刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

古代日本は海人国家だった(^_-)-☆

2020-06-27 21:16:45 | 古代史
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新・私の本棚 番外 川村 明「九州王朝説批判」改 7/7 七世紀の倭都は筑紫ではなかった
2016/03/20 2019/03/01 2020/06/24 古代史の散歩道 など


昨日の当方のコメントに対して早速、躓き石先生より以下のような丁寧なご回答を頂きました。長文になりますが、最後までお付き合いください(*^▽^*)

刮目天 一(はじめ)さん
 丁寧なコメントいただき感謝しています。負けずに丁寧に回答いたします。
 いつも、貴ブログは拝見しているのですが、貴見の元になっている史料の「史料批判」が、よくわからないので、安易な批判を避けています。
 今回の貴見で言えば、小生が手厳しく虚偽(フェイク)の塊と批判している著書の著者である長野氏を「古代海洋技術の専門家」と崇めているのでは、技術的な意見の評価と判断がずれているので、はなから、貴見に従うことはできません。
 また、長野氏が、憶測の根拠とされている「日本書紀」は、少なくとも、当分野では、「史料として全面的には信頼できない」ので、これもまた議論の俎上には載せられません。


〇できるだけ論拠を書いているつもりですが、沢山あるのでつい省略してしまい申し訳ありません。具体的な問題でご疑問の点をご指摘いただければ説明させていただきます。お手数で恐縮ですが、またよろしくお願い致します。

〇長野氏を崇めているという表現は当たりませんが、当方は海洋技術の全くの素人ですから、氏以外でも専門家のご意見を色々読んでいて、特に長野氏によって弥生時代の海上交易のかなり具体的なイメージができましたので、随分と有り難かった印象があります。例えば、弥生時代の海人アズミ族の交易や沖ノ島ルートでの縄文海人ムナカタ族の役割など、重要で興味ある問題については出来るだけ考古学などで実証できないかと常に考えています(【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?)。


 誠に恐縮ですが、六世紀末、ないしは、七世紀初頭、瀬戸内海を、隋から渡来した帆船が易々と航行しとする根拠はいただけなかったと考えます。

〇易々ではないと思いますが、前回述べましたように七世紀の隋使が帆船をえい航する水主(かこ)システムを利用して瀬戸内海航路で飛鳥まで行ったのは事実だと思います。「日本書紀」は政治文書なので、それを根拠にできない部分がたくさんありますが、疑う必要のない部分もありますし、事実を歪曲した部分もあり、想像力を発揮した取捨選択が必要でしょう。結果から原因の想像(仮説的推論アブダクション)で済まさずに検証することで、想像(推論)が当たっていたかどうかを判定できますから楽しくもあり、怖くもあり、ほとんど趣味の領域です( ^)o(^ )

〇しかし、七世紀よりずっと前の縄文時代から瀬戸内海は交易航路として利用された事実が考古学的に明らかになっています。

〇縄文時代は香川県坂出市金山産のサヌカイトが山口県岩田遺跡に大量に運ばれていますし、国東半島姫島の黒曜石が瀬戸内東部の縄文遺跡で利用されています。瀬戸内の縄文土器は近畿や九州と強い共通性がありますので交流の証拠でしょう(間壁忠彦「西と東を繋ぐ海の道ー瀬戸内沿岸」日本の古代2、中公文庫、1995、p.368)。

〇弥生式土器や銅鐸に当時の丸木舟の絵が描かれているし、瀬戸内海の海岸沿いの高い山の山頂に高地性集落が営まれています。舟の往来を監視し、狼煙台として使われたり、山を下りて小舟で水先案内したり、時には海賊行為を働くための基地と推定されています。

〇三世紀の纏向遺跡には河内、吉備、東瀬戸内の外来土器が多く出土していますが、九州の土器は当時対立していたためにほとんど流入していません(下でもまた述べます)。しかし二世紀における半島南部と吉備・河内などとの対外交易においても不弥国(うみこく、宗像市)から吉備・畿内へは瀬戸内海航路も使われています(下図では曖昧ですが、倭国と対立していたムナカタ海人族が沖ノ島ルートで半島南部の鉄素材を山陰・吉備などに供給していたと推理しています)。


〇四世紀末から五世紀の古墳の石棺として使われた阿蘇の凝灰岩が瀬戸内海経由で岡山、香川、兵庫、京都などに運ばれています。長野氏によれば瀬戸内海沿岸の屯倉は舟の乗員の食料補給所だったようです。しかし、【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(注1)で述べたように、長野氏は下関から大阪まで「風待ち港、あるいは汐待港」で相当時間を使い、一~二ヵ月もかかるという説でしたので、「日本は火山列島なので凝灰岩は何所でも採れるようだから、質の良い阿蘇のものを運ぶのはそれ程手間だとは思わなかったのだろう。想像だが、大きな岩でさえ関西まで1~2か月もかからずにもっと短期間で運べるスーパー・ハイウェイだったのではないだろうか?」と異論も書きました(出典が思い出せませんが、見つけたら記載しておきます)。


 また、河内から大和に入る主流が、大和川の遡行というのも、小生の過去記事で、理詰めで否定しているので、貴見には従えません。話しの流れで言うと、数百人どころではない武装軍兵が、小型の漕ぎ船に分乗したのを、大和川の急傾斜した流れを漕ぎ上るという図は、到底あり得ないものと考えます。いかなる時も、徒歩で行軍するのが兵法の大原則であり、山があれば乗り越えるものなのです。

 ちと余談めいてきますが、近隣で漕ぎ船の遡行があり得るのは、淀川のような傾斜も流れも緩やかな大河だけであり、大和川ではないのです。小生のお勧めの進軍路は、淀川を比較的大きな船で遡行して最後は木津に至り、比較的背の低いなら山を越えてね後の平城京地域に入るというものであり、以下、平地なので、特に難関は無いというものです。特に支持者のない素人談義ですが、労少なくて功の多い妙策と見ています。

 折角のご意見を聞き流しているようで恐縮ですが、この批判を提示するまでに、かなり資料を読み込んでいるものとご理解ください。


〇先生のブログの中で「大和川」を検索すると15・6くらいあったので、全部目を通せませんでしたが、河内と奈良の境の「亀の瀬」が難所ですね。弥生時代の刳り舟(丸木舟)は舟底が厚くできていて、地面を人力で曳くことで、難所でも移動可能です。低い山ならば川を遡って山を越え、反対側の川を下ることもよくやられていたのだと思います(2020.6.28 赤字追加・修正)。例えば半島を回って時間を費やすのを避けるためのショートカットの場所が船越などの地名として残っていることも長野氏が指摘していました。この難所「亀の瀬」は大規模な地滑りが起こるので、古奈良湖は「亀の瀬」が堰き止められて出現したのではないかと思います。「大和川・吉野川歴史年表」によれば飛鳥時代に「亀の瀬に集まるように流れていた大和川で、条里制に沿った河道に付け替える工事が始まる。」とあり、治水工事が行われていました。下の動画にありますが、江戸時代まで天下の台所大阪から奈良盆地への物資は大和川を「亀の瀬」まで帆掛け船で運ばれ、そこで別の運搬手段に積み替えられていたようです。しかし、飛鳥時代では難波津で帆船から小型の半構造船に積み替えて河内湖から大和川を遡り、「亀の瀬」でさらに予め用意してあった丸木舟に積み替えて飛鳥の都まで運んだと考えていいと思います。勿論、弥生時代から日本海側の敦賀から琵琶湖・淀川経由などでの物流もありましたが。



〇纏向遺跡や飛鳥時代の軍事的・地政学的な考察についはとても興味ありますが、ここでは議論が発散しそうなので別の機会にお願いします。

 次ぎに、ご教示いただいている「邪馬台国」論ですが、小生は、隋使来訪で言えば、敵の目的地は「竹斯国」であり、ここに腰を落ち着けて探偵したと隋書を読んでいるので、倭人伝誤記論などは、お呼びではないのです。
 因みに、隋書は、俀国について、「魏晋代以来中国と交流を続けていた」、つまり、倭の後継と明記しているので、中国側は倭はずっと九州北部にあったと認識していたことが明示されていると考えます。


〇開皇二十年(600年)のヤマト(飛鳥)から隋への遣使は倭国の歴史について詳しいことは何も言わず倭国から来たと伝えたのではないでしょうか?三世紀のヤマト王権成立過程において、大国主と台与の倭国を滅ぼしたヤマトが、280年に呉を滅ぼした西晋から追討されるのを恐れ、纏向の都をヤマトゥ(邪馬台)と呼称し、戦死した二人の間の子ホムダワケを初代祭祀王(応神天皇)として両親を祀らせたものと推理しました(何故、大和をヤマトと呼ぶのか?)。

〇しかし、7世紀末に遣唐使が倭国から日本国という国名変更を唐に届けるにあたり、このややこしい経緯をシナに正しく伝えられなかったので、旧唐書では倭国と日本国の二本立てとされてしまいました。遣唐使が後漢との正式交渉である建武中元二年(57年)の金印の話をしないで、高天原神話で押し通したからシナに全く信用されなかったのだと考えています。通説では国名変更が認められたと言われていますが、旧唐書がそれを完全に否定しています(「日本国」へ、八百年も掛かったのか?)。

 川村氏は、隋使が、「竹斯国から東に十余国を経ると海岸があるのを知った」という記事を、いつの間にか長期間を経て海上移動で河内湾岸に着いたと解釈していますが、これは、解釈でなく「創作」に属するものです。裴世清が、延々数ヵ月に上る長距離移動の顛末を、すっぽり書き漏らしたと決め込んでいるのです。

 裴世清は、文林郎、つまり、図書館司書のような役所(やくどころ)であり、職業柄、公式文献の読み書きについては熟達していたので、不用意な書き漏らしなどしないのです。まして、未踏の敵地で遠路遙か移動して、困難な寧遠の任務を果たしたという一大功績を、わざわざ逆粉飾して何も書かないはずがないのです。
 また、中国側が、俀国を九州北部の手近な場所でなく遠隔の地と見ていたのなら、其の地に至る行程を書き漏らすのは、皇帝命令に反する抗命であり、他ならぬ「煬帝」に対してそのような抗命をしては、ただでは済まないのです。
 最悪、使節団一同全員死罪であり、皇帝の意向次第では、全員の妻子も皆殺しになるのですから、裴世清一行は抗命などせず、使命を果たしたのです。隋書を原文に忠実に解釈するというのは、そう言う読みまで突き詰めることです。

 以上は、随分丁寧に突き詰めたので、できることなら、川村氏ご自身の批判を受けたい位です。

〇それはいいですね。是非とも、玄人のディープな議論をお願い致します。

 ただし、川村氏は、日本書紀という国内史料を、深く、深く読み込んで、そのように解釈する事を信念としているので、隋書は、史料解釈を必要とする外国史料に過ぎず、提示された解釈は、氏の信念に照らして、自動的に正しいことになるのですが、小生は、隋書、さらには、倭人伝しか見ていないので、川村氏の隋書解釈には同意できないのです。

 貴兄は、無造作に「文献にあることをバカ正直」に信じることを蔑視されていますが、「まずは」文献を読むことに努め、外部資料は、厳格な史料批判を経て採り入れるというのが、素人の学ぶ道として、古代史学の正道と思いますので、ご意見には同意しかねます。以下、舊唐書論は、根拠不明なので同意できません。


〇実直に研鑽をつまれている先生方に向かって失礼とは思いましたが、適切な言葉を知らないので申し訳ありませんでした。自ら教養の無さを痛感しております。正道や王道を決してバカにしているわけではありませんので、何卒お許しのほど。

 そうそう、安本美典氏の見解を転送されていますが、同書と引用書を読む限り、氏は、自任されているように、史学の使徒であるから、安直に断言するはずはなく、「三世紀九州の言葉と後世の大和の言葉が、遠大な距離と数世紀の時間を経て、文字記録に頼らずに繋がっていると見たら、依拠されている論議が正しいと判断できる」と言っているのであり、貴見は、いろいろな制約や前提をすっ飛ばして短縮しているので、正確な引用ではないのではないかと思量します。


〇早速、安本先生の著書を買い求めて頂いたとは、ありがとうございます。当時の倭人語の特徴の一つである多重母音の忌避については、数カ所で記載されており(pp.13-15,pp.35-36)、大野晋氏・森博達氏も母音音節が語中にこないという意見で一致しているようです(p.181)。従いまして、邪馬壱国は誤写か意図的な書き替えであって、倭人語ではないという結論です。ですから、十二世紀の版本に邪馬壱国とあったからこれを以って邪馬台国はなかったなどという説には到底賛成できません。日本建国の真相を解明して邪馬台国の意味が明確になったことはすでに述べさせていただきました。

 この点を、世にある馬頭星雲を避けて、うまく表現する方法が見当たらなかったので、回答が遅れましたが、貴兄の指摘を受けて、すぐさま同書を買い込んで、念入りに読んだ上の意見です。貴兄に不愉快な言い回しになったとしたら、それは、小生の至らぬせいであり、御寛恕下さい。この程度の論者と見限って、諦めてください。
 以上、貴兄の心情と食い違うので、ご不快かも知れませんが、少なくとも、古代史分野では、「文献」を深く理解するのが、第一歩であり、たとえ、不快な見解でも、説き伏せられてみることが必要かと思います。
 いや、自分はどうなのかと言われそうですが、守り切れない自戒の言葉とお考えください。当方は、一介の電気技術者骨董品であって、専門家などではなく、あちこちで素人と触れ回っているので、くれぐれも誤解しないでいただきたいものです。
以上
投稿: ToYourDay | 2020年6月27日 (土) 00時22分


〇三世紀後半の北部九州では畿内の庄内式土器が大量に見つかっているのに対して、ヤマト王権発祥の地纏向遺跡では上述のとおり九州の土器がほとんど見られません(外来土器の1%以下)。東海や北陸・山陰の勢力が集結して行ったと分かる纏向遺跡での祭祀儀礼に北部九州勢が参加していないことから、上で述べたとおりヤマトと北部九州の倭国は敵対関係にあったと推定できます。結局、270年頃にヤマト勢が倭国を滅ぼし、北部九州を占領してヤマト政権が成立したものと分かります。九州に見られる前方後円墳は、吉備出身の物部氏主導のヤマト政権の支配下になった証拠であり、九州王朝とヤマト政権が七世紀まで両立していたことを考古学的に立証できないと思いますなぜヤマト王権の始まりが分かるの?( ^)o(^ ))。

九州王朝説の論拠のひとつとなった金印「漢委奴国王」の読み方「漢の委奴(いと)国」が誤りだということは、蛇の形の紐(つまみ)で分かります。漢王朝は印璽の紐の形をその民族のシンボルを象ったものにしています。その当時の倭人は蛇神(ナーガ)を信仰する江南の呉をルーツとする海人アズミ族であることが、金印の紐(つまみ)によって証明されます。ナーガの読みから奴と書かれましたが、日本では那珂、那賀、長柄、長良などのナーガに因む地名が各地に残っています。東夷の倭国王に金印が与えられたのも、倭人の王が太伯の後、つまり周王朝の子爵呉王の末裔であった事実も関係あるかも知れません(倭国王はアズミ族とは異なる呉王の一族で、長江文明を担った天皇伏羲の末裔)。蛇神(龍蛇神)が祀られていた名残は各地に見られます。龍王山が各地に在りますが、奴国王スサノヲあるいは大国主命を御神体としてアズミ族が祀ったものだと思います。アズミ族が開発した土地にアズミに因む地名なども数多く残っています(注)。神社のしめ縄や正月の鏡餅もヘビを象ったものですし、三輪山に祀られた大物主大神=大国主命もヘビですから、日本は古の倭の奴(ナーガ)国で間違いないのです。

〇上でも述べましたが、旧唐書に倭国と日本国が並立して書かれていることから七世紀まで日本と倭国は別物で、両者が対立していたと考えたのが九州王朝説の最初のアイデアだと思いますが、新唐書以降のシナの正史で日本国に一本化されていることを無視しています。新唐書に記載の王年代紀によって日本は古の倭の奴国とシナが理解して対外的に日本国と認定されたという事実に気付くと日本建国の真相が解明されます。

〇以上から、当方の心情の問題でなく、九州王朝の存在は考古学によって完全に否定されるという結論です。それ故、日本書紀に対する当方の解釈と異なる論点での川村先生のご意見が納得できるものでないにしろ、古代史フリークの中で根強い支持のある九州王朝説への批判に賛同する次第です。

〇一方、先生は先生で様々な知見から当方の意見とは違っていますが、当方は自身で掴んだ事実に基づく推論を提供するだけで、先生の信念を変えようなどという大それた意図は持ち合わせていないので、軽く受け流してくださいとお願いした次第です。今回、いつもの不躾な当方のコメントに真面目に対応していただきました。お陰様で、だいぶ頭を整理させていただき、心より感謝いたします。また、勉強させてもらいに伺いますので、どうぞよろしくお願い致します。


(注)江南をルーツとする海人アズミ族のクニ
( 黒字:宮地直一、青字:大場磐雄 による)
①筑前国 糟屋郡志珂郷、阿曇郷、志賀海(シカノアマ)神社
②壱岐・対馬 和多都美神社
③豊後国 戸为山部牛の妻阿曇部馬身賣(ウマミメ)他、海部郡
長門国 下関市安園町富任 長門国豊浦團五十長凡海我孫  
 大津郡向津具村 八木家所有の畑地から有柄銅剣

⑤隠岐国 海部(アマ)郡 少領外従八位下阿曇三雄、海部郷
⑥伯耆国 會見(アツミ)郡安曇郷
西伯郡宇田川村 和名抄に安曇郷記載、石剣出土
出雲国 簸川郡大社町杵築 海部が居住していた、銅戈が出土
丹後国 熊野郡湊村函石濱 和名抄に安曇郷記載、石剣出土
與謝郡日置村 海部氏が奉斉する籠神社、石剣出土
⑨播磨国 揖保郡浦上里、石海 安曇連百足
⑩讃岐国 大内郡入野(ニフノ)郷 安曇茂丸戸他、讃岐是秀 安曇直眉他
⑪阿波国 男帝の御宇に供奉する神祇官選定阿曇部、名方郡の人安曇部栗麻呂宿禰、
和多都美豊玉比賣神社、海部郡
⑫淡路国 三原郡南方の野島は海人の本拠地、西南の方に阿萬(アマ)郷
⑬摂津国 安曇犬養連等の地、難波津の安曇江、安曇寺
⑭河内国 阿曇連等の地
⑮山城国 阿曇宿禰等の地
⑯近江国 伊香(イカコ)郡安曇郷(東北方湖辺の地であるが所在は明らかでない)
⑰美濃国 厚見郡、厚見郷
⑱三河国 渥美郡、渥美郷
⑲信濃国 更科郡氷鉋、斗賣郷 氷鉋斗賣神社 、埴科郡玉依比賣命神社
⑳信濃国 安曇郡 穂高神社 安曇部百鳥
以上の他に、「信濃の安曇」(笹川尚紀『信濃第 55 巻第 7 号』平成 15 年)によると、肥前国、
周防国、備中国、伊予国にも安曇連、安曇部の存在があるという
「安曇氏の経歴と分布」より引用)



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九州王朝説は古代史の躓き石だろ(^◇^)

2020-06-26 12:55:37 | 古代史
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新・私の本棚 番外 川村 明「九州王朝説批判」改 7/7 七世紀の倭都は筑紫ではなかった
2016/03/20 2019/03/01 2020/06/24 古代史の散歩道 など


いつも勉強させていただいている躓き石先生のブログですが、
今回特に興味ある話題でしたので、以下のようなコメントしました。

今回の川村先生の九州王朝説批判に賛同しており、その立場から敢えて先生のご説への異論を差し挟ませてください。

>ついでながら、六世紀末当時、「瀬戸内海航路」は影も形もなく、小型船舶による連絡経路が辛うじて繋がっていただけで、「大和」は、交信・交流に厖大な時間を要する遠隔地であるため、隋倭交流から隔離されていたでしょう。
>いずれにしろ、自前の船舶、船員、操船技術で航路開拓していなければ、隋船は航行できないのです。いや、開拓していても、難業なのです。


これについては古代海洋技術の専門家長野正孝氏の『古代史の謎は「海路」で解ける』(PHP新書)によれば、すでに6世紀には雄略天皇が瀬戸内海航路の啓開を完成しており、7世紀の隋使の帆船を難波津までえい航する水主(かこ)のシステムによって無事に航海できたようです。


隋使が倭国攻略策を考えるのはいいご指摘ですが、難波津到着からまさか生駒山越えをするなど隋使は思いつかないでしょう。何故なら、そこで小舟に乗り換えて河内湖から大和川を遡り、古奈良湖を経由して飛鳥京に入るルートでしょうから(注)。その行程を詳述する気も起らないようなシナ人にとって厳しい航路だったからでしょう。だから、隋使の行程記事は川村先生のように読むのが正しいと考えています。(2020.6.26 赤字追加訂正)

九州王朝説では、対外交渉のシナの記録が北部九州の倭国とのものだと信じられているようですが、それも大きな間違いだと考えています。魏志倭人伝の邪馬台国を邪馬壱国と版本では誤写したものか、原本からそう記載されていたのか正確には分かりませんが、このことと大いに関係があると思います。以前にも指摘させていただいたとおり、当時の倭人語では母音を重ねることを避けていたので、ヤマイチもヤマイという言葉も存在しないことが分かっています(安本美典「倭人語の解読」(勉誠出版))。


邪馬台国の意味もヤマト王権の成立過程を解明すると判明します。ヤマコクを居城にする女王(台)の国という意味です。ヤマコクは宇佐市安心院町の宮ノ原台地のことです(和妙抄の宇佐郡野麻郷、刮目天「古代史の謎を推理する」をご参照ください)。

ぶしつけな表現で恐縮ですが、魏志倭人伝の行程記事と同じで、文献に在ることをそのままバカ正直に信じるとド壺から脱け出せないいい例だと思います。旧唐書の倭国と日本国の並列記事は新唐書で完全に訂正されているのを無視するから古代史を解明できないということもあるのだと思います。大変失礼しました。(*^▽^*)


(注)【訂正】古代の難波津から飛鳥へのルート
卑弥呼の時代が先に頭に在ったので、うっかり下図左の古奈良湖と書いてしまいました。しかし、7世紀では下図右のとおり河内湖同様に古奈良湖もほとんど埋め立てられていたかもしれません。ですから、大和川を遡りそのまま飛鳥川に出るルートだと思います。いずれにしても隋使は難波津から飛鳥まで小舟に乗り換えて移動したと思われます。



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神功皇后は女王台与がモデルだ(^_-)-☆

2020-06-25 17:02:10 | 古代史
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神功皇后は架空の人物か
2012-07-31 14:31:33  頑固爺の言いたい放題

神功皇后は架空の人物であると主張する学者・研究家は数多い。例えば、故井上光貞氏は「四世紀における朝鮮問題の焦点は、南朝鮮の弁韓地帯の確保であり、記紀に語られている新羅はまだ脇役だった。したがって、神功皇后の新羅征伐は史実ではない」と述べた。(日本の歴史I 中央公論社)高名な故津田左右吉氏も同じような意見だった。

「御誂座敷幟ノ内 神功皇后と武内大臣」
歌川国貞画 ヴィクトリア&アルバート博物館蔵[5]
(Wiki「神功皇后」より)

いつも興味ある話題を提供してくださっている頑固爺さんのブログに以下のようなコメントさせていただきました。つづきもありますので、是非お読みください。

神功皇后は女王台与をモデルとする虚像 (刮目天 一(はじめ))
2020-06-24 14:09:37
お邪魔します。
現存する日本最古の正史が完成した時の権力者は藤原不比等です。彼は非常に有能な人物で将来藤原氏が政権を維持できるように歴史を改ざんしました。1300年後にようやく、人気作家の関裕二さんが見破りましたが、刮目天は考古学的に検証し、不比等の意図を読み取り日本建国の真相を解明しました。

神功皇后は初代天皇(祭祀王)応神天皇の母、本当の父は仲哀天皇ではなく大国主狗古智卑狗で、奴国最後の国王スサノヲの直系の子孫です。仲哀天皇の熊襲征伐では神功皇后の傍らに居た武内宿禰のモデルです。
詳しくは「古代史の謎を推理する」をご参照ください。突然失礼しました。



Unknown (日本史好き)
2020-06-25 09:12:34
古代史は私も関心があります。
私は、神功皇后は記紀の双方に出てきますし、中国・九州地方に神功皇后ゆかりの伝承が多数残っているので、実在したのではないかと思います。
仲哀天皇の崩御後、身重で朝鮮半島に渡りますが、実際の戦闘はほとんどなかったので、交易に近かったのではないかと思います。神功皇后は、母方の先祖が新羅人と伝わっていますので、それも関係しているかもしれません。朝鮮で無傷で財宝を得たことが、後の忍坂王との戦いで活かされたと考えられます。
後、神功紀を見てわかるのは、日本書紀の編者が中国の史書に邪馬台国の記述があることを知っていたことです。問題は、編者は、邪馬台国の実態を理解していたかですが、おそらくある程度知っていて、卑弥呼と神功皇后が別人であることもわかっていたように感じられます。

日本書紀の編者が邪馬台国関連の記事を引用しながら、邪馬台国や卑弥呼の名前の部分を伏せた理由を考える必要があると思います。


Re:Unknown (刮目天 一(はじめ))
2020-06-25 16:29:29
横から突然失礼します(^_-)-☆

先に書きましたように「日本書紀」は藤原氏にとって面白くない日本建国の真相を隠し、国譲り神話や神武東征神話を創作して、藤原氏の遠祖を登場させていますが、これらは虚構です。しかしその中に史実を反映したものが隠されています。

それでは、何故ウソを書かねばならなかったかは、編纂者(当時の権力者)の意図を推理しなければならないでしょう。

神功皇后の新羅征伐は、ウソですが、後の時代の倭の五王の史実を神功皇后の事績にしたようです。倭の五王は半島での失地回復の正統性を宋にお願いした事実から、独立国家の日本建国にシナにお世話になったと明記できないからでしょう。だから、「日本書紀」の中から倭の五王の史実をごっそり削除したものと推理しました。

正史は正しい歴史だというのは思い込みですよ。

書かれてあることが事実かどうかは考古学などで科学的に検証されねばなりません。



そういう視点で、当時の権力者の意図を読み取り、仮説(的)推論(アブダクション)の手法で科学的に真相解明して日本建国の過程を明らかにしました。ご興味が湧けば刮目天のブログにどうぞ(^_-)-☆




追加です(*^▽^*) (刮目天 一(はじめ))
2020-06-25 16:38:41
>日本書紀の編者が邪馬台国関連の記事を引用しながら、邪馬台国や卑弥呼の名前の部分を伏せた理由を考える必要があると思います。

まさにそのことです。これは倭の五王の話と同じで、建国時代にシナにお世話になったことを書けなかったからだと理解しています。

しかし、神功皇后紀に倭人伝からの記事が4カ所も書かれています。3カ所は卑弥呼、最後は台与の時代のものですから、神功皇后はどちらかがモデルだとなぞかけして、読者を混乱させる意味ではないかと推察しています。

しかし、神功皇后の母が応神天皇であることから考えて、台与が皇后のモデルだと推理しています。応神天皇の本当の父は住吉大社の伝承から大国主狗古智卑狗(=武内宿禰)のことだと推理しました。




頑固爺さん、いい話題をありがとうございました。(*^▽^*)


最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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卑弥呼の墓はどこなんだ?(*^▽^*)

2020-06-10 19:55:00 | 古代史
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【邪馬台国】古代史最大の謎の一つ。卑弥呼の眠る地はどこなのか、候補地を比べてみました。
2019/06/27 まあちゃん@YouTube


活発に邪馬台国関連の動画をアップしていただいているまあちゃんに以下のようなコメントしました。

刮目天一 15 分前(編集済み)
ひさびさにお邪魔します。盛り上がってますね!これだから止められない(^_-)-☆

でも皆さん、最新の考古学成果から今までの学説、
邪馬台国畿内説、九州に在った邪馬台国東遷説、最近復活してきた神武東征説、九州の方に人気の九州王朝説は全て古臭い説になっていることに気付いていないようですよ。

纏向の外来系土器を調べると当時の大陸・半島の玄関口の伊都国などを含む九州の外来系土器がほとんど見つかりません。あっても1%以下!伊都国に一大率を置いて女王への貢物を間違いなく届けた痕跡がない纏向は邪馬台国ではない決定的な証拠ですよ。他にも根拠はありますが、とっくに畿内説はアウトでした(;一_一)

また、北部九州に畿内系の土器が数多く集まっています。つまり九州の人々が畿内に来てヤマト王権を作ってはいないのです。九州王朝とヤマト王朝の二元論も成り立ちません。

でも単純に纏向のヤマトが北部九州を攻めてヤマト王権が成立したのではないことは、北部九州で見つかる畿内系・山陰・近江・尾張などの土器や楽浪土器や三韓土器が時期によって微妙に変わってくるので分かります。

また現存する日本最古の正史「日本書紀」はこのややこしい征服劇をどうやって隠して、完成当時の権力者藤原不比等に都合の良い歴史に改ざんしたのかという視点で推理するとすべての謎が解けてきます。

勿論「魏志倭人伝」の邪馬台国への行程記事も、当時の魏の朝廷の権力者司馬懿が邪馬台国を置きたい位置に置くために、倭国のことを全く知らない魏の朝廷の人々を納得させるための単なるつじつま合わせで作られたものですので、いまだに行程記事を正しく解釈すれば邪馬台国にたどり着くと考えるのは幻想にすぎません。「三国志」は西晋宣帝司馬懿の功績を最大限に持ち上げるために西晋の史官陳寿によって書かれた政治文書だったということです。

ですからむしろ女王国に政治的な思惑の無い范曄「後漢書」の記述が正解でした。陳寿は史官として権力者に不都合な真相を書けなかったのですが、歴史家のプライドから真相解明のヒントを残していました。この魏志の筆法を正確に読み取り、筆法には筆法で応えたために「魏志倭人伝」の話と違うので、相手にされませんでしたが、これが当時の文化なのです。「春秋の筆法」を解説されている孫栄健「邪馬台国の全解決」を参照してください(^_-)-☆



詳しくは刮目天の古代史ブログにあります。

「古代史の謎を推理する」

ちなみに、卑弥呼の墓も見つかっていますよ(^◇^)

卑弥呼の墓は見つかってるよ(^◇^)

この動画でまあちゃんにあげていただいた宇佐説だけですよ。ちゃんと卑弥呼の墓の伝承が残っているのはここだけです!他は全て後付けですから宇佐で間違いないですよ(^_-)-☆




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本当に卑弥呼の墓なのか?(^◇^)

2020-06-05 07:14:55 | 古代史
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2019-07-18 23:41:57に掲載した記事を大幅に改訂し、分かり易くしたつもりです。疑問点などございましたらお教えください。どうぞよろしくお願い致します(*^▽^*)

宗像と宇佐の女神(8)~「比咩」は卑弥呼? 
2019・6・12 青松光晴さん@日本古代史つれづれブログ

宇佐神宮ホ-ムページより)

青松様より以下のような疑問点をいただきました(卑弥呼の墓に関する記事にコメントさせていただいたことからやり取りしていただきましたが、都合によりその内容は割愛させていただきました)。

宮ノ原遺跡について調べますと、遺構として、「 貯蔵穴、方形住居、土壙墓、甕棺墓、石棺墓、柱穴」くらいです(全国遺跡報告総覧、奈良文化財研究所)。「宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に人がいて、武器を持ち守衛している。」という魏志倭人伝の描く邪馬台国とはほど遠いですね。絹も出土してません。考古学的状況からみて、卑弥呼の居城があった、とはいえないでしょう。
2019-07-17(16:06) : 青松光晴


青松様
いつもながら不躾なコメントに真面目に対応していただき、とてもいい質問を頂きました。こころから感謝いたします。


邪馬台国は、宇佐市安心院町の女王の居城を中心に、宇佐平野、大分平野などを含む周辺地域一帯です。戸数7万戸という「魏志倭人伝」の記述は大国と見せるための誇張ですが、記載されたクニの戸数は相対的にほぼ正しいと思われます。また、邪馬台国までの行程の解釈が混乱していましたが、方角や里程は変えられていますが、直列的に読むのが正解だと分かります。行程記事は、倭国について知識のない魏の朝廷の人々が納得できる程度のつじつま合わせで書かれていたことも判明しました(詳しくは、正史は正しい歴史なのか?|д゚))。



宮ノ原遺跡の遺構はおっしゃる通り、現在まで特に注目されるような立派なものが発見されていないのは事実ですが、主として卑弥呼の宮室と考えられる三女(サンミョウ)神社から少し離れた、その北側の弥生後期中葉から後半に比定される居住区の一部が試掘されただけで台地全体に広がる遺跡の本格的な発掘はまだです(この居住区は卑弥呼の侍女・らのものと考えられます)。

しかし、神社のすぐ西側にV字溝(幅約2.5m、深さ1m)が見つかっていますし、その中から銅鏃(多分ヤマト勢のもの)も見つかっていますから城柵の一部とみられます。ということは武装した兵士が護る女王の居城である可能性があります。

まだ発見されていませんが、物見やぐらの楼観を作るのなら神社の西側の高台だろうと思います(女王の居城平面図のB地区)。宮室(三女神社)のあるE地区では女王の居住する掘立柱建物の柱跡も見つかると思います。そこを西に下った河原は温泉が湧き出ていますし、現在もそこでスッポンの養殖がおこなわれています。また濁り酒を呑むための土製のおちょこも出土していますから、卑弥呼は毎晩、温泉につかってコラーゲンたっぷりのスッポン料理で舌鼓を打ちながら酒を楽しんでいたのだと想像しています。

また台地上は盆地内と比べて比較的温暖なので生野菜を食べることができたと思います。また川や森の山の幸は勿論、海にも近いので海の幸も味わうことができ、戦乱期の卑弥呼にとっては安全でぜいたくな暮らしができる申し分のない場所だったと思われます(#^.^#)。


宮ノ原遺跡の周辺では石棺群が8か所見つかっています。造成工事中に偶然見つかったもので、ほとんど副葬品などはない状態ですが、大平石棺群(第5石棺群)から最も傑出した遺物が発見されています。



大平石棺群3号石棺の鏡の破片ですが、三角縁神獣鏡ならば年代的にヤマト勢が大国主・台与の倭国を滅ぼした後の、呉が西晋に滅ぼされた280年の直後ではないかと思います。もしもそうであれば大平石棺群は、卑弥呼の死後の第三次倭国大乱後に北部九州を支配した物部氏に従って安心院を占領した将軍一族の古墳である可能性があります。三女神社の伝承では物部支族と思われる水沼氏が三女神を奉祭したとあります(神社の南側の盆地内に水沼社があり、そこで水取していたとの伝承)。宮ノ原台地の遺跡は5世紀ごろまでに生活を別に移していると調査報告書にあります(p.96)。

卑弥呼の石棺は第8石棺群のひとつだと思いますが、残念ながら副葬品など不明です。妻垣神社で改葬した際にすべて移され、さらに宇佐神宮本殿下の亀山で改葬され、副葬品も移されたものと考えています。

多分卑弥呼は絹の着物を着用していたと思われますが、卑弥呼の死と共に散逸した可能性があります。百余人を殉葬させたのは口封じのための大量殺りくだった可能性があります。おそらく相当大量の血が流れたことから、卑弥呼の円墳のある周囲の地名が「血野」と名付けられたものと推測しました(戦国時代に安心院氏が殺害されたとの伝承はありますが血野というからにはもっと大規模ではないかと想像しています)。

そして卑弥呼の墓の決定的な証拠と考えられるのが、「魏志倭人伝」の記述にある径百余歩(直径約150m)の円形墳丘墓を遥拝する位置に建っている同名の三女神社の地名が日食に因む「ヒカケ」だったということです。地名は一番長く残る可能性のある証拠となるものでしょう。第三次倭国大乱を記録したと推理した景行天皇の熊襲征伐の中に記された豊後大野の「血田」という地名も豊後大野市緒方町知田だと突き止めました(^_-)-☆【検証6】倭国大乱の実相は?(*^-^*)(注3)

すでに、1700年以上もたっていますので、決定的な物証の出土は中々期待できないと思いますが、三女神社とその周辺などを発掘できれば証拠となるものが発見できるかもしれません。


たとえ親魏倭王の金印が安心院盆地周辺以外の別のどこかで見つかったとしても、伊都国男王がそれを持って半島などに逃亡したなどの可能性もありますので、発見された場所を卑弥呼の邪馬台国であると単純に決定づけられないと思います。もしも伊都国周辺や帯方郡址などで見つかれば刮目天の推理を支持するものになります(^_-)-☆

この仮説を検証していく過程で多くの謎が解明できていますので、かなりいい感触を持っています。今後も検証を進めていきますので、疑問点などをお寄せください。長文になって申し訳ありません。どうぞよろしくお願い致します。

【関連記事】

卑弥呼の墓は見つかってるよ!

誤解と幻想の卑弥呼(*^▽^*)

誤解と幻想の邪馬台国(´・ω・`)

【付録】最初のご質問と回答をこちらに変更しました。(2020.2.15)
>応神天皇が神武天皇と同一人物との論拠は何でしょうか?。
また住吉大社神代記には、神功皇后と住吉大神が密通したという記載はありますが、応神天皇の父親が狗古智卑狗(大国主命)であるとは書かれてません。論拠は何でしょうか?


まず、共通認識として、一般に正史は「かくあるべし」の理念で編纂される権力者にとって都合の良い歴史でしかなく、不都合な事実は隠ぺいされ、歴史が改ざんされるというのが事実だと理解することが非常に重要です。事実を反映した部分は当然あるでしょうが、それも歪曲されているので、考古学その他の科学的な手法で記述の真偽を推論する作業が必要です。古代の文献は科学論文ではないので、著者・編纂者の隠された作成意図が必ずあり、当然常に正しい内容とは限らないので、真の目的を推理し、記述の真偽を検証することが重要だということです(^_-)-☆

最新の研究では「日本書紀」の真の編纂目的が、645年乙巳の変で中大兄と中臣鎌足がクーデターで蘇我氏の政権を倒したことを正当化し、藤原氏の出自を誤魔化して藤原氏の政権の正統性を主張するためだったと一般に知られるようになりました。多くは関祐二さんの功績ですので、たとえば「新史論 書き替えられた古代史」シリーズ(小学館新書)「古代史 不都合な真実」じっぴコンパクト新書、2018)は読みやすいので、まだでしたら是非どうぞ。関さんから多くのヒントを頂きましたが、出発点の仮説「日本は古の倭の奴国」が異なりますので、検証(推論)と結論は当然違ってきます。( ^)o(^ )

そこで、このご質問への回答はポイントのみですが、以下のとおりです。
(1)ヤマト王権が3世紀後半に成立したことは考古学事実であり、時代の異なる神武天皇は創作だということです(二倍年歴説による年代操作も「日本書紀」自身が否定しています)。ヤマトの大王の出自が北部九州に存在した奴国であることも考古学・民俗学(天皇家や神社祭祀や習俗・風俗など)・言語学や古代文献などが支持しています(特に吉備に特有の特殊器台などが初期ヤマト大王の祭祀に用いられていることから奴国の王族が吉備を経由して河内からヤマトに移ってきたことも分かります)。

(2)日本建国当時の実在のキーパーソンが存在します。「魏志倭人伝」に記載される親魏倭王卑弥呼(発音はヒメゴでヒメミコのこと、固有名詞ではない)、狗奴国の官狗古智卑狗(ククチヒコ)、女王台与(トヨ)、狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコの誤記か?)、卑弥呼のあとに立った男王、伊都国男王などです。

(3)中でも最も重要な人物のひとりである卑弥呼は、2世紀初頭まで倭国を支配していた奴国王(「宋史 王年代紀」第18代王素戔嗚尊)を多分殺して倭国を乗っ取った帥升(正しくは師升)の一族と推定される伊都国男王(倭王)と、旧奴国王族との抗争の過程で共立された女王だと推定されます。

ですが、女王の実体は太陽神のお告げを伝えるシャーマンで、男王が実権を持っており、「魏志倭人伝」記載の「男弟」であり、「大率」でもあると考えられます(孫栄健さんも同じ考えですが、男王を難升米だと推理しています。魏の正規軍を示す黄憧が難升米に贈られているので可能性は高いと思います。男王が金印も所持していたのでしょう)。伊都国で当時の硯の欠片も発見され、魏や帯方郡との交易ルートを支配し、華僑と倭人との交易を管理していたものと考えています。

「魏志倭人伝」に書かれた倭国の乱は、旧奴国王族が沖ノ島ルートで半島南部の鉄素材を入手して勢力を盛り返し(弥生後期中葉に日本海沿岸に拡がった大型の四隅突出型墳丘墓や吉備の楯築王墓は首長権が拡大した証拠)、黄巾の乱の前後において後漢朝廷の内部抗争が起こり半島支配が弱まり、混乱したことによって倭王の後ろ盾がなくなったことが背景にある思います。さらに204年公孫氏が帯方郡を設置して半島の交易が安定したので、旧奴国王族へ鉄素材を供給する沖ノ島ルートを支配していた宗像海人族の一部を伊都国男王が懐柔したと考えました。それによって鉄の供給を断たれた旧奴国王族が纏向に集まったと推理しました。狗奴国は女王に逆らう狗ころの奴国と伊都国男王が名付けたものでしょう。

したがって卑弥呼は、当時はまだ戦乱の時代ですから、海に面した物騒な不弥国(ウミコク、宗像付近)から旧奴国王の配下の安曇族が開発した野麻国(ヤマコク、和名抄にある宇佐郡野麻郷が安心院町に比定されている)に疎開していたということです(安心院の地名は院=女王の御心を安んじたという意味。邪馬台はヤマコクに住む女王を意味します)。それが宗像三女神降臨伝承として記紀神話に記されています。

(4)卑弥呼は247年の日食が原因で伊都国男王に暗殺されたと思われます。卑弥呼の死後に王に立たった男王は、記紀の記述から熊襲征伐に北部九州に乗り込んだ仲哀天皇だと関さんは推理しました。仲哀は神のお告げに逆らって突然崩御します。

モガリは神功皇后と常に寄り添っていた武内宿禰が行っていますので、住吉大社の伝承の神功皇后と夫婦の密事を行った住吉大神が武内宿禰であることを示唆します。実際にモガリの場であったという話ではなく、皇后の生んだホムダワケ(応神天皇)の父親が仲哀天皇ではなく本当は武内宿禰だと言うことを暗に暴露したわけです。住吉大神は記紀神話ではスサノヲとなりますが、年代的にはその直系の大国主命(オオナムチ)が該当します。

「魏志倭人伝」にその男王に服さず千人が殺される内乱になったとあるのは、神功皇后と武内宿禰(住吉大神)が仲哀天皇を殺害した事績を指します。その後卑弥呼の宗女台与が女王になりますので、台与が神功皇后に対応し、武内宿禰のモデルが実在の狗古智卑狗に対応します。台与は13才ですので、ホムダワケが誕生したのはその数年後でしょう。仲哀天皇は記紀の記述から考えて実在人物ではなく、創作です。しかし、邪馬台国と対立する狗奴国に比定される纏向遺跡で最も多く出土している外来土器が伊勢・東海のものであることから、仲哀天皇は物部氏と同じ天孫族ニギハヤヒを祖とする尾張氏の王がモデルだと推理しました。

同様に、宗像族の姫台与は近江・越の女王か王女、狗古智卑狗は出雲・丹波王です。そして狗奴国王卑弥弓呼が記紀でハツクニシラススメラミコトのひとりである崇神天皇です。ニギハヤヒこそ、スサノヲの後に奴国大王を継いだ第19代王天照大神尊で、楯築王墓の被葬者だと推理しました。楯築神社の御神体亀石が人面蛇体であることから中国神話の天皇伏義と一致し、倭人が太伯(周王朝の先王古公亶父の長男、周の姫氏は夏王朝の始祖王禹の末裔、禹は伏義の末裔)の後というシナの史書を裏付ける物証になります。崇神天皇は吉備を平定してヤマト王権の基礎を築いたニギハヤヒ大王(天照大神尊)の直系の狗奴国王卑弥弓呼がモデルということです。



【参考記事】
狗古智卑狗という人物?(^_-)-☆
「魏志倭人伝」では狗奴国の官で王よりも先に紹介された実力者でした。大国主でしょう(^_-)-☆

古代史の謎を推理する(^_-)-☆


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