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#弥生時代を解説された、とてもよくできた動画を見つけましたが、邪馬台国問題が解決しないのはこのような通説のような思い込みがあるためだと思い、コメントしました。よろしければお付き合いください( ^)o(^ )
弥生時代の真実:稲作がもたらした日本社会の大転換と現代への影響
歴史の真実@YouTube
とてもよい解説を有難うございます。水田稲作の普及が社会を大変革したという通説ですが、確かに縄文時代に比べると豊かになったのはご説明のとおりですが、それによって富める者とそうでない者との階級社会が生まれて、社会矛盾による大規模な抗争・戦争をもたらしたという通説は、最新の研究で覆されつつあります。
水田稲作が導入された弥生時代になって起こった戦争の原因を、人口の増加・資源不足(適地や水の奪い合い)・蓄積された富の略奪・思考的変化とするのが従来の定説のようになっていました。受傷人骨の数と甕棺の数を福岡平野・宝滿川上・中流域で調査して、従来の弥生時代開始の年代観(紀元前5世紀から前4世紀)では人口密度が高いほど受傷人骨が多いことは言えたようですが、弥生時代が紀元前10世紀に始まる歴博の年代に変わり、そのようなことは言えないことが分かってきました(中田朋美等「弥生時代中期における戦争」情報考古学Vol.24No.1-2,2019)。
弥生時代になって弥生人が渡来して、社会構造が大きく変化したというのも間違いではないですが、弥生人の正体は皆さんが考えるような異民族ではないようです。
実はヤポネシア研究の斉藤成也教授が「核DNA解析によって推定される日本列島への人類集団の移住の歴史」の三段階モデルを示されています(wiki「日本人」参照)。その第二段階(約4400年前-3000年前)縄文時代後期になって、漁撈・園耕民である第二の渡来民が流入したとしています。詳細は「日本列島に集まった人々とは?(^_-)-☆」に在りますが、さらに最新の情報を入れてブログ記事にする予定です。今までの弥生時代のイメージとは全く異なります。二世紀末から三世紀初頭の倭国大乱で初めて大きな戦争が日本列島で起こりましたが、その原因を正しく理解すると邪馬台国問題も解決します。詳細は拙ブログPC版ブックマークにありますので、よろしければどうぞ!お邪魔しました(;^ω^)
第二渡来民の集団が日本列島中心部において縄文人と混血したとされていますが、そうではないようです。以下に説明します。
園耕民というのは農耕だけでなく、狩猟採集も生業とする、すでに8,200年前に遼河文明を開いた人々と同じ生活スタイルです。そのような人々が三内丸山遺跡(5,900年前~4,200年前)を営んだと考えられます。
最近、千葉県市川市の貝塚「雷下遺跡」で縄文時代早期といわれる約7,500年前の日本最古の丸木舟が発見されています。ですから7,300年前の鬼界カルデラの大噴火で南九州の縄文人は全滅したようですが、九州中部の人々は舟で半島に逃げた模様です。縄文時代前期(鬼界カルデラ大噴火後)の熊本県宇土市の曽畑貝塚からはじめて出土した曽畑式土器と非常によく似た櫛目文土器が朝鮮半島で出土していますので、縄文人のものと考えられます。
櫛目文土器の最古のものは遼河文明・興隆窪文化(紀元前6200年頃-紀元前5400年頃)の遺跡から発見されており、新石器時代の北東アジアの文化交流が明らかになっています( 王 巍 「東北アジアにおける先史文化の交流」中国社会科学院考古研究所 中国北方新石器文化研究の新展開【詳細報告】)ですから、縄文人が丸木舟で南西諸島、朝鮮半島、遼東半島、そして沿海州へと移動し、黒曜石などを運び交易を行っていたとわかります。
つまり、日本列島の集落では主に、男性が漁労や交易、女性が海女(アマ)・農耕・栽培を行っていた模様です。ですから、第二の渡来民というのも実は縄文人が出先で現地女性と結婚し、女性や子供を連れて集落に戻っ来たと考えられます。そのために、日本人の母系を表すmtDNAが多様になっているようです。
漢書地理誌燕地条の「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云」はこのような縄文系の集落から楽浪郡に交易に来ていた縄文系の人々のことだと考えられます。
ですから、遼東半島や沿海州では北東アジア系集団と混血し、紀元前11世紀ごろには朝鮮半島北部では箕子朝鮮の人々(殷(商)人系)、半島南部では江南出身の倭人と混血していたと考えられます。水田稲作技術は半島南部の倭人と交流し、唐津市菜畑遺跡、福岡市板付遺跡などにもたらしたのはこれらの縄文系倭人(あるいは倭人系縄文人)だと考えられます。
そして、日本で最初の王墓が紀元前4世紀前半(弥生時代前期末から中期初頭)の福岡市吉武高木遺跡です。三代の王と妃や王族の墓となっています。初代王は新唐書日本伝王年代紀に天御中主とあり、記紀の高天原に最初に現れ得た神とされています。宋史 日本伝王年代紀には二十三代の王名が記載されています。二代王は天村雲尊、三代王は天八重雲尊となっています(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。
四代王の名が天爾聞尊(あめのににぎのみこと)だったのです。三種の神器が揃って出土している木棺が天村雲尊のもので、孫の天爾聞尊に王標(三種の神器)を与えて周辺を平定するように命じた、いわゆる天孫降臨神話の基になった史実を表しています。四代目以降は王都を春日市須玖遺跡群に遷し、北側の比恵・那珂遺跡群に交易センターを設置して、縄文系海人ムナカタ族が各地の産物を持ち寄り、奴国王が交易税を徴収して、更に伊都国に奴国王族を配置して対外交易を管理させ、奴国が隆盛になったと考えられます。奴国王は須玖タカウタ遺跡などに官営工場を設置し、盛んに青銅祭器(銅鏡、銅剣など)を生産し、ムナカタ族の族長にこれらを下賜してシナの王朝に倣い冊封体制を構築したと考えられます。
十六代王沫名杵が建武中元二年(57年)、後漢光武帝より金印を賜ったと考えていますが、これは岡田英弘「日本史の誕生」(弓立社)に倭国の珍しい品物を買い付けにくる楽浪郡などの華僑の権益を保証してもらう目的で冊封体制に組み込んだとされています。
そして、十七代王伊弉諾が縄文海人ムナカタ族の姫イザナミを娶りましたが、奴国王が対外交易を独占する目的の政略結婚だったと考えられます。イザナミの父は米子市宗形神社を王宮と、山陰最大級の妻木晩田遺跡を拠点とするムナカタ海人族を束ねる族長アタカタスノミコトと推理しています。
個々の縄文系集落ではそれぞれの部族民が生活し、部族民を指導する人物が鳥の羽の装束をつけた太陽神信仰のイセ(祝=羽振り、巫=かんなぎ)で、姫巫女に太陽神が憑依して発した神託をイセが解釈して、部族民に告げて政治的決定を行う様式だったことが、奈良盆地の唐子・鍵遺跡の絵画土器から推理できます。
奴国王とムナカタ海人族との混血が日本の歴史を大きく変えました。二人の間に生まれたのが十八代王素戔嗚尊スサノヲです。奴国をさらに隆盛にするために辰韓(慶州市隍城洞遺跡)の鉄を支配し、丹後半島の玉造生産に力を入れました。そのために王宮を留守にすることが多く、たまに帰還したら、スサノヲが慣れ親しんだ縄文式の銅鐸祭祀を、奴国の伝統祭祀に導入するように、宮廷祭祀を司る師升に命じたと推理しました。師升らは反乱を起こし、スサノヲを殺して、倭国を奪いました。107年にスサノヲの部下160人を奴隷として後漢安帝に献上し、師升が倭国王に認められました。志賀島で出土した金印はこの時に埋められたものだったのです(#^.^#)
反乱を逃れた王族がムナカタ族の手助けで出雲・吉備を拠点にして倭国と対立します。後漢が衰退し、半島の支配が緩んだので韓人・濊人が強勢になって倭国は対外交易ができなくなって衰弱しました。一方、旧奴国王族は半島の鉄を入手して、列島に鉄のネットワークを築いて隆盛になり、大分県大野川流域から阿蘇山麓に鉄製武器製造のコンビナートを築き、菊池川流域に最前線基地を作って山陰や畿内の兵士を呼び寄せ、倭国側の集落を襲って倭国を滅亡寸前まで追い詰めました。これが倭国大乱です。その結果邪馬台国の女王卑弥呼が登場しますが、卑弥呼は上で述べたムナカタ族の姫巫女です。つづきは「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」をご参照ください(;^ω^)(クリックで拡大)
【関連記事】
【検証9】奴国時代の話(その1)・(その2)
記紀が天皇の歴史書じゃないと分かれば、通説となっていた奴国に対する考えが変わるはず(^_-)-☆
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)
最後まで読んでいただき、感謝します。通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)