を後ろ盾にして対立したと推理しています。父王を殺された尾張王が九州遠征し、苦難の末に大国主狗古智卑狗を高良山で討ち取り、赤坂比古も討ち、それぞれ祇園山古墳愛宕神社古墳に埋葬しました。さらに、伊都国に逃げた女王台与を追い詰めて、武器を持って勇敢に立ち向かった台与を討取ったと推理しています。平原王墓に埋葬しました。
 ところが、280年に西晋が呉を滅ぼしたので、狗奴国は後ろ盾を失い、大国主らの祟りだと怯えて国内は大混乱したようです。西晋に滅ぼされることを心配し、そこで一計を案じました。大国主と台与の鎮魂のために、二人の子を祭祀王として纏向に呼び寄せ、表向き、ヤマトの大王に立て、卑弥呼と台与の後継者ということにしたと推理しました。纏向の狗奴国を邪馬台国(ヤマト)と呼ぶことにしました。父大国主を桜井市茶臼山古墳で、母の台与を纏向箸墓で祀りました。大陸で一面も出土していない三角縁神獣鏡に景初三年銘などのものを呉の鏡職人に作らせて、卑弥呼の鏡としたとも推理しています。
 この史実を日本書紀では崇神天皇が大物主の祟りで多くの人が死んだので、子のオオタタネコを呼んで祀らせて収まったという話にしています。しかし、史実を隠すために神武天皇や応神天皇の建国神話や仇討ちした尾張王の話を景行天皇の九州遠征の話にしたことが考古学の成果から判明しています。「【検証19】建国のための戦いだ」などをご参照ください。

(左クリックで拡大)


 この仮説は考古学などの成果を使って検証し、それらを矛盾なく説明できることを確かめていますから、有望な仮説の一つと考えています(「【刮目天の古代史】仮説を検証する」参照)。しかし、他にも事実に基づく仮説は存在するのかもしれません。

そこで、仮説間の優劣は、従来謎だった部分をどれだけ数多く、クリアに解明できるのかによって判定できると考えています。例えば、なんでヤマトの大王を天皇と呼ぶのか?などのことです。それらは日本建国の謎を解き明かすことによって分かることを示しました(^_-)-☆

 それから、古事記については日本書紀の前に成立したとされていますが、9世紀に突然表に出した、宮廷で日本書紀を講義していた多人長(おおのひとなが、太安万侶の子孫)が言い出したものです。序文は人長が作ったものです。内容も日本書紀に沿っていますので、ほとんどデタラメな話ですが、日本書紀の歴史改ざんを暴露する部分も見えるので有用です。いずれにしても、記紀は歴史書としてはインチキですが、当時の人々の考え方を伝える第一級の文学作品と考えるのが正しい見方だと思います。詳細は岡田英弘「倭国の時代」(ちくま書房)を参照ください。


最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆をご覧ください。
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古代妄想はお薦めしませんから(;^ω^)

2025-04-02 00:00:01 | 古代史

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#前回紹介した古代ずんだミステリー@YouTubeの動画で、九州王朝説の方たちのコメントとその反論で、賑わったので参加しました。でも、当方の不都合な意見が抹消されましたので、年甲斐もなく、ちょっと過激なコメントしてしまいました!(;^ω^)

それから、以前「「古代妄想のすすめ!(^_-)-☆」という記事の中で、当時は気楽に、空想も妄想も同様と考えていたのでその部分を赤字で訂正し、タイトルも変更しました(;^ω^)

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古事記・日本書紀に記されない日本の闇!倭の五王は本当に天皇だったのか
古代ずんだミステリー@YouTube

@490526ryu
倭の五王に関しては、確実に九州王朝の王だと思っています。

まず、大宰府の別称は「都府楼」。
これは歴史好きなら誰もが知っている常識。
そして「都府楼」とは、都督が政治を行う役所の高楼という意味。

日本の歴史上、中華より「都督」に任命された大王は「済」と「武」しかいない。
この事からもおそらく倭の五王は当時、大宰府にいたと思える。

磐井の乱あたりまでは大和王権と九州(倭)は別国だと考えてます。

当然、大和王権の王ではないので、記紀には登場しないし、大和の王に仮定しようとすると親子・兄弟関係も系図と合わずおかしくなる。

大和王権が奈良盆地周辺から勢力拡大したのは崇神天皇の四道将軍派遣からですし、その時点でも西は中国地方まで。

@straight1208
大和朝廷も都督という役職を任命してるんだが、、、

@rops0881
都府楼が誰でも知ってる常識なんて歴オタの中だけだよ

@低力非摩擦ボルト
都督は行政上の役職、国司や県知事って感じです
王に渡す位じゃねっす

@490526ryu
 @低力非摩擦ボルト  実際に済と武は任命されているので…

@user-ponkotsukakumei
 @低力非摩擦ボルト 
五王の時代はまだヤマト王権の頃で
朝廷は無く
大王を首班とした豪族の連合体だから
大王とは別の4(5?)人の王うち
二人が都督に任命された…
と考える事もできるのではないだろうか?

@katumoku10
九州王朝説というのは記紀が天皇の歴史書だということから、記紀に合わない史実は九州王朝の事績だというつじつま合わせの仮説なのです。

しかし、歴史は文献と証拠となる事実(考古学や民俗学などの成果)との一致するものから推理してストーリーにする必要があります。

残念ながら、九州王朝の歴史を記述した文献が存在しないのです。

倭の五王は、事実からヤマトの大王であることが判明していますので、これを覆すには九州王朝の歴史を記述した文献が必要なのです。古田理論は後付けのつじつま合わせの理論でしかないのです(;^ω^)


 

 

@katumoku10

>大和王権が奈良盆地周辺から勢力拡大したのは崇神天皇の四道将軍派遣からですし、その時点でも西は中国地方まで。

日本書紀に景行天皇の九州遠征が詳しく書かれています。

しかし、これは狗奴国がわの有力者の尾張王建稲種命が父乎止与命(おとよのみこと)を殺した大国主久々遅彦(狗奴国の官狗古智卑狗、豊岡市久久比神社祭神でムナカタ海人族を束ねる王の襲名)・女王台与そして実際に父を手にかけた赤坂比古(和邇氏の祖、卑弥呼の弟、日本書紀の日触使主)への仇討ちでした。

仇討ちを成功させた建稲種命は九州の支配を従軍した物部氏の祖(狗奴国王の配下)に任せて、纏向遺跡に帰還しました。つまり、九州地方はヤマト政権の支配下でした(^_-)-☆
(左クリックで拡大)詳細は【検証19】日本建国のための戦いだ!参照!

 

狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)は建稲種命に東国の大国主の傘下を平定する命令を出し、建稲種命は駿河で敵の流れ矢に当たって戦死したと推理しています(「【衝撃!】沼津市高尾山古墳にヤマトタケルのモデルが眠ってる?」参照)。伝承ではヤマトタケルの副将として従軍し、駿河湾で溺死したとあります。ヤマトタケルは創作された英雄で、そのモデルが建稲種命だったのです。熱田神宮で祀られています。

そして重要な話ですが、この史実は3世紀後半(270年頃)の話だということが考古学の成果から判明しています。崇神天皇の四道将軍および景行天皇・ヤマトタケルの遠征ルートから戦闘の痕跡が出土していました。つまり、日本書紀で約350年の話に引き延ばしていることが分かったのです。

詳細は「【必見!】考古学と民俗学からわかる日本の建国!(#^.」を参照してください。


@かるいし-l4p
 @katumoku10  事実ってなんやねん

@katumoku10  @かるいし-l4p  さっき書いたが、誰かに消された!
もう一度書くが、この場合の事実は九州王朝が存在したことを示す文献とそれを裏付ける物的証拠(考古学の成果)のことです。明確に九州にヤマトと対立する王朝があったと記載された古代史料がないと、例えば太宰府が九州王朝の王都だとか、何とでもいえるということですよ(#^.^#)

事実に基づかない想像は空想ですが、空想に固執して反論を受け付けないのは古代妄想という病気の一種です!

【関連記事】

幻の九州王朝説がなぜ生まれるのか?(;^ω^)

九州王朝説も、日本書紀はヤマトの大王の系譜を正しく述べた天皇の歴史書だという思い込みが根底にある、つじつま合わせの仮説だったのです。不比等の意図を推理して仮説を事実で検証すれば、継体天皇も筑紫の磐井の乱も持統天皇も創作だと分かります(詳細は「「継体持統」によって架空の天皇を示唆したのか?」参照)。

日本の古代史はヤマト王権の成立過程を解明すると九州王朝は存在しなかったと分かります。

【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その2)(その3)(その4)


(クリックで拡大)

 

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倭の五王は本当に天皇だったのか!(^_-)-☆

2025-04-01 00:00:01 | 古代史

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古事記・日本書紀に記されない日本の闇!倭の五王は本当に天皇だったのか
古代ずんだミステリー@YouTube

みなさんは驚かれると思いますが、記紀は「天皇の歴史書」ではなかったのです。藤原不比等にとって都合の悪い史実を隠す操作、つまり歴史改ざんが行われているのです(詳細は「【刮目天の古代史】日本書紀のひみつ?( ^)o(^ )」参照)。

藤原不比等にとって何が都合が悪いのかは、一番大きいことは、不比等が権力を握る際に行った悪事です。これを隠すウソがバレないように何人もの天皇を隠したり、ウソの天皇、特に女帝を創作していることから分かりました。

天武天皇崩御後に即位したのは宗形徳善の娘尼子娘が生んだ高市皇子だったのです。高市皇子の長男長屋王が親王だった証拠の木簡が広大な屋敷跡から出土しています。つまり、長屋親王の木簡は高市皇子が天皇だった証拠になります。

しかし、日本書紀は高市皇子の母の身分が低いので即位できないから太政大臣になったとウソをついています。
宗形氏は4世紀から6世紀まで天皇の妃を出した名門の和邇氏と同族でした(天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神が宗像女神市杵島姫命=卑弥呼)。和邇氏の祖が卑弥呼の弟赤坂比古(日本書紀の日触使主)だったのです。

(詳細は「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ」参照)。

 

応神天皇の皇太子ウジノワキノイラツコの母が日触使主の娘ですから、身分が低いというウソがバレてしまいました。播磨国風土記ではイラツコは宇治天皇と呼ばれていました。イラツコはオオサザキ(仁徳天皇)に皇位を譲るために自殺したという、ふざけた話を日本書紀が書いていますが、実際は仁徳天皇に暗殺されていたとわかりました。なぜ暗殺されなければならなかったかについては、応神天皇が即位するまでの面倒な経緯が関係していますので、「【刮目天の古代史】四世紀のヤマト政権と東アジア情勢」をご参照ください。

不比等は宗形天皇(仮称、高市皇子)を暗殺して、他の天武天皇の皇子たちを抑えて、持統天皇とされた鵜野讃良(天武天皇妃、天智天皇皇女)と組んで、鵜野の孫(草壁皇子の子)を15歳で文武天皇に即位させて、娘の宮子を妃として外戚となって朝廷の実権を握り、藤原氏に都合の好い大宝律令を制定しました。歴史改ざんを政策として実施するために神祇祭祀を藤原・中臣氏が独占して、藤原氏に都合の好い神話を創作して、各地の神社の祭神・社名・伝承を作って誤魔化しています。その集大成が日本書紀だったのです。その完成を見て不比等は亡くなりました。不比等の死後も、子孫らが徹底して歴史改ざんをやっていますから、神社伝承から歴史を考えると訳の分からない話になります。

そして重要なことは、宗形天皇が即位していたので、持統天皇は存在しないのです。ですからそれを誤魔化すために前例として推古天皇を創作し、さらに天智天皇の母皇極(斉明)天皇も創作しています。天智天皇の両親もデタラメです(詳細は「天智天皇とは何者だ?( その4 )」参照)。あとの時代の女帝もすべて創作だということは、京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺では天智天皇から、その孫の光仁天皇以降の歴代天皇を仏式で祀っていますが、明治になるまで女性天皇は誰ひとり祀られていないことから分かります。

 

それで倭の五王に戻りますが、仁徳天皇崩御後に母がイラツコの妹八田皇女だった住吉仲皇子が即位しており、それを履中天皇(讃)・反正天皇(珍)が暗殺しています。允恭天皇(済)は住吉天皇の皇子だったので、履中・反正天皇を暗殺しています。これらは古事記の崩年干支と倭の五王の朝貢年から推理しています。ですから、倭の五王はヤマトの大王なのです。詳しくは「刮目天の古代史 空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その3)」を参照してください。これによって富雄丸山古墳の被葬者が判明しました(詳細は「【刮目天の古代史】今年の大発見第1位!(^_-)-☆」参照)。
どうもお邪魔しました(;^ω^)

 

 

【関連記事】

空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)

古事記は日本書紀が隠した史実をそれとなく暴露する暗号書だったのです。暗号を解くと、大国主と台与の子応神天皇は255年に生まれ、狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)に293年に纏向遺跡に呼ばれてヤマトの祭祀王に即位したと推理しました。崇神記の大田田根子の話が史実に近いものです。神武東征神話はこれを隠すために創作したもので、初代神武天皇は応神天皇の虚像なのです。

真の応神天皇陵を推理する!

応神天皇は334年に崩御され、渋谷向山古墳に葬られたと推定しています。羽曳野市誉田御廟山古墳を応神天皇陵と治定されていますが、五世紀初頭の前方後円墳(墳丘長425m)です。応神天皇のものであれば履中天皇または反正天皇により築造されたと考えられます。したがって、遺骸は葬られていないので改葬ということになります。渋谷向山古墳は景行天皇陵とされていますが、架空の天皇でその正体は尾張王建稲種命です(ヤマトタケルのモデル)。沼津市高尾山古墳に葬られましたが、ヤマト盆地では、下段が前方後方形で、中段から上は前方後円形となる特殊な墳形をもつ日本最大の前方後方墳の西山古墳で改葬されたと推理しています(詳細は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?(@_@)?」参照)。

崇神天皇は日本書紀では辛卯年崩御とありますので紀元前30年という計算になりますが、崇神天皇のモデル卑弥弓呼大王の崩御は、3世紀末か4世紀初頭と考えられますので、古事記の戌寅年とすると318年が正しいと考えられます。天理市柳本町の全長250mの前方後円墳「行燈山古墳」に葬られたと考えています。

 

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【刮目天の古代史】天皇陛下とは何者ですか?(@_@)

2025-03-31 00:00:01 | 古代史

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天皇とは何者なのか?誕生からこれまでの歴史【天皇の歴史】
ヒューマン伝@YouTube


いい話題を有難うございます。
みなさんは驚かれるかと思いますが、天皇の起源を考える場合、現存する日本最古の歴史書古事記や正史日本書紀は「天皇の歴史書」ではない、藤原氏のための「勝者の歴史書」だったので騙されます。神武天皇が初代天皇というのはウソですよ(^^;)

記紀神話が完成したのは江戸時代なのです。古事記は九世紀に突然表に出てきたものです。日本書紀は、権力を握った藤原不比等によって完成されましたが、都合の悪い建国の史実を神話で隠し、歴史を相当改ざんしていることが、事実、つまり、考古学や民俗学などの成果から判明しています。渡来人、熊襲、土蜘蛛、隼人などの異民族への蔑称は不比等が日本書紀の中で作ったものです。

日本人のルーツについて、よく調べられた動画を拝見しました。その中でご紹介されている理化学研究所の成果は、金沢大学の三重構造モデルのサンプルを基にしたものです。ところが金沢大学の弥生時代人としたものは、西北九州弥生人、つまり祖先を北東アジア人系とする佐世保市下本山岩陰遺跡の人骨でしたので弥生人としては不適正だったことが分かっています。
東京大学が弥生時代人として使った土井ヶ浜人骨は北東アジア人系弥生人で、こちらの方がより正確な解析結果ですが、史書を参考にするとさらに正確に弥生人の正体がわかります(詳細は「【刮目天の古代史】弥生時代渡来人の正体?(^_-)-☆」参照)。

そして天皇のルーツですが、長江南部を支配した春秋の呉が紀元前473年に越に滅ぼされ、呉王族が半島南部に逃げて、金官伽耶国(任那)で倭人に助けられて生活していました(詳細は「任那(みまな)の正体は?」参照)。寒冷化の影響で半島が物騒になったので福岡市早良平野に南下した呉王族が、記紀神話で最初に高天原に降り立ったとされた天御中主です。新唐書 日本伝で最初の奴国王とされています。つまり、不比等が作った高天原神話は北部九州の倭国を支配した奴国王の史実を隠すために創作したものだったのです。

早良平野の吉武高木遺跡に最初の三代の王墓が発見されています。四代目からは福岡平野に遷都したので、墓は須玖岡本遺跡だと考えられます。宋史 日本伝 王年代紀に歴代の奴国王の名前だけ記載されていますが、二代目が天村雲尊(あめのむらくものみこと)、三代目が天八重雲尊(あめのやえぐものみこと)、そして四代目が天爾聞尊(あめのににぎのみこと)とあります。吉武高木遺跡の王墓で三種の神器が揃って出土している木棺が記紀神話から、天村雲尊のものだと分かりますので、記紀の天孫降臨神話の基になったのは祖父天村雲尊が天爾聞尊に三種の神器を与えて福岡平野に進出させた史実があったと分かります(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。

そしてその子孫の奴国王が比恵・那珂遺跡群に日本最大の交易センターを作り、列島各地の縄文系海人ムナカタ族に青銅祭器を与えて、各地の産物を運び込ませて、交易で繁栄しました。奴国王は交易の監督官を置いて取引税を徴収したことが魏志倭人伝の記述から分かります。楽浪郡からやって来る華僑を伊都国に居住させ、配置した王族に対外交易を管理させて、莫大な利益を得て倭国が隆盛になったのです。

西暦57年に後漢光武帝が奴国王に金印を与えたのは、華僑の利権を保護してもらう目的だったと岡田英弘「日本史の誕生」(弓立社)にあります。十六代王沫名杵尊(あわなぎのみこと)の時代です。次の伊弉諾尊がムナカタ族の王女イザナミと政略結婚し、列島内の産物を奴国王が管理して対外取引を独占する目的だったと考えられます。次の素戔嗚尊(スサノヲ)の時代に奴国宮廷楽師 帥升(正しくは師升)らが反乱を起こしてスサノヲを殺し倭国を奪いました。

古事記には捕らえたスサノヲを拷問して、財産をすべて奪ったとありますので、金印の在りかを聞き出す目的だったと分かります。しかし、スサノヲの部下がいち早く金印を持ちだして、逃げる途中志賀島に立ち寄って土の中に埋めたものが江戸時代に偶然発見されたと分かります。金印が手に入らなかった師升は107年に後漢安帝にスサノヲの部下160人を奴隷として献上し倭国王に認められたと推理できます(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。

スサノヲの王子イタケルらはムナカタ族に助けられて祖母のイザナミの実家の妻木晩田遺跡に引き取られ、成人して出雲平野を与えられて出雲王となりました。その三代の子孫が倭国大乱と日本の建国で活躍しました(詳細は「【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!」参照)。

また、スサノヲの弟ニギハヤヒも奴国を逃れてムナカタ族の助けを借りて吉備で、奴国を裏切った勢力を討って瀬戸内航路を抑えて隆盛になり、奴国を再興しました。楯築王墓の被葬者です。楯築神社のご神体亀石が、シナの三皇神話の筆頭天皇伏羲と同じ人面蛇体だったのです。

日本書紀は吉備津彦として誤魔化しましたが、平安時代天安年間(857-859年)から貞観年間(859-877年)にかけて日本列島の地殻変動が活発化して地震や津波、火山噴火が頻発し、世の中が乱れたので朝廷が二柱の神にだけ、皇族に与える品位(ほんい)という特別な神階を贈り、加護を祈ったのです。この神が伊弉諾尊と吉備津彦なのです。吉備津彦が日本書紀が隠したニギハヤヒ大王(物部氏の歴史書「先代旧事本紀」の天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)のことで天皇陛下の皇祖神であることが判明しました。つまり、天皇のルーツなのでした。詳しくは「【大発見!】天皇家のルーツの証拠!」をご参照ください。長々とお邪魔しました(;^ω^)

 

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