刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

中国の本家は日本だった?!(#^.^#)

2024-06-30 00:00:08 | 古代史
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#前回のつづきのような話題です。一部重複していますが、よろしければ、またお付き合いください(;^ω^)




いい話題をありがとうございます。
中華人民共和国を中国と呼ぶのは、古代史を解明して間違いだと分かりました。

中国には本来の意味があります。

「なかつくに」です。真ん中の国と思っている方は間違いです。

「中」は「奴、ナーガ、龍蛇神」を意味します。

日本神話で、高天原に最初に降りてきた神は天御中主(あめのみなかぬし)なのです。

実はこれは史実だと分かりました。福岡市吉武高木遺跡に日本で最初の王墓が見つかっています。
宋史 王年代紀によれば、天御中主・天村雲尊・天八重雲尊と妃や王族が葬られていると分かります。
天村雲尊の副葬品は三種の神器(鏡・剣・玉)が揃っています。

四代目天爾聞尊(あめのににぎのみこと)から春日市須玖岡本遺跡に王宮を遷しています。
天孫降臨神話はこの史実から作られたものです。
16代王沫名杵尊の時に後漢光武帝から国宝金印を賜っています。
17代王伊弉諾尊は日本海沿岸を支配下にした縄文海人ムナカタ族の王の姫イザナミと結婚し、王族レベルで混血しました。
日本列島の大半を奴国王が支配したのです。
18代王素戔嗚尊(スサノヲ)の時に悲劇が起こります。
奴国宮廷楽師師升らのクーデターで奴国が滅びます。国宝金印はその時に志賀島に隠されました。

反乱を逃れて出雲方面に逃亡したのが弟ニギハヤヒと王子イタケルらです。
ニギハヤヒは師升の倭国に寝返った吉備の勢力を討ち、奴国を再興し、ヤマト王権の基礎を築きます。
二世紀末の倭国大乱で活躍したのがスサノヲに所縁の出雲・丹後を支配したイタケルの子孫三代です。
彼らの活躍で倭国がほぼ統一されますが、纏向遺跡を王宮とするニギハヤヒの子孫が倭国を滅ぼして日本が建国されます。
こういう三世紀の出来事で日本が建国されたのです。

現在日本で中国地方と呼ばれる地域は彼らが活躍したので「なかつくに(龍蛇神国)」なのです。

そして重要な話ですが、記紀神話は実は江戸時代に国学者本居宣長が古事記を発掘し、絶賛しました。
その影響を受けた神道家平田篤胤が復古神道を唱えたのです。
それが幕末の志士らに人気になり、明治新政府が神仏分離令を発し、廃仏毀釈が行われ、寺は破壊され、
僧侶は無理やり還俗させられました。
国家神道が創設されて、学校で国史が教えられるようになったので、戦後の日本人も何となく日本の神話・歴史だと思っています。

しかし江戸時代までは日本書紀が創った神話が神仏習合、修験道、道教などの影響で記紀神話とは全く異なるナーガ(龍蛇神)信仰の中世日本紀と呼ばれるものになっていたのです(斎藤栄喜「読み替えられた日本書紀」角川選書 参照)。



日本人の本当の神話は三皇五帝の中国(なかつくに)神話です。

天御中主の祖先が天皇伏羲なのです。
その証拠は吉備で見つかっています(詳細は「【大発見!】日本の天皇のルーツだ!」参照)。
ニギハヤヒの王墓楯築遺跡の神社のご神体「亀石」が天皇伏羲と同じ人面蛇体だったのです。
天皇陛下は、ニギハヤヒの子孫ということなのです(注)。
詳細は「刮目天の古代史」をご参照ください。

中共を中国と呼ぶのは全く間違いだったのですよ。
東シナ海などと表記されるので、シナと呼んでいます(^_-)-☆


【関連記事】
中国神話は日本人の神話だった?
【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その19)

紀元前3200年に興った長江文明のひとつ良渚文化(りょうしょぶんか)が紀元前2200年頃突然消えました。洪水伝承があり、生き残った伏羲と女媧の二人が人類を創ったという伝説です。その末裔の禹が黄河中流域で夏王朝を建て、その末裔の古公亶父(ここうたんぽ)が、周初代武王の曾祖父です。長男の太伯(たいはく)と次男の虞仲(ぐちゅう)が長江下流域で呉を興し、倭人の王となりました。紀元前473年に呉王夫差が越に敗れて自害しました。呉王族の一部が半島南部に逃れ、紀元前4世紀初頭に福岡市吉武高木遺跡に降り立った天御中主です。天皇陛下の先祖です(^_-)-☆


王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)


(注)平安時代、貞観の前から日本の火山が活動期に入り、富士山や阿蘇山などが噴火し、地震などの災害が多発しました。朝廷は皇祖神を疎かにしたことを反省し、伊弉諾尊と吉備津彦命に皇族に与える特別な神階「品位(ほんい)」を差し上げ、二柱を祀る淡路國伊弉諾神宮と備中国吉備津神社に捧げものをして、祟りを鎮めてもらっています。ここから、日本書紀がニギハヤヒ大王を吉備津彦命として隠していたことがバレてしまいました(詳細は「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)。


最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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天皇のルーツは人類の始祖神なのだ!(^_-)-☆

2024-06-29 00:00:05 | 古代史
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#現在、都知事選候補として人気の内海聡氏の天皇に関するYouTube動画について、ネットで人気の茂木誠氏がご自身の思いを発信している動画(もぎせかチャンネル)を見つけました。是非、この動画をご覧いただきたいと思います。茂木氏の天皇や日本に対する熱い思いは日本人として共有すべきものですので、刮目天が発見した天皇のルーツについてコメントしました。また、関連する記事について紹介いたします。よろしければ、お付き合いください(;^ω^)



天皇のルーツは中国神話三皇五帝の筆頭天皇伏羲ですよ。人類の始祖神です。
日本で証拠を発見しました。
倉敷市楯築王墓の神社のご神体「亀石」が人面蛇体だったのです。
ヤマト王権の基礎を吉備で築いたニギハヤヒ大王が被葬者で天皇陛下の先祖になります(詳細は「【大発見!】日本の天皇のルーツだ!」参照)。




中国は「なかつくに」と呼ぶのが正解です。

「中」は「奴(ナーガ、龍蛇神)」を意味し、江南の海人族(倭人)の王が天御中主です。
福岡市吉武高木遺跡で紀元前4世紀初頭の日本で最初の王墓が発見されています。
宋史 王年代紀の天御中主・天村雲尊・天八重雲尊とそれぞれの妃や王族の墓です。
二代目の墓から三種の神器(剣・鏡・玉)が見つかっています(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。



4代目天爾聞尊(あめのににぎのみこと)から春日市須玖岡本遺跡に王宮が遷っています。
天孫降臨神話はこの史実から日本書紀で創作されたのです。高天原は北部九州の倭国のことなのです。
新唐書・宋史に「日本は古の倭の奴国」とありますが、これが正しいことが考古学や民俗学の成果から分かりました。

記紀が天皇の歴史書だと思い込まされていたので古代史を解明できなかったのです。
日本書紀は完成当時の権力者藤原不比等による勝者の歴史書なのです。
先に完成したとされる古事記は9世紀に突然表に出てきたものです。
日本書紀が隠した史実を藤原氏に悟られないようにして暴露する目的の暗号書だったのです。
暗号を解くと、卑弥呼が記紀に登場しない怖い理由富雄丸山古墳吉野ヶ里遺跡の謎の石棺の被葬者も判明しました。
よろしければ、刮目天の古代史をご参照ください。どうも、失礼しました(;^ω^)

【関連記事】
渡来人は異民族とは限らない?
新羅については、仏教の伝来を調べていて分かりましたが、新羅ではもともと龍神(ナーガ)を祀っていたとありましたから、間違いなく倭人(江南の呉人)でした(崔琮錫「弥勒信仰の新羅的受容と変容」東アジア仏教学術論集2017-01、p.201)。倭人は弁韓・辰韓にも居ましたので、渡来系の新羅人は、列島に戻って来た倭人ということです。筑前・豊前から豊後にかけて奴国大王スサノヲ(新羅明神、第四代脱解王のモデル)の子孫たちや縄文系ムナカタ海人族赤坂比古(卑弥呼の父)と関わりのある倭人の子孫が住み着いたようです。宇佐地方で辛嶋氏(スサノヲ・イタケルの末裔なので武内宿禰の子孫波多<秦>氏と同族)が祀っていた原八幡神は宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼ですよ(#^.^#)

半島の古代史だ!(漢四郡まで)


当時の半島の古代史はほとんど倭人の話なのですよ。かいつまんで言うと以下のような話です(詳しくは上の記事をクリック)。

紀元前473年呉が越に滅ぼされて、呉王族の一部が紀元前10世紀以前からすでに倭人が入植していた半島南部に倭人に助けられて住んでいました。寒冷化したので南下し、福岡市吉武高木遺跡に住んだのが呉王族で皇祖神の天御中主ですよ。呉の時代以前から王と民とは良好な関係のようでした(詳細は「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」参照)。倭という言葉は支配者に従順という意味があります(^_-)-☆

戦国七雄のひとつ「韓」が「秦」に滅ぼされて一部の韓人(シナ人系O2)は半島に逃げてきたようです。その後始皇帝によって遼西付近で万里の長城建設で使役されていた楚人(シナ人系O2)や倭人(呉人系)が始皇帝崩御によって半島に逃避して住むようになりました。

三国志の東夷伝に濊(カイ)人として紹介されていたのは主に倭人系のようです。その中の楚の堂谿で鉄生産をしていた倭(呉)人(呉王族堂谿公が支配)は辰韓や弁韓に移住し、奴国大王スサノヲの配下として鉄生産を行ったと推理しています。

その他の倭人や楚人は元々韓人が居住していた馬韓に流れ、倭人はその中の伯済国に固まって居住していました。

上述のとおり濊人から分かれて扶余族(呉系楚人)に分裂し、さらに高句麗、そして高句麗から百済に分かれますが、百済は倭人が固まって遼西地方を支配していたのです。一時は高句麗を凌ぐ勢いでした。しかし、力をつけた高句麗に敗れて百済東城王が馬韓に落ち延び、民に暴虐を働くので伯済国の武寧王が東城王を倒して百済を乗っ取ったと推理しています(詳細は「【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?」参照)。

その子孫の百済王子余豊璋が藤原鎌足だという関裕二説が有望だと思います(詳細は「藤原鎌足は日本人じゃない?ブッブー!」参照)。ですから、桓武天皇の母が百済武寧王の子孫高野新笠であるので上皇陛下が半島にゆかりを感じておられるようですが、百済人は今の日本人とほとんど同じ倭人系だと思います。

663年白村江の敗北で7・8世紀までに半島に居たほとんどの倭人は日本に逃げてきました(現代男性の倭人系は4%程度、詳細は「天皇家が高麗にゆかりがあるのか?」参照)。


王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)






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卑弥呼の墓の伝承の謎だよ(^_-)-☆

2024-06-28 07:24:44 | 古代史
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#2020-06-12 13:09:37に記事にしましたが、少しだけ見直して再掲します。よろしければまた、お付き合いください(;^ω^)


宇佐には卑弥呼に関する伝承がいくつかあります。
最初の卑弥呼の墓の伝承は宇佐市安心院町の妻垣神社本宮一柱騰宮です。「日本書記」「古事記」では日向の神武天皇が東征することになり、最初に宇佐に立ち寄り、ウサツヒコとウサツヒメがもてなした場所が一柱騰宮(いっちゅうとうぐう)、「古事記」では足一騰宮(あしひとつあがりのみや)ということになっています。



妻垣神社のご祭神が比咩大神です。宇佐神宮の二の御殿に祀られる前の元宮です。大元山(御許山)から宇佐神宮に遷されたとの説もありますが、宇佐神宮の由緒が書かれた八幡託宣集では都摩垣(安心院町妻垣)がもとの御座所となっており、一柱騰宮が比咩大神の墓所となっています。御許山の大元神社は比咩大神の居所という伝承になっているようです。

その比咩大神は神武天皇の母玉依姫(「古事記」では玉依毘売命)ということになっています。

神武天皇の母の姉が豊玉姫であり、お産の様子を見ないように夫の火折尊(彦火火出見尊、山幸彦)と約束しましたが、夫はそれを破り、正体がワニであったのを覗いてしまったので、生まれたばかりの鸕鶿草葺不合尊を置いて去ってしまいました。そして、妹の玉依姫に幼児の面倒を見させ、成人して二人の間に生まれた第四子が神武天皇だという神話です。

その神話の元ネタですが、天武天皇の皇后鸕野讚良(うののさらら、持統天皇)の子の草壁皇子(662年生まれ)と、持統天皇の異母妹の阿陪皇女(元明天皇、661年生まれ)との間に軽皇子(文武天皇)が生まれたので(683年)、神話も叔母との近親婚の話にしたということです。しかし、神話では妹に乳飲み子を成人になるまで面倒見させて、結婚したというトンデモない話を作り、天皇家を思いっきり貶めていますから質が悪いですね。(; ・`д・´)

結局、比咩大神が神武天皇の母玉依姫だという伝承は「日本書紀」に合わせたもので、デタラメです。それでは宇佐神宮のご祭神の比咩大神は一体だれなのか?

神武東征神話で神武天皇が最初に訪れた宇佐の一柱騰宮とは何なのか?それがわかると謎が解けますよ(^_-)-☆

神道では高貴な方が亡くなり神となることを神騰(かむあ)がりといいます。比咩大神ひと柱が昇天した場所が一柱騰宮です。「卑弥呼の墓発見」の著者矢野武夫氏が卑弥呼のことだと突き止めました(注1)。この中で卑弥呼の居所は御許山やその南面の正覚寺の聖なる石柱がある場所だという説も紹介していますが、三女(さんみょう)神社の在る宮ノ原台地には石棺群が多数発見されており、「宇佐の奥の院・安心院谷の宮の原の奥城」として卑弥呼の居所に一番ふさわしいと述べています(p.115)。



だが奥城(おくつき)は墓所の意味ですから、「魏志倭人伝」のとおり、最初に卑弥呼が葬られた径百余歩の円墳「三柱山古墳」から、後に妻垣神社奥宮一柱騰宮に遷されたと推理できます。「古事記」の「足一騰宮」というのは、人間は足が二本ありますので、もう一つの足、つまり元の墓が宮ノ原台地に在るということを示唆するものでしょう(^_-)-☆

ではいつ遷されたのだろうか?

卑弥呼の死後に、魏使張政の進言により十三歳のムナカタの姫巫女台与(トヨ)を女王に立てて、魏を後ろ盾にして倭国を治めた人物が狗古智卑狗だと推理しました。

先代までの狗古智卑狗は半島南部の鉄を不弥(ウミ)国のムナカタ海人族の力を借りて旧奴国王族に供給しました。大国主狗古智卑狗が北部九州を支配することになったので弁辰の人々が安心して北部九州に来れるようになったようです(注2)。狗古智卑狗は「魏志倭人伝」で狗奴国の官として王よりも先に紹介された実力者です。この第二次倭国大乱が「日本書紀」の仲哀天皇の熊襲征伐の話になった史実だと関祐二さんが突き止めましたが、刮目天が考古学的に確かめました(【検証13】~【検証17】参照)。



仲哀紀では、香椎宮で神功皇后が武内宿禰の琴に合わせて神憑りし、住吉大神の神託を仲哀天皇に告げましたが、それを信じないために突然崩御したという不思議な話になっています。住吉大神つまり武内宿禰に殺されたことを暗示しています。

仲哀天皇は倭国討伐軍の首将ですが、ヤマト王権発祥地の纏向遺跡で発見された外来系の土器の約半数を占めるのが東海の土器なので、本当は尾張王だと推理できます。尾張氏はヤマトの大王の祖ニギハヤヒ直系の物部氏と同族で、天皇(大王おおきみ)と呼べるくらいの血筋の確かな有力者だったようです。「日本書紀」の記事では父の日本武尊(ヤマトタケル)が死んでから38年後に生まれた計算になりますから、ずさんな作り話ですね。もしも仲哀天皇がヤマトの大王であったのならば、卑弥呼の後に倭国王に立つことに誰も反対する理由がありませんから「魏志倭人伝」にある千人も死ぬような殺し合いにはなりません(^_-)-☆。(注3)

話をもとに戻して、ウサツヒメは神功皇后と同じく、女王台与がモデルですが、「日本書紀」ではそれを誤魔化すために藤原氏の遠祖天種子命が姫を娶ったとしています。しかし、真相をそれとなく暴露したい「古事記」では藤原氏にとって大事なその記事を無視していますから分かります。

そして神功皇后に常に寄り添っていた武内宿禰が尾張王(仲哀天皇)を倒して倭国を手に入れた出雲から丹波を支配していた狗古智卑狗のことで、卑弥呼の九州・四国・中国西部の倭国に加えて山陰・北陸など列島のかなりの部分を支配したので、後世に大国主と呼ばれた人物なのです。その大国主狗古智卑狗が尾張王を倒した後に真っ先にしたことは、女王台与を伴って先代女王卑弥呼を宮ノ原台地の急造りの円墳から、遺体や副葬品を妻垣に遷し、厚く弔ったことでしょう。その史実が伝承として残っていたので「記紀」では神武東征の一柱騰宮での大饗宴の話にすり替えたのだと思います。ウサツヒコが大国主狗古智卑狗のことです。


卑弥呼の墓の話に戻すと、宮ノ原三柱山の円墳から妻垣神社奥宮一柱騰宮に大国主と台与が遷しましたが、妻垣神社の名前はスサノヲとクシナダヒメの八重垣神社の歌から採られたものと言われています。しかしスサノヲはすでに二世紀初頭の奴国のクーデターで殺されているので、出雲神話の八重垣神社の話もヤマタノオロチの話も創作でしょう。安心院町の佐田神社の北側の米神山の西麓に造られた立派なストーンサークル佐田京石は、大国主が倭国を支配できたことに対する祖霊への感謝の神事のために造営したと思われます。大国主が実際にこの地を訪れて神事を行ったと考えています。

さらに270年頃大国主と台与の倭国を滅ぼしたヤマト朝廷は、その後神亀2年(725年)小椋山(亀山、現在の本殿地)に八幡大神一之御殿を遷座し、天平3年(731年)の託宣により、天平5年(733年)二之御殿に比売大神が鎮座したと宇佐神宮の年表にあります。明治 40 年(1907年)と昭和 16 年(1941年)の宇佐神宮改修時に石棺が二度目撃されているので、以下のとおり卑弥呼の墓だという伝承が残っています。

最初に発見された石棺は神功皇后が祀られる三の御殿横とあり、次の目撃は比咩大神を祀る二の御殿の下とのことですから、そうであれば二人を改葬したと考えてよいとは思います。ただ、神功皇后台与の最初の古墳は日本一立派な副葬品が発見された糸島市の平原王墓ですから、宇佐神宮の神功皇后の石棺の中は空の可能性があります。霊力が強すぎるので、遺骨や副葬品に手を付けられなかったのかも知れません(^_-)-☆

応神天皇が祭祀王として即位した後に箸墓に母神功皇后台与を改葬したと考えています。父の大国主も高良山で戦死して、西麓の祇園山古墳に葬られましたが、石棺の中身は見当たりません。母を箸墓で改葬した後、父大国主も桜井市外山(トビ)の茶臼山古墳で改葬したと推理しました。ただし遺骸があったのか不明です。その西側にメスリ山古墳があり、そこの石棺も遺体が安置された形跡がなく、武器が大量に副葬されているようです。それほど大和朝廷は大国主と台与の呪いを怖れていたのだと思います。また、宇佐神宮一の御殿の祭神は八幡大神応神天皇ということなので、墓所はそこにはなく、大阪府羽曳野市誉田の古墳ということになっています。

【参考記事】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)





(注1)矢野武夫氏は明治40年安心院町妻垣で生まれ、神職養成中等学校私立騰宮学館に学び、町長を5期、大分県議会議員を2期務めた人物で、幼いころから神武天皇の母玉依姫が比咩大神卑弥呼のことだと考えるようになったそうです。

(注2)渡来人について通説ではコリアンと考えていますが、この時期の渡来人はほとんど江南系と縄文系の倭人です。言葉も当時の倭人語が話されてたようです。
渡来人は異民族とは限らない?
新羅については、仏教の伝来を調べていて分かりましたが、新羅ではもともと龍神(ナーガ)を祀っていたとありましたから、間違いなく倭人(江南の呉人)でした(崔琮錫「弥勒信仰の新羅的受容と変容」東アジア仏教学術論集2017-01、p.201)。倭人は弁韓・辰韓にも居ましたので、渡来系の新羅人は、列島に戻って来た倭人ということです。筑前・豊前から豊後にかけて奴国大王スサノヲ(新羅明神、第四代脱解王のモデル)の子孫たちや縄文系ムナカタ海人族赤坂比古(卑弥呼の父)と関わりのある倭人の子孫が住み着いたようです。宇佐地方で辛嶋氏(スサノヲ・イタケルの末裔なので武内宿禰の子孫波多<秦>氏と同族)が祀っていた原八幡神は宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼ですよ(#^.^#)

(注3)伊都国男王が女王卑弥呼の後に倭国王に立ったとの説も、もともと軍事も政治の実権も掌握する倭国王だったと推理していますので、あり得ない話です。伊都国男王は強力なヤマトの討伐軍が到着することを知り、帯方郡太守を頼ってさっさと半島に逃亡したのでしょう。ところが張政が難升米を裏切って大国主側につき、倭国を懐柔したので、伊都国男王難升米は帯方郡に無事到着したとしても、用済みとなって密かに始末されたと思われます。張政は倭国を懐柔した功績によって後に帯方郡太守張撫夷に出世したことが帯方郡址の墓から発見された塼で分かります。もしも帯方郡址で「親魏倭王」の金印が見つかればズバリ推理どおりということになりますよ(詳細は「【検証23】魏使張政って?!」参照)(^_-)-☆


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金印偽造説は現代の陳寿愛訓詁学者の思い込み?(;^ω^)

2024-06-27 07:03:43 | 古代史
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この話題はとっくに決着していたはずなのですが・・・
国宝金印は江戸時代に発見されたわけですが、当時後漢が他国などに与えた金印はどこにも存在しなかったのですよ。だから純度95%だったことや一辺が当時の1尺だったことも分からないので、偽造しようがないのです。後に滇王之金印や広陵王璽(印)が発見されてシナ政府も本物と認めたのです(詳細は「第2回志賀島の金印論争と奴国その2」河村哲夫の古代史チャンネルを参照してください)。

偽造だというのならば、当時の金印偽造の指示書を見つけなければ、彫り方だけで偽造の証明にはなりません(河村先生の受け売り(;^ω^))。もしも偽造であれば単独犯ではないので、報酬目当ても居るので仲間割れもあるはずですから、そういう情報が見つかれば偽造の可能性が出てきます。しかし、江戸時代でそのようなことが発覚すれば元も子も失くすので、だれもそのような話には乗りませんよ。また、リスクを冒してでも莫大な報酬を期待するのならば奴国王印でなく、当時すでに邪馬台国論争があったので卑弥呼の金印にする方がいいはずです。何故マイナーな金印を偽造したのか説明できますか?

みなさん、なぜ金印偽造にこだわるのかは分かってきました。

范曄後漢書と陳寿魏志倭人伝に一か所大きな矛盾点があるのです。つまり狗奴国の位置です。范曄は倭の五王のいずれかの使者からの情報を入手して倭国(女王国)の東渡海千里(約450km)に狗奴国があったと明言しています。つまり、狗奴国は纏向遺跡のことだったのですよ(注1)(#^.^#)



陳寿を愛する方は、范曄はデタラメを書いたと全否定したいためだと思います(注2)

しかし、107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升が史実であった証拠も見つかってます。室見川銘板ですよ。あんなものを偽造しても何の値打ちもないのですから、現存する日本最古の金石文で間違いないのです。

五世紀の范曄は確かな情報源があったのです。ところが現代の訓詁学者は、そのようなものを現状で持ち合わせていないし、陳寿が政治的な意図で書かなかった文章を、事実として鵜呑みにして、范曄はデタラメを書いたのだとしたいだけなのですよ。訓詁学者の思い込みに他ならないのです。孫栄建氏もその著書の中で「黙って范曄に従わざる得ない!」と述べておられますよ(注3)(^_-)-☆。
詳細は刮目天の古代史を参照してください。お邪魔しました(#^.^#)

【関連記事】
【わかった!】室見川銘板のなぞ
帥升の帥姓は西晋時代に師姓から変えさせられたのです。そして師姓は周代以前から宮廷祭祀を担当する楽師の官位を表す姓なのです。師升は奴国宮廷祭祀を司る人物でした。室見川銘板の文章からも師升が作らせたものだと分かりました(^_-)-☆

日本最古の国家「奴国」の謎
多くの皆さんは奴国のことを誤解していますよ(^_-)-☆

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
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(注1)陳寿は「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」と書いているのですが、范曄は「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種,而不屬女王」とあるのです。陳寿によれば狗奴国は女王国(邪馬台国)の南のはずですから熊本が定説のようになっています。范曄を信じると陳寿が否定され、定説が崩れてしまうのです。

(注2)文献史学者は、陳寿と范曄の矛盾を追求せずに、一次史料つまり魏志倭人伝を重視するので、范曄はデタラメを書いたとしたいのだと思います。例えば、中島信文氏はその著書「陳寿『三国志』が語る知られざる驚異の古代日本」(本の研究社 2020年)の中で『後漢書』「倭伝」は日本古代史には弊害の書として全否定しています(第6章)。

(注3)孫栄建氏も「二十一世紀の私たちが、史書解読について五世紀の范曄より優れていると錯覚するのは、現代人の愚かな傲りだ。当時には当時の文化的世界があり、その体系があったからだ。(中略)私は黙って范曄に従わざる得ない。餅は餅屋なのだ。」と「決定版 邪馬台国の全解決」(幻視舎 2018年、p.195)で明確におっしゃっています。


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「複雑怪奇な紀年論」から脱出する方法?(^_-)-☆

2024-06-26 10:32:29 | 古代史
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#とても上手に解説された、いい動画を見つけましたので、いつものようにコメントしました。



有難うございます。「複雑怪奇な紀年論」ですが、前提となるものが思い込みに過ぎないと気づかないから、いつまでたっても解決しないのだと思います。

二倍年歴が間違った発想だということは、日本書紀の本文を見れば明らかです。1年おきに春・夏の記事と秋・冬の記事になっていません。魏略の記事の「倭人は1年を春と秋で数える」というのを都合の好いように曲解しています。二倍年歴のことではなく1年の二十四節季の祭祀を正しく行っていないという意味なのです。天皇の平均在位年数の前提も、すべての天皇は実在したという思い込みなのです。

つまり、現存する最古の歴史書「古事記」や正史「日本書紀」が天皇の歴史書だと信じているので古代史が謎なのですよ。天武天皇が編纂を命じましたが、日本書紀は崩御34年後に完成しています。

また、712年に完成したとされる古事記について正史に記録はないですし、日本書紀で参照した痕跡すらないのですよ。

日本書紀は当時の権力者藤原不比等による勝者の歴史書なのです。
古事記は日本書紀が隠した史実を藤原氏に悟られることのないように暴露する暗号書だったのです。

これによって、卑弥呼が隠された理由も、富雄丸山古墳や吉野ヶ里遺跡の謎の石棺の被葬者も判明します。

また、邪馬台国問題も同様の思い込みから抜け出せないので解決できないのですよ。

共通するのは「1次史料は正しく書かれているので、正しく解釈すれば真相が分かる!」という思い込みなのです。

魏志倭人伝が何のために書かれたのか、どういう史料をもとにしたのかが分かると、
史料の信ぴょう性が考古学や民俗学の成果、つまり事実から分かります。
編纂者の目的を考えて、ウソを見抜いて古代史の真相を推理できますよ。

こういう科学的な手法で古代史を解明しましたので、よろしければ拙ブログ「刮目天の古代史」をご参照ください。失礼しました(;^ω^)

【関連記事】
史料を参考にして事実から推理する
文献史料を好きなように解釈して仮説を立てても真相には到達できませんのです(;^ω^)

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)





最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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