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【検証1】佐賀に近江の土器が?(^O^)/

2020-03-30 14:25:21 | 古代史
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この記事は2017-01-11 22:24:00に掲載した内容に追加し修正して、少しだけ読みやすくしたつもりです。疑問点などございましたらコメントください。どうぞよろしくお願い致します( ^)o(^ )

弥生終末期の動乱に迫る「外来系土器」

 吉野ケ里遺跡(神埼市郡)で出土した「外来系土器」のルーツの解明が進んでいる。他地域から持ち込まれた土器は「畿内系」などと推定していたが、地域が具体的に絞られてきた。同遺跡は、九州では珍しい「前方後方墳」も存在するなど、弥生終末期には他地域の政治・文化の影響を強く受けていたとみられる。県文化財課は「交流を調べることで、弥生から古墳時代へ移り変わる動乱期の実態や前方後方墳の謎に迫れるかもしれない」と期待している。
 7月下旬に吉野ケ里歴史公園で開かれた考古学者約70人の研究会で、複数の学者が型や文様、発色などから外来系土器の具体的な地域を判定した。同遺跡で出土した外来系土器は約190点。これまでは畿内系、西部瀬戸内系など幅を持たせて呼んでいたが、今回の研究会で十数点の出自が特定された。
 県文化財課が「畿内系」としていた「手あぶり型土器」は、滋賀県守山市周辺で出土した土器と同型であることが判明。県文化財課は「土器に使われた土が吉野ケ里とは異なる。何らかの交流があったのは間違いない」とする。



手あぶり型土器(同記事より)

 吉野ケ里の南内郭で見つかった4基の前方後方墳は、弥生終末期に出現。甕棺(かめかん)や石棺(せっかん)で埋葬していた吉野ケ里で、なぜ近畿でよく見られる前方後方墳が造られたのかは明らかになっていない。県文化財課は「『墓制』が変わるということは、集落にとって非常に大きな変化。当時の守山市の集落との関係を調べることで、何か分かるかもしれない」と解明に期待を寄せる。
 守山市文化財保護課によると、吉野ケ里の手あぶり型土器は弥生終末期から古墳時代初頭に作られたとみられる。「関東では、前方後方墳の発生とともに手あぶり型土器が流入している。両者は文化的にセット関係にある」と説明。「九州北部でも、近畿の文化要素が波及したのでは」とみる。
 このほか、奈良県地域の土器と考えられていた庄内甕は、福岡市付近で作られたと特定。瀬戸内地域産とみられていた加飾つぼは、岡山市付近の土器と同型であることも判明した。吉野ケ里遺跡にさまざまな地域の土器が持ち込まれているが、吉野ケ里から何が見返りとして持ち出されたのかは分かっていない。

 県文化財課は「弥生から古墳時代に移り変わる当時の状況はよく分かっていない。外来系土器のルーツを手がかりに、交流があった地域との関係を詳しく調べたい」としている。

 ■外来系土器 他地域で作られたものが持ち込まれたり、それを模倣して作られた土器。他地域の年代を並行的に調べることができるほか、物資や人々の往来を知る手がかりとして注目される。吉野ケ里遺跡では朝鮮半島や北九州、近畿などさまざまな地域の土器が出土しているが、これまで詳細な絞り込みはできていなかった。
(2013年08月26日更新 佐賀新聞)


外来系土器は各地の人の動きが分かるから、古代史の解明のヒントを与えるのだ。

また前方後方墳は三世紀前半に築造された東近江市の神郷亀塚古墳が最古級として知られており(注1)、そこから東海などに波及・分布している。このような古墳で埋葬される人物はかなり高い身分だから、手あぶり型土器が前方後方墳とセットで見つかるということは近江の支配者・首長あるいはその親族・将軍らが吉野ヶ里遺跡を占領したようだ。

三世紀初頭に奈良盆地の三輪山麓に突然出現した政治都市の纏向遺跡で出土した外来系土器は以下のようになっている(【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-☆)。

纏向に北部九州から来た土器が見つからない。

このことは邪馬台国大和説が間違いである端的な証拠だった。何故ならば「魏志倭人伝」では一大率を伊都国(福岡県糸島市)に置いて、女王国より北の諸国の検察させたとある。もしも邪馬台国が纏向にあったというなら、この時期に北部九州の土器が纏向遺跡である程度の量は見つからねばならないからだ。

だが北部九州の倭国と交流した痕跡がない。

逆に、北部九州に大量に近畿の土器などが出土しているということは北部九州の倭国が纏向ヤマト勢によって一方的に攻撃されて滅ぼされたことを示すものだ
(注2)。

この記事のように佐賀県の吉野ヶ里遺跡で近江の手あぶり型土器(注3)が見つかったということは、図の纏向3式(250-280年頃)の頃に近江の土器が出土しているから、纏向に集まった近江勢が吉野ヶ里に攻め込んだことを示している。

その頃に福岡で作られた近畿の様式の土器(庄内甕)が出土しているので、纏向ヤマト勢が北部九州の倭国までやってきたのだろう。纏向の外来系土器の半数近くを占めるのが東海勢、次いで山陰・北陸勢、河内勢、近江勢、そして関東勢などだから、纏向ヤマトの倭国遠征軍は纏向に集まったこれらの勢力と纏向在地の勢力との混成と考えてよいだろう。

「魏志倭人伝」にあるとおり、狗奴国と敵対する倭国女王卑弥呼が魏に援軍要請の使者を送ったが、247年に帯方郡からは国境守備隊の役人張政が魏の皇帝の詔書と正規軍の黄色い旗だけを持って倭国にやって来て難升米に渡した。だが、卑弥呼はすでに死んでいたとあるから、詔勅も直接卑弥呼にではなく、難升米に渡したのだ。難升米は倭国の軍事を預かる人物だから卑弥呼の補佐役の男弟であり、刺史のような一大率であり、伊都国男王であり、本当の倭国王だと推理できる(孫栄健「邪馬台国の全解決」言視舎2018,p.322)。

また「魏志倭人伝」には、女王卑弥呼に替わって男王が立ったが、国中がそれに服さず戦闘になって千人ほどが死んだとある。そして卑弥呼の一族の13歳の台与を王として立ててようやく混乱が収まったとある。

そこで、女王卑弥呼の後に狗奴国王が倭国の王に成ろうとしたのであれば、倭国はそれに服さず戦闘になるのは当たり前すぎる。狗奴国は倭国と元々対立していたのだから国中つまり倭国の人々が服従するいわれは無い。だから外来系土器から分かるように狗奴国が倭国を占領したということなので、当然、倭国の人々は服従せざるを得ず、この表現は全く不自然なのだ。

内乱の後に台与を女王に立てたのは倭国の人々ではなく、

倭国を占領した狗奴国勢の中で仲間割れが起こり内戦となって、

結局その勝者が少女台与を女王にして収まったということなのだ。


そうすると台与は、狗奴国に属さない少女なら女王に立てられるはずもなく、台与が「魏志倭人伝」のとおり卑弥呼の一族だとすれば、卑弥呼も元は狗奴国に属していた人物だったはずだ。それよりも前の三世紀初頭に倭国王が狗奴国に属する勢力の一部(ムナカタ海人族)を懐柔して卑弥呼を女王に立てたということになり、卑弥呼は狗奴国を裏切った勢力だったと推理できるのだ。

その狗奴国こそ纏向ヤマトのことだと外来系土器と「魏志倭人伝」から分かるのだ。【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚)

倭国を占領した纏向ヤマトの狗奴国勢だが、最初男王に立ったのは倭国遠征軍の主将を務めた人物で、それに服さなかった遠征軍内部の勢力との間で内乱が起こったと考えられる。倭国王難升米はすでにどこかに逃亡して倭国を纏向ヤマト勢が占領した後の話なのだ。

関裕二さんは「日本書紀」の仲哀天皇の熊襲征伐がこの史実に対応する話だと見抜いた。仲哀天皇は纏向ヤマトの大王で、台与が近江・越の女王神功皇后と推理した。仲哀天皇は神を信じないために突然死んだ。天皇に祟りを与えた神が住吉大神だった。住吉大社の伝承では天皇のもがりで住吉大神が皇后と夫婦の密事を交わしたとあり、モガリの場には常に皇后に寄り添っていた白髪の老人武内宿禰が居た。住吉大神の正体は武内宿禰で、応神天皇の本当の父親だと真相を暴露した話だったのだ。

纏向の祭祀が吉備のものを踏襲していることから纏向ヤマトの大王は吉備から来たと考えられる(【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*))。二世紀中頃に吉備を平定したのがニギハヤヒ大王で、奴国の宮廷楽師らのクーデターで殺された最後の奴国王スサノヲの弟天照大神尊と推理した(「宋史 王年代記」、日本ピラミッドの謎?( ^)o(^ ))。

纏向ヤマトの大王は「魏志倭人伝」から狗奴国王の卑弥弓呼であり、「先代旧事本紀」からニギハヤヒ直系の物部氏の祖と考えている。仲哀天皇は卑弥弓呼大王の命を受けて倭国遠征軍の主将を務めた物部氏と同族の尾張王のことだと考えた。上で述べたとおり、もしも仲哀天皇が纏向ヤマトの大王であったならば、纏向ヤマト勢は大王の臣下であるので倭国占領後に男王として立つまでもないし、内乱が起こるはずがない。纏向ヤマトの大王でない人物が倭国王に立とうとしたから内乱が起こったと考えるのが自然だ。従って、纏向遺跡の外来系土器土器の約半数を占める東海の尾張王が倭国遠征軍の主将だと推理した。

そして、尾張王(仲哀天皇)と対立したのは山陰・北陸・近江の勢力であり、近江・越は神功皇后のモデルとなった台与の勢力範囲だったので、武内宿禰が、台与を女王に立てて倭国王となった狗奴国の官で出雲・丹波王狗古智卑狗だと推理した(狗古智卑狗という人物?(^_-)-☆)。台与と卑弥呼は日本海沿岸部を支配し半島南部を活動圏に置いていた縄文海人ムナカタ族の姫巫女だということだ。結局、狗古智卑狗は当時の列島主要部をほとんど版図とする倭国を支配したので後世に出雲の大国主と呼ばれた人物なのだ。

殺された尾張王(仲哀天皇)の墓は、九州で最古級の前方後方墳である鳥栖市の赤坂古墳だと推理した(注4)。女王台与を「日本書紀」では仲哀天皇の皇后のモデルとしたのは、近江と尾張は親密な関係で、婚姻関係もあったからではないだろうか。東海が近江の墓制である前方後方墳を採用していることから分かる。



【参考記事】古代史の謎を推理する(^_-)-☆




(注1)神郷亀塚古墳は乎加(おか)神社の社地にあり、「豊遠迦比売命(豊岡姫命)を主祭神とし、白山比売(白山比咩神)を配祀する。」とWiki にあった。豊岡姫命と言っているが、ここでも台与を祀っていた(本当は怖い七福神の謎(;一_一))。やはり台与は近江が出身地だと思う。つまり近江の豪族息長氏の祖である神功皇后(おきながたらしひめ)のモデルが台与ということだろう( ^)o(^ )

(注2)福岡の庄内甕については、福岡市博物館のアーカイブNo.305[平成19年9月4日(火)~平成20年1月14日(月祝)]に以下の記事ある。
人が集い モノが集う
(途中省略)
奈良盆地では庄内式土器とよばれる、非常に薄手で軽い甕が作られました。この奈良盆地産の庄内甕は単に福岡平野に持ち込まれただけでなく、在地の土器作りにも影響を与え、庄内甕とよく似た甕が作られるようになりました。
この頃に纏向ヤマト勢が福岡をはじめ北部九州を占領し、在地の人々とも交流したということのようだ。

(注3)写真の手あぶり型土器は滋賀県斗西(とにし)遺跡の斗西Ⅲ期(250-300年、庄内新式に対応)の鉢がベースだと思われる(植田文雄「【前方後方墳】の謎」学生社2007,pp.33-43)。

(注4)植田文雄さんは吉野ヶ里遺跡の4基と赤坂古墳もすべて4期(270-300年)の前方後方墳としているが(植田前掲書p.124)、手あぶり土器は3期(250-270年)に見られるとあり(植田前掲書p.122)、近江の首長や一族の将軍が使用するものであり、吉野ヶ里のものは3期の可能性がある。

3世紀後半頃、吉野ヶ里遺跡全体を取り囲む環壕は、ほぼ埋没し、北内郭、南内郭とともにその機能が失われてしまったと考えられています。それと前後して、南内郭付近の丘陵部には4基の前方後方墳が築かれます。吉野ヶ里丘陵の南部一帯は、人々の生活する集落から、人が葬られる埋葬の地へと変化したようです。
吉野ヶ里に集まって住んでいた人々は、どこに行ったのでしょうか?
弥生時代の終焉と共に、どこかへと移り住んでしまったのでしょうか?
吉野ヶ里歴史公園「吉野ヶ里遺跡の終焉」 より)

台与と大国主が倭国を支配することによって吉野ヶ里遺跡は終焉したものと思われる。恐らく、奴国大王のスサノヲを殺した恨みのある師升一族と関連がありそうだ(倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`))。軍事的な意味もなくなったので、拠点集落は消滅させられたのだろう。

人が住まなくなった4期(270-300年)の吉野ヶ里遺跡に近江系の前方後方墳を造ることは考えにくいのだ。4基の前方後方墳は3期(250-270年)に築造された台与の近江勢のものだろう。

そうであれば、それらよりも古いと見られている赤坂古墳についても3期(250-270年)となるから尾張王(仲哀天皇)の墓だろう。



最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?(^_-)-☆

2020-03-24 14:40:55 | 古代史
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この記事は2018-01-04 14:34:24に掲載した内容に手を加えて少しだけ読みやすくしたものです。疑問点などございましたらコメントください(*^▽^*)

卑弥呼の墓は、すでに発掘されている!!
考古学者の森浩一は、福岡県糸島市の平原(ひらばる)古墳の年代が、卑弥呼の年代と重なる可能性を述べている(『日本神話の考古学』朝日新聞社刊)。               
  平原王墓発掘者の原田大六は、この墓を、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の墓とする。考古学者の奥野正男氏は、この墓を、卑弥呼の墓とする。吉野ヶ里遺跡の発掘で著名な高島忠平氏も、この墓が、卑弥呼の墓である可能性があるとする。古代では、後の時代でも、都の場所と天皇などの墓が遠く離れていることは、よくあることである。 平原王墓出土の青銅鏡の質と量とは、他の遺跡から、超絶している。 平原王墓からは、直径46.5センチに達する大鏡が五面出土している。      
  わが国では、弥生時代~古墳時代を通じて、約五千面の青銅鏡が出土している。その五千面ほどの鏡において、面径のトップ5は、すべて平原王墓というただ一つの墓がしめるのである。このような遺跡が、今後出現する可能性は、まずないといってよい。 平原王墓=卑弥呼の墓の可能性をさぐることからはじめるべきである。


Wikiによれば、『平原遺跡は弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓を合わせた名称である。 1965(昭和40)年1月、平原遺跡1号墓が偶然発見され、原田大六を中心に学術調査された。昭和63~平成11年度にかけて、1号墓周辺に調査範囲を広げて、最終的に5基の墳丘墓が発見されている。 この遺跡は「平原歴史公園」として、1号墓のみが墳丘墓として復元管理されている。 1号墓からは直径46.5センチメートルの鏡5面を含む鏡40面をはじめとして多数の出土品があり、その全てが「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で2006年、国宝に指定された(文化庁所有、伊都国歴史博物館保管)。』であり、遺構の配置や副葬品などは邪馬台国大研究ホームページ / 遺跡・旧跡めぐり / 平原遺跡に写真入りで詳しく解説されている。
(「内行花紋八葉鏡」写真は邪馬台国大研究ホームページより

この直径46.5cmの大鏡は、記紀神話での天照大神の岩戸隠れの際に、天照大御神自身を映して、岩戸の外に引き出した八咫鏡(やたのかがみ)と寸法がほぼ一致するものだ(注1)。

そして、瓊瓊杵尊(ニニギ)が天孫降臨に際し、天照大神からこの八咫鏡を授けられ、天照大神自身だと思って祀るようにとの宝鏡奉斎の神勅が下された鏡だ。なので、三種の神器のひとつとして宮中や伊勢神宮などに奉じられているとのことだが、誰もよく見たわけではないようだ。 平原王墓の八咫鏡は天照大神のシンボルなので、原田大六さんは卑弥呼の前の時代の天照大神の墓と考えた。

安本美典さんは卑弥呼が天照大神と考えて平原王墓が卑弥呼の墓と考えているようだが、刮目天は卑弥呼の墓をすでに特定しており、男性神の天照大神は当然アマテラス女神とは別人だから被葬者は卑弥呼ではない。以下に、詳しく説明しよう(^_-)-☆

神話は、一般にはその民族の太古からの伝承であると考えられている。しかし「記紀」等の日本神話は歴史的事実の反映とみられる部分もあると思われるが、編纂者が歴史的事実を知っていたような場合に、何故神話にしたか考えないと騙される。「日本書紀」は天武天皇が編纂を命じたのではあるが、720年の完成前に崩御されてしまった (686年)。

完成当時の権力者藤原不比等は不都合な日本建国の真相を隠し、優秀な皇子たちを排除して即位した皇后鵜野讃良(持統天皇)の皇位継承の正統性・正当性を主張するために皇祖神をアマテラス女神とする遠い昔の神代の話として創作したのだ。

編纂者らは「魏志倭人伝」を引用しているので日本の建国当時のことを理解していたし、神社や各氏族に伝わる様々な伝承を強権で集めて神話を創作し、ほとんど神話に沿った内容の神社伝承を残し、真相を隠すために祭神名まで変えさせたようなのだ。だから、「日本書紀」が完成した後に、その内容に不満を持つ人々もいたはずだ。先に完成したといわれる712年完成とされる古事記の序文は、後代の人間が書いたことが分かっており、歴代天皇の崩御年や神話についても日本書紀と内容が違っている。例えば「日本書紀」にない大国主の神話は真相を示唆したものなのだ。

実は「日本書紀」完成から260年も後になるが、雍熈元年(984年)、東大寺の僧奝然(ちょうねん)が宋の太宗に献上した『王年代紀』がシナの正史「宋史 日本国伝」に記載されている(「日本国」へ、八百年も掛かったのか?(;´Д`))。

その中で、記紀で神代とされた神武天皇以前に、初代天御中主(アメノミナカヌシ)として23代の王が筑紫の日向宮に居たことが明らかにされ、奴国王を指すものだとわかる。古事記でも最初の神は「天御中主神」ということである。「中」はナーガ=蛇を意味し、蛇神(龍蛇神)を祀る種族であるため、西暦57年に後漢光武帝より奴国王に与えられた金印の紐(つまみ)が蛇のデザインなのだ。このことからも初代奴国王だと分かる。さらにヤマト王権の発祥地纏向遺跡のある三輪山の「大物主大神(=大国主命)」も御神体は蛇であり、ヤマトを作ったことが日本書紀に書かれていることからも、「日本は古の倭の奴国」というシナの歴史書「新唐書」・「宋史」に見られる記述に間違いない。 高天原は奴国に王宮を置いた歴代倭国王が支配した福岡平野・筑紫平野一帯であり、大和との地名の一致と位置関係の対応があるので、間違いない(高天原は奴国だ!)。

また、持統天皇の和風諡号が「高天原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)」であることからも、「日本書紀」で高天原神話を作り、自ら皇祖神アマテラスとしたことが窺える。さらに、アマテラス女神や神武天皇を祭神とする神社はスサノヲや応神天皇を祭神とする神社と比べると、圧倒的に少ないことも皇祖神アマテラスが創作だということを支持している。 本当の天照大御神は 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒ)のことなのだ。 「王年代記」第19代奴国王天照大神尊ニギハヤヒで、師升らのクーデターを逃れたスサノヲ大王の弟で、吉備を平定しヤマト政権の基礎を作った人物だ。

さて、平原王墓の被葬者のことだが、卑弥呼の墓ならば「魏志倭人伝」に径百余歩とあり、直径150mほどの円形の墓ということであるが(注2)、平原王墓は12×10mの方形墳丘墓だ。元は土を盛り上げてあったようだが、江戸時代に削平して畑にした模様だ。だから、安本さんは2号墳から5号墳まで含む墓域全体が径百余歩だとしているが、東に長辺を持つ40×30m程度の方形状の墓域であり、円形状の墓域としても直径40m程度の円内に収まるから、径百余歩にはとても届かない。 また1号墳の墳丘の中に4.5×3.5mの土壙の中央に長さ約3m、直径約90cmの割竹形木棺(丸太を半分に割り、中をくり抜いて再び合わせた木棺)が置かれて、その内部が顔料で真っ赤に塗られており、夥しい数の玉類の装飾品だけが収められていたので、被葬者が女王であることを示している。

通説では弥生後期から終末期(二世紀から三世紀前半)ころの伊都国の女王の墓としているが、その時代は師升の一族が倭王として伊都国に居城を置いていた。このような豪華な副葬品から台与に匹敵するような女王であるはずだがその記録は残っていない。

また、弥生時代後期の北部九州では箱型石棺がよく見られ、それ以前は甕棺がほとんどであるが、平原王墓は方形周溝墓の中で上記のとおり割竹形木棺の埋納が検出されているのだ。この形式の木棺は、三世紀末から始まる古墳時代の初期に盛行した形式なのだ。通説では二世紀ごろの滋賀県野洲市の市三宅東遺跡に見つかっているとのことで平原王墓を弥生後期ころとする重要な根拠の一つにもなっている。だが、近江の様式がこの頃の糸島で見られるのは説明できない。北部九州の倭国が近江などと対立することは纏向遺跡の外来系土器に九州のものがほとんどないことから分かるのだ。

出土したのは全長3・5m、幅45-65cm、厚さ約4cm、高さ29cmの半円筒形に加工したスギ材。厚さが薄く、蓋と判断した。本体部分が未発見で、実際に人が埋葬された形跡はない。水分の多い水路跡にあったため、保存状態が良く、鑿など工具の削り跡も残っていた。野洲市・市三宅東遺跡 最古の割竹形木棺の蓋?)とあり、平原王墓の木棺の直径は0.9m、長さ3mと比べて長さは同程度だが、幅が少し狭いし、本体部分も見つかっていないので木棺の蓋なのかは確定していないと思う。

市三宅東遺跡で見つかる前までは、最古級は大阪府八尾市久宝寺遺跡1号墳の木棺だった。大和を中心に大型前方後円墳が続々と造営されつつある時期にあたる古墳時代初頭が築造期で(270~280年)、墳丘の形状も平原王墓と同じ方形周溝墓なのだから、平原王墓はこの時代のものだろう。

また、野洲川下流付近は玉つくりで知られており、平原王墓で発見された玉類を作る工房跡から工具類が発見されている(注3)。 「野洲川下流域は、原石を産出しないが、一大玉製品の産地でした。多くの遺跡で、玉つくりの痕跡を残しており、多くの人が玉つくりに従事していたようです。 原石を入手する強い政治力と経済力を持ち、玉つくりに必要な道具を作る技術を保有していました。多くの弥生遺跡の中でもユニークな存在だったと思います。」(守山弥生遺跡研究会)

つまり平原王墓の被葬者は近江・越の女王だった神功皇后=台与ではないだろうか?【検証1】佐賀に近江の土器が?(^O^)/) 宗像三女神のイチキシマヒメが卑弥呼、残りの二人(タゴリヒメとタギツヒメ)は大国主と結婚したという伝承があるので、卑弥呼の宗女台与のことだと考えている(注4)。

実は平原王墓の近く、糸島市三雲に御祭神として磐長姫(イワナガヒメ)・木之花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)という二柱の姉妹女神を祀る細石神社(さざれいしじんじゃ)がある。『社殿の背面にある「三雲南小路遺跡(文政5年(1822年)発見)の拝殿」であろうと地元民は云っている。』Wiki「細石神社」より)天孫降臨神話で瓊瓊杵尊が絶世の美女コノハナサクヤヒメを娶る際、父親の大山祇神(オオヤマツミ)が、姉で絶世の醜女?のイワナガヒメをセットにしたが、ニニギは姉を突き返したので、彼女は自分を娶っておけば妹の生む御子は不死だったのに、御子は短命となるだろうという呪いの言葉をかけたという伝説だ。卑弥呼がヤマト王権を呪ったイワナガヒメで、台与がコノハナサクヤヒメに、そしてニニギがスサノヲの直系の大国主命に対応するのではないだろうか。日向三代の神話の天孫降臨の場所は宮崎県高千穂辺りではなく、伊都国と奴国の間の高祖山とその南のクシフル山、さらにその南の日向峠付近であろう。

平原王墓の被葬者の股に日向峠から朝日が差すように安置しているが、原田大六さんは「実在した神話」(学生社)で以下のように述べている(p.145)。 『被葬者は生前においては、女の司祭者(シャーマン)であり、女の支配者(女王)であったことになる。このシャーマンである女王は、他界して神となった。いうまでもなく女神である。(途中省略)太陽も古代では神であり、男神と考えられた。ギリシャでは「ゼウス」であり、中国大陸では「東王父」である。この男神の霊と女神の霊の結合が、平原弥生古墳の神話の構成であった。女神は「太陽の子」をみごもった。だからその女神の子孫はすべて「太陽の子」として生まれてきたと神話は語るのである。このようにして、日本における帝王日子観は生まれたといってよい。』

もしもそうであるなら、卑弥呼に子があったことは記されていないから女神アマテラスでもなく、平原王墓の被葬者は卑弥呼ではないことになる。だが、宗女台与が神功皇后のモデルとなった人物なので、その御子は応神天皇であり、父親である太陽神は住吉大神(住吉大社の伝承)、つまりスサノヲの子孫である大国主命=三輪山の大物主大神ということになりすべての謎が解ける。

卑弥呼の死後に倭国を引き継いだ台与(神功皇后)と大国主狗古智卑狗(武内宿禰のモデル)が、ヤマト勢に追討されて、大国主は高良山に立て籠もって奮戦し、その間に台与と生まれたばかりの二人の間の子供(ホンダワケ=応神天皇)が筑後川を下り、有明海から南下して野間岬から大隅正八幡宮付近に逃亡したのではないかという関祐二さんの推理を当初考えた。だが今回の検証から、逃亡したのは母親神功皇后(台与)と別れたホンダワケだけで、女王台与も実は伊都国で奮戦し戦死して平原王墓に葬られたということになる。

平原王墓の木棺の周りに40面の鏡がほとんど破砕されて置かれていた。そして、被葬者の頭部の木棺の上に素環頭大刀が置かれていた。これらは死者の怨霊を封じる目的だろう。しかも、女性の被葬者の頭部に鉄刀を置いているということは女武者として大活躍した神功皇后の話と重なり、実際に台与女王はヤマト勢と戦闘して亡くなった事実を表しているようだ。

そして当時の人々は、ヤマト王権に対して恨みを持って他界した高貴な人物の祟りを最も恐れた。天変地異はそういう人物の祟りだと信じられていた。だから、後の文献「続日本後記」の承和十年(843年)4月の条と「日本三代実録」元慶元年(877年)7月の条にはヤマト建国の英雄で祟るはずのない神功皇后が祟ったので、山稜に使者が遣わされ篤く祀られたという記録が書かれている。

やはり、平原王墓の被葬者は卑弥呼ではなく宗女台与(神功皇后)だろう!(^_-)-☆

女王台与が何時亡くなったのかははっきりしないが、台与が晋に朝貢した266年以後で呉が滅んだ280年までの間だろう。崇神天皇は、ヤマト王権の後ろ盾が無くなり晋に滅ぼされるのを怖れ、南九州で逼塞していた親晋倭王台与の子ホンダワケをヤマトに呼び寄せ応神天皇として即位させたと考えている。 「日本書紀」崇神天皇五年に疫病がはやり、民が半数以上死んで世の中の乱れたのは大物主大神が祟ったとして大神のお告げにより、子のオオタタネコを呼んで祀らせたら治まったとあり、オオタタネコが応神天皇のことだろう。

また、彼女を埋葬したのはヤマト王権サイドだということも前述のとおり、怨霊封じのための副葬品から分かる。 神功皇后の陵墓に治定されている五社神古墳(ごさしこふん)は、奈良市山陵町(みささぎちょう)にある墳丘長267m、高さ27m(後円部)の前方後円墳であり、佐紀盾列古墳群を構成する古墳の1つであるが、実際の被葬者は分かっていない。4世紀の築造とされている。神功皇后の陵墓に治定される以前は垂仁天皇の皇后日葉酢媛命(ひばすひめのみこと、生年不詳 - 垂仁天皇32年7月6日)とWikiにあるが、どういう根拠でそうなっているのか不明だ。

邪馬台国大和説で箸墓古墳が卑弥呼の墓という説もあるが、大和岩雄さんは箸墓古墳は女王台与(ヤマトトトヒモモソヒメ)のものであるという推論をしている(「箸墓は卑弥呼の墓か」大和書房、2004,p.75)。刮目天は応神天皇が即位した後に母台与を箸墓に改葬したと考えている。

また桜井市外山(トビ)にある築造年代が3世紀末から4世紀初頭の墳丘長207m、高さ23mの前方後円墳である桜井茶臼山古墳(さくらいちゃうすやまこふん)は、平原王墓の後の時代の築造だが、同様な副葬品が収められただけでなく、破砕された銅鏡が81面分あり、古墳の後円部の空濠の外に、宗像神社があるので、最初、神功皇后を大和盆地で再葬したのかもしれないと考えたが、箸墓古墳が台与の墓と分かったので、応神天皇が本当の父である大国主狗古智卑狗を茶臼山古墳で改葬したのだろう。「トビ=蛇」を表す地名なのだ。隣に造られたメスリ山古墳には遺骸は葬られず大量の武器が埋納されている模様だ。大国主は奮戦して戦死はしたが、霊を慰めるために軍神と見なしたのではないだろうか。これが後に毘沙門天と習合することになったと考えられる(本当は怖い七福神の謎(;一_一))。


【参考記事】
古代史の謎を推理する(^_-)-☆



(注1)咫(あた)は円周の単位ともされ、約0.8尺である。八咫鏡は直径2尺(46cm 前後)の円鏡を意味するとWiki「八咫鏡」にある。また、この平原王墓(平原1号墓)の副葬品の青銅鏡計40面の内訳は、
・直径46.5cmの日本最大の大鏡内行花文八葉鏡・・・・・・・5面
・他の内行花文鏡(「大宜子孫」「□宜子孫」銘)   ・・・・・・・2面
・方格規矩四神鏡                ・・・・・32面
・虺竜文(きりゅうもん)鏡            ・・・・・・・1面
であり、方格規矩四神鏡が庄内様式土器の邪馬台国時代のものであると安本美典さんが説明している。また、考古学により定めた年代には前後60年の幅があるという森浩一さんの説を紹介している。

(注2)Wiki「卑弥呼/卑弥呼の墓」によれば一歩 (尺貫法)の単位については、周代では約1.35m、秦・漢代では約1.38m、魏代では約1.44mと言われている。左足を出してから右足の着地する2歩分の距離

(注3)北九州市・城野遺跡 九州最大級の「方形周溝墓」が発掘 11/21現地説明会 2009-11-17 18:56:29 城野遺跡は玉作り工房もすごい!-3/25講演会“輝く弥生の玉物語”開催- 2017-03-30 23:58:13 この玉造り工房の遺跡は近江から台与女王が誘致したものではないだろうか?


(注4)刮目天が卑弥呼の宮殿跡と考えている安心院町三柱台地の三女神社の石鳥居の扁額のひとつに「二女神社」と書かれていた不思議な謎が解き明かされた。


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悲劇の女王台与のはなし(その4)

2020-03-21 12:52:43 | 古代史
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実は一柱騰宮の伝承はあと二か所ある。そのひとつは宇佐神宮の横を流れる寄藻川に架かる呉橋の南側の神宮寺弥勒寺跡付近の謄隅(あがりくま)に在ったという説も卑弥呼が宇佐神宮の亀山に再葬されたことを誤魔化すために作られたものだろう。

もう一つが宇佐市上拝田の足一騰宮跡の石碑が建っている場所だ。その隣に神武天皇遥拝所の石碑が建っていて和尚山(かしょうざん)を遥拝するようになっている。この山は弥勒寺を建て別当になった法蓮上人が籠って修行したと言われる。ここから東側の駅館川(やっかんがわ)の対岸にも弥勒寺の塔頭のひとつとして法蓮が建立した観音寺(現在の薬師堂)の奥の院鷹栖観音堂が残っている。

この法蓮上人だが、日本建国の真相を伝える人物というのか、真相を隠そうとする意図が見えるのだがそれによって逆に真相が分かってしまう感じで、古代の謎を解くキーマンのひとりだ。この人物については宇佐神宮創建に関わるので、その話の時にしたい。

さて女王台与の話に戻すが、神功皇后の伝承は北部九州に特に多いというか、膨大なのだ( ^)o(^ )

神功皇后伝承地は北部九州で3000ヶ所、福岡県だけで750ヶ所となる。一番南は日向の都農神社で、北は対馬の突端部である。河村哲夫「北部九州における神功皇后伝承」第334回邪馬台国の会,2014.11.30)



台与が247年かその翌年に女王に立って最初に宮を置いた場所は前回述べた宇佐市安心院町妻垣神社辺りだろうと推理したが、その後は、台与が巡った先にそれぞれ伝承を残したということなのだろうか。特に、神功皇后を主祭神として祀る神社で有名なのは福津市の宮地嶽神社だが、福岡県内10カ所の宮地嶽神社もゆかりのある場所なのだ。台与が最後に宮を置いたのは、伊都国で戦死して平原王墓(注1)に埋葬されたと推理した糸島市の伊都国宮地嶽神社だろう。台与はヤマト勢に取り囲まれて自ら武器を持って奮戦した最期の場所は【検証10】ヤマトはなぜ伊都国を捨てた?|д゚)で述べた今宿五郎江遺跡内だと考えている。そこから舟を出して逃亡するつもりだったのではないか。

神功皇后の妹豊姫(淀姫)を主祭神とする佐賀市の肥前国一宮與止日女神社や佐賀県を中心として北部九州にいくつも在る淀姫神社もまた女王台与ゆかりの神社だ。妹と言っても名前がトヨを引っ繰り返しただけの淀姫だから、実は台与だということをあからさまに言えずに祀ったものだと直ぐに分かる。特に嘉瀬川流域には與止日女神社を含め6社もあり、この辺りには長く逗留したのではないかと思われる。吉野ヶ里遺跡に居住したかも知れない。

大国主久々遅彦は高良山で戦死し、墓は祇園山古墳に葬られたと推理したが、高良大社正殿に高良玉垂大神、左殿に八幡大神、右殿に住吉大神が祀られ、御客座に豊比咩大神が祀られている。先に述べたように住吉大神が応神天皇の実の父だと暴露した住吉大社の伝承から分かる。また、本当は怖い七福神で述べたように真の八幡大神は大国主だった。応神天皇ということにしたのは先程の法蓮上人が大国主をカモフラージュするためだと推理している。つまり本殿の三柱はすべて大国主なのだ。

高良山を倭国の穀倉地帯である筑後平野の防衛拠点として大国主が神籠石を積んで山城を築いたと考えている。ヤマト勢が倭国に侵入した第三次倭国大乱(266年直後から数年後か)では台与と子のホムダワケ(応神天皇)も一緒に立て籠もったのではないかと当初考えたが、伊都国の平原王墓を台与の墓だと考古学的にも分かった(注1)。台与は與止日女神社辺りを居城にしていて、大国主が高良山で戦死した後にヤマト勢に襲われたので、先述のとおり伊都国から海へ逃亡するために背振山を越えたのではないかと推理した。高良山では一時期台与は大国主と一緒に過ごしたのだろうか。ホムダワケは、台与が247年か遅くてもその翌年に13歳で女王になって数年後に大国主と結婚して生まれた最初の子だとすれば、この時点で10代後半だと思われる。父の大国主と共に戦って、父が戦死したので南九州方面に逃亡し、大隅正八幡宮(鹿児島神宮)に落ち延びたのではないだろうか。八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと『今昔物語集』にも記載されている。Wiki「鹿児島神宮」より)

時代は戻るが204年、公孫氏によって帯方郡が設置され半島の混乱も落ち着き、倭国が勢力を取り戻した。先代の久々遅彦はすでに菊池に軍事拠点を築き、度々筑紫平野を攻撃していたのだろう。それに頭を抱えていた、伊都国を居城としていた倭王難升米が菊池の軍事拠点を攻撃をした。先代はそこで戦死し、旧奴国王族側の軍事基地が解体されたためにムナカタ海人族は衝撃を受け、倭王の懐柔によって姫巫女卑弥呼を女王として共立し、邪馬台国連合倭国が成立したと推理した。

その後、纏向に狗奴国ヤマトが造られ、旧奴国王族が集合して倭国追討を行い邪馬台国を滅ぼした。上述のとおり247年頃に13歳で台与が女王に立てられた。近江・越を拠点とするムナカタ海人族の姫台与に巫女の霊力があったのでこの倭国遠征軍に同伴させられたのだろう。

台与と結婚した大国主だが、先代の父久々遅彦と一緒に戦いに参加していたとすると204年頃は20歳前後だろうし、もっと若かったとしても10歳くらいだったのならば、6・70歳の老人だったようだ。白髭の武内宿禰のイメージどおりだ。となると大国主はその20年後ころ8・90歳で戦死したのだろう。そうすると台与は30歳前後で死んだのだ。女王とは言っても権力者ではなく、宮室で度々神憑りを強要される巫女なので、決して良い人生ではなかったようだ。

本当は怖い七福神の謎(;一_一)で述べたとおり、後世の羽衣伝説の天女とされた。羽衣を老人に奪われて返してもらうために結婚したという気の毒な物語なのだが、福を呼ぶ吉祥天としても描かれている。「日本書紀」などでは男勝りの女傑として、自ら斧・鉞(まさかり)を持って新羅征伐を行ったり、また仲哀天皇の皇子たちを呪術で殺して応神天皇を即位させたヤマト朝廷の英雄としても描かれているがこれらは創作だ。こういう神功皇后が実はヤマトに祟り、天変地異を起こすと信じられていて、その都度、朝廷は神階や田などを加贈したことが「三代実録」などに記録されている。祟るはずのない人物が実際には祟っているのは、祟られた大和朝廷側に後ろめたいこと、すなわち伊都国で殺害した台与であったからだと自身で暴露しているのだ。

関裕二さんによれば、古くから伝えられている「カゴメ歌」は悲劇の女王台与を哀れんだわらべ歌だと推理しているようだが、その歌詩は謎めいている。

かーごめ、かごめ、
篭の中の鳥は、いついつ出やる
夜明けの晩に
鶴と亀がすべった
後ろの正面だ~れ?


かごめは籠目=正六角形=亀甲を表し、現在の出雲大社の神紋は、亀の甲羅(こうら)をかたどった、六角形の枠の「亀甲紋( きっこうもん)」を二重にし、その中に「剣花菱(けんはなびし)」を入れたデザインなのだ。つまり大国主を表しており、亀甲紋の中の剣花菱、剣を持った花が大国主に閉じ込められた台与を表しているようだ。篭の中の鳥は前回見たとおり、鳥の姿の姫巫女台与のことで、一体いつになったら台与は解放されるのだろうかと嘆いているようだ。



夜明けの晩というのは七夕の夜(7月7日午前1時頃)のことのようだ。古来から多くの 神社で神事が執り行われるようだ。「七夕の里」で知られる福岡県小郡市の媛社(ひめこそ)神社では毎年8月7日に「七夕神社の夏祭り」が行われる。祭神は織姫こと栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)だが、本当は宗像神道主貴(むなかたのかみみちぬしのむち)だからムナカタの姫巫女台与のことなのだ。ちなみに七夕神社の東側を流れる宝満川の対岸には、菅原道真公と牽牛神の天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)を祭る老松神社(小郡市稲吉)がある(注2)。牽牛神は牛頭天王スサノヲ、つまりその直系の大国主のことなのだ。高良山の在る久留米市御井はミイ(巳)で蛇=竜蛇神大物主大神(大国主)のことなのだ。だから祭神をアマテラスの子の天忍穗耳尊とするのは真相を誤魔化すために作られた「日本書紀」に基づく伝承なのだとわかる。(2020.3.28 赤字訂正)

大分県の姫島(東国東郡姫島村)の比売語曽社(ひめこそしゃ)の祭神は神功皇后の祖先である新羅王子の天之日矛(あめのひぼこ)の妻で、大己貴命(大国主)の女である下照姫命ということになっている。これも、大国主と結婚した台与であることをカモフラージュするための伝承だと直ぐに分かる。至る所で「日本書紀」でねつ造された伝承が造られているので、そのまま信じると訳が分からなくなるのだ。

カゴメ歌に戻るが、鶴は物部神社の神紋が日負い鶴だから物部氏のヤマト勢を指し、亀は大国主。すべるは退べると考えて、ヤマト勢と大国主が退場した後に「後ろの正面」つまり、真後ろにいるのは誰?は、ヤマト勢と大国主が去った後に誰(の魂・霊)が残ったの?

これが悲劇の女王伝説を伝えるカゴメ歌の意味じゃないかなと思う。

【参考記事】
古代史の謎を推理する(^_-)-☆


(注1)平原王墓については女王台与の最初の墓だと推理した。方形周溝墓で、割竹形木棺(丸太を半分に割り、中をくり抜いて再び合わせた木棺)の埋納が検出されている。通説では弥生後期から終末期(二世紀から三世紀前半)ころの伊都国の女王の墓としているが、その時代は師升の一族が倭王として伊都国に居城を置いていた。このような豪華な副葬品から台与に匹敵するような女王であるはずだがその記録は残っていない。

刮目天は割竹型木棺に着目した。古墳時代の初期(三世紀末から)に盛行した形式なのだ。通説では二世紀ごろの滋賀県野洲市の市三宅東遺跡に見つかっているとのことで平原王墓を弥生後期ころとする根拠にもなっている。だが、近江の様式が糸島で見られるのは説明できない。北部九州の倭国が近江などと対立することは纏向遺跡の外来系土器に九州のものがほとんどないことから分かる。
出土したのは全長3・5m、幅45-65cm、厚さ約4cm、高さ29cmの半円筒形に加工したスギ材。厚さが薄く、蓋と判断した。本体部分が未発見で、実際に人が埋葬された形跡はない。水分の多い水路跡にあったため、保存状態が良く、鑿など工具の削り跡も残っていた。野洲市・市三宅東遺跡 最古の割竹形木棺の蓋?)とあり、平原王墓の木棺の直径は0.9m、長さ3mと比べて長さは同程度だが、幅が少し狭いし、本体部分も見つかっていないので木棺の蓋なのかは確定していないと思う。市三宅東遺跡が見つかる前までは、最古級は大阪府八尾市久宝寺遺跡1号墳の木棺だった。大和を中心に大型前方後円墳が続々と造営されつつある時期にあたる古墳時代初頭が築造期で(270~280年)、墳丘の形状も平原王墓と同じ方形周溝墓なのだ。平原王墓は台与のものだろう。

(注2)小郡市上岩田にも老松神社があり、ここのご祭神は以下の三柱となっている。
菅原眷属神(すがはらけんぞくのかみ)
高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)
住吉大神(すみよしのおおかみ)
神功皇后が山門県の田油津姫(たふらつひめ)を殺す話に関係する神社だ。関祐二さんは田油津姫を邪馬台国の卑弥呼と考えているが、卑弥呼は日食のために宇佐市安心院町で殺されたと突き止めたので、真相を誤魔化すための説話だと考えている。(2020.3.28 追加)

まだ書き漏らしたことはたくさんありますが、一旦これで終わりにしたいと思います。
さいごまでお付き合いありがとうございます。

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悲劇の女王台与のはなし(その3)

2020-03-18 15:48:58 | 古代史
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最初の卑弥呼の墓は、「魏志倭人伝」に記載される径百余歩(直径約150m)の円墳だが、そこからこの妻垣神社の東側の足一騰宮(あしひとつあがりのみや)跡の磐座(いわくら)が置かれている場所に改葬されたようだ。神騰(かむあが)りとは貴人が亡くなって神になることを意味する。地元では一柱騰宮(いっちゅうとうきゅう)と伝称し、一つ柱は卑弥呼のことで、ここを死んだ卑弥呼の宮(墓)とし、後に宇佐神宮の亀山に移斎されたとしている(矢野武夫「卑弥呼の墓発見」安心院町文化連盟、昭和56年、pp.90-91)。


「日本書紀」ではウサツヒメを神武天皇につき従った天種子命(あめのたねこのみこと、藤原氏の遠祖)がちゃっかり娶ったことにしているが、「古事記」ではそこが消されている。ウサツヒメが台与であることを隠すねつ造を「古事記」がそれとなく正したということか。

ところで出雲神話ではスサノヲがヤマタノオロチを退治した後、この出雲の地が気に入ったのでそこに奇稲田姫と住む宮殿(八重垣神社)を造ったとされる。その時にスサノヲが詠んだ歌がこれだ。

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を」

日本で最初に詠まれた和歌として残されている。妻垣はこれを連想させるものだ。スサノヲのこの神話はおそらくスサノヲ大王の直系の大国主久々遅彦が妻垣神社で台与を女王に立てて大王として倭国を治めた史実を神話化したものだと考えられる。実際には奴国大王スサノヲは師升ら宮廷楽師らに殺されたが、スサノヲが高天原を追われた後の神話や神話に沿った伝承などは、大国主の史実を誤魔化すためにその祖であるスサノヲと混同させるやり方で真相を曖昧にしている。首長霊祭祀が始まった弥生後期では偉大な先祖の魂が直系の首長に宿るという考えがあったからなのだろう。久々遅彦(狗古智卑狗)も直系の子供が襲名したと考えている。例えば、大国主が死んで葬られた久留米市の祇園山古墳もスサノヲと関連する名前が付けられている。最初はスサノヲの墓かと思ってしまい、直ぐには大国主とは繋がらないのでよく分からなかったが、トリックのつもりはないのかも知れないが、こういうやり方は分かってしまえば面白い(^_-)-☆。



また三女神社の東側、妻垣神社の北東に佐田神社があり、御祭神を武内宿禰・素盞鳴尊・大山祇命とする。主祭神の武内宿禰は「日本書紀」で五代の天皇に仕えた三百歳の大臣で、葛城氏、蘇我氏などの大和の有力氏族の祖としている。常に神功皇后に寄り添う老人というイメージが強いが、先に述べたとおり「記紀」の武内宿禰(「古事記」では建内宿禰たけしうちのすくね)こそ13歳の台与を女王に立てて倭国王となった狗奴国の官久々遅彦(狗古智卑狗)であり、大国主のことだった。ここにも王宮を置き、以前に紹介した佐田の京石というストーンサークルで、倭国を手に入れたことへの皇祖神への感謝の祈祷を行ったのだろう。米神山の西麓に在るのだが、この山の中腹から山頂にかけて巨石群があり、その頃の祭祀の跡なのだ。

佐田京石ヒーリングルームひふみ より)

お気づきかも知れないが、佐田という名前は出雲国三大社のひとつである佐太神社の祭神佐太大神(サルタヒコ)のことだ。
邇邇芸命が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた。道がいくつもに分かれている所)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。『日本書紀』では、その神の鼻の長さは七咫(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いているという姿であった。そこで天照大御神と高木神は天宇受売命(あめのうずめ)に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。その神が国津神の猿田毘古神で、邇邇芸命らの先導をしようと迎えに来た。Wiki「サルタヒコ」より)

そのサルタヒコと武内宿禰が同一ということだから、その正体は大国主久々遅彦のことなのだ。一方、天宇受売神はサルタヒコの前で胸乳を露わにし裳帯(もひも)を臍の下に垂らしたとあり、また岩戸神話でもアマテラスを岩戸から引き出すために裸で踊って八百万の神々をドット笑わせたとある。アマテラスが天岩戸に隠れたというのは卑弥呼が死んだことを意味し、岩戸を開いて再び明るくなったというのは女王台与が登場したことに対応するいう説があった。そうすると天宇受売命は女王台与ということになる。唐古鍵遺跡で出土した鳥の格好をして下半身を露出して神憑(がか)りする巫女のイメージなのだ。


ほとんど人前に出ないという卑弥呼も同じ格好をして神憑りしたのだろう(注1)。そして右の図も同じく鳥の格好をした男性で、巫女を神憑りさせ神託を請う役割の巫(かんなぎ)または祝(はふり)だ。「古事記」に、仲哀天皇が熊襲を征伐するにあたり、筑紫の香椎宮で天皇が琴を弾き、建(武)内宿禰大臣が沙庭(さにわ、神降ろしの場所)で神託を請い、神功皇后が神憑りして神託を伝える話がある。前漢時代(紀元前二~一世紀)、琴のことを空侯(クウコ)と呼んでいたようで、イラン語の竪琴ハープ(quiqao)のことなのだ富来隆「虚空津姫(くくつひめ)」と「狗古智卑狗」と」大分縣地方史.32-33(1964.1),p.1-9。つまり、大国主狗古智卑狗(久々遅彦)はクコツヒコ(空侯の男)、琴を弾きながら巫女である台与に神がかりさせる祝(羽振り)という意味だったのだ。

大国主ほど、大己貴命(おおなむち)、八千矛神(やちほこ)、葦原色許男(あしはらのしこを)などなど数えきれないほどたくさんの別名を持つ神はいない。すべて日本建国の真相を隠す意図なのだと分かる。詳しくは、本当は怖い七福神の謎(;一_一)をどうぞ!

(注1)乳房描かれた弥生土器 「卑弥呼誕生の歴史分かる資料」
岡田匠 2019年10月9日 18時55分 朝日新聞デジタル


やはり鳥の格好をしている(*^▽^*)(2020.3.23 追加)

すこし脱線気味かもしれませんが、我慢してお付き合いください。次もまだ決めてませんので少し時間を頂かないといけないかもしれませんが、またよろしくお願いしますね( ^)o(^ )

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悲劇の女王台与のはなし(その2)

2020-03-15 20:02:17 | 古代史
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ところで「魏志倭人伝」は原本が現存せず、その百衲本(南宋期の版本の影印)では臺與(台与)ではなく壹與(壱与)と書かれている。同様に、邪馬台国も邪馬壹国と書かれている。それ故、九州王朝説の古田武彦氏が「『邪馬台国』はなかった」で主張しているように、「魏志倭人伝」に書かれているとおり壹與と読むべきだという説を支持する方がいる。

しかし邪馬壹国説だが、邪馬臺(台)国が正しいことは范曄の「後漢書 東夷列伝倭伝」にはっきりと書かれているし、倭人語の研究で「ヤマイチ」「ヤマイイ」というように母音が続くことは避けられていることが分かっているので、「邪馬臺(台)国」で間違いないのだ(安本美典「「倭人語」の解読」勉誠出版平成15年、p.15)

それでも後の文献に耶麻惟(やまいい)というのも見られるようなので、やはり原本からそうなっていたようだ。だとすると何故「魏志倭人伝」で陳寿が邪馬壹国と書いたのかが問題になる。

すでに邪馬台国はヤマタイコクと読まない?(*^。^*)で臺(台)の字の意味を示したように、魏臺に魏の皇帝の意味がある。陳寿の当時、東夷の女王に「臺」の字を書くのを憚り、似た文字「壹」を当てたという説が正解なのだ。だから、壹與も正しくは臺與(台与)だということになる。陳寿が「魏志倭人伝」を撰した司馬政権時代では「師」姓の人が司馬懿の長男司馬師の諱を憚って「帥」姓に変更したくらいだから、文字の使い方にはピリピリしていたことが分かる(倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`))。

そして、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけて遺跡が数多く在る福岡県東部の苅田町・行橋市・豊津町や大分県宇佐平野・大分平野などにかけて「豊前」・「豊後」からなる「豊(トヨ)の国」は女王台与に因むものなのだと分かる。特に豊前辺りは渡来人と呼ばれる人々が半島から移り住んだり、交流して賑わったようだ。現在でも苅田町や豊津町は京都(みやこ)郡の一部になっている。

7世紀初頭の隋煬帝の使者が大和を訪れる途中で豊前辺りに秦王国があったと報告している。秦帝国が興った陝西地方の方言が話されていたようだ(岡田英弘「日本史の誕生」弓立社1994,p.45)。岡田さんは「魏志倭人伝」の行程記事から考えて京都郡辺りに邪馬台国が在ったとしているが、刮目天は遠賀川流域も含んだ豊津町以北一帯は投馬国だと推理している。(2020.3.16 青字追加訂正)

渡来人というのは、秦の圧政から逃れてきた半島南東部の辰(秦)韓の人々と混ざって鉄を取ってシナ語(注1)を話して生活していた一から三世紀ころの倭人がメインで、一部秦韓人も伴って豊前の地に移住し、半島ともしきりに交流していたと考えている(渡来人は異民族とは限らない?( ^)o(^ ))。

英彦山や銅などの鉱物が採れた香春岳周辺は朝鮮文化が色濃く残っていると言われるが、今の韓国人が踏襲している文化は半島南部の倭人たちの文化のことであって、主として倭人が列島に持ち込んだものなのだ。今の朝鮮語も元は倭人語の派生した言葉なのかも知れない(注2)。このころの倭人は江南出身の水田稲作・漁労の人々だけでなく列島から半島に渡り住み着いていた縄文人や列島を行き来していた縄文海人であって、一部は韓人も含む混血もあり、その後の日本(ヤマト)民族になっていく過程だと考えている。「魏志 韓伝」にも半島の南部は倭の領域だと明確に書かれている。(2020.3.17 赤字訂正)



15世紀後半に書かれた「鎮西彦山縁起」には藤原桓雄という名前の人物が登場するが、13世紀末に高麗の僧一念によって書かれた「三国遺事」の檀君神話の桓雄(かんゆう)のことだ。しかし檀君神話は恐らくアイヌと同様の熊をトーテムとするツングース系の人々のものなのだ。現代韓民族の男性でそのY染色体DNAを持つのは1割未満でしかなく、8割以上は中国大陸由来なのだ。政治色の色濃いファンタジー歴史を教えられた人たちには余りにも衝撃的で気絶するかもしれないが、最近の分子人類学から分かる事実なのだ(日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!)。

刮目天はすでに、卑弥呼の居城が野麻国(ヤマコク、宇佐市史(上巻P.324)によれば和妙類聚抄の宇佐郡野麻郷は宇佐市安心院町に比定される)にあったことも突き止めている。女王が宮室を置いたので野麻(ヤマ)国のことを邪馬臺(台)国と魏使が報告書に記載したものを陳寿が先の理由で邪馬壹国と変更したか、報告書からそうなっていたのかは分からないが、帯方郡太守劉夏と伊都国男王難升米が談合して決めた可能性もある(「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^))。

范曄が参考にした他の「後漢書」に邪馬台国と書かれていたか、あるいは范曄の頃は倭の五王の讃が朝貢していた時期だから、直接倭人から聞いた情報によって正しく邪馬台国と記載したものと考えられる。

何しろ、范曄が参照した当時の資料や「後漢書」すらその原本はその後の戦乱で散逸し、現在は誤写が結構ある写本やそれを基にしたような版本などしか残っていないようだ。だから、現代の史学者が范曄が何を根拠に記述したのか理解できないのは当然かも知れない。だが、范曄を理解できないのでウソ吐きと決めつけて排除するのは間違っている。何故ならば、范曄は狗奴国と女王國(邪馬台国)の位置関係を正しく示しているのだから(*^▽^*)。



そういうことなので、卑弥呼の後を継いだ直後の宗女台与は、247年3月24日の日食のために伊都国男王の命令で暗殺された卑弥呼の宮室三女神社を避けて、当時は葦で覆われていた安心院盆地の南側にある丘陵に宮(妻垣神社つまがけじんじゃ)を築き一時、滞在したと考えられる。

神武天皇が東征の折に立ち寄り、宇佐国造の祖であるウサツヒコ・ウサツヒメは皇軍一行を快く迎え入れ、歓待申し上げたと記紀(「古事記」「日本書紀」)に記されています妻垣神社由緒書)。

(妻垣神社ホームページより)


「日本書紀」が真の初代応神天皇の日本建国の真相を隠すために、神武天皇のヤマトへの東征神話を創作したということは、すでに述べたとおりで、ヤマト王権が起こった三世紀後半の奈良県桜井市纏向遺跡に九州からの外来土器がほとんどないことからわかる。神武天皇が創作だというのは考古学が証明している事実なのだ。住吉大社の伝承のとおり応神天皇の本当の父親である住吉大神は大国主狗古智卑狗(久々遅彦、「日本書紀」では武内宿禰とした)であり、母の台与(神功皇后のモデルと宇佐市安心院町の妻垣神社に宮を構えた史実から神武天皇を接待したウサツヒコ・ウサツヒメとして登場させたのだろう。

(注1)最初に話されていたのは陝西方言のシナ語と倭人語からなるピジン言語だと思う。
クレオール言語(クレオールげんご、英: creole language)とは、意思疎通ができない異なる言語圏の間で交易を行う際、商人らなどの間で自然に作り上げられた言語(ピジン言語)が、その話者達の子供たちの世代で母語として話されるようになった言語を指す。公用語や共通語として使用されている国・地域もある。

ピジン言語では文法の発達が不十分で発音・語彙も個人差が大きく、複雑な意思疎通が不可能なのに対し、クレオール言語の段階ではそれらの要素が発達・統一され、複雑な意思疎通が可能になる。また、クレオールはピジンと違い、完成された言語である。

また、日本語も北方系言語(アルタイ語族)と南方系言語(オーストロネシア語族)が混合したクレオール言語から変化したという説もある(日本語の起源を参照)。

(注2)1929年、金沢庄三郎は言語学に基づき『日鮮同祖論』を刊行した。
言語学における日鮮同祖論
言語学においても、日本語と朝鮮語の同一性から日鮮同祖論を説くものが出るようになり日本の朝鮮統治に利用された。例えば金沢庄三郎は『日韓両言語同系論』において「韓国の言語は、わが大日本帝国の言語と同一系統に属せるものにして、わが国語の一分派たるに過ぎざること、恰も琉球方言のわが国語におけると同様の関係にある」と述べた。

(2020.3.16 追加)人類学的に同祖ではないが、コリアンは当時の倭人文化の影響を受けて文化を作ったのは確実だ。(202.3.17 追加)

まだ続きで何を書くかあまり決めてませんがこの後もよろしくお願いします(*^▽^*)

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