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#先ほどコメントを頂き、話の人間関係がかなり複雑で分かり難いようなので、応神天皇から倭の五王までの系図の下に、ちょっと煩雑な系図ですが追加しました。よろしくお願いいたします(^_-)-☆
徹底的に隠蔽!?ニギハヤヒはヤマト王権の初代統治者
むらくも歴史チャンネル@YouTube
いい話題をありがとうございます。
おっしゃるとおり、日本書紀は完成当時の権力者の藤原不比等が主導して、藤原氏に都合の悪い建国時代の史実を神話に閉じ込めて、人代の歴史もかなり改ざんしたことが、事実、つまり考古学や民俗学などの成果から判明しました。
神社伝承ですが、建国時代に活躍した豪族を衰退させるために創作した神話に合わせて祭神・由緒・社名まで変更させています。
さらに、明治になって国家神道が創設されて記紀神話に合うように徹底して変更されてしまいましたので、表の神社伝承を信じると訳が分からなくなります。地元の人たちが祀る摂社や末社に本当の祭神が隠されています(例えば、京丹後市奈具神社の末社(新羅神社)で本当の祭神スサノヲが祀られています。詳細は「乱暴者の神スサノヲは実在人物だった?!(^_-)-☆」参照)。
ですから記紀のストーリーで仮説を組み立てても事実に合いませんので、不比等の意図を読んでなぜウソをついたのかを考えて、仮説を作り、事実で検証してゆくと真相らしいものが見えてきました。
ニギハヤヒは本当に徹底的に隠されているのですが、ヒントとなる事実から鬼退治した吉備津彦として隠された楯築王墓の被葬者だということが判明しています。ニギハヤヒの子孫がヤマト王権を成立させ、今上陛下の祖天智天皇がニギハヤヒの嫡流だと分かりました。
よろしければ「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)」・「【大発見!】天皇家のルーツの証拠!(*^▽^*)」「天智天皇も天武天皇もアメノタリシヒコの孫?(@_@)」などをご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)
折角ですから、何故隠されたかについてもう少しだけ説明します(#^.^#)
京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺は、天智天皇と飛んでその孫の光仁天皇から今上天皇までの歴代の天皇を仏式でお祀りしているのですが、天武天皇やその子孫の文武天皇、聖武天皇などは祀られていないので、天智天皇と天武天皇はルーツが違うと分かりました。「天智天皇も天武天皇もアメノタリシヒコの孫?(@_@)」で述べたように天智天皇はニギハヤヒ大王の系統であり、天智天皇と兄弟とされた天武天皇は、実はニギハヤヒ大王の兄のスサノヲ大王の五世孫の大国主高野御子の系統だったのです。兄弟というのはそれぞれの出自を隠くすための作り話だったのです。しかし、スサノヲとニギハヤヒの両親は記紀神話で国生みの神とされた伊弉諾尊と伊弉冉尊ですから、日本には二つの異なる血筋の王朝があったわけではないのです。だから、両系統の大王を天皇と呼んでいるのです。
日本の最初の皇祖神は天御中主だったことは記紀神話が伝えるところですが、「【刮目天の古代史】天皇の称号の起源?(^_-)-☆」で述べたように初代の倭の奴(ナーガ、龍蛇神)国王だったのです。新唐書・宋史が記したとおり「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」だったということです。
そして、第十八代王スサノヲの時に宮廷祭祀を司る師升(107年に後漢に朝貢した倭国王帥升)らの反乱でスサノヲが殺されて奴国が滅びました。スサノヲの弟ニギハヤヒとスサノヲの王子イタケルが出雲に逃亡し、イタケルの子孫は二世紀末の倭国大乱で活躍しました。ニギハヤヒは吉備の裏切り者らを征伐し、奴国を再興し、第十九代王天照大神尊として倉敷市楯築王墓に葬られました。
このスサノヲとニギハヤヒの子孫が活躍して三世紀末にヤマト王権が成立する過程について、付録に推理の概略を書きますのでご参照ください(;^ω^)
第15代応神天皇が、三世紀後半の建国の戦いで戦死した両親(大国主と台与)を祀る初代のヤマトの祭祀王です。その史実が不都合な藤原不比等によって初代神武天皇の話が創作されたので多くの方は誤魔化されていますが、神武天皇は応神天皇の史実を誤魔化すための虚像なのです。だから初代ヤマトの大王の史実はまったく異なるのです(;^ω^)
それで、応神天皇の時代は、今までの経緯で敵対していたスサノヲ・大国主系とニギハヤヒ大王系の豪族の殺し合いの結果になったので、それぞれの陣営の確執を水に流そうということで、応神天皇の皇后に尾張王建稲種命の孫仲姫命(なかつひめのみこと)をつけ、卑弥呼の弟赤坂比古(記紀の日触使主)の娘を妃につけてバランスを取りました。
しかし、それぞれに皇子が生まれると、後継者問題が当然起こりますから、それぞれの皇子たちを後援する豪族らの対立がエスカレートして、折角、応神天皇即位で成立した大きな和(ヤマトを大和とする所以)が簡単に壊れてしまいました。
応神天皇は和邇氏腹の菟道稚郎子を皇太子にしたと記紀にありますので、当然二代目の大王(宇治天皇)に即位しましたが、半島南部の鉄資源も支配した和邇氏が権力を握るようになりました(注1)。
尾張氏の版図にも宇治天皇の威光を使って、尾張氏の祖建稲種命に和邇氏の祖神赤坂比古が討たれた恨みから和邇氏が押しかけて領土を浸蝕しています(名古屋市名東区和邇良(ワニラ)神社を地元では反発してカニラ神社と呼んでいます(詳細は「抹殺された尾張氏の謎(その3)尾張と言えばカニだ~わ!」参照)。それに怒った仲津姫の子オオサザキが宇治天皇を暗殺し、仁徳天皇に即位しました。宇治天皇の墓が大和盆地の富雄丸山古墳だと推理しました。仁徳天皇は大和盆地には大国主系の豪族が支配していますので、生駒山系の西の集落に遷都したと考えられます。仁徳天皇はこのことを反省し、菟道稚郎子の妹の子住吉仲津彦(すみのえのなかつひこ)を後継者としますが、また諍いが起こり、大国主系なのですが、尾張氏と親交の深い葛城氏系の履中・反正兄弟に暗殺され、殺し合いの悲劇が息長氏腹の雄略天皇が皇位継承候補をほとんど抹殺し崩御するまで続きます(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)~(その3)」参照)。
そこで、ヤマトの豪族らは話し合って履中天皇の曽孫武烈天皇をヤマトの大王に即位させたと推理しています。ですから雄略天皇の後は空位だったと推理しています。しかし高句麗が台頭していて半島情勢が厳しくなり半島南部の鉄資源を新羅に奪われそうになったので、北部九州の物部氏は百済を支援し、武烈天皇は出兵して新羅を抑えて、任那・加羅を百済に割譲します。この時代はヤマトの大王の権力は地方豪族、特にニギハヤヒ系物部氏の支配下の北部九州などには及ばなかったと考えています。(2024.10.3 赤字修正)
これは、ニギハヤヒ大王の嫡孫の天智天皇の時代まで続きます。天智天皇は応神天皇の子孫のヤマトの大王ではないのですが、独断で外交を行っていますので、九州王朝説の誤解が生まれることになりました。ヤマトの大王の天武天皇(用明天皇=蘇我馬子の孫)が天智天皇の後継者大友皇子を討ってようやく中央集権が実現されました(壬申の乱は相当脚色されていると考えています)。藤原不比等は天武天皇崩御後に即位した高市皇子(宗形天皇)を暗殺して権力を握り、大宝律令を制定して日本列島を支配したと推理しています。
なぜなら高市皇子の長男長屋王が親王とされていた物証が見つかり、高市皇子の母宗形氏が身分が低いために即位できなかったという日本書紀のウソがバレてしまったからです。日本の建国から活躍した和爾氏は宗形・宗像氏だったのです。それは天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神が宗像女神市杵島姫卑弥呼だったことから判明しました(^_-)-☆
そして、不比等は天智天皇の出自を隠すために、その曽祖父の欽明天皇(ニギハヤヒ大王の嫡孫)が九州の物部勢を使ってヤマトを支配した史実を誤魔化すために継体天皇や磐井の乱を創作したと推理しています(詳細は「天智天皇とは何者だ?( その4 )」参照)。
高市皇子が即位していたら持統天皇は存在しませんので、これが日本書紀の最大の秘密であると推理しています。
また、武烈天皇が後継者を決めずに崩御した後に登場させた継体天皇は、ニギハヤヒ大王の嫡孫の欽明天皇が、応神天皇の子孫ではないにもかかわらずヤマトの大王に即位した史実を隠すための架空の天皇だったようです。天智天皇は欽明天皇の嫡孫なのです。その出自を隠すのも大きな目的だったわけです(^_-)-☆
大友皇子の曾孫の淡海三船が天皇に贈った漢風諡号に用いた「継体持統」というシナの古典の熟語は、共に架空の天皇であったことを示す淡海三船のヒントだったのですよ(^_-)-☆
(注1)ニギハヤヒ大王系の物部氏が支配していた九州の、北東部にあった卑弥呼の居城に近い宇佐市の集落群を和邇氏が支配下にして稲積山で卑弥呼を祀っていました(卑弥呼に縁のある辛嶋氏が祀っていたようですが、奈良時代に宇佐神宮に遷されます。この頃沖ノ島祭祀が始まります)。しかし、卑弥呼の居城安心院町宮ノ原遺跡は物部系の水沼氏が支配したと推理しています(詳細は「本当に卑弥呼の墓なのか?(^◇^)」参照)。
【付録】ヤマト王権成立の概略(推理)
イタケルの子八束命は、祖父スサノヲ(三国史記の新羅第四代脱解王のモデル)のコネで半島南部の鉄を入手し、日本海沿岸部のムナカタ族を束ねて隆盛になります(詳細は「消された出雲・丹後王国の謎!(その1)八束命の話」参照)。八束命の跡を継いだ日高彦(狗奴国の官狗古智卑狗)は二世紀末に半島が混乱して衰退していた倭国に対して、菊池川に前線基地を築き、倭国の佐賀平野・筑紫平野などの集落を攻撃し、福岡平野や糸島平野の王宮三雲遺跡まで押し寄せて滅亡寸前まで追い詰めます(詳細は「消された出雲・丹後王国の謎!(その2)日高彦の話」参照)。
ところが204年に公孫氏が半島を平定して帯方郡を設置したので倭国は息を吹き返し、油断していた日高彦を難升米(師升の孫)が討ってしまいます。王を喪って途方に暮れていた日高彦の右腕だったムナカタ海人族の赤坂比古(和邇氏の祖)が懐柔され、卑弥呼の太陽神の神託によって政治を行う条件で狗奴国(旧奴国)を裏切ってしまいます。赤坂比古は九州と中国西部・四国を傘下にしたので、強勢になります(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。
それによって吉備の狗奴国王卑弥弓呼(ニギハヤヒ大王の子孫、記紀の開化天皇)は纏向遺跡に王宮を建設し、畿内や東国の旧奴国勢力を集め、連日作戦会議と裏切り者の倭国王や赤坂比古らを呪詛し、祭祀に明け暮れます。238年公孫氏が魏の太尉司馬懿に滅ぼされ、倭国は魏を後ろ盾にして益々繫栄したので、代替わりした卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)は倭国追討軍を送る決心をします。ニギハヤヒ大王の子孫の尾張王乎止与命(おとよのみこと、記紀の仲哀天皇)を大将とし、日高彦の子高野御子(記紀の武内宿禰)を副将として大軍で倭国に向います。
その情報を倭国王難升米が知った直後の247年3月24日日没ごろに北九州で皆既日食が起こります。伊都国では深い食ですが、太陽が欠けながら海に沈む珍しい日没帯食が見られたので、難升米は太陽神を祀る卑弥呼が不謹慎だったために起こった不吉な現象と考え、卑弥呼を暗殺します。
そして狗奴国の大軍が倭国に到着しますが、卑弥呼の死を知った弟赤坂比古は戦意を喪失したので、倭国王は魏を頼って倭国を再興するために金印を持って半島に逃亡したと推理しました。
無傷で倭国を手に入れた尾張王は、捕らえた魏使張政に唆されて狗奴国を裏切り倭国王に立ちます。それを不服とした高野御子が反発し、千人が殺し合う内戦となります。赤坂比古が、先代赤坂比古が王としていた日高彦の御子高野御子に味方して尾張王を討ち、高野御子が勝利します。またしても張政の進言で卑弥呼の宗女台与(近江・北陸を拠点とするムナカタ族息長宿禰王の13歳の姫巫女、記紀の神功皇后)を外交上女王に立て、狗奴国を裏切って倭国王に立ちます。畿内と東海の狗奴国の勢力を除き列島主要部が高野御子の傘下になったので、記紀神話で大国主と呼ばれます。大国主の倭国は半島の鉄を入手し、高温鍛冶炉の技術を導入して、玉類や倭錦などを作って魏と交易して繁栄します。
父を殺された恨みで尾張王建稲種命(記紀の景行天皇、日本武尊のモデル)らは大国主傘下の交易都市青谷上寺地遺跡などを襲い、無防備な住民を百人くらい虐殺しています。そして大国主らの根拠地の九州に遠征して、苦難の末に大国主を高良山で、赤坂比古を鳥栖市で、そして女王台与を伊都国で討って恨みを晴らします。記紀の景行天皇の九州遠征の話にしています(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その2)(その3)(その4)」参照)。
建稲種命は九州の支配を従軍した狗奴国王の一族(物部氏の祖)に任せて纏向に凱旋します。狗奴国王はさらに東国などの大国主の傘下を武力で平定するよう命じますが、東海遠征の途中で戦死し、沼津市高尾山古墳に葬られます(詳細は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)。尾張王を継いだ尾綱根命が尾張勢を率いて東海道・北陸道・丹後半島・出雲などを遠征して、列島主要部を平定します。記紀の崇神天皇の四道将軍の遠征の話になっています。
狗奴国王はようやく倭国を統一したところ、280年に西晋が呉を滅ぼしました。西晋に朝貢していた台与の倭国を滅ぼしたので、西晋に討たれることを怖れて、大国主と台与の子を探し出して、ヤマトの祭祀王にします(崇神天皇紀の大田田根子の話)。応神天皇を卑弥呼・台与の邪馬台国の後継者ということにして纏向遺跡の狗奴国をヤマトと呼ぶことにしました。父大国主の子孫や部下の大伴氏・和邇氏・息長氏などを大和盆地に呼び寄せ、母台与を箸墓で、父大国主を桜井茶臼山古墳で改葬し、卑弥弓呼大王(崇神天皇)が亡くなった後に、ヤマトの大王に即位します。下の図に、ヤマト王権の成立過程と建国に関わった人々の系譜を示します。
最後まで読んでいただき、感謝します。通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)