刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

日本民族の父系のルーツと地域性について!

2021-11-28 12:36:23 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

前回の記事「渡来人は異民族とは限らない?( ^)o(^ )」でアイヌや沖縄の人々について(注1)に以下のように書きましたが、いつもフォローしているテレビとうさんからいいコメントを頂きましたので、早速記事にします。お付き合いください。

日本の中にアイヌ民族とか琉球民族が存在するなどありえません。関西人や関東人や九州人などと同じように、アイヌ人も沖縄人も同じ縄文系をベースとする日本民族で日本国民ですよ。反日国家の謀略に引っかかると、悲劇しかないでしょう。

一方で、現代の日本に文化の違う異民族を移民として入れると、そこにコロニーが出来上がって、日本の中に別の社会ができ、最後は独立を主張することも考えられますので、これも悲劇を生む可能性が出てきます。やはり、民族はそれぞれ独自の文化を持っているわけですから、生まれ育った場所で国家を作り、一緒に暮らすのが安心できると思いますね。(^_-)-☆


刮目天さん、こんにちわ。 (テレビとうさん)

沖縄人や関西人は、現にその地名に住んでいるので、そのまま書いても良いと思いますが、アイヌ人は所謂「アイヌ人」或いは「アイヌ民族」と「 」付きで書かなければ、恰も「アイヌ民族は統一された民族で、アイヌの土地に住んでいる」と誤解されます。

「アイヌ民族」には、言語が互いに通じない「民俗性」の違う、少なくとも5民族が(13世紀以降)北海道に住んでいたと言われていますし、その証拠しかありません。

当然ながら、当初のシベリア系・樺太系・千島列島系の「アイヌ民族」は「縄文系遺伝子」は殆ど持っていなかったと推測できます。但し、日本海周辺の大陸系の「アイヌ民族」は最初から「縄文系遺伝子」を持っていても不思議は無いと思います。

つまり、出自の違う「民族」を一緒くたに纏めて「アイヌ民族」とする事は、民族の独自性を無視する言い方に思えます。


早速、いいコメントを感謝します。
全く異論はありませんし、同じ認識です。
日本列島は東西に長いので、それぞれの地域で文化の地域性があります。水田稲作が導入される時期も違いますが、現在の日本民族の多くは白米を主食にしていると思います。言葉も現在では日本語を身につけて日常で会話しています。日本のテレビ番組を見て日本文化が染みついていると思います。
国会で先住民族と決議しましたが、反日国家に利用される売国行為だと思います。日本国民はもっとしっかりしないと、日本は滅ぼされますね。これに賛成した政治家や組織の人々は、科学的に間違った話ですから制度は廃止しなければダメでしょう。
同じ日本民族のアイヌ人を貶める話で、アイヌ人への差別だと思います。沖縄でも進んでいるようですから、日本国民が一丸となって止めさせないとダメですね。

ちなみに、最新のデータがwiki「日本人」に公開されていますので、表にしました。縄文人と北方アジア人が混血したアイヌの人々は日本列島の先住民族ではなく、列島の他の人々と同じ日本民族であることはこのデータからも明らかです。沖縄の人々と同様に、本土日本人と比べて縄文人系を父系のルーツとする人が多く占めているということだけです。


(左クリックで拡大)

ヒトの場合、染色体は1つの細胞に46本(23対)あり、身体的な特徴や気質などの遺伝は22対の常染色体で決まります。現在は多くの人種の混血が進んでいますので、当たり前ですが、23対の中の1対の性染色体で人種を区別することなど最初からできません。

ただ、古代では厳しい環境を生き抜くために父系のルーツを同じくする集団が部族として行動することが多かったので、古代史解明に役立てることが出来るというだけです。ゲノムワイドな研究が現在進められており、将来は、どのような時期にどのような民族間の混血があったかが解明されるようになるのだと思います。

日本民族の父系のルーツについてはこちらで詳しく説明していますので、よろしければどうぞ!( ^)o(^ )
(左クリックで拡大)
上の日本民族の父系のルーツの図を作成した時はNonaka et al. 2007 のデータを使用しました。現在はデータがかなり増えています(Sato et al. 2014 )。若干シナ人系が増えていますので数値が少し異なりますがそれほど違いはありません。そのうちに改訂したいと思いますが、それまではこの図と上の表をご参考にしてください!(*^▽^*)


最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

渡来人は異民族とは限らない?( ^)o(^ )

2021-11-27 19:23:30 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

2018-06-17 00:54:34の記事ですが、この話も重要なのですがあまり読まれていないので、注記を追加して再度アップします。実は、(注2)と(注3)に書きましたが、古代史を塗り替えるようなとんでもないことがわかりました。とりあえず、最後までどうぞ!

藤原鎌足は百済王子の豊璋? 関裕二説

藤原鎌足が百済王子余豊璋だという説は当時の状況を考えると、謎が説明できていいかなと考えてます( ^)o(^ )

でも、もしも百済王の出自が自称、高句麗と同じ北方アジア系とするならば、現代日本人男性のY染色体を調べると、C2はわずか3%です。

*東アジアの民族の父系のルーツを整理して図にしましたのでご覧ください。

クリックで精細な図になります( ^)o(^ )

 (詳しい解説は、日本民族とその周辺民族の父系のルーツ! を参照してください)

この3%は平安時代に貴族としてかなりの荘園を所有し、あれ程勢力を張った藤原氏にしては少なすぎると思いますね(^_-)-☆

そうすると百済は馬韓の伯済国から出たとする説もあり、馬韓人ならば現代コリアン男性の1/3の殷(商)人系の可能性があります(実は、倭人と近い。でも現代コリアン男性の4割はシナ人系O2です)。しかし、これも現代日本人の中に8.4%ですから、やはりこれもちょっと少なすぎるような気も少しします(注1)。

そうすると現代日本人に1/4も居る倭人系であると考えるといいかも知れません。つまり藤原氏は倭人系の渡来人か?( ^)o(^ )

前から考えてますが、半島からの渡来人と言っても、663年に白村江で敗れて完全撤退するまで半島南部は倭人の勢力が結構強かったので、渡来人=倭人の可能性があります。(注2)。

つまり、百済人とか新羅人などは、必ずしも異民族とは限らずそこに住んでいた倭人を指すかも知れません。加羅の人々も(ほとんど倭人か)、562年に大加羅が新羅に滅ぼされ新羅人と呼ばれた可能性があります(注3)。

また日本の越(コシ)も、紀元前4世紀に越(エツ)が楚に滅ぼされて越人が日本に着たのであれば0.8%しか現代日本人男性に居ないのも少なすぎかも知れません(多分越の王族かも( ^)o(^ )と書きましたが、言い伝えでは越の王族は呉と同じ夏人でしたので間違い)。

日本に来た越人の大半は、越に居た江南の呉人(=倭人)という中田力説が良いようです(「日本古代史を科学する」PHP新書、pp.129-138)。彼らは紀元前463年に越に滅ぼされた呉の人ですが、同じ水田稲作・漁労民族ですから江南に残留した呉の人たちです。ちなみに越を滅ぼした楚の人は文化の異なる異民族です(注4)。

渡来人に対する見方を考えていただく話でした(^_-)-☆

(注1)その程度なのかもしれません。
でも、ルーツが倭人系でないとしても、千年以上日本の風土の中で日本人として暮らせば、日本人であることは変わりないと思います。たとえ、特別な文化をずっと継承していたとしても日本国民として長い間暮らせば日本人の考え方になっていますから、今更異民族として扱う理由もないでしょう。そんなこと言ったら倭人だって縄文人とは違う異民族ってことになってしまいますから。

弥生人が渡来人だというのは間違いですよ(;一_一)

主に、水田稲作文化や金属文化などを日本列島に持ってきた倭人(江南の呉の人々)と、もとから居た縄文人、そしてこれらの人々の混血が、弥生時代に居た日本人であって、それが弥生人ですよ(^_-)-☆

日本の中にアイヌ民族とか琉球民族が存在するなどありえません。関西人や関東人や九州人などと同じように、アイヌ人も沖縄人も同じ縄文系をベースとする日本民族で日本国民ですよ。反日国家の謀略に引っかかると、悲劇しかないでしょう。

一方で、現代の日本に文化の違う異民族を移民として入れると、そこにコロニーが出来上がって、日本の中に別の社会ができ、最後は独立を主張することも考えられますので、これも悲劇を生む可能性が出てきます。やはり、民族はそれぞれ独自の文化を持っているわけですから、生まれ育った場所で国家を作り、一緒に暮らすのが安心できると思いますね。(^_-)-☆

(注2)新羅については、仏教の伝来を調べていて分かりましたが、新羅ではもともと龍神(ナーガ)を祀っていたとありましたから、間違いなく倭人(江南の呉人)でした(崔琮錫「弥勒信仰の新羅的受容と変容」東アジア仏教学術論集2017-01、p.201)。倭人は弁韓・辰韓にも居ましたので、渡来系の新羅人は、列島に戻って来た倭人ということです。筑前・豊前から豊後にかけて奴国大王スサノヲ(龍王、第四代脱解王のモデル)の子孫たちや縄文系ムナカタ海人族卑弥呼と関わりのある倭人の子孫が住み着いたようです。宇佐地方で辛嶋氏が祀っていた原八幡神は宗像女神卑弥呼です。

(注3)これも驚きの事実ですが、百済には二つあり、最初の百済は遼西(現在の河北省の一部と遼寧省の一部)に居り、伝説どおり、高句麗と同じツングース系扶余族でかなり強国で楽浪郡まで支配しました。しかし、六世紀初頭に滅び、馬韓の伯済国が百済を名乗ります。「日本書紀」で百済としたようですよ(坂田隆「古代の韓と日本」新泉社1996)。好太王碑(こうたいおうひ)では四世紀末ですから高句麗が討った楽浪郡の百済の残党という意味で百残と書かれています。その後の百済からの渡来人は倭人です。また後で詳しく説明したいと思っていますが、やっぱり、不比等は藤原氏の出自(伯済国の王族)を隠すのも大きな目的のひとつでした(^_-)-☆

(注4)楚の成立(Wiki「楚(春秋)」より)
楚の成立に関しては、漢民族の母体となった広義の黄河文明に属する諸族が移住して成立したとする北来説と、それとは異質な長江文明の流れを汲む南方土着の民族によって建設されたとする土着説がある。楚の成立に関してはさまざまな仮説があるものの、いまだに定見も有力説も定まっておらず、民衆および支配層がいかなる民族であったのかは解っていない。
北来説の中で有力視されるものに、現在の河南省から山東省南部に分布していた東夷が楚を建国したという説がある。また土着説では、湖北から湖南・貴州省に点在するミャオ族の祖先が楚を建国したという説が有力視されているものの、どちらも有力な証拠はまだない。近年、楚墓発掘の進展で、おおかたの埋葬が王族庶民を問わず周様式の北向き安置ではなく南を向いて安置されており、当時の中国では珍しい形式であるため、土着ではないかとする説がやや有力になっている。



最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

日本は古の倭の奴国だ(^^♪

2021-11-26 10:50:35 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

随分前の2016-11-28 14:47:49に記事にしましたが、あまり読まれていないようなので、最新の知見を入れて大幅に改訂しました。お付き合いください。


新たな学説に揺れる邪馬台国
2016年11月20日14:57【iRONNA】邪馬台国は「99・9%」九州にあった


タイトル通り専門家や歴史ファンらに衝撃を与えた。同書では邪馬台国の根拠となる資料「魏志倭人伝」を重視しつつ、「後世に改竄された」と新説をとなえた。記述のあった朝鮮半島から邪馬台国までの距離を再検討した結果、邪馬台国は熊本平野にあったと結論づけたのだ。
 一方、ささやかなニュースでしかなかったが、今年3月、福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で弥生時代後期のものとみられる硯(すずり)の破片が出土した。この遺跡は魏志倭人伝に出てくる「伊都国」の中枢をなし、朝鮮半島北西部で見つかった硯と似ているという。伊都国は中国の外交使節の滞在場所とされるだけに、やはりこの近隣に当時の日本を統治する拠点があったことを推論する根拠になり得るのではないか。
 邪馬台国論争において「畿内説」が有力であることは間違いないが、中国や朝鮮半島との外交に欠かせない海洋ルートに加え、出土品の数などを考慮すれば、「畿内説」に遜色ない根拠は十分にある。もちろん、邪馬台国論争は「九州」や「畿内」だけではない。少々、突拍子もない印象もあるが、沖縄や滋賀の琵琶湖畔といった学説があることも事実だ。
 iRONNA編集部は今回、こうした現状を踏まえたうえで、地理的な要因や出土品の数といった根拠から導き出された「九州説」の視点を柱に据え、「邪馬台国はどこにあったのか」という長年決着のつかないまま現在にいたるこのテーマについて議論したい。


邪馬台国は福岡県にあった!ビッグデータが解いた「卑弥呼の墓」の謎 『安本美典』 2016/11/20 05:11 

やはり安本氏が主張されるように発掘された鉄の鏃(やじり)や勾玉、青銅鏡(三角縁神獣鏡は魏から貰ったものではない(注1))の数は圧倒的に北部九州が多い!また、当時の墓の形式が魏志倭人伝に「棺あって槨なし」とあるように北部九州には石棺のみで槨はなく該当するが、大和では木槨が有るので該当しない!さらに、大和説の有力候補地纏向遺跡の外来土器の中に当時の先進地域の北部九州のものが見られないのは、大和に邪馬台国が無かった大きな証拠でしょう!

それでは北部九州に在ったかというとそれは違います。 伊都国の平原遺跡に天照大神である卑弥呼の墓があると考えられてますが、もしもそうであれば何らかの伝承が無ければな りません!ところが、そういう伝承はいっさいないことがその説を否定していると言えます!また、高天原を邪馬台国と考えられていますが、下に述べますが、高天原は奴国ですよ。(「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」)。

邪馬台国「九州説」に徹底反論! 卑弥呼は100%ヤマト女王だった『桑原久男』 2016/11/20 05:10

安本氏が何度も反論していますが、考古学の証拠から大和説は破たんしてます。しかし、安本氏が主張する、九州にあった邪馬台国が大和を滅ぼしたという邪馬台国東遷説も成り立ちません。三世紀にヤマト王権が始まった纏向遺跡に九州の土器がほとんど出土していないことから分かります(「邪馬台国大和説は過去の学説だよ!」)。

唯一の文献「魏志倭人伝」に根拠なし! だから邪馬台国論争は迷走する『里中満智子』 2016/11/20 05:09

元々、倭国は楽浪郡の南海上に有ると言うのが古来からの中国の常識でした(「漢書」地理誌)。邪馬台国の場所は帯方郡から東南に一万二千里の位置で、会稽郡東冶県の東方海上にあるというウソを拡めることにより、利益を得たい人たちは誰なのか?実際は違うということは魏の使者には分かっていましたが、上司帯方郡太守の命令でそういう報告書にしました。その報告書に基づき魏志倭人伝を書いた西晋の史官の陳寿の目的は西晋の宣帝と諡された魏の実力者司馬懿の功績を称揚することでした(注2)。




これだけは知りたい! 邪馬台国の基礎知識 『産経新聞』 2016/11/20 05:07

奴国から倭国に変わり伊都国に男王が居住し、更に邪馬台国の女王が倭国王となって大和王権に引き継がれたのは間違いないことです。皇位継承の印の三種の神器(剣・玉・鏡)は奴国王の墓の副葬品と合致します。さらに、中国の歴史書「新唐書」に「日本は、古の倭の奴なり」と最初に明記されており、さらに最初の初代王は天御中主、王の姓は「阿毎(アメ)氏」、以下「尊(みこと)」を号とし、筑紫城に居し、彦瀲(ひこなぎさ、日本書紀の鸕鶿草葺不合尊ひこなぎさうがやふきあえずのみこと)の子、神武立ち、あらためて天皇を以って号となし、みやこを大和州に移すと書かれていることからも分かります(注3)。

邪馬台国がどこにあるかは魏志倭人伝の記述を好きなように解釈して改変し、どこへでも当てはめられるから本居宣長から三百年たっても解決できなかったわけです。NHKなどが取り上げるので、町おこし村おこしの格好の材料になっているのが現状です。(^_-)-☆

むしろ魏志倭人伝は、当時の伊都国に居た男王と帯方郡太守らにとって都合のよいウソから始まって、それを基にして書かれた歴史書というのが本当のようです(「【検証22】難升米という人物は?(その1)~(その3)」)。

『【iRONNA】本日のテーマは「邪馬台国」』、その中で安本美典氏の記事の最後にある、邪馬台国であるための以下のような基準を書かれています。 邪馬台国問題の解決のためには、つぎの四つの問題について、 統一的総合的な見解が与えられる必要があると考えられる。
(1) 卑弥呼は、日本の古典に記されている誰にあたるのか。
(2) 邪馬台国はどこか(これは7万戸の人のすむ広い地域)
(3) 卑弥呼の宮殿はどこか(これは狭い地域)
(4) 卑弥呼の墓はどこか。


しかし「魏志倭人伝」に書かれていることがすべて事実だという前提です。残念ながらその前提が間違っているから邪馬台国問題が迷走しているのです。これは現存する日本最古の正史「日本書紀」も同じ状況です。だから、権力者が書いた正史のどこにウソがあるかは、権力者の気持ちになれば見えてきます。権力者にとって不都合な歴史の真相は、正史で隠蔽されるか、改ざんされるからです。つまり、書かれていることが考古学や民俗学などの成果と矛盾するところにウソがあるという分かりやすい話でした。だからそのウソが分かれば、歴史の真相だと思われる仮説を立ててそれを検証していけば正解が浮かび上がってくるという話でした(「勝者の歴史から不都合な真相が分かる?(@_@)」)。

【関連記事】
一つの事象にいくつもの解釈あり!

(注1)三角縁神獣鏡は箸墓古墳から出土し、魏の皇帝が卑弥呼に与えた魏鏡百枚の一部だとして、大和説の卑弥呼墓の有力候補地としている。しかしこの鏡は我が国から500枚以上出土しているにもかかわらず、魏の都「洛陽」は勿論、中国全土から一枚も出土していない。文様から考えても北方の魏系のものでなく、南方の呉系の鏡であると安本氏は指摘しています(大崩壊「邪馬台国畿内説」、勉誠出版、p.31)。4世紀から5世紀にかけて呉の職人に作らせた訳であるが、魏の景初年号を付けていることからも、魏の鏡と見せかけたい意図がみえる。280年に呉が滅んで後ろ盾を失い混乱した狗奴国=ヤマト王権が親魏倭王卑弥呼の王権を継承したものと主張したい目的で大量に作らせたと推理できる。

(注2)陳寿の後に三国志以前の歴史書「後漢書」を書いた范曄(398年ー445年)に対する多くの評価は不当ではないかと考えてます。従来の邪馬台国に関する諸学説にとって「後漢書」の倭に関する記述が都合が悪いので、現在伝わる12世紀に作られた魏志倭人伝の版本を正しいと見做して議論を進める間違いを犯しています。

范曄は魏志倭人伝やそれ以前の倭に関する資料や当時の好太王碑にあるような半島の状況も理解しており、邪馬台国や大和王権のことは分かっていたようです。57年の倭の奴国の朝貢から倭国大乱が桓帝・霊帝の期間と魏志倭人伝にない記述がありますし、邪馬台国の時代に近い時代に生きた范曄の記述を間違いとして捨てることは無理がありますから、版本の書き写しを疑うべきでしょう(九州で人気のある古田武彦氏の九州王朝説は邪馬台国を邪馬壹国としたり臺与(トヨ)を壱与とする魏志倭人伝の版本を正しいとしている。今回の熊本説も古田氏と同様に会稽東冶を会稽東治とするのは当代一流と評価の高かった范曄を見くびっているのではないだろうか)。

(注3)「宋史」日本国には、その記事のソースが書かれている。984年に宋に留学した東大寺の奝然(ちょうねん)が太宗に献上した「王年代紀」である。ここには初代王の天御中主から神武天皇の父彦瀲までの23代が記されており、新唐書の三十二世という記述が写し間違いであることが分かる。


最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

【検証10】ヤマトはなぜ伊都国を捨てた?|д゚)

2021-11-24 17:57:24 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

2019-10-14 08:51:39に掲載しましたが、余り読まれていないので、若干改訂して、再度掲載いたします。北部九州における対外交易の拠点の移動について考古学者の早野浩二先生が「東海系土器を基軸とした東西広域編年の実際」(「弥生時代の東西交流」(六一書房)2020.5、pp.199-204)で話題にされていました。【付録】に同書付録第3表の「北部九州から東北・北海道までの編年併行関係表」に刮目天が作成した年表を加えたものを掲載しました。ちょっと長くて恐縮ですが、よろしくお願い致します。

「魏志倭人伝」に登場する伊都国は倭国の中でも、とても重要な国のひとつだ。邪馬台国までの行程記事から考えて、魏使は伊都国までしか行かなかったという解釈もあるくらい倭国の中心的な場所なのだ。通説では唐津に比定される末盧国から南東に陸行五百里で到着するとなっているので、東南という方角は変だが、「イト」国という地名の一致と、後で詳しく見ていくが、立派な王墓や対外交易センターと見なせる遺構や遺物が出ていることから伊都国が糸島平野で間違いない。



弥生時代の北部九州に出現した王墓や主要な首長墓を時期ごとに整理した一覧を下に示す。赤枠で囲った代表的な王墓について時代順に簡単に説明する。

まず、弥生中期初頭から前葉(紀元前4世紀末から前3世紀初頭)に日本で最初に早良平野に造られた吉武高木王墓群だ。まだこの時代は倭国王として十分に王権を確立していないとは思われるが、「宋史 王年代記」にある初代王の天御中主から数代の王墓だ(【検証9】奴国の大王は凄かった(*^^)v【付録】参照)。

次も前回のブログで説明したとおり、奴国が大いに発展した弥生中期後葉の王墓だ。多分、第13代奴国大王の國常立尊(くにのとこたちのみこと)かな?(^_-)-☆ 副葬品から考えてこの頃には十分に倭国王と呼べる権力と実力を持っていたのだろうね。そして同じ時期の伊都国王の墓が三雲南小路遺跡の王墓だ。奴国王家の血筋の有力な人物だと考えている。代々の伊都国王もここに眠っているはずだが、王位は奴国大王の認可を受けた世襲だと思う。

伊都国の井原鑓溝(いはらやりみぞ)王墓は、2世紀初頭(後期中葉)に奴国を乗っ取った師升の墓だと考えている(倭王帥升(すいしょう)は何者だ?)。三雲遺跡を新たな王都としたことは室見川河口で発見された日本で作られた最古の金石文「室見川銘板」から分かった(「弥生時代にすでに漢字が!」)。

最後の平原王墓は、後で詳しく述べるが、倭国が西晋に朝貢した266年から、西晋に呉が滅ぼされる280年までに大国主の倭国がヤマト勢の追討を受けて、伊都国で戦死した女王台与の墓だと推理している(【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?(^_-)-☆)。


前述のとおり弥生時代中期後半から伊都国は対外交渉の拠点・対外交易センターの役割を担っていた。弥生時代中期後半から掘削された環濠集落の今宿五郎江遺跡だ。対外交易の拠点と考えられる遺物(楽浪系土器、三韓系瓦質土器、鋳造鉄斧など)が多数見つかっている。


(2019.10.15 改訂)



弥生中期後半から北側に拡張し、中期末から後期初頭にかけて南北約270m東西約200mの大規模な環濠集落(右図のSD1は幅3m、深さ約1.5m前後の逆台形断面の溝)となっていた。潟湖を形成していた北西側は環濠が途切れている。環濠の東側に一か所だけ陸橋が作られ、出入り口となっていた(図1のJ地区)。東側には水田が広がっていたようだ。

弥生時代の対外交易だが、弥生中期中頃まで半島南部の勒島に弥生系土器が集中していたが、楽浪郡が設置される紀元前108年以降の弥生中期末から後期後半にかけて伊都国・原の辻(壱岐)を経由する対外交易に変わった(注1)。つまり、奴国大王が倭国側の対外交渉の窓口として伊都国王をあて、今宿五郎江・大塚遺跡を対外交易センターとして交易を管理するようになったのだ。それによって弥生時代中期後半の伊都国王墓に、奴国大王と張り合うくらいの豪華な副葬品が見られるようになるのだ。伊都国王が「魏志倭人伝」に出てくる政治権力を持つ刺史のような役割の一大率だったと考えると納得できる。

楽浪郡と倭国の交易が盛んにおこなわれるようになり、57年後漢光武帝が奴国大王に金印を贈って倭国王に封じ、華僑の商売を保証させたということだ。後漢の外交使節や華僑が乗り込む構造船を今津の北側の外洋側に停泊させ、今津湾から潟湖を通って丸木舟で下賜品や交易品を運んだようだ。

しかし、2世紀初頭(後期前半)に奴国の宮中楽師の師升らがクーデターを起こし、奴国の時代が終わった。新たに倭国王となった師升は、上述のとおり対外交渉に便利な伊都国を倭国の都とし、井原地区に王墓を造ったと考えられる。

師升王はさらに今宿五郎江・大塚遺跡を対外交易だけでなく、倭国内の産品の交易センターに拡大したと考えられる。というのも奴国の隣の不弥国(うみこく、新宮町から宗像市までの玄界灘沿岸地域に比定)から東側は師升王の倭国とは敵対関係になったからだ。だからその時代に伊都国に持ち込まれる交易品は九州西部・南部・沖縄などのものだったはずだ。弥生後期から終末期の外来土器がたくさん出土しているが、後期の肥前型器台がこの時期かもしれない(大塚遺跡6、福岡市埋蔵文化財調査報告書1185、2013年、p.124)。そこで環濠集落の外にも集落群を建設して(青木遺跡・谷遺跡など)、この地区が都市に発展したのもこの時期ではないかと考えている。

「魏志倭人伝」にあるように師升王から7・80年は一族が伊都国で王として倭国を支配していたが、後漢王朝の内部抗争の影響で半島支配が弱まり、濊人・韓人が暴れたので、楽浪郡と倭との交易に支障が出た。すでにクーデターを逃れて出雲・吉備などで力を付けていた旧奴国王族がこの頃に倭国と抗争を始めた。第一次倭国大乱だ。

この大乱で最も活躍したのはスサノヲ直系の狗古智卑狗(ククチヒコ)だった。スサノヲの子イタケルから直系の出雲・丹波王が代々ククチヒコと名乗ったようだが、その配下の縄文系ムナカタ海人族を使い、半島南部の鉄素材を沖ノ島経由で入手して鉄製の武器や農工具などを作り、旧奴国王族に配布していた。勢力を蓄え、師升一族の倭国に対抗できるまでになったようだ。倭国の南側の菊池に軍事拠点として鍛冶工房の集落を造り、鉄鏃を大量に作って筑後川周辺の倭国の領域を荒らしたものと考えている。開発したククチヒコの名に因み「菊池」という地名となったのだと思う。

その後、遼東太守公孫氏が半島に進出して混乱を収め、204年に帯方郡を設置して倭国との交易が正常化したと考えられる。そこで勢いを取り戻した倭国王である伊都国の男王は、旧奴国王族の勢力拡大を抑えるために不弥国(うみこく)のムナカタ海人族を懐柔し、野麻国(やまこく、宇佐市安心院町下毛字三柱山「三女神社」)に疎開していたムナカタの姫巫女「卑弥呼」を女王に立てた。それによって、九州東部から中国西部・四国を含む領域が倭国に加わった。敵対する東側の旧奴国王族へ鉄素材供給を阻止した。

そこで狗奴国王卑弥弓呼(スサノヲの弟で吉備を平定し奴国大王位を継承した天照大神尊ニギハヤヒの直系の大王)が纏向に旧奴国王族を集め、政治都市を建設した。各地の首長クラスが集まり、倭国懲伏の祈祷を盛んに行って倭国攻略の軍議をしていた模様だ。大型建物が見つかっている(【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!)。

238年に公孫氏が魏に滅ぼされた。魏はライバルの呉に圧力を加えるために東夷の大国である倭国の朝貢を促した。政治の実権を握っていた伊都国男王は魏を後ろ盾として倭国を統治するため、早速、大夫難升米らを派遣した(孫栄健さんは「決定版 邪馬台国の全解決」(言視舎 2018,pp.300-302)で難升米と伊都国男王は同一人物だと指摘しているが、そうかもしれないね(^_-)-☆)。魏は親魏倭王の金印などを女王卑弥呼に与えた。男王は魏の朝廷の興味を惹くために、魏使梯儁には、邪馬台国を呉の東方海上に置くためのつじつま合わせの行程を教えたのだろうね(【新説】邪馬台国はここだ!)(^_-)-☆

男王の策略どおり魏との外交は大成功だった。伊都国の男王は女王に逆らうヤマトの旧奴国の勢力をバカにして犬コロの奴国の意味の「狗奴国」と呼んだのだ。卑弥呼が鬼道によって倭国を統治する女王と考える方が多いようだが、実際はシャーマンとして太陽神のお告げを男王に伝える巫女なのだ。これも魏の朝廷の興味を惹くために女王という肩書を男王が魏使に報告させたものと推理できる(注3)。

チョットおさらいが長くなったが、ヤマトがようやく倭国追討軍を送るころ、247年の日食で卑弥呼が殺された。狗奴国の倭国追討軍の構成は纏向の外来土器の分布から、尾張王が主将で、出雲・丹波や近江・北陸の勢力が中心のようだ。卑弥呼の後に尾張王が倭国王に立ったのだが、出雲・丹波王ククチヒコらが承服せず、内戦になって千人くらいが死んだ。結局ククチヒコが尾張王を殺し、ムナカタ族の姫巫女で13歳の台与を女王に立て、倭国を治めた。ククチヒコは邪馬台国連合倭国に加えて日本海沿岸部などを版図にしたので、後世「大国主」と呼ばれたのだ。大塚遺跡の外来土器に山陰系の土器などが数多く見られるのはこの頃のことだろう。

265年に魏王朝を乗っ取った司馬懿の孫の司馬炎が晋を建国した。すかさず台与は朝貢し、後ろ盾とした。狗奴国ヤマトはこのままでは倭国に呑みこまれるので、恐らく呉を後ろ盾としたのではないかと考えられる(呉が魏についた倭国と対抗する勢力を味方にしようと活動していた記録があり、その頃作られた呉鏡も近畿以東で見つかっている)。ククチヒコ・台与の裏切りと尾張王殺害の復讐で再度倭国に追討軍を送ることになる。鳥取の大量虐殺事件はこの時期に起こったのだ(【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?(;´Д`))。

倭国追討軍を二手に分けた模様で、尾張勢が大分方面から攻め、河内・播磨などのヤマト勢は玄界灘沿岸部から攻撃した模様だ。尾張勢は豊後大野で待ち構えていたククチヒコ軍に撃退され、西都原に南下して人吉から島原半島南部・阿蘇・菊池を攻略し、最終的に高良山に立て籠もるククチヒコが戦死した。恐らく、高齢の父の大国主ククチヒコと共に戦っていた台与との間の子ホムダワケ(250年頃に生まれたから280年頃応神天皇として即位したのが30才くらい。台与が西晋に朝貢したのが266年だから16才から30才の間だ。)は有明海から小舟で南九州に逃亡したのだと関裕二さんは推理している。さらに多分台与が立て籠もっていた吉野ヶ里が尾張勢に陥落させられそうになったので、台与は背振山を越えて今宿五郎江に逃げて立て籠もったのではないかな。しかし、ヤマト勢が押し寄せて、ここも陥落し、台与も戦死した。ホムダワケも台与と同行していて、台与が亡くなったので小舟で脱出したのかも知れない。

ついつい想像を逞しくしてしまったが、図1の今宿五郎江・谷遺跡で銅鏃が出土した地区記号を赤枠で囲った。弥生後期の北部九州や日本海沿岸部などは比較的鉄が豊富なので戦闘用には鉄鏃を使用していると考えられる(注7)。なので、そこで出土する銅鏃は外来(東部瀬戸内・近畿・東海)のものだと推理できるのだ。大塚遺跡の図2Ⅳ地点でも鉄の鍛冶工房が見つかっている(森本幹彦「今宿五郎江・大塚遺跡」[西谷正編「伊都国の研究」]学生社,2012,p.226)。また銅鏃は溝やその付近から出土しているので外部の敵が矢を打ち込んできた戦闘の痕跡と考えてよいと思う。

ということで東側から河内などのヤマト勢が押し寄せた痕跡が図1のJ地区の環濠で出土した柳葉型有茎銅鏃だ((注4)に示す大阪市平野区長原遺跡、橿原市四分遺跡、姫路市長越遺跡出土の銅鏃に似ている)。図1のI地区の環濠からは吉備物部勢(倉敷市上東遺跡出土の逆刺型)や河内物部勢(八尾市亀井遺跡出土)と思われるものなどが15本も出土しているのだ。外来土器についても前述のとおり、弥生後期後半から終末期の近畿西部系の器台や古墳時代初頭の布留式系の甕などが出土しているのでこの時期にヤマト勢が押し寄せた証拠になると思う。



環濠の外側の図2のⅡ地点の「遺構の時期は弥生終末期前後を中心とする。ⅢからⅣ地点の集落域も当該期に成立するものである。環濠の埋没が進む弥生終末期前後には中心集落域の拡大(Ⅰ・Ⅱ地点)と、分村(周辺集落)の増加(Ⅲ~Ⅳ地点)がみられるのである。これらは古墳時代前期前半を最後に一度衰滅するが、その背景には列島規模での拠点集落の再編を指摘するむきもある。(森本幹彦,前掲書,pp.220-221)

この第三次倭国大乱で、ほぼ100年続いた日本建国に関わる騒乱の時代が終了した。ヤマト勢の吉備または河内の物部氏が北部九州を占領支配したために、多くの拠点集落の再編が起こったと考えられるのだ(注5)

これによって伊都国の対外交渉窓口・対外交易センターが閉鎖されて、代わりに東側の西新町遺跡を新たに対外交易センターとした模様だ。福岡市早良区の砂丘上にあり、弥生時代前期から人々が生活していたのだが、3世紀後半から4世紀初頭の古墳時代前期の半島から渡来した人々の集落跡が見つかっている。半島系特有の両側に耳が付いた甕などの土器が出土している。またそれまで日本にはなかった『食事のための煮炊きをしたり暖をとったりするための「炉」や「カマド」竈(かまど)』のある住居跡が見つかっている(注6)。

では、なぜ伊都国をそのまま対外交易センターに使わなかったのだろうか?

一応、謎じゃないのかな?

博多に近い方に移した方が便利だから?

ブッブ~

やはりニギハヤヒを祖とする物部氏が作ったヤマト政権にとって、伊都国は恨みのある裏切り者の元楽師「師升」が都とした地域だから、縁起が悪いと考えたからだろうか?

それもあるかもしれないが、本当は怖い七福神の謎(;一_一)で推理したとおり、やはりヤマト政権が神功皇后台与を殺してしまった事実は当時のヤマトの人々にとって大きな心のキズとなり、精神的な負担になったようなのだ。つまり高貴な方が恨みを持って亡くなったら祟ると考えたからだ。それによって地震や津波や火山噴火や台風や疫病などが起こると当時の人々は考えた。台与は平原王墓に手厚く葬られ、台与の亡くなった伊都国から離れた場所に対外交易センターをつくったのだと考えられるのだ。そういえば戦死した大国主ククチヒコにもピラミッド状の立派な祇園山古墳が造られ丁重に葬られた。後に筑後国一之宮高良大社が創建されいている。祭神を高良玉垂大神としているが、地名が久留米市御井=「巳(ミイ)」だから大国主大神だとすぐに分かる。しかし、殺した敵の大将をこれ程丁重に扱う国は日本以外で他にあるのだろうか?

現代人はそんなの迷信だと言うかもしれないが、天罰を怖れていた古代の人々の方が、怖いもの無しの占領憲法で汚染された無神論の日本人よりも人間としてはまともですよね。

【参考記事】
古代史の謎を推理する(^_-)-☆




(注1)石丸あゆみ「朝鮮半島出土弥生土器から復元する日韓交渉」東大考古学紀要(25),(2011,p.65)によれば、「この時期に原ノ辻が交易の拠点となり環濠集落が成立する。勒島においてもこの時期に弥生土器が最も多い。」

久住猛雄『「博多湾貿易」の成立と解体・再編』第20回加耶史国際会議 金官加耶の国際交流と外来系遺物,2014,p.5 によれば「中期末以降に楽浪人が三雲遺跡群(伊都国)に居住し、「政治的な交渉」が行われたことを指摘する。→「原の辻=三雲貿易」(久住2004)へ。
「「原の辻貿易」ではおもに北部九州の倭人が活躍し・・・瀬戸内・畿内への物資のもある程度制御していた」
→後期も楽浪土器・三韓土器がともに多い原の辻が「交易機構」の中心とするが、楽浪土器は北部九州に徐々に広がることに注意する(逆に三韓土器は広がらない)。また楽浪土器の機種変化にも注意。後期後半には楽浪との交渉が政治主体から交易主体に変化した可能性を指摘。さらに、楽浪人は西日本の交易機構に大きな変革を迫ることなく、・・・・それを利用することで交易を」成立させたとした。」

後期後半は第一次倭国大乱の時期なので、伊都国男王が交易をコントロールできていないことを言っているのだろう。この混乱の時期でも華僑は列島と交易していたということか?

(注2)帯方郡との交易で勢力を盛り返した伊都国男王が菊池を攻めて、ククチヒコが戦死したのではないかと考えている。これに動揺した九州東部のムナカタ海人族が伊都国男王に懐柔されたのではないかと思う。このククチヒコは大国主の先代だが。

(注3)西晋の官吏陳寿に「魏志倭人伝」の中で邪馬台国へのいい加減な行程記事を書かせたのは、邪馬台国が江南の呉を圧迫する東方海上に位置に在るとしたいためのつじつま合わせなのだ。魏使にそのような報告書を書かせたのは、元々は伊都国の男王だったと見ていい(詳しいことはシリーズ【新説】邪馬台国はここだ!(その1~5),シリーズ 邪馬台国 水行陸行の謎?(その1~6最終回)を参照)。

2世紀初頭に奴国の宮廷楽師師升らがクーデターを起こし、第18代国王素戔烏尊(スサノヲノミコト)を殺して倭国を乗っ取り、奴国王に替わって支配権を得たことを後漢に承認してもらうために107年に朝貢したものと推理している。

「魏志倭人伝」に「其(そ)の国、本亦(ま)た男子を以って王と為す。住(とど)まるところ七、八十年、倭国乱れて、相攻伐すること年を歴(へ)たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰(い)う。」と書かれたが、年代を考えると范曄の「後漢書」原本に書かれたと思われる師升王の「倭面土国」は「倭の回土(ヱト、weitu)国=伊都国」が正解だったようだ。つまり伊都国男王は師升王の後裔と言うことになる。

(注4)銅鏃の型式分類


(注5)527年ヤマト王権に反抗した筑紫の磐井は千年村プロジェクト岡山県に磐井郡磐井郷の地名があることからこの時期に筑紫を占領した吉備出身の物部一族だと思う。岡山市北区三門に祭神を大国主命とする國神社があり、そこの氏子が岩井だった。厳井という地名も使われているようだ。その東の方の備前市麻宇那にかわいい磐井神社が祇園神社とペアで並んでいた。祇園神社の祭神はスサノヲだが、大国主の墓が祇園山古墳だったのなら真の祭神はスサノヲ直系の大国主だったのかも。とすれば、大国主ククチヒコを殺したのは吉備物部の磐井一族だったのではないだろうか?ちょっと古代妄想気味かな?でも、吉備の磐井郡磐井郷はどちらかだろうね(^_-)-☆

(注6)渡来人ということで通説では韓国人またはその先祖と考えているようだが、前にも指摘したとおり間違いだ。半島南部は江南出身の倭人・越人や列島出身の縄文人が支配していたので、彼らが列島に渡来して外来文化を伝えたと考えられる。倭人の言葉を話さない韓人・濊人が日本に渡来して文化を伝えたとは考えにくいからだ。現代韓国人の男性のルーツだが、Y染色体DNAから、8割以上が中国大陸由来の人々でありシナ語を話していた(秦の圧政から逃亡した陝西語を話す人々やその後の大陸の戦争難民だろう)。韓国人が祖国の英雄と考えている広開土王などのツングース系北方アジア人をルーツとする男性は1割以下しかなく、ほとんどの男性が中国大陸由来なのだ(半島人はシナに任せろ!(^_-)-☆

(注7)井尻B遺跡出土の銅鏃鋳型について、 青銅器鎔范残欠(井尻B遺跡出土)に記載されているが、戦闘用の銅鏃としてはサイズが大き過ぎて実用的でないようなので、祭祀用ではないかと考えられる。

また、この頃の銅鏃鋳型の出土例が全国で5例しかないとあるが、すべて奴国の領域で在ることを考え合わせると、奴国の領域以外の戦闘用などの実用品として使用する銅鏃の鋳型はほとんど(注4)25に示される連鋳式になっていたので、製造のたびに鋳型を破壊して取り出していたのではないかな(^_-)-☆

なお、夜須町ヒルハタ遺跡の鋳型は一枚の石に5面それぞれ別の鋳型が彫られている極めて特殊なものだった。五面鋳型解説によれば、銅鏃は2個連鋳式だし、戦闘用に作ったものではないようだね(*^▽^*)

さらにネットで調査したところ、以下のとおり鳥栖市・藤木古墳で銅鏃鋳型が見つかっていたが詳細は不明だ。
鳥栖市・藤木遺跡 弥生時代後期の青銅器の鋳型出土
2014-06-12 04:54:43


 鳥栖市教委は6日、同市藤木町の藤木遺跡から弥生時代後期(西暦50~100年)の小型青銅器をつくる石製鋳型4点が出土したと発表した。
 ①輪型の銅釧用鋳型(破片) 1点 (福岡県など3府県で出土例がある)
 ②ほぼ完全形の銅鏃用鋳型 2点 (福岡県で出土例がある。 1点は祭祀用の矢じりか)
 ③装身具の銅釦(どうこう)用の鋳型 1点 (全国初)



【付録】日本列島の土器編年併行関係表と年表

(左クリックで拡大)


通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

「黄幢がなぜ難升米に?」全ての謎を解くヒントでした!(^_-)-☆

2021-11-22 00:35:50 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング


とても分かりやすい動画をアップしていただき感謝します。
何故、大夫難升米に詔書と黄幢が渡されたかという疑問が、魏志倭人伝の謎だけでなく、日本の建国の謎を解く鍵ですよ。

黄幢は魏の正規軍の軍旗ですから、難升米は倭国の軍事を掌握する人物、つまり卑弥呼の政治を輔佐する男弟という設定の伊都国男王だと分かります。恐らく刺史のような一大率というのは、その役職を説明したもので、実質上の倭国王だったと考えていいと思います。

卑弥呼は247年に帯方郡に使いを送っているわけですから、それを受けて二人目の魏使張政が到着する前に卑弥呼が死んでいたとあります。卑弥呼が死んだので難升米に授けたのではなく、その二年前にすでに魏の朝廷が難升米に与える詔書と黄幢を帯方郡に仮授させています。ですから、最初から魏は大夫難升米を倭国の本当の王と見ていたと考えられます。これは非常に重要です。

ここから芋ズル式に謎が解けました。勿論卑弥呼の墓も発見できました。詳しくはブログにしましたので「刮目天のブログ」にお越しください。単なる推測の話ではなく論理学の第三の推論法と言われるアブダクションを採用して蓋然性の高い仮説を導き検証しています。「古代史を推理する」に解説していますので、これも是非お読みください。よろしくお願いします。


推理のつづきです。

卑弥呼が人前に出ない王ということにしていますが、そのような女王はシナ人にとってとても不思議な存在と感じるはずです。卑弥呼の名前の音から、日の巫女、太陽神に仕えて、神託を倭国の男王にもたらす役目と分かりますから、魏志倭人伝では倭国を鬼道で統治する女王としていますが、これは明らかに潤色と考えられます。

つまり、前編の動画でご指摘のとおり、魏志倭人伝は西晋宣帝司馬懿の倭国に朝貢させた功績を曹真の功績を上回るものとして伝えていますが、それは西晋の史官陳寿が勝手に創作したものではありませんから、女王の件も陳寿の潤色ではありません。陳寿は宮廷の書庫にある魏使の報告書、その他の先行文献に基づき、邪馬台国への行程記事や倭の国々の情報を記述しています。

ですから、司馬懿は238年8月に公孫氏を滅ぼして、自分の功績を曹真を上回ることにしたいと考えて、先帝が配置した帯方郡太守に代えて部下の劉夏を派遣し、倭国王難升米を懐柔して都合のよいように作らせた話と考えると、謎は全て解けます。

過大な水行1月・陸行1月や邪馬台国の戸数七万戸など合計約十五万戸というデタラメな戸数や郡から万二千里、洛陽から万七千里などというべらぼうな里数などをどう解釈しても邪馬台国にはたどり着けないと分かります。卑弥呼が千人の侍女に囲まれて大都市で生活する女王というのも、魏の朝廷の人々の注目を集めるための誇大宣伝です。倭国のことを魏のライバルの呉を挟み撃ちにする戦略上重要な位置に在るエキゾチックな東夷の大国と思わせて、そのような国に朝貢させた司馬懿の功績は曹魏第一等のものだと理解させるのが司馬懿の狙いです。難升米王はそれに協力し、倭国の国名や人名、里程などの情報を書いて教え、魏を後ろ盾にして狗奴国を抑える狙いがあったと思われます。

従来、国名や人物名に当てられた文字は漢字を書けない倭人から発音を聞いて、魏の役人が書いたというものというのが通説になっていましたが、最近、伊都国で硯が使われていたことや、すでに奴国の雀居遺跡で木製の組み机が出土しており、倭国の中枢では漢字を読み書きする人物が居たと分かってきました。

これによって、従来倭人は漢字が分からないとして無視されていた、漢字で延光4年(125年)と書かれた室見川銘板が、伊都国を王都とした倭国王師升か次の王が作らせたものだったと分かりました。日本で作られた最古の金石文となります。

ここから、難升米が師升王の子孫であることも分かるのです。

難升米が書いて教えた伊都国は、他の卑字で書かれた国名や人名から考えると素晴らしい意味があります。殷(商)王朝初期の政治家伊尹(いいん)に因む名前です。伊尹は放蕩だった主君を追放した人物だったことが孟子・尽心上篇に書かれています。

実は師升王は奴国の宮廷楽師だった人物だと師姓から分かります。クーデターで奴国王を殺し倭国を乗っ取った人物だと推理できます。107年に後漢安帝に160人もの生口を献上したのは「漢委奴国王」の金印が手に入らず、倭国王と認められるために奴国王の部下を安帝に献上したものだと分かります。金印はクーデターを逃れた奴国王の部下安曇族が志賀島に隠したのです。そして、そのような事件があったことは奴国を奈良時代に儺県(なのあがた)としたことから分かります。儺は「鬼やらい」を意味します。難升米の姓は金印で、倭のにんべんを略して委と書いた流儀から考えると儺升で、奴国王を追放した師升の子孫を意味します。米は名です。

そして何と、最後の奴国王が高天原を追放されたスサノヲだったと分かり日本の誕生の謎が解けます。第64代円融天皇が、984年東大寺の僧奝然(ちょうねん)に「王年代紀」などを持たせて宋に遣使しました。その「王年代紀」に奴国初代王が天御中主、それから二十三代王彦瀲尊(ひこなぎさ)まで筑紫日向宮を都とし、彦瀲尊の四男神武天皇が大和の橿原宮に遷したと書かれています。

第十七代王伊弉諾尊、第十八代王素戔嗚尊、第十九代王天照大神尊と書かれています。記紀神話で高天原を追放されたとされたのは、奴国大王スサノヲだったのです。ですから、次の天照大神尊はクーデターを逃れたスサノヲの弟で、吉備を平定し奴国を再興してヤマト王権の基礎を築いた饒速日尊(ニギハヤヒ)のことだと分かります。記紀神話のアマテラスは藤原不比等が、天武帝の皇后鵜野讃良(持統天皇)が皇位を簒奪したことを正当化するために創作した女神だと分かりました。

正史は権力者がその権力を維持するために書かせるものです。

この後は、以下の記事をお楽しみください!

日本書紀は藤原氏のための歴史書でした!



【関連記事】
【刮目天の古代史】古代史を推理する
【刮目天の古代史】仮説を検証する(^_-)-☆
【刮目天の古代史】謎を解明する!(^_-)-☆


最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング