刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

天の岩(裏豪渓)の謎とき(;^ω^)

2024-09-02 10:19:27 | 古代史
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#いつも勉強させていただいている人気ブロガsazanamijiro様の「神秘と感動の絶景を捜し歩いて」に関する前回の記事「吉備の豪渓に日神と書かれた岩があった?(@_@)」と関連した以下の記事にまたコメントしましたら、早速お返事を頂きました。よろしければ、まず以下の記事をご覧の上、お付き合いください(#^.^#)

天の岩(裏豪渓)・絶壁の奇観
2024/08/31 06:00




天の岩?(クリックするとGoogle Mapの写真にジャンプします)

いつも貴重な情報をありがとうございます。何のためにこの大きな岩を置いたのかですが、以下のように考えています(;^ω^)

天柱と日神は以前にも申し上げた皇祖神の伊弉諾尊と日神(天照大神尊)ニギハヤヒ大王のことです。女神アマテラスは日本書紀の編纂者が建国時代の史実を隠ぺいするために、ニギハヤヒ大王の神名から連想して創作した神様です(^^♪

九世紀半ばの天元年間に始まり貞観にかけて火山活動など地殻変動が活発になり噴火や地震・津波やそれに伴い治安が乱れたので朝廷はこの二柱に特別な神階を贈って祈祷を行っています。

この二柱の前に品位を贈られた神様は八世紀半ばの八幡大神と八幡比売神だけです。つまり大国主と卑弥呼です。朝廷がその祟りを最も畏れる二柱です。

丁重にお祀りしても自然現象ですから天変地異は起こりますが、皇祖神に二柱の鎮魂を祈願したのだと考えています。

天の岩に掘られた金毘羅さんの石仏は大物主大神(大国主)のことです。当時の人々の考えははっきりとは分かりませんが、天の岩は大国主の祟りを鎮めるための重しとする岩ではないかと思います。弥生時代に盛行した支石墓では大きな岩を石棺の蓋として、霊魂を鎮める考え方だと思いますが、それと同じ発想ではないでしょうか?

katumoku10様

古代史の推論はあまりしていないのですが、天照大神という女性太陽神を作り出したのは、不比等と持統天皇だと思っています。天照大神の原像は、持統天皇自身であり、あるいは男性太陽神を祭る巫女の姿なのでしょう。卑弥呼のような古いシャーマンもダブります。しかし決定的な証拠を見つけるのはなかなか難しいですね。
(簡単なお返事だけになってすみません。)


早速お返事ありがとうございます。さらにコメントしようとしたのですが、長すぎるので拙ブログに掲載いたしました。よろしければ、またご意見など頂けると幸いです(#^.^#)

おっしゃるとおり不比等と持統天皇(実は即位していない天武天皇妃鵜野讃良)が組んで孫の文武天皇即位を正統化するために天孫降臨神話を創作したと突き止めました。女神アマテラスとその孫ニニギノミコトの関係です。

残念ながら鵜野は巫女ではないと思いますが、自分のしでかした悪事を償う意味なのか、天武天皇のゆかりの吉野や伊勢へ出かけています。しかし、伊勢神宮の創建前なので参拝などしていません(筑紫申真「アマテラスの誕生」講談社学術文庫2002参照)。

卑弥呼は247年3月24日日没直前の日蝕のために本当の倭国王難升米によって暗殺されたと突き止めていますが、その史実からアマテラスの岩戸隠れを創作しています。卑弥呼の墓であると推理した宇佐市安心院町「三柱山古墳」の頓宮(遥拝所)にヒカケという地名が残っており、関係する天岩戸を模した横穴がありました。ですから卑弥呼と天照大御神はその他の部分では一致するものはないようです。



卑弥呼の正体は、記紀神話でアマテラスとスサノヲの誓約で生まれた宗像三女神とされていますが、その主神である市杵島姫命です。あとの二女神はカモフラージュです。宇佐神宮の比売大神、厳島神社や神仏習合して弁財天として全国で祀られています。応神天皇の4世紀から6世紀まで天皇の后妃を出した和邇氏が力を持ったので祖神卑弥呼を全国で祀ったのです。沖ノ島祭祀も和邇氏(正体がムナカタ海人族であることは天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神から判明)が行ったのです。

伊勢神宮内宮の祭神天照皇大神は江戸時代までは男神でした。奈良時代から南北朝時代まで未婚の皇女が斎王(神の妻・巫女)として伊勢神宮と加茂神社に奉仕する制度がありましたが、位の高い内親王はもっぱら近場の賀茂神社で奉仕しています。どちらも同じ男の神様大国主命を祀っていたのです。初代応神天皇の父です。神武天皇は応神天皇の史実を隠すために日本書紀の中で創作された虚像です。伊勢の外宮は応神天皇の母の神功皇后とされた、大国主の妃の女王台与が豊受大神として祀られています。



伊勢神宮には明治になるまで天皇はどなたも参拝していません。明治になってから記紀神話に合わせて女神として祀られるようになっています。江戸時代まで日本書紀が創作した神話が、神仏習合や修験道などの影響を受けて、記紀神話とは全く異なる、龍蛇神(ナーガ)信仰の中世日本紀と呼ばれる神話に変貌していたのです。

明治新政府が神仏分離令を出したので廃仏毀釈運動が全国で起こり、寺院でも神様を祀っていたのですが、それらが打ちこわしに遭って、僧侶も強制的に還俗させられたそうです。あまりに酷いので、寺院は後に復活させてもらったようです。しかし記紀神話に基づく国家神道が創設されて、学校で国史が教育されたので、戦後のほとんどの日本人は記紀神話が日本人のアイデンティティであって、人代も天皇の歴史だと洗脳されています。

しかし上のとおり、江戸時代までの多くの日本人は全く違う神様を祀っていたのです。藤原不比等は、藤原氏に都合の好い律令制度を作り、神祇祭祀を仕切ったので、各地の神社の祭神・由緒や社名まで記紀神話に合わせて作らせています。地元の人たちは藤原氏に遠慮して末社や祠で本当の祭神を祀っています。例えば、スサノヲのゆかりの丹後半島の奈具社(ナーガ龍蛇神の社)では主祭神は豊受大神とされていますが、末社でスサノヲを新羅明神として祀っています。スサノヲは三国史記にある倭国東北一千里のタバナ国で生まれた新羅第四代脱解王のモデルだったのです(詳細は「【葦嶽山の秘密】多婆那国は丹波の奴国!の巻」参照)。



これはほんの一例ですが、藤原氏は建国時代の史実が不都合だったので、神話を創って徹底して隠ぺいし、歴史を改ざんしています。だから記紀や神社伝承で歴史(仮説)を組み立てても謎だらけなのです。つまり、記紀の内容や伝承が史実と一致していないから起こる現象なのですね(^_-)-☆

記紀神話と史実の関係を改めて整理していますので、記事にできたらご案内させていただきます。日本書紀が創った神話はデタラメなので、江戸時代までの多くの人々は先ほどの中世日本紀として、できるだけ史実に近づけるように読み替えて祀っていたのです。

日神は先に、豪渓の記事にコメントさせていただきましたが、史実を隠すために吉備津彦とされています。でも、その正体はスサノヲの弟の奴国十九代王天照大神尊ニギハヤヒだと突き止めています。今上陛下はニギハヤヒ大王の血統だと突き止めています。

初代応神天皇から天武天皇、そして聖武天皇とその後の廃帝までスサノヲの子孫の大国主大神の血統と推理しています。

すべての女性天皇は創作されたもので、実際には存在していないということが、京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺の祭祀から判明しています。つまり、天智天皇と、飛んでその孫光仁天皇から歴代天皇を仏式でお祀りしていますが江戸時代の二人の女性天皇は明治になって祀られるようになったと分かりました。

天智天皇は中大兄(ナーガ・龍蛇神国王ニギハヤヒの嫡孫)と呼ばれていましたが、舒明天皇と皇極・斉明天皇の子ではなく、敏達天皇の孫だったと突き止めています。天武天皇は用明天皇の孫にあたりますので、天智天皇とは兄弟ではありません(詳細は「天智天皇は何者だ?(その4)」参照)。



藤原不比等が隠さねばならない歴史の真相はだいたい解明できたと考えています。よろしければ拙ブログにコメントなど頂けると幸いです。どうも有難うございました(;^ω^)。

【関連記事】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)






最後まで読んでいただき、感謝します。
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初めての方は【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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なぜヤマト王権の始まりが分かるの?( ^)o(^ )

2024-09-01 00:00:04 | 古代史
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#2022-02-13 10:56:24に改訂して硬化しましたが、リンク切れなどがあり、修理して少しだけ見直しました。よろしければまた、お付き合いください。

#2020-05-13 10:34:05に掲載しましたが、その後、日本全国の土器の併行関係と編年や弥生時代に倭人が漢字を読み書きできたことなどが判明しましたので、図を取り替え、文章を追加しました。お付き合いください。

以下のような内容で宮崎正弘先生のメルマガの読者の声に投稿しました。掲載いただいた宮崎先生には心より御礼申し上げます。

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 ◇◆☆◇◆◇◆☆◇◆◇◆☆◇◆◇◆☆◇◇◆☆◇◆◇☆◆◇◆☆◇◆◇☆◇◆◇ 
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和2年(2020)5月13日(水曜日)弐
       通巻第6498号  
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貴誌6496号で高柴昭様よりいわゆる九州王朝説を支持するご意見があり、その根拠として日本の正史「日本書紀」とシナの史書「魏志倭人伝」、「宋書」、「旧唐書」との記述内容に喰い違いがあることなどをあげておられます。しかし、その中に考古学の成果がほとんど考慮されていないのが残念です。貴誌6495号で「日本書紀」と「魏志倭人伝」について述べたとおり、書かれている内容が事実か否かを様々な証拠で確かめないと編纂当時の権力者の罠にかかります。

以下に述べますが、近年の考古学などの研究成果は、日本建国時代の真相解明を十分可能にしています。

三世紀末にヤマト王権が成立したと考えられている奈良県桜井市の纏向遺跡は、二世紀末から三世紀初頭に突然登場した政治都市です。発見された外来系土器から各地の首長クラスの人々が集まって、祭祀を行っていることが分かります。ヤマト王権のシンボルとなる前方後円墳については、200年前後に築造された纏向石塚古墳が最古のものだと推定されています(石野博信「邪馬台国時代の王国群と纏向王宮」新泉社、2019 pp.137-139)。前方後円墳の様々な属性を調べると、北部九州と吉備のものが最も多く、次に出雲です。特にその後の首長霊祭祀で用いられる祭器は吉備をルーツとするので、吉備出身の大王が各地の王を纏向に呼び寄せたと推理できます。また、吉備や出雲が北部九州の影響を強く受けていることも分かるのですが、今までのところ纏向遺跡から九州の土器がほとんど見つかっていません。あっても1%未満です。これから大量に見つかる可能性も全くないとは言えませんが、今のところこの時期の九州との人的交流がほとんどなかったと考えられ、従来提唱されてきた学説が否定されることになります。

【検証2】前方後円墳のルーツ?

①北部九州は大陸や半島から当時の先進的な物資を取り入れる玄関口です。「魏志倭人伝」にも「一大率」が女王に贈られてくる品を検査して間違いなく届けることになっているので女王は、その痕跡の無い纏向には居なかったと分かります。専門家の中に畿内説が多いのですが、すでに安本美典氏が論証されているとおり、纏向は邪馬台国ではないと言えます。

【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!(^◇^)(『歴史REAL 邪馬台国』洋泉社MOOK、2017.11.19 p.4より)

②九州に在った邪馬台国が大和に東遷した説や神武天皇が三世紀末に日向から東征した説も否定されます。

③さらに北部九州には当時の畿内系の外来土器が数多く見つかっています。上の事実と合わせて考えると、ヤマトの大王は元々は北部九州出身ですが、纏向での祭祀に北部九州の人々が参加していないので、当時は対立していて、最終的にヤマト勢が北部九州を吸収した、つまり失地回復してヤマト王権が成立したということを示しています。ですから九州王朝説は否定されます。

④しかも北部九州の外来系の土器の中に畿内系だけでなく山陰・北陸、近江、東海、楽浪郡、三韓などのものが多数あり、時期的にその量が異なるので、単純な過程でヤマト王権が成立したのではないことも分かります。

また、各地の土器編年の並行関係が分かるようになってきました。下図の左側に刮目天の仮説から分かった歴年代を修正し、年表と共に示します(;^ω^


(詳細説明は「【検証15】台与からヤマト時代の北部九州だよ」「【検証16】3世紀後半の伊都国だよ」などを参照))(2024.8.31 黒字追加)


鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有
この記事から弥生後期後半の倭国大乱から古墳初頭の日本建国の戦い模様を推理できます。(2024.8.31 黒字追加)



上の図から矢戦の痕跡は北部九と熊本県北部の集落で見られますが、それ以外の列島各地に戦争の痕跡は見られないことが分かりました(^_-)-☆。(2024.8.31 黒字追加)


上の図によって、日本書紀の崇神天皇紀四道将軍の記事から景行天皇九州遠征・ヤマトタケルの遠征の記事にある遠征ルート上に三世紀後半の矢戦の痕跡が見られますから、日本書紀は、270年頃~280年頃に実際に起こった日本建国の戦いを基にして、年代を引き延ばして天皇の記事を創ったということが判明しました。この戦争の結果、纏向遺跡でヤマト王権が成立したことが分かりました。(2024.8.31 黒字追加)

このように考古学成果によって、従来の多くの学説は古臭いものになっています。文献に記述された内容が事実かどうかをこれまでの考古学成果などで判定し、より合理的な仮説を立て、様々な検証を繰り返す必要があるのです。

一応、現在入手できる資料をもとに一連の事象を適切に説明できるヤマト王権成立過程を仮説推論(アブダクション)によって組み立てました。これによって、今まで謎とされたことが数多く説明できますので、ご批判を仰ぎ、更に検証を重ねて仮説の詳細化・拡張などを行って古代史を解明したいと考えています。拙ブログに詳細を載せていますので、こちらで建設的な議論をしていただけると幸いです。
(刮目天)
(2024.8.31 黒字追加)

最後に、最新の考古学上のトピックについてです。従来北部九州で出土した砥石と思われたものの中に硯(すずり)の欠片があったと分かってきました。すでに福岡市雀居遺跡では木製の組み机が出土していますし、弥生後期には漢字を読み書きできる倭人が居たことを示しています。これによって、1948年に福岡市室見川河口で発見された銅片「室見川銘板」は、日本で作られた最古の金石文であることも判明しました。

【わかった!】室見川銘板のなぞ

従って魏志倭人伝の邪馬台国への行程記事などが、漢字を知らない倭人の発音を魏の役人が聞いて漢字に直したという通説が成り立たなくなります。魏志倭人伝が当時の倭国のことを正直に伝えるものではなく、政治的な目的から書かれた魏使の報告書をもとに作られた政治文書だったと考えられますので、行程記事に基づく邪馬台国の位置論を再検討すべき時期に来ています。

【検証22】難升米という人物は?(その1)
この人物が本当の倭国王です。107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升の孫と推理しています。難升米は司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏と談合して、司馬懿の功績を実際よりも大きく見せるために女王卑弥呼をでっち上げ、邪馬台国への行程記事を創ったと推理しています。ですから、このデタラメな行程記事に対して、いくら天才的な解釈を発明しても、みんなが納得できる卑弥呼の居城には到達できないのです(;´Д`)。(2024.8.31 黒字追加)

【関連記事】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)






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誤解と幻想の古代史(*^▽^*)

2024-08-31 00:51:22 | 古代史
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#2020-09-08 20:24:26に公開しましたが、その後読み返して、新しい知見も入れて少しだけ改訂します。よろしければ、またお付き合いください(^_-)-☆

古代史解明の魅力って何だろうか?単に分かっていないからという人もいるのかも知れませんが、日本人のルーツ、つまり自分たちのご先祖がどのようにして伝統的な文化や国家を作り上げ、現代の日本人がどういう経過で出来上がったのかを知りたいという知的欲求が一番かもしれません。

自然現象相手の理系の仕事を長くしてきた刮目天が古代史の謎に挑戦したきっかけですが、多くの方が定説と考えていることや通説がどうも怪しいと気付いたからです。

ヤマト政権が成立するのは三世紀に突然現れた纏向遺跡の発掘で明らかにされています。その当時の日本(倭)のことが詳しく書かれた通称「魏志倭人伝」正しくは「三国志 巻三十・魏書三十・烏丸鮮卑東夷伝倭人伝」や、現存する日本最古の歴史書と言われる「古事記」の真の編纂目的が、東洋史家の岡田英弘先生の「日本史の誕生」によって分かったことがきっかけでした。後で本文中で述べますが、とても衝撃的で、目からうろこでした(注1)(2024.8.30 赤字追加)

多くの研究者は『「魏志倭人伝」に書かれた邪馬台国への行程記事を正しく解釈すればたどり着くはず』という思いから、いろいろと文章を解釈しているのですが、各人が正しいと考える解釈でも全体として方角や距離で矛盾点があり、一つの場所ではだれも納得しないのです。いわゆる九州説と畿内説やその他の説が乱立している実態があります。どうしてこんなことになっているのでしょうか?

この疑問は、何故、このような行程記事が書かれたのか? 行程記事のどこが怪しいのかを真面目に考えることで解けます。実際、多くの研究者が二・三百年も考えて答えが出ないことで、正しく解釈すれば正しい結果を導くということが間違いであることはすでに証明されているのです。人間というのは一度染みついた考えからは、自分の頭だけでは簡単に脱け出せない特徴があるようです(´・ω・`)

「魏志倭人伝」の邪馬台国は、帯方郡の東南方向に万二千余里で、魏のライバルである呉を、その東方海上から圧迫する位置に在ると書かれています。西晋の史官陳寿にとって一番書きたかったことは、そのような女王が統治する東夷の大国を、西晋の礎を作った魏の将軍司馬懿が味方にしたことでした。魏の戦略上、最大の功績だということで、司馬懿を称賛するのが「魏志倭人伝」の真の目的だったのです。

しかし、陳寿が行程記事などを勝手に創作したのではなく、元は司馬懿の命令で倭国を手なづけるために帯方郡に派遣した太守劉夏が倭国王難升米(伊都国男王)と談合して作って、最初の魏使梯儁(ていしゅん)の報告書に書き入れたのだと推理しました(「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ)。

つまり、邪馬台国への行程記事は倭国のことを知らない魏の宮廷の人々が納得できる程度のデタラメな行程記事だったから邪馬台国問題が解決しなかったのだと分かりました。ついでに人々の注目を集めるために、倭国を女王様が統治するエキゾチックな大国という設定で倭国の国々の戸数なども二人の談合で決めたことだと推理しました。だから、正始元年(240年)の梯儁が伊都国までしか行ってなかろうが、邪馬台国まで行っていようがいまいが、どこに上陸しようが、全く関係ない、まったくエレガントでない話なのです

恐らく陳寿は行程記事がデタラメと気づいたので、後世の歴史家を陳寿が想定した筑紫平野に誘導する内容としたと考えられます。例えば、安本美典先生は朝倉市平塚川添遺跡に卑弥呼が居て、糸島市平原王墓(14m×12mの方形墓)が卑弥呼の墓と推理されています。しかしそこは邪馬台国ではありません。魏志倭人伝の記述から卑弥呼の墓は径百余歩(直径約150ⅿ)の円墳です。平原王墓には卑弥呼の伝承はありません。平原王墓は記紀で神功皇后とされた女王台与の墓と推理しています(詳細は「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?」参照)。(2024.8.30 追加)

こういう話ですから、行程記事は一旦脇に置いて、「魏志倭人伝」に書かれた魏と倭国の交渉記事や考古学や民俗学などの成果からヤマト王権の成立過程を推理することで、問題が解決できると考えたわけです。

その推論の内容は「古代史の謎を推理する」に詳しく述べていますが、その推論の結果、実は「魏志倭人伝」の記述と矛盾するので無視されて来た范曄「後漢書 巻八十五東夷列伝倭伝」の中に「女王国から東へ海を千余里(約450km)渡ると狗奴国に至る」という記事が正しかったと分かりました。また、狗奴国は考古学・民俗学などから纏向遺跡だと推理し、宇佐市安心院町三女(さんみょう)神社が卑弥呼の宮室だと分かりました。日本最大の円墳宇佐市安心院町「三柱山古墳」を発見しました。その地には卑弥呼の時代の宮ノ原遺跡があり、卑弥呼に纏わる伝承や地名などがありますので最も有力な候補です。(2024.8.30 赤字追加)



つまり卑弥呼は戦乱期には物騒な宗像市付近の海に面した不弥(うみ)国から要害堅固な野麻(やま)国(宇佐市安心院町)に疎開してきた縄文海人ムナカタ族の姫巫女だということです。やま国に棲む女王(台)のクニが邪馬台国の意味でした。実際に多くの人々から邪馬台国と呼ばれたわけではなく、台(臺)の意味が分かるシナ人か倭国の王・大夫などの教養人しか分からないシナの歴史書にだけ登場する地名だと思います。

このような推理によって、日本建国時代の多くの謎も解明されるので、ここで行った日本建国のシナリオは大筋でほぼ間違いないと考えています(下の図、年表)。

従来、卑弥呼は倭国を統治する権力を持った女王様と考えられていましたが、

実は倭国王に太陽神の神託を告げる縄文海人族の姫巫女だったのですよ(誤解と幻想の卑弥呼)!



また712年に完成したと言われる「古事記」が実は九世紀の学者多人長(おおのひとなが)が、古代の氏族名鑑「新撰姓氏録」で多氏の出自が低くされたことに反発し、すでに存在していた「原古事記」をもとに書き変えたものだとだ分かりました。残念ながら「原古事記」は残っていません。しかし、人長は「日本書紀」に基本的に倣って書いていますが、「日本書紀」に見られない部分は「原古事記」にあったのではないかと推理しました(古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その4))。

さらに、前回述べたとおり、現存する日本最古の正史と言われる「日本書紀」が何故編纂されたか、その真の目的を関裕二さんによって知ったことも重要な点でした。「日本書紀」の内容は、史実を反映した部分はあるのですが、完成当時の権力者藤原不比等によって、真相を隠すために史実が隠蔽され、相当改ざんされているのです(「日本書紀」編纂の真の目的?)。

具体的には、編纂者が「魏志倭人伝」などを読んでいることは、神功皇后紀の中で四カ所引用されて、神功皇后が卑弥呼なのか台与かもしれないとわざと思わせる記事から分かります。つまり、意図的に歴史をねつ造しているということが分かります。また、中臣鎌足が中大兄を見出す場面などは藤原氏寄りの記述になっています。中大兄・鎌足らが乙巳の変で殺した蘇我入鹿は聖徳太子の子山背大兄一族を滅ぼした悪人だったとしました。だから聖徳太子が大聖人であればあるほど蘇我氏が大悪人になる構図だと関裕二さんが指摘しています。また、日向三代の神話は天皇家の先祖は近親相姦のワニの一族だと嘲笑し、さらに雄略天皇の悪行や武烈天皇に至っては言葉にできないほどの酷い話が書かれています。

このように「日本書紀」は天皇家さえ貶めるデタラメな内容で、

天皇家のための歴史書ではないのです。

随所で藤原氏にとって都合のよい歴史になっていることが分かります。


以上のことから「正史は正しい歴史だ」というのは思い込みでしかなく、

正史は『権力を維持するための、「かくあるべし」の理念で書かれた政治文書』なのだと分かります。


くどいようですが、大事なことですので再度書きますが、

すでになぜヤマト王権の始まりが分かるの?( ^)o(^ )で述べたように、

現在までの考古学の成果によってヤマト王権の成立過程を

十分に解き明かすことが出来るようになっていました。

ですから、「魏志倭人伝」に登場する倭国の人物に、

「日本書紀」や「古事記」や記紀神話に沿った神社伝承などから人物を類推し、あてはめて、

日本建国の真相をかなり明確にすることが出来ました。勿論、考古学などで検証しました。

記紀神話は民族が長い間伝えてきた民族の物語ではないのです。

上で述べた考古学などの成果を無視する神武東征などの神話は

真の日本建国の歴史を誤魔化すために藤原不比等が創作したフィクションだったです。

考古学や民俗学などの成果を無視して

「日本書紀」を素直に史実が投影された歴史と信じることは、

単なる空想でしかないということなのです。

邪馬台国畿内説も、神武東征説も、邪馬台国東遷説も、九州王朝説なども

すべて事実を無視したおとぎ話でしかないのです!


(注1)岡田先生は古事記偽書説を明快に述べておられますが、多くの研究者は、序文を書いたのは多人長だと認めているものの、本文はほとんどそのまま受け入れています。刮目天は日本書紀との相違点を見ていて、日本書紀で隠された史実を藤原氏に悟られることなく暴露するための暗号書だと分かりました。これを解くと、スサノヲが高天原を追放されるときの古事記の描写は、八百万の神々から拷問を受けて財産を没収されて追放されたと記されているので、王年代紀の記述がヒントになって奴国宮廷祭祀を司る師升らの反乱で殺されたと推理できました。拷問は師升が奴国王にすり替わるために金印の在りかを聞き出すためだと推理できます。しかし、スサノヲの部下のアズミ族がいち早く持ち出し志賀島に埋めたと分かりますから、スサノヲは殺され、160人もの捕虜にしたスサノヲの部下らを奴隷として後漢に差し出し、倭国王として認めてもらうために朝貢した史実を暴露したと推理できました。その他にも、古事記の崩年干支が日本書紀と大きく異なる部分があることから、空白の四世紀に隠された二人の天皇の存在と倭の五王の系譜が分かりました。それによって昨年大きな話題になった富雄丸山古墳の被葬者も推理できました(詳細は「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?」参照)。

【関連記事】
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10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)







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【学校で習わなかった真実】正史とは何か?(@_@)

2024-08-28 20:57:38 | 古代史
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#学校で習った方もいるかもしれませんが、古今東西の権力者はウソをつく生き物だと考えていいと思います。日本の社会制度は、現状を考えると異様なまでに性善説ですが、戦前のしっかりした道徳教育を受けた方々が生きていた時代に作られたからでしょう。

もともと、倭人は「支配者に従順な人々」という意味です。倭人の支配者の呉王は徳を大事にする王でした(司馬遷「史記 呉太伯 世家」参照)。(2024.8.29 赤字追加)

しかし、後世のそうでない権力者にとって日本人は扱い易い人々なのです。そういう権力者に都合の好いウソをつかせない仕組みを日本国民は持つ必要があります。

本来は日本国民の味方であるべきジャーナリズム・マスメディアそして真実を探求する学者の使命なのですが、かなりの部分が国民を裏切り、権力者や外国勢力にすり寄り、堕落しているように見えます。それに気づかない多くの国民は「陰謀論」などのプロパガンダで言論統制されて騙されます。(2024.8.29 赤字追加)

民主主義を護る最後の砦は「言論の自由」です。これを悪い権力者らに奪われると日本国民は、「基本的人権」を持たない人民やその下の家畜に成り下がります。古代史ロマンとは程遠い、嫌なことを考えたくないかもしれませんが、みんなが政治・経済や歴史の真実に無関心だと子供や孫の人生が地獄になりますので、現実的な視点で世の中を考えながら古代史の真相を探求をしています。(2024.8.29 赤字追加)
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【ゆっくり解説 】邪馬台国は本当に存在したのか
古代史ヤバイ【ゆっくり解説】@YouTube


多くの皆さんは正史というものを思い違いしていますよ。三国志や日本書紀は何のために編纂されたのか?真実を後世に残したいからと考えるのは多分、多くの現代日本人でしょう。

権力者が正史を残す目的はこれしかありません。権力の正統性つまり、権力を維持することを正当化するためです。ですから、権力者にとって不都合な史実は隠され、歴史は改ざんされると考えていいと思います。シナでは三国志があまりにも権力者寄りの歴史書だったので、同時代史はよくないということを理解して何代も後の王朝で編纂事業が行われるようになったのです。

ところが日本の場合は、日本書紀が完成してからずっと単一王朝ですから実権を握っていた藤原氏が作った歴史書にはウソがあると考えるべきなのです。日本書紀は天皇の歴史書ではないことは、そういう目で見ればすぐに気づきます。天皇の歴史書だったらその子孫が祖先のスキャンダルを面白おかしく書き残すなどあり得ません。特に、荒唐無稽な話はウソだとすぐわかる場合もありますが、そうでない場合にどうやってウソを見抜くか?

それは簡単です。書かれてある内容が事実、つまり考古学や民俗学などの成果と合致するかどうか調べればいいのです。

そしてここからが重要なのですが、多くの方はウソが書かれていると分かるともう文献自体の存在を無視するから謎のままなのです。権力者が何故ウソをついてまで隠したのかを探求すると真相が見えてきます。

これを科学的に解明する方法があります。ウソの理由の仮説を、一連の事実で検証するアブダクションという推論手法を19世紀末から20世紀初頭に活躍した米国の論理学者で哲学者で化学者のC.S.パースが提唱しています。それを古代史へ応用すれば、古代史の真相らしきものが見えてきて、多くの謎が解明できました。

よろしければ「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」をご参照ください。邪馬台国の場所も卑弥呼の正体も判明していますよ(#^.^#)

【古代史問題の科学的解決手法

C.S.パース


【関連記事】
邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!(^_-)-☆
倭国大乱の痕跡を見つけましたので、そこから推理すると、日本書紀が隠した卑弥呼の正体は宗像女神市杵島姫だと分かりました。宇佐八幡神宮の比売大神、厳島神社の祭神で、神仏習合して弁財天で祀られていますよ。4世紀から6世紀に力を持った和爾氏の祖ですので世界遺産になった沖ノ島で祭祀が行われていますし、日本全国各地で卑弥呼が祀られています。

【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!
卑弥呼の記事を集めました。知りたいことがまだありましたらコメントください(^_-)-☆

江島神社ー日本三代弁財天 ホームページより)


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え?渡来系弥生人のルーツが南遼河人?(@_@)

2024-08-27 21:29:06 | 古代史
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#弥生人のルーツについて、例の古墳人の金沢大学グループの研究成果でも標記のようなことを結論にしていたようです(弥生人は縄文祖先60%、北東アジア祖先40%)。下の動画ではその結果を詳しく説明されていますが、最後まで動画を見ると、その可能性はあるものの、長江河口の北岸当たりのグループが可能性は高いとはおっしゃっていましたよ。安心しました(#^.^#)

弥生人の起源は南遼河?【日本人のルーツシリーズ】
みどりTV@YouTube


いい話題をありがとうございます。
遼河人との交流は縄文時代中期からですよ(#^.^#)
三内丸山遺跡は西遼河人の可能性がありますし、日本のヘビ信仰も遼河人の影響です。
多分縄文人が運んできたのだと思います。
隠岐の黒曜石が沿海州や半島北部などで見つかっていますから、縄文海人が丸木舟で交易した証拠です。
ついでに嫁さんも日本に連れて来たので、mtDNAは多様になっていますよ。
詳しくは「刮目天の古代史 【分かった!】日本人の形成過程!(^_-)-☆」をご参照ください(#^.^#)

ちなみにO-47zが江南の倭人ですよ。
それを除くO1b2が半島の現代男性の1/3ですが、箕子朝鮮の人々で、殷(商)人系です。
詳細は「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!(^_-)-☆」をご参照ください。
たびたび、お邪魔してスイマセン(;^ω^)

@MIDORI-TV603
三内丸山と遼河文明の円筒土器文化圏は知っています。
青森にYハプロN系統が帰化したようで、青森はN系統が多いですね。
でも、弥生時代は人数が渡来人の多いのと、別経路で遼河文明と交流していたと思うので、別にしています。


@MIDORI-TV603 さん お返事ありがとう(#^.^#)
確かに弥生時代になって縄文人以外のいわゆる渡来人が、縄文時代よりもはるかに多い人数なのは事実でしょうが、ほとんどが倭人と呼ばれる現代日本人のルーツの人々ですよ。
現代男性の中の縄文人系は40%程度で、倭人系(O-47z)は25%程度ですが、核遺伝子は逆転していて縄文人の遺伝子はかなり少なくなっているようです。
それからBC219年に奴国王が招へいした徐福の一行から、その後かなりの数のシナ人系が繁殖して18%くらいになります。

ですから、渡来人というのは余り適切な用語ではないと思っています。
というのも古墳時代初頭頃までに彼らの文化を継承した日本人が形成されたようですから、彼らは全て日本人の祖先なのです。
弥生時代にやって来た遼河人はわずかだと思いますがどうでしょうか?
Y-DNA解析の結果から斎藤成也教授提唱の日本人形成過程の三段階モデルを説明できますよ。
詳しくは拙ブログをご覧ください(;^ω^)

【関連記事】
日本列島に集まった人々とは?(^_-)-☆
斎藤成也教授の三段階モデルにY-DNAによる解析結果を当てはめてみたところ日本人がどのようにして成立したかが判明しています。ご意見やコメントがありましたらよろしくお願いいたします(;^ω^)

日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!(^_-)-☆


日本民族の父系のルーツと地域性について!


【刮目天の古代史】倭人とは?(^_-)-☆

古代日本は海人国家だった(^_-)-☆
江南をルーツとする海人アズミ族のクニ
( 黒字:宮地直一、青字:大場磐雄 による)
①筑前国 糟屋郡志珂郷、阿曇郷、志賀海(シカノアマ)神社
②壱岐・対馬 和多都美神社
③豊後国 戸为山部牛の妻阿曇部馬身賣(ウマミメ)他、海部郡
長門国 下関市安園町富任 長門国豊浦團五十長凡海我孫  
 大津郡向津具村 八木家所有の畑地から有柄銅剣

⑤隠岐国 海部(アマ)郡 少領外従八位下阿曇三雄、海部郷
⑥伯耆国 會見(アツミ)郡安曇郷
 西伯郡宇田川村 和名抄に安曇郷記載、石剣出土
出雲国 簸川郡大社町杵築 海部が居住していた、銅戈が出土
丹後国 熊野郡湊村函石濱 和名抄に安曇郷記載、石剣出土
與謝郡日置村 海部氏が奉斉する籠神社、石剣出土
⑨播磨国 揖保郡浦上里、石海 安曇連百足
⑩讃岐国 大内郡入野(ニフノ)郷 安曇茂丸戸他、讃岐是秀 安曇直眉他
⑪阿波国 男帝の御宇に供奉する神祇官選定阿曇部、名方郡の人安曇部栗麻呂宿禰、
和多都美豊玉比賣神社、海部郡
⑫淡路国 三原郡南方の野島は海人の本拠地、西南の方に阿萬(アマ)郷
⑬摂津国 安曇犬養連等の地、難波津の安曇江、安曇寺
⑭河内国 阿曇連等の地
⑮山城国 阿曇宿禰等の地
⑯近江国 伊香(イカコ)郡安曇郷(東北方湖辺の地であるが所在は明らかでない)
⑰美濃国 厚見郡、厚見郷
⑱三河国 渥美郡、渥美郷
⑲信濃国 更科郡氷鉋、斗賣郷 氷鉋斗賣神社 、埴科郡玉依比賣命神社
⑳信濃国 安曇郡 穂高神社 安曇部百鳥
以上の他に、「信濃の安曇」(笹川尚紀『信濃第 55 巻第 7 号』平成 15 年)によると、肥前国、
周防国、備中国、伊予国にも安曇連、安曇部の存在があるという
「安曇氏の経歴と分布」より引用)


古墳人って何なのさ?(;´Д`)
最新の遺伝子解析も、歴史学の知見がないとダメですよ(;´Д`)
(2021年9月21日 金沢大学 > 研究トピック > パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造 より)


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初めての方は【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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