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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

能楽「翁」は大国主のサンバだった?(*^。^*)

2024-02-29 07:25:10 | 古代史
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2020-09-11 15:45:34に記事にしましたが、一部訂正し、【関連記事】を追加しました。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

前回、能楽が建国の真相を伝える?で示したとおりですが、今回もその続きで、「能であって能にあらず」と言われる、どのカテゴリーにも属さない別格の一曲「翁(おきな)」について見てみましょう(the能.com 演目事典:翁(おきな)あらまし より)(#^.^#)



神聖な儀式であり、演者は神となって天下泰平、国土安穏を祈祷する舞を舞います。

「翁」は古くから伝わる曲で、その源流は歴史の彼方にあり、謎に包まれています。世阿弥は、風姿花伝に、猿楽の祖とされる秦河勝(はだのこうかつ)の子孫、秦氏安(はだのうじやす)が、村上天皇の時代(10世紀ごろ)に、河勝伝来の申楽を六十六番舞って寿福を祈願したが、そこから三番を選んで式三番(「翁」の別称)とした」という内容を記しています。世阿弥が記した式三番は、父尉(ちちのじょう)、翁(翁面(おきなめん)とも)、三番猿楽(さんばさるがく)という、それぞれ老体の神が寿福を祈願して舞う三番の曲を指し、三番一組で演じられました。後に父尉は演じられなくなり、現在は千歳・翁・三番三(三番叟)の順に舞うかたちとなっています。

「翁」は舞台上演前に始まります。「翁」を勤める役者は、上演前に一定期間、精進潔斎の生活を送り、心と体を整えて舞台に臨みます。

上演当日は、多くの場合、舞台上部に注連縄(しめなわ)を張って場を清め、鏡の間には祭壇を設け、使用面を納めた面箱、神酒(みき)などを供えて儀式を行います。

幕が上がると、橋掛りから面箱を先頭に、シテ(翁)、千歳、三番三(三番叟)、囃子方ほか各役が順に舞台に入ります。金春、金剛、喜多の三流では面箱が千歳の役を兼ねるため、役者が一人減ります。

シテは舞台上で深々と礼をした後に着座します。三挺の小鼓と笛の囃子が始まってからシテは謡を始め、地謡との掛け合いに入ります。その後、千歳が舞います。千歳は露払い(先導し、道を歩きやすく拓く者)の役を担います。この舞の間に、シテは翁面をつけて翁の神に変身します。

翁が進み出て舞い、舞が終わると翁は面を外し、再び舞台上で深く礼をし、その後、翁と千歳は橋掛りより退出します。これを翁帰り(おきながえり)と呼びます(金春、金剛、喜多の三流では千歳は退出しません)。

直面(ひためん)の三番三(三番叟)が登場し、「揉(もみ)ノ段」を舞った後、黒式尉(こくしきじょう)の面をつけ、面箱と問答を行った後、鈴を渡され、今度は「鈴ノ段」の舞を舞います。




ということで、翁が「天下泰平」「国家安泰」を祝い、三番叟が黒式尉の面を付けて「五穀豊穣」を祈祷する、クライマックスなどない淡々と進行する一連の儀式なのです。この能楽の「翁」は、もとは各地の神社で「人々の延命」を祈願する神事として行われていた「翁舞」です。
「古くは田楽や猿楽、あるいは人形浄瑠璃、歌舞伎、また民俗芸能などでも演じられる儀式的祝言曲であり、芸能本来の目的の一つに人の延命を願うことがあるが、その表現として翁媼を登場させることがあったものと考えられている。しかし、面を付け舞や語りを演じる芸能は猿楽が最初であり、翁猿楽とか式三番と称された。翁猿楽の成立については、『法華五部九巻書』序品第一に、父叟は仏を、翁は文殊を、三番は弥勒をかたどるなどの仏教的解説があり、平安時代後期には成立していたとする説もあるが、『法華五部九巻書』を偽書とする説もある。」wiki「翁舞」にある。現在では奈良県の奈良豆比古神社や兵庫県の車大歳神社で行われている。

その三番叟(サンバソウのソウは老人の尊称)は三番猿楽(サンバサルガク)ということです。サルはサルタヒコから来ており大国主の分身で、三番(サンバ)が弥勒菩薩なのですから大国主の本地仏ということなのです。翁は智慧を司る仏である文殊菩薩でもありますが、本当は怖い七福神の謎でも見たように、布袋尊は弥勒菩薩の化身でもあり、大黒天である大国主の息子事代主の恵比寿も大国主の分身なのです。そしてアマテラス女神の孫ニニギの天孫降臨に登場する教導の神サルタヒコと、神武天皇の東征を導く塩土老翁(しおつちのおじ)も、七福神の寿老人・福禄寿もすべて人を導く老人で共通します。また、武内宿禰は生まれたばかりの応神天皇を抱きながら、常に神功皇后の傍らに寄り添う三百歳を超える白髪・白髭の老人です。白髭明神(新羅明神)である大国主のことですから、能楽「翁」と、その元になった神社の「翁舞」に登場する翁と三番叟(サンバサウ=サンバサル)は同一で、すべて大国主狗古智卑狗(久々遅彦、豊岡市久々比神社祭神久々遅命、奴国大王スサノヲの子イタケルの直系で木霊として祀られている)のことを表しているのです狗古智卑狗という人物?

また、サルタヒコのペアとして登場するアメノウズメは、天岩戸の前での裸踊りでも有名ですが、サルタヒコが武内宿禰ですから、アメノウズメは太陽神住吉大神が憑依する姫巫女神功皇后のことなのです。つまり、日本建国の主役である実在人物の大国主狗古智卑狗が倭国を支配するために卑弥呼の後継者として立てた十三歳の宗女台与も姫巫女・祝女(はふりめ)であり神功皇后のモデルなのです悲劇の女王台与のはなし(その1)(その4)

この超重要人物二人を殺して倭国を奪った狗奴国ヤマトの卑弥弓呼(ヒコミコか?吉備を平定し、楯築王墓の被葬者として祀られている奴国大王天照大神尊ニギハヤヒ直系の大王)が「日本書紀」では大物主大神(大国主狗古智卑狗)の神託によって大神の子オオタタネコ応神天皇を初代祭祀王として纏向に迎え入れた崇神天皇のモデルでした。オオタタネコ応神天皇は大国主と台与の子供なのですよ。

「記紀」で応神天皇は仲哀天皇の皇子となっていますが、「日本書紀」の記述から仲哀天皇はその父のヤマトタケルが死んで、なんと三十年後に生まれた計算になるので杜撰な作り話とすぐわかります。応神天皇の実の父親である大国主狗古智卑狗を隠すために登場させた架空の人物です。住吉大社の伝承では応神天皇の本当の父親は住吉大神かも知れないとにおわせています。住吉大神は神功皇后を常に支えた神ですから、武内宿禰のことであり、大国主のことなのです。仲哀天皇の正体は、卑弥弓呼大王によって派遣された倭国征討軍の首将で、卑弥呼の死によって壊滅した倭国勢を蹴散らして、ヤマトを裏切り倭国王に立とうとして大国主に殺された人物だと突き止めました。物部氏の祖卑弥弓呼大王と同族の有力者で東海・伊勢を支配する尾張王だと推理しました。(2024.2.29 赤字修正)

日本建国の主役である、ヤマトに国譲り、つまり倭国を奪われた大国主久々遅彦と女王台与、そしてヤマト勢が押し寄せてくるときに日食があったので伊都国男王(倭国王難升米、卑弥呼を補佐するとした男弟)に殺された卑弥呼の三人は、ヤマトを怨んで亡くなった人物ですから、建国当初の物部政権時代から歴史の真相が隠され、天変地異や疫病が起こらないように鎮魂の祈祷を行ってきたのです。多くの人々は建国の真相を平安時代から室町時代くらいまでは知っていたようですが、崇りが怖ろしいので決して本名を口に出さない、つまり言挙げしないのが暗黙の了解だったのだと思います。だから、書物などにもあからさまにする様な記録を一切残さなかったのだと思います。

これが神道の本質であり、この考え方は現代まで引き継がれているのです。

猿楽(さるがく、猿樂)は、室町時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである[1]。とwiki「猿楽」にあります。勿論、猿楽のサルは大国主サルタヒコのことです。猿女君(さるめのきみ・猨女君、猿女公)は、古代より朝廷の祭祀に携わってきたとされる一族であり、アメノウズメを祖とします。また、武内宿禰は紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏・波多氏など中央有力豪族の祖とあります。猿楽の祖である秦氏の読みがハタですから波多氏のことでしょう。秦氏は大国主の末裔の氏族だったのです。

観阿弥・世阿弥が日本建国の真相を能楽で伝えようとするのは、

やはり大国主久々遅彦の流れを汲む秦氏の一族だったからなのです(^_-)-☆。


日本の伝統芸能の源流が日本建国の真相と底辺で繋がっていることが古代史解明によって分かってきました。
この先もまだまだありますが、結構複雑なので現在まとめています(#^.^#)

【関連記事】
秦氏の正体と能楽のひみつ?
秦氏は、日本書紀が隠したい氏族のひとつでしたので渡来人だとかユダヤ人だとかいろいろと説が生まれるようになったのでしょう!

秦氏と古事記の関係?
古事記は日本書紀によって隠された史実を藤原氏に悟られないように暴露するための暗号書だったのです。
古事記を作った多人長が多氏の祖神を神武天皇の皇子カムヤイミミとしたのは、本当の初代応神天皇の皇太子ウジノワキノイラツコ、宇治天皇の子孫だったことを示唆していますよ(^_-)-☆



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藤原鎌足は日本人じゃない?ブッブー!( ^)o(^ )

2024-02-28 06:13:11 | 古代史
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2024-01-30 11:01:34に記事にしましたが、関裕二さんの説はファンタジーという批判の権威主義的なコメントがあったので、反論しました。皇室や名家の血統のDNA調査に関するいい議論になるかも知れません。本文の末尾の【議論】に追加しました。この記事の掲載時点で相手からまだ回答が来ていませんが、よろしければお付き合いください(#^.^#)

2022-10-21 21:28:54に記事にしましたが、その後分かったことを入れて追加します。よろしければお付き合いください(;^ω^)

YouTubeに以下のような動画が見つかりましたので、さっそくコメントさせていただきました。おつきあいください(#^.^#)


高橋学長のむさしのチャンネル

刮目天のコメント
藤原氏のルーツが百済王子という関裕二さんの説は賛成ですが、日本人でないという説には賛成しません。
藤原氏は確かに武寧王の子孫と考えていますが、先代の百済王東城王と血縁関係はなく、呉の夫概の子孫だと推理しています。つまり、夫概は呉王夫差の伯父にあたります。そして日本最初の王は夫差の系統の呉王族だということが考古学の成果から分かります。紀元前4世紀(弥生前期末ないし中期初頭)に半島南部から福岡市早良平野の吉武・高木遺跡に移り住んだ天御中主から三代の王(天村雲尊、天八重雲尊)とその一族が日本最初の王墓群に埋葬されています。つまり天皇の皇祖神ということです。記紀神話では高天原に最初に登場した神としています(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。

多くの皆さんは日本書紀の正体を理解していませんが、あれは天武天皇が編纂を命じたと思いますが、完成は崩御後34年たってからです。時の権力者は藤原不比等でした。藤原氏が権力を握り続けられるようにするために、不都合な歴史を改ざんし、藤原氏に都合の良い日本神話を創作して、史実も隠ぺいして歴史を改ざんしました。
関裕二さんのファンであるわたしも、関さんの影響を受けて記紀に疑いを持ちました。考古学と民俗学の成果から日本書紀の正体を明らかにし、日本建国の真相を突き止めました。詳細は拙ブログ「倭国大乱が分かれば邪馬台国も分かる!(^_-)-☆」をご参照ください。

最初の話に戻ると、武寧王はおそらく馬韓伯斉国の倭人の王です。遼西を支配していた本家百済が同じ扶余族の高句麗に滅ぼされ、馬韓に逃亡した東城王を殺して、百済王を名乗ったと推理しています。つまり背乗りです。ですから、その子孫である藤原鎌足の子孫も天皇家と同じ呉王族の血統で、部下たちの多くは江南出身の倭人です。中臣は奴(ナーガ=龍蛇神)国王の臣下という意味です。天御中主はナーガ(龍蛇神)を信奉する倭人の王という意味なのです。

日本人のY染色体DNA分析からも、北方アジア系のツングース族C2の男性は3%以下ですから分かります。平安時代にあれだけ多くの荘園を支配し、隆盛を誇った藤原氏がツングース系であれば、C2はもっと多くないと説明できませんから分かります。詳しくは拙ブログ「【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?」を参照してください。お邪魔しました( ^)o(^ )


とコメントしましたが、塚田敬章「堂谿氏(秦氏の源流)」に以下の重要なことが書かれていたのを見落としていました。

「姓解」三巻に「夫餘」という見出しが有り、「風俗通、呉公子夫概、楚に奔り、子孫去らずは夫餘氏を称す。また百済王は初め夫餘を姓とす。(夫餘風俗通呉公子夫槩奔楚子孫不去者稱夫餘氏又百済王初姓夫餘)」という風俗通の逸文があります。

つまり扶余族は呉系楚人ということなのです。「扶余から高句麗が分かれ、高句麗から百済が分化している。百済が夫概の血を引くというのは事実なのです(魏志扶余伝・扶余史)。」ということですから、高句麗の人々は楚人系(O2)、百済の人々は夫概の子孫の呉王族(O1a)及び倭人系(O-47z)ということなのです。

そして、上で述べた伯済国の人々は恐らく馬韓に入り込んだん濊(かい)人系で、これも呉の倭人の可能性が高いと見て、上述のとおり伯済国の首長だった武寧王が百済を名乗ったとすれば、藤原鎌足とその子孫は現代本土日本人男性の約1/4の倭人系(O-47z)ということでいいと思います。ですから武寧王の系統の百済、そして鎌足の系統の藤原氏は呉王族(原始夏人系O1a)ではない倭人と考えています。

【関連記事】
半島の古代史だ!(漢四郡まで)

渡来人は異民族とは限らない?
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現代日本人と周辺民族の父系のルーツ

【議論】
ただのファンタジー。関氏は学者ではなくて、歴史作家。彼の書いたものは、誰でも手に取りやすいような安い価格(1500円程度)で、書店で平積みされている歴史読み物なので、素人には目につきやすい。大学の学者が書くような1冊が1万円以上するような学術書ではないだろう?大学の学会では全く相手にされてないけど、なぜか素人には有名。その点、邪馬台国九州説で有名な古田武彦に似ている。

学者を著作物の販売価格で判定するやり方は妥当ではないと思いますよ!
歴史学であるならば科学的な手法を用いて歴史を解明する学問の分野です!関先生は学会に所属する歴史学者と比べて優れた着想と学者と同様な証拠に基づく推論が一般人にも評価されているので人気になっているのだと思いますよ!

最近、著名な考古学者が邪馬台国と卑弥呼について本を発表していますが、邪馬台国畿内説はそもそも文献と事実、つまり考古学の成果とが矛盾するものですよ!むしろこれは事実に基づかない空想、ファンタジーでしかないのですよ!
だから最早、学会の権威も地に堕ちていると思います。
勿論この方は多くの優れた実績のある考古学者ですから考古学者としては一流だと思いますけど。
関先生は歴史小説を書いている小説家ではない、真実を追求する学問の徒だと思いますよ!


関さんの著書は、学術書ではなく、都市伝説や陰謀論と同じ種類の娯楽系の読み物だと思ったら良いと思います。井沢元彦も小説家なので、関さんと同じ分類で良いと思う。
藤原氏の前身は中臣氏です。中臣氏の嫡流は常陸の鹿島にいた家系であり、その庶流が中臣鎌足を輩出した家系である。古代の祭祀を司る一族です。
モンゴルのチンギス・ハーンでY染色ハプロの研究でも有名な、オックスフォード大学の遺伝学研究チーム・Chris Tyler-Smith教授は、日本人の男性のY染色体の一塩基多型(SNPs)および縦列反復数(STRs)を解析した結果、皇室の祖先が日本に渡来していたのは約3万7000年くらい前、藤原氏の祖先が日本に渡来してきたのは約4000年前だと判別している。これはY染色体ハプロの分子時計で分かる。よって、関さんの説は科学的に成立しないです。


学術書の定義ですが、学問の徒が書いた内容的に学問の成果として評価できるものであればいいと思います。あなたが批判していた古田氏は大学に所属していたと思います。学者は何も学会に所属していなくても、大学などで教育研究に携わっていなくても、学問分野に対する科学的なアプローチで真実を探求している者であればいいと思いますよ。

藤原鎌足が中臣氏の庶流でなく、百済王子だという説です。根拠も納得できるものですので私も賛成しています。

あなたの学術的な反論を聞きたかったのです。
①Chris Tyler-Smith教授が日本の皇室のどなたのYーDNAを解析したのか教えてくれませんか?
②藤原氏の祖先というのはあなたは中臣氏とのことですが、サンプルはどこにあったのですか?



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卑弥呼は何故隠された?(´・ω・`)

2024-02-26 09:59:21 | 古代史
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2022-02-26 14:43:51に下のとおり掲載しましたが、一カ所だけ赤字で訂正し、図のリンク切れを修正し、さらにその後卑弥呼を隠す理由を発見しましたので、記事のリンク先を【注目記事】に示しました。よろしければお付き合いください(#^.^#)

2020-07-24 13:35:22に掲載しましたが、少し説明を加えました。お付き合いください( ^)o(^ )

前回のブログ「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」で卑弥呼が縄文系ムナカタ海人族の姫巫女・比売神(宗像女神イチキシマヒメ)であることが判明しました。和邇(ワニ)氏は宗像氏と同祖で卑弥呼と特に関係が深いようです。卑弥呼を比売神として奉斎する氏族が、日本書紀で抹殺されて全く謎だった四・五世紀の有力氏族の和邇氏(和珥氏)でした。天皇の妃をたくさん出している氏族です。

ですから何故、卑弥呼が正史で抹殺されなければならなかったのかは明らかです。

藤原不比等が権力を維持するために、日本建国で活躍した由緒ある氏族は目障りな存在だからです。

そのために、正史では初代とする神武天皇の祖母豊玉姫も母玉依姫(祖母の妹)も近親婚のワニ(サメのこと)の一族として貶めて思い切り嘲笑したのです。

元ネタはありますがこれは大げさな作り話です(「神話が隠した不自然な史実」参照)。初代祭祀王の応神天皇の母神功皇后の正体が、和邇氏と同族の息長氏一族の台与(トヨ)だったのです。息長氏も縄文海人ムナカタ族で卑弥呼ともイザナミとも同じワニの一族なのです(注)。


タイガー・シャーク(イタチザメ) できれば遭いたくない…日本にも生息する危険な人食いサメ3種類とその対処法 より



二世紀初頭に奴国の宮廷楽師師升らがクーデターを起こし、スサノヲ大王が殺されました(「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。東方に逃れた旧王族らに対して、和邇氏の祖のムナカタ族が沖ノ島経由で半島南部の鉄素材を供給したようです。スサノヲの子孫狗古智卑狗(久々遅彦として代々襲名)がスサノヲの縁故によって半島南部の秦人や倭人の製鉄従事者から鉄素材を確保し、ムナカタ海人族の助けを借りて丹後半島などに運び、鉄器生産を行ったようです。

日本海沿岸の首長たちは鉄の総元締めの久々遅彦の傘下となり鉄器を入手して飛躍的に生産力を伸ばし、勢力を拡大したと考えられます。それぞれの地域の首長はリーダーとしての権力が高まったことで、従来行われていた祖霊祭祀から首長霊祭祀に発展し、出雲地方で大型四隅突出型墳丘墓が出現します。出雲王久々遅彦との繋がりから各地の首長の序列化も行われ、同じ形式の墓が作られるようになりました。その後の古墳時代はこれが契機となったと考えられます。



クーデターから脱出したスサノヲの弟ニギハヤヒは久々遅彦から鉄製武器を入手して吉備を平定し、奴国の王位を継承し、ヤマト王権の基礎を築きました。死後、楯築王墓で丁重に埋葬されました。「宋史 王年代紀」記載の第19代奴国王天照大神尊です。「先代旧事本紀」によれば物部氏や尾張氏の祖です。(「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)。

半島が混乱した二世紀末から三世紀初頭の(第一次)倭国大乱で活躍した大国主の先代久々遅彦(「魏志倭人伝」の狗古智卑狗、スサノヲの子イタケル直系の子孫)が倭国王難升米に討たれたました(「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)」参照)。王を失って途方に暮れた玄界灘のムナカタ族の族長赤坂比古(のちの和邇氏の祖)が難升米王に介入され、卑弥呼を女王に共立し、纏向の狗奴国を裏切って対立しました。卑弥呼は、実際はムナカタ海人族の伝統的な太陽神信仰で神託を王に伝える姫巫女ですが、後に公孫氏が魏の実力者司馬懿に滅ぼされたので難升米王が魏に朝貢した際に、司馬懿の功績を称揚する目的から倭国を女王が統治するエキゾチックな大国であると魏の朝廷の人々に理解させ、卑弥呼は対外的に女王とされました(「【検証22】難升米という人物は?(その1)~(その3)」参照)。

邪馬台国が登場して狗奴国に鉄が供給されなくなったのでニギハヤヒ直系の大王(「魏志倭人伝」に登場する狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコの誤写、ニギハヤヒ大王の後継者として代々襲名したようです。記紀では第九代開化天皇)が、ヤマト纏向に旧奴国王族らを集結させました。連日、奴国を滅ぼした師升王の子孫の難升米王と狗奴国を裏切った卑弥呼の一族への呪いの祈祷を行った模様で、纏向遺跡で大量の桃の種の発見されたことから想像できます。初代卑弥弓呼王(開化天皇)の墳墓が纏向で210年頃築造とされた最初の前方後円墳の石塚古墳でしょう。

ヤマトの邪馬台国遠征軍の主将の尾張王乎止与(ヲトヨ、ニギハヤヒ大王の子孫で纏向に集まった有力者)が伊都国の男王難升米が支配する倭国を滅ぼし、狗奴国を裏切って自ら倭国王に立ったので、久々遅彦と内戦になりました。久々遅彦に寝返った卑弥呼の弟赤坂比古によって尾張王が討たれたと推理しました(乎止与の墓が鳥栖市の赤坂古墳、九州最古級の前方後方墳、「愛宕権現の正体は赤坂比古か?」参照)。久々遅彦は卑弥弓呼王の親族の尾張王を殺したことから、丁度倭国に来ていた魏使張政の進言によって親魏倭王卑弥呼の宗女台与を女王に立てて、魏を後ろ盾にして纏向ヤマト(狗奴国)と対立することになります(「【検証23】魏使張政って?!」参照)。卑弥呼が支配した九州・四国・中国西部に加えて、山陰・北陸などを版図とする倭国を作ったので、後世、大国主と呼ばれます。

この頃、尾張王を殺し纏向ヤマトを裏切り倭国王となった久々遅彦への恨みから、狗奴国ヤマトの勢力が大国主傘下の日本海沿岸の集落をしきりに襲撃したと思われます。青谷上寺地遺跡の無防備な住民への大量殺人事件です。鉄鏃が使われていたはずの丹後半島の函石浜(はこいしはま)遺跡や江津市の波来浜(ならはま)遺跡でこの頃の近畿のものと思われる銅鏃が発見されています(日本海沿岸では鉄鏃を使う兵士以外は狩猟用などで石鏃か骨鏃が使われています。鉄欠乏症の畿内や東海の兵士は銅鏃を使ったと推理しています。)。

ムナカタ族は、270年ごろ北部九州の倭国を占領した物部によって一掃された模様ですが、280年頃に応神天皇が祭祀王として呼ばれ、ヤマトで即位したことにより、復活した模様です。おそらく息長氏と和邇氏は半島南部の鉄資源確保に必要だったこともあります。

しかし、前回の日牟禮(ひむれ)八幡宮の由来の話で、藤原不比等が強引に「日群(む)れの杜」に社名を変えさせたことが判明したので、和邇氏が祀っていた原八幡神は比売大神(宗像三女神)卑弥呼だと分かりました。応神天皇が日輪が重なるのを見たという八幡宮の由来は後で作られたものです。

もともと5世紀末ごろに、卑弥呼を宇佐市稲積山などで渡来系秦氏に繋がる辛嶋氏が祀っていました(辛嶋勝姓系図ではスサノヲの子イタケルを祖とするので、秦(波多)氏と同じ大国主久々遅彦の後裔)。これについてはまた述べますが、藤原不比等は建国の歴史が正しく伝承されるのを嫌って、原八幡神卑弥呼を隠しました。

そのために、大田田根子(応神天皇)を祖とする大神氏を宇佐に派遣し、鷹居社を造らせ、大国主を八幡神として祀らせ、さらに小山田社に移して祀らせた模様です。八幡神の影響を宇佐地方から隠す目的でしょう。不比等の死後725年、藤原氏が宇佐神宮を現在の地に創建して一の御殿に八幡大神として祀り、その後733年に八幡比売神卑弥呼を二の御殿に祀るようにしました。(2024.2.26 赤字訂正)

wiki「八幡神」によれば、「八幡神を応神天皇とした記述は『古事記』・『日本書紀』・『続日本紀』にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった[4]。」八幡大神を大国主から八幡大菩薩応神天皇とする伝承は八世紀後半に作られた模様です。それ以前からの宇佐地方での卑弥呼の祭祀についても含めて「卑弥呼はどのように隠された?」で述べていますのでご参照ください。

【注目記事】
富雄丸山古墳に隠された大きな秘密?
不比等はこの秘密を隠すために卑弥呼も宗像三女神として神話に閉じ込め、日本書紀を完成させたのですよ(;´Д`)
日本神話は不比等が創ったものなのですよ( `ー´)ノ
卑弥呼が正史から消された理由?(^_-)-☆

【関連記事】
卑弥呼はどのように隠された?
卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)

卑弥呼の墓の伝承の謎だよ(^_-)-☆
卑弥呼の墓は見つかってるよ!

(注)その神話の元ネタですが、天武天皇の皇后鸕野讚良(うののさらら、持統天皇)の子の草壁皇子(662年生まれ)と、持統天皇の異母妹の阿陪皇女(元明天皇、661年生まれ)との間に軽皇子(文武天皇)が生まれたので(683年)、神話も叔母との近親婚の話にしたということです。しかし、神話では妹に乳飲み子を成人になるまで面倒見させて、結婚したというトンデモない話を作り、天皇家を思いっきり貶めていますから質が悪いですね。(卑弥呼の墓の伝承の謎だよ(^_-)-☆)

宗像大社に「ムナカタの子はスミヨシ」という伝承があるようです(関裕二「海峡を往還する神々」PHP文庫、p.188)。スミヨシはイザナギから海の支配を任されたスサノヲです。つまりイザナミはスサノヲの母ですからムナカタ族です。スミヨシはまた、スサノヲの直系の大国主でもあります。首長霊信仰は首長の祖霊と一体化するのが特徴のようです。卑弥呼がイザナミと同じ母系だというのは、朝廷が贈った神階から分かります。

神階のうち、皇族だけに贈られる位階と同じ品位(ほんい)が四柱だけなのです。淡路伊弉諾神宮伊弉諾尊、宇佐神宮八幡大神がそれぞれ一品(いっぽん)で、八幡比咩神(比咩大神、宗像三女神)が最初は二品でしたが最終的に一品、備中吉備津神社吉備津彦が二品を贈られています。伊弉諾尊は皇祖神ですから分かります。八幡大神は応神天皇となっていますが、何故第十五代天皇だけ一品なのか、他の二柱も全く謎でしょう(^_-)-☆

八幡大神は本当は応神天皇の父大国主のことだと考えています。首長霊信仰から大国主と応神天皇は一体なのです。八幡比咩神は宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼であり、台与も含まれると考えられます。台与は大国主との神婚伝承のある宗像三女神(タギツヒメ、タギリヒメ)、豊受大神、正一位稲荷神(宇迦之御魂神、うかのみたま)、白山比咩命、豊岡姫、淀姫などとして全国で祀られ、崇敬されています。そして吉備津彦の正体が天照大神尊ニギハヤヒでした。

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆





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富雄丸山古墳からまた出てくるか?(@_@)?

2024-02-25 09:23:56 | 古代史
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富雄丸山古墳の主体部の割竹形木棺の調査に入りましたね。何が出てくるのか楽しみです。盗掘されていたという話を聞いていますがどうなのでしょうか?遺骨は残ってませんかね?出来たらDNA鑑定して欲しいのですが(;^ω^)

それから被葬者を神武東征を邪魔して結局ニギハヤヒに裏切られて殺されたナガスネヒコだという説があるようですが、時代が合いませんね。

またコメントしてしまいました。消されるかもしれませんが、記事にしましたので、よろしければお付き合いください(#^.^#)

【速報】盾形銅鏡・蛇行剣の下から木棺が出土!小口板や仕切板、縄掛突起も当時の姿で
奈良市動画チャンネル



ほとんどの皆さん、騙されていますが日本神話は藤原不比等が、不都合な建国時代の史実を隠すために創作したのですよ(詳細は「日本の神話だけ他の国と何かが違う…?(@_@)!」参照)。

そして記紀神話は江戸時代にできたものなのです。

明治になって国民をまとめるために記紀神話に基づく国家神道を創設して、学校で国史教育しましたので、戦後も日本国民は何となく日本の歴史かなと思わされています。

ですから記紀にある話をそのまま史実と考えても、事実、つまり考古学や民俗学などの成果と一致しません。

不比等の意図を推理して事実で検証を繰り返すアブダクションという推論法によって本当の古代史が浮かび上がります(詳細は「古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その4)」参照)。

富雄丸山古墳は初代応神天皇の皇太子で即位した宇治天皇です。母方が宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼を祖神とする和邇氏です。異母兄のオオサザキ仁徳天皇に暗殺されたと古事記の暗号を解いて分かりました。

古事記は日本書紀よりも先に完成したとされていますが、9世紀に突然表に出てきたのです。不比等に隠された史実を藤原氏に悟られないように暴露する暗号書だったのです(詳細は「【刮目天の古代史】今年の大発見第1位!(^_-)-☆」参照)。
お邪魔しました(#^.^#)


【関連記事】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆日本神話は不比等が創作したことが分かります。江戸時代まで多くの人は伊勢の神と三輪の神は同じヘビの化身(天照皇大神大国主命)と信じていました。神仏習合、修験道や道教の影響を受けた記紀神話と全く違う神話が語られていたのですよ(^_-)-☆。


【刮目天の古代史】今年の大発見第1位!(^_-)-☆
被葬者がウジノワキノイラツコだとする証拠が沢山ありました(^_-)-☆

空白の世紀と倭の五王の謎(その1)~(その3)
古事記が残した、日本書紀と違う崩年干支、宋書にある倭の五王の朝貢年などから暗号が解けます(^_-)-☆

富雄丸山古墳に隠された大きな秘密?
不比等はこれを隠すために日本書紀を完成させたのですよ(;´Д`)


通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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【吉野ヶ里遺跡】石棺の謎が判明した?(^_-)-☆

2024-02-24 10:21:32 | 古代史
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いつも拝見しているsazanamijiro様の記事から閃きましたので記事にします。よろしければお付き合いください(#^.^#)

吉野ヶ里遺跡と「謎のエリア」の線刻
神秘と感動の絶景を探し歩いて  Beautiful superb view of Japan 2024/02/16 06:00 




(クローズアップ現代 2023年7月4日 午後2:52 公開 より)


【刮目天の古代史】今年の大発見第2位!(^_-)-☆にも掲載しましたが、線刻画は天体図で間違いないと思います。

石棺の蓋に刻まれたものは天の川を挟む織姫と彦星ですね(^_-)-☆。

吉野ケ里遺跡に近い小郡(おごおり)市に七夕神社がありました。「織女神」(正式名称:万幡秋津師売命/よろずはたあきつしひめのみこと)を祀る「媛社(ひめこそ)神社」から「宝満川」という川を挟んで反対側に、牽牛(彦星のこと)をお祀りする「老松宮」というお宮が存在しています。

でも、この三世紀後半の吉野ヶ里遺跡の人々が七夕の話を知っていたはずないので、とても不思議です!

石棺の被葬者ですが、大国主が外交上卑弥呼の宗女とした13歳の女王台与の父息長宿禰王少彦名命でいいと思います!織姫が台与、牽牛が大国主久々遅彦という設定ですが、大国主の父は菅原道真の祖神で国造り神話の天穂日命です(詳細は「赤坂今井墳丘墓の被葬者は?(^_-)-☆」参照)。大国主も牛頭天王スサノヲの子孫なので牽牛とされたのです。でも、この神話は七世紀末頃の日本で本格的に始まった神仏習合からなのです(詳細は「卑弥呼を不比等から護った人物?(;一_一)」参照)。

当時から縄文海人族が丸木舟などで遠洋航海する時に夜間の目印にしたということですかね?

息長宿禰王も近江・北陸・越を根拠地とする縄文海人ムナカタ族と推理しています。

そしてムナカタ族が越人(O-M95)とどこかで接触して、越人文化である鳥信仰を導入したことが舟を漕ぐ羽人たちが描かれた土器の線刻画から分かります。




越人をルーツとする日本人男性は1%以下ですが、朝鮮民族で2.7%、満州民族で5.8%、華北漢民族で6.8%、そして華南漢民族は東アジアで最も多い30%です。東南アジアにはもっといます(^_-)-☆ は元々は長江下流の南部にあった国ですが、紀元前306年に楚に滅ぼされて主に、東南アジアに展開したのだと考えています。ですから、縄文海人は半島などで越人とも交流していたはずです。大国主がトビと呼ばれるのも越人の影響だと考えています(「大国主はトビヘビだった(^◇^)」参照)。半島のソッテは鳥居のルーツといわれていますので越人のものなのでしょう(^_-)-☆


GaneshPrasad Arunkumar et.al. " A late Neolithic expansion of Y chromosomal
haplogroup O2a1-M95 from east to west " 2015 Institute of Botany, Chinese Academy of Sciences
より)
弥生文化や日本語と強い関係が知られるインド南東部タミル地方(スリランカの東側)に約20%程度存在することが上の分布図から分かる。(詳細は「弥生文化はインドのタミル人と縄文人の邂逅で生まれたのか?」「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」

エジプト文明でもそうですが、太陽神信仰は鳥とも関係します。ムナカタ族が作ったと考えている唐古・鍵遺跡出土の男女の祝(羽振り)を描いた土器の線刻画から分かります。




宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼は縄文海人族の巫女です。父であるムナカタ族の赤坂比古(和邇氏の祖、天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神)が祝(はふり)=巫(かんなぎ)なのです。赤坂比古は魏志倭人伝にも倭大夫伊殸耆(イセギ)として登場しています。この名前は教養人だった本当の倭国王難升米(奴国宮廷楽師でスサノヲ大王を殺して倭国を奪い王都を伊都国とした師升の子孫)が、漢字の意味を考えて名付けて帯方郡太守劉夏に書いて教えたものと推理しています(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?(@_@)」参照)。

縄文海人ムナカタ族は巫(かんなぎ)のことを「イセ」と呼んでいたのだと思います。「伊(イ)」は聖職者を意味し、「聲(セイ)」は声という意味ですから、「イセ(伊聲)」は巫女に憑依した太陽神のお告げを人々に伝える祝(はふり)という意味なのです。「耆(ギ)」は老人という意味です。赤坂比古は老いた「祝(はふり)=シャーマン王」だったのです(詳細は「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?(^_-)-☆」参照)。

伊勢遺跡守山市伊勢町から阿村町にかけて発見された弥生時代後期の約30ヘクタールに及ぶ大規模な遺跡です。縄文海人ムナカタ族の息長宿禰王少彦名の部族のものだと考えています。伊勢神宮の名称もここから来たものだと分かります。つまり、元々息長氏の祖先のムナカタ族が祭祀場として使っていたのが、豊受大神台与を祀る外宮だったのです。逆に伊勢に呼ばれたのが大国主だったということなのです(詳細は「伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その1)(その2)」参照)。

ということで、息長宿禰王少彦名が吉野ケ里遺跡の石棺の被葬者で間違いないようですよ(^_-)-☆

【関連記事】
【刮目天の古代史】今年の大発見第2位!(^_-)-☆

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