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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

富雄丸山古墳に隠された大きな秘密?(;^ω^)

2023-03-26 00:00:02 | 古代史
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奈良・富雄丸山古墳から「国宝級の大発見」…神話に秘められた「被葬者は誰か」の異説
2023/02/08 15:00 読売新聞 編集委員 丸山淳一



ついに歴史が覆る。日本の超古代「龍蛇神信仰」の謎を紐解く〝富雄丸山古墳〟の秘密がヤバすぎる!!出雲の王「長髄彦」の正体は〇〇だった…
TOLAND VLOG @YouTube 2023/3/25


また、いい話題を続けていただき、有難うございます。
すでに前回の動画にコメントさせていただいたように、日本神話は藤原不比等の創作なのです。神武東征神話も真の初代応神天皇の史実を隠すために創られたお話です。でも、史実を基に作っていますので、史実を推理すると、ほとんど謎が解けました。
結論を先に述べますと、被葬者は不比等によって隠された空白の四世紀の宇治天皇菟道稚郎子(ウジノワキノイラツコ)だと推理しました。兄オオサザキ(仁徳天皇)に暗殺され、母方の和邇氏によって、その支配地で埋葬され、天皇に相応しい豪華な副葬品が古墳の造り出しの中に隠されたと推理できます(墳丁主体部は盗掘されていました)。
日本最大の円墳とありますが、古墳マップにアップしたとおり、卑弥呼の宇佐市三柱山古墳(直径約150m)が日本最大で、卑弥呼の弟赤坂比古の鳥栖市愛宕神社古墳が2位、卑弥呼の父の宇佐市奥城古墳が3位です。富雄丸山古墳は国内4番目です。(詳細は拙ブログ「富雄丸山古墳の被葬者は?
をご参照ください)。
ではナガスネヒコの正体ですが、おっしゃる通りナーガつまり龍蛇神であり、出雲と関係あります(詳細は「長髄彦(ナガスネヒコ)の正体も?」参照)。
説明のつづきが長くなり過ぎたので、残りは拙ブログにアップしました。よろしければどうぞ。どうもお邪魔しました(#^.^#)


北部九州から山陰・北陸・越などを根拠地とする縄文時代から活躍していたムナカタ海人族を束ねる奴国王の末裔でした。奴国の宮廷楽師だった師升らの反乱で殺された最後の奴国第18代王スサノヲの子孫の久々遅彦(魏志倭人伝で狗古智卑狗)です。代々の王の襲名ですが、豊岡市久々比神社の祭神で、スサノヲの王子イタケルと同じ木霊ですので全国の上棟式の祭神とされています。

最後の久々遅彦が、ムナカタ女神イチキシマヒメ卑弥呼の死後の内戦に勝利し、13歳の台与を外交上女王に立てて、魏を後ろ盾にして列島の主要部を支配した、記紀神話で大国主とされた倭国王です。台与は卑弥呼の宗女ということで、ムナカタ族息長氏の祖息長宿禰王(神話で大国主の国造りのパートナーとされたスクナヒコナ)の姫巫女で、大国主の妃とされ、子供のホムダワケが応神天皇です。初代天皇なのですが、建国の史実が不比等にとって都合が悪いので神武天皇を創作し、仲哀天皇と神功皇后の話も創作です。仲哀天皇は父日本武尊(ヤマトタケル)が薨去して38年後に生まれた計算になるので、どちらも建国の歴史を隠すために創作された人物です。でも、モデルとなる実在人物が居ました。

仲哀天皇のモデルは、247年、卑弥呼の死後に狗(旧)奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇、第19代奴国王天照大神尊ニギハヤヒ大王の子孫)を裏切って倭王に立った倭国征討軍の大将の尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト)です。ニギハヤヒ大王の子孫です。大国主久々遅彦らが反発し、卑弥呼の弟赤坂比古(和邇氏の祖日触使主)が大国主側についてヲトヨを鳥栖市に追い詰めて討ちました。



三世紀末に父の仇討ちのために九州遠征した尾張王建稲種命が大国主・台与・赤坂比古を討ちました。記紀では仲哀天皇の祖父とされた景行天皇です。九州は崇神天皇の一族の物部氏に支配を任せ、纏向に戻りますが、すぐに大国主の傘下となっていた丹波・北陸・関東などを鎮撫して列島を統一した建国の父ですが隠されています。崇神天皇の四道将軍の話にされていますが、さるカニ合戦は尾張王の仇討ち話だったのです(詳細は「ヤマトタケルの正体は誰?」参照)。

建稲種命はヤマトタケルの副将として東海遠征に出かけ、帰路駿河湾で水死したとの伝承があり、ヤマトタケルのモデルとなった実在人物で熱田神宮の祭神です。崇神天皇は、大国主の祟りにより疫病が流行り、民が半分死んでしまうことになったので、大国主と台与の子ホムダワケ(大田田根子)をヤマトの祭祀王として呼び寄せ、大王にしたというのが史実でした。実際は、280年、狗(旧)奴国の後ろ盾だった呉が西晋に滅ぼされ、西晋に朝貢していた台与の倭国を狗奴国が討ったので、報復を恐れ、女王台与の後継者として応神天皇を大王に立てたということだったのです。そのために、纏向の地をヤマト(邪馬台国)と呼んだのです。崇神天皇から応神天皇即位までの約350年間の話は、三世紀後半の約50年くらいの史実を引き延ばして創作されたものだということが、弥生終末期から古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて判明しました。詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。


では、なぜ不比等が日本建国の史実を誤魔化さないといけなかったのかですが、これには大きな秘密があることを発見しました。これもかいつまんで述べます。天武天皇の後に妃の鵜野讃良(天智天皇皇女)の孫の文武天皇を15歳の異例の若さで即位させ、不比等の娘宮子を妃とさせて、外戚として朝廷の実権を握り、藤原氏に都合の好い律令制度を作りました。神話を創作し、宮中祭祀を独占し、神話に合致するように各地の豪族の神社の祭神や社名や由緒まで変更して、藤原氏千年の栄華を求めたのです。その目的のために、不比等が天武天皇崩御後に即位した宗形天皇(高市皇子)を暗殺し、文武天皇を即位させたその事実を隠すために天武皇后とした鵜野を持統天皇として即位したことにしたのです(注1)。本当は宗形氏が皇后で高市皇子が皇太子だったのかもしれません。和邇氏も本当は宗像・宗形氏という氏で、不比等が貶めるために創作したのかも知れません(注2)。

古事記は現存する最古の歴史書とされ、720年に完成した日本書紀よりも前の712年に完成したことにされています。しかし、古事記の序文に天武天皇が太安万侶と稗田阿礼に命じて編纂され、完成したとあるだけで、他の正史などに古事記に関する記録が全くありません。九世紀に突然、古事記を表に出した、宮廷で日本書紀の講義をしていた学者多人長(オオノヒトナガ)が創作したものだったと分かるのです(詳細は「不比等はイエス様に匹敵する?」または岡田英弘「倭国の時代」筑摩書房参照)。

古事記の内容は基本的に日本書紀に沿いながら、所々で日本書紀と違えた記述をしています。これが真相に導く暗号だったのです。例えば、ナガスネヒコを古事記でトビヒコとしたり(トビはヘビ神大国主命のこと)、コノハナサクヤヒメをムナカタ族と分かる神阿多都比売(カムアタツヒメ)などとしています(アタはアタゴに見られるようにムナカタ族の祖神アタカタスノミコトを示唆します)。

日本の古代史に謎が多い理由は、歴史の真相を藤原氏によって隠された氏族の子孫が、時には古史古伝にあるような荒唐無稽な話を創って藤原氏にその目的を悟られないようにしながら、いくつもの異説や伝承を作ったからなのです。その中には真実が隠されているのかも知れません。

ですから、これらの文献をヒントにして、藤原氏が何を隠したかったのかを推理して仮説を立てることができます。そして考古学や民俗学などの成果によって検証を繰り返すことにより、仮説の修正や詳細化などを行って謎の古代史が解明できたのです。この手法は次の時代の解明に拡張できますので、もしもご興味がわけば、詳細は拙ブログ「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご覧ください。

(注1)古代からの日本では女帝などあり得ない話なので、皇后が即位する前例として推古天皇と皇極・斉明天皇も創作しました。また女帝の孫を即位させることの正統性のために高天原神話で女神アマテラスと天孫降臨神話を創作したのです。持統天皇は高天原広野姫とされましたが、その後のすべての女性天皇も藤原氏のフェイクで、実態は称制ということでしょう。京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺では天智天皇から飛んで光仁天皇より歴代の天皇をお祀りしていますが、明治になるまで女性天皇はどなたも祀られていませんでした。仏事に掲げる江戸時代の二人の女性天皇の肖像画は明治になって作られています。未婚の皇女は奈良時代から南北朝時代まで斎王制度があり、神の妻となる姫巫女でした。皇祖神と霊的に一体となる天皇には、皇統の男系男子が即位し、皇祖神の霊力を身に着けて国家の安泰と国民の安寧を祈る宮中祭祀が真の役割ですから、女性差別ではない宗教上の役割の違いなのです。詳細は「伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その1)(その2)」参照。

(注2)日本書紀では、高市皇子はその母宗形氏の身分が低いので即位できないということにしましたが、応神天皇の母の台与もムナカタ族ですし、応神天皇の皇太子ウジノワキノイラツコも母は和邇氏の祖日触使主(卑弥呼の弟赤坂比古)の娘ですからムナカタ族なのです。日本書紀はムナカタ族であることを隠すために、孝昭天皇に繋がる偽の系譜を作って誤魔化していますが、天理市和邇坐赤阪彦神社の祭神が宗像神イチキシマヒメ卑弥呼とアタカタスノミコト(ムナカタ族祖神でイザナミの父と推理)となっているので、ムナカタ支族であったことが分かりました。

また、息長氏も同様に、開化天皇の系譜だと誤魔化しましたが、近江・北陸を根拠地とする海人族であることから、息長氏もムナカタ支族であることが分かりました。つまり嘘がバレたのですから、不比等がなぜ嘘をついたのかを推理すると、高市皇子が即位したことを隠すためだったと分かりました。

そして、高市皇子の子の長屋王の広大な邸宅跡から長屋親王と墨書された木簡が出土し、宗形天皇の皇子だったと分かります。高市皇子が即位していた物証なのです。そして、持統天皇もフェイクだったということなのです。

それでも応神天皇崩御後にイラツコは即位せずに、兄オオサザキに皇位を譲るために自殺したというあり得ない美談を作って、ムナカタ腹のイラツコが即位していたことも隠しました。また、こういう後継者争いはよくある話だとするために、初代とした神武天皇の崩御後の全く同じような話を日本書紀で創作したのです。

しかし、史実は播磨国風土記に宇治天皇として登場するので、仁徳天皇の前に即位していたことがバレました。前述のとおりオオサザキに暗殺されたと推理できるのです。そしてイラツコの妹が仁徳天皇の妃となり生んだ子住吉仲皇子(スミノエノナカツミコ)が仁徳天皇崩御後に即位して、允恭天皇の本当の父であったことも古事記の崩年干支と倭の五王の朝貢年などから解明できました。詳細は「謎の世紀と倭の五王の謎(その1)から(その3)」をご参照ください。





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天皇陛下と日本の水信仰との繋がり?(^_-)-☆

2023-03-25 00:18:15 | 古代史
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すでに1年近く前のことですが、天皇陛下がアジア・太平洋水サミット(熊本)で講演されました。日本人の水に関する民族信仰についての、とても興味深い内容でした。アジア・太平洋諸民族に共通する山岳信仰や世界中で信奉されていた蛇神(ナーガ)・龍神の信仰と日本独自の仏教文化との習合の例として宇賀神を頭に載せた弁財天像などを取り上げていただきました。諸民族の水への信仰に関する深いご認識の下で、アジア・太平洋を含む世界の深刻な水問題への取り組みの重要性について発信されていました。まだの方は是非、ご視聴ください。刮目天がチャンネル登録しているTOLAND VLOGさんの動画で、陛下のご講演を、分かり易い解説付きで紹介されており、日本人の信仰に関して改めて気づかせていただきましたので、以下のコメントをしました。どうぞお付き合いください(#^.^#)

【ノーカット】第4回アジア・太平洋水サミット 天皇陛下記念講演(2022年4月23日)
ANNnewsCH 93,651 回視聴 2022/04/23

23日、熊本市で開催の第4回アジア・太平洋水サミットに天皇陛下がオンラインで出席され、記念講演を行いました。天皇陛下は皇太子時代から水問題に興味を持たれ、各地で水に関する問題について講演されたり、本も出版されています。


とても良い動画をありがとうございます。
陛下のご講演は素晴らしいものでした。すべての日本人が知るべき古代信仰のお話です。現在も行われていますが多くの日本人は江戸時代まで盛んにおこなわれた山岳信仰による修験道や弘法大師・伝教大師の密教についての知識が、明治政府の出した神仏分離令と大衆の仏教寺院破壊によってほとんど失われています。陛下のお話はとても貴重なもので、現代日本人が思い違いしている記紀神話に基づく国家神道や日本神話は明治になって作られたものです。ご解説頂いたように、蛇・磐座・山岳信仰は縄文時代に始まった日本人の信仰の古層の部分で、現代でも生きています。

実は日本の歴史の始まり・日本建国を理解するためには忘れかけた日本人の信仰の正体に気づく必要があります。最古の歴史書・正史・神話と思っているものは、7世紀末から8世紀初頭にかけて藤原不比等によって創作されたものだったのです。天武天皇が編纂を命じたのですが、崩御されて34年後に不比等が完成させています。ですから天皇の歴史書というのは思い込みに過ぎず、藤原氏の都合の好い内容にすり替えられているのです。

新唐書・宋史にあるとおり、「日本は古(いにしえ)の倭の奴(な)国」でした。王年代紀の初代王の天御中主は天(あめ)は海、中は奴と同じナーガ(龍蛇神)のことですから、龍蛇神を信奉する江南の海人族(倭人)の王という意味だったのです。記紀神話でも高天原に最初に降り立った神とされていますが、弥生前期末の福岡市早良平野吉武高木遺跡を王宮とした天皇家の日本におけるもっとも古い祖先(皇祖神)で実在人物だったのです。

そして長江中下流域を支配した呉王の一族ですから、周の王族と同じで中国最初の夏王朝を建てた禹王の末裔です。黄河の治水に成功した禹の金文はヘビです。その始祖神は中国神話の人面蛇体の天皇伏羲・人皇女媧ですから、日本人の本当の神話は中国(なかつくに)神話だったのですから驚きますよ!陛下は龍蛇神の子孫だったのです。是非、拙ブログご覧ください。お邪魔しました(#^.^#)

【刮目天の古代史】倭人とは?
天皇即位の密教の儀式の正体?
【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その23)7.記紀と日本人の信仰の謎⑨



陛下のご講演で紹介された八代市妙見神社のご祭神が天御中主と国常立尊(くにのとこたちのみこと)です。中国の四神のひとつである玄武と見られる亀蛇(ガメ)を紹介していただきました。初代奴国王と一緒に祀られている、第13代王国常立尊は対外交易で奴国を大いに隆盛にしたので、特に記憶されていたのではないかと思います。古代の海人族が長距離航海で頼りにする北極星や北斗七星は信仰の対象となりますので、日本では道教の太一や密教の妙見菩薩とこれらの二柱の神が習合したのだと思います。Wiki「玄武」によると、北方を守護する水神とあり、亀は「長寿と不死」の象徴、蛇は「生殖と繁殖」の象徴で、「(北にある)冥界と現世を往来して、冥界にて(亀卜=亀甲占いの)神託を受け、現世にその答えを持ち帰ることが出来ると信じられた。」とあります。

また、山岳信仰で富士山で祀られている神はコノハナサクヤヒメですが、古事記で神阿多都比売(かむあたつひめ)とされています。「アタ」は卑弥呼の弟赤坂比古がムナカタ族の初代王阿田賀田須命(アタカタスノミコト) の子孫という意味で「愛宕権現(アタゴ)」とされたことを発見しましたので、神阿多都比売はムナカタ族の姫だと思います。そして、初代神武天皇の曽祖父ニニギノミコトの妃ですから、真の初代天皇が応神天皇なので、その母神功皇后、つまり女王台与(トヨ)のことだと思います。そうするとニニギノミコトは天照皇太神の大国主久々遅彦のことを指しているのだと思います。こじつけかも知れませんが、大和朝廷が最も畏れる二柱ですので、日本一の富士山のような男神と絶世の美女神という組み合わせにしたのではないでしょうか。後に初代天皇の生母台与が豊受皇太神として祀られ、天皇家の始祖神天御中主と同一神と見られるようになるのは、よく分かりませんが、どちらも初代に関わる重要な神だからなのでしょうかね。これも、相当な強牽付会ですが( ^)o(^ )


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【刮目天の古代史】倭人とは?(^_-)-☆

2023-03-18 07:36:37 | 古代史
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の語源は「小さい」とか、倭人が自らを「わ」(吾・我)と称したことから「倭」となったという説などいくつもあり、定説にはなっていません。しかし「日本人はもともと「和の精神」だった!(その2)」で説明しましたように、「(権力者・支配者に)従順」という意味がホントではないかと思います。三世紀の倭国の様子を記述した「魏志倭人伝」には風俗は乱れておらず、争いごとも少ないとあるので、当時のシナ人から見ると珍しい存在だったようです。倭人のこれらの特性は現代日本人にも引き継がれています。今回は倭人のルーツを考えてみたいと思います。お付き合いください(#^.^#)

後漢時代の文献「論衡」に周の成王(前1042年~前1021年)に倭人が鬯草(暢草、ちょうそう)という薬草を献上したという記事があります。日本列島では水田稲作が北部九州玄界灘沿岸で始められるのが前9世紀後半ですから、その少しだけ前の縄文晩期に当たります。この薬草は鬱金草(ウコン)とされており、福建・広東・広西などで採れるものです(注1)。だとすれば、倭人は列島に水田稲作技術をもたらした長江下流域の呉の人々のことになります。Y染色体DNAのハプロタイプはO1b2から分かれたO-47zで、現代の日本人男性(本土)の約25%居ます。O1b2から倭人O-47zを除いたO1b2*の人々は朝鮮民族の現代男性の約1/3を占め、前2800-前2000年の黄河中・下流域で龍山文化を担い、前1500年に殷(商)王朝を建てた人々の末裔の箕子朝鮮(紀元前12世紀ー紀元前194年)の人々です。(2023.3.18 赤字修正)


日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!

O1b2と考えている彭頭山文化の担い手は紀元前7000年、最初に米の栽培を長江中流域の湖南省彭頭山遺跡で行った人々で、「八十壋遺跡からは集落を堀で囲んだ跡が見つかり、最古級の環濠集落とも考えられる。また集落中央には祭祀を目的とした可能性のある大きな建物が発見された。」とあります。

殷(商)人系O1b2*の人々は山東省の黄河下流域で前6500年-前5500年に後李文化(こうりぶんか)を担った人々だと考えられます。この人々は「方形の竪穴建物に住んでおり、イヌやブタを飼っていた。紅褐陶の陶器や各種石器、地下の貯蔵穴、墓穴なども多数発見されている」とあり、「アワなど雑穀の栽培を行っていたが、済南市長清区の帰徳鎮月荘村で発見された月荘遺跡(Yuezhuang site)では雑穀のほかに炭化したコメが発見され、黄河流域で最古となる稲の栽培の証拠となった。AMS法による放射性炭素年代測定では7050年前(誤差±80年)のものとされている。」とあるので彭頭山文化の人々O1b2から前5000年頃に分かれた人たちだと考えています。

倭人系O-47zは長江中流域の彭頭山文化の人々から前6000年頃に分かれ下流域に移住したと考えています。前5000年ー前4500年の河姆渡遺跡で、「水稲のモミが大量に発見されたため、人工的かつ大規模に稲の栽培が行われていたことが明らかになった。これは世界でも最古の稲栽培の例である。」とあります。もと彭頭山文化の人々が同じ時期に作った城頭山遺跡(じょうとうざんいせき)では、世界最古の水田跡が見つかっていますので、倭人のものなのかも知れません。

河姆渡遺跡では「稲のほかにも、ヒョウタン、ヒシ、ナツメ、ハス、ドングリ、豆などの植物が遺跡から発見されている。その他ヒツジ、シカ、トラ、クマ、サルなどの野生動物や魚などの水生生物、ブタ、イヌ、スイギュウなどの家畜も発見された。」とあります。

また「遺跡からは干欄式建築(高床建物)が数多く発見されている。遺物のなかでは石器は比較的少なく、石斧など工具として使われた磨製石器や装飾品として使われたものが発見されている。木器や骨器は多く発見された。その中の「木雕魚」は中国最古の木製装飾物である。また木でできた柄のついた肩甲骨製の耜(シ、すき、田を耕す道具)や刀、銛、弓矢、紡錘や針など大量の紡織用の道具、骨でできた笛や木の太鼓も発見された。河姆渡では中国国内では最古の漆器も発見された。

さらに「陶器は黒陶、紅陶、紅灰陶など1000度前後の比較的高い温度で焼いたものが見られ、一定の技術的水準にあったことを示している。幾何学模様や植物紋、縄文などが刻まれており、中には人頭をかたどったものや船をかたどった土器もある。」とありますので、漁労民族であることも分かります。

ちょうど縄文時代前期である前5000年( 7000年前) から前3500年( 5500年前)と重なる時期です。縄文前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前)の大規模集落跡である青森市三内丸山遺跡は、遼河人系N1の人々によると考えられています。ここで見られた「多数の堅果類(クリ、クルミ、トチなど)の殻、さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物」と重なる部分があります。安田喜憲「稲作漁労文明ー長江文明から弥生文化へ」(雄山閣 p.140)によると、漆の文化は縄文前期の福井県鳥浜貝塚から河姆渡遺跡に至る環太平洋南部の文化に系譜を持ったものであるとあります。そして、「青森の地は、アメリカ北西部のハイダ族やトリンギット族、沿海州のギリヤーク族などの環太平洋北部の文化圏、中国江南の長江下流域から北上してきた環太平洋南部の文化圏、そして中国北東部からの環日本海文化圏がちょうど交流する文明交流圏に相当しているのである。この環太平洋北部と南部そして環日本海の異文化の接触地点に、南方要素と北方要素をともに兼ね備えた高い文化が発展したのである。」とあります。

縄文人(D-M55)というと日本列島固有の人々で、縄文時代は他の文化圏から隔離されたガラパゴス的イメージがありましたが、全く違ったものなのです。縄文人自身が海を移動して周囲の文化を取り込んだということで、その担い手がムナカタ海人族だったと考えています。南方系の蛇の文化も、弥生時代以前の縄文中期あたりから江南の倭人と交流して導入し、弥生時代になる前後には縄文人と江南の倭人(呉の人々)が混血したと考えられ、シナ人からはともに倭人と呼ばれたと考えています。

(注1)中国ではウコンを姜黄・姜王と呼ぶが、姜王とはショウガの王様の意味である。産地は温暖、湿潤で土層の深いところがよく、具体的には福建・広東・広西・雲南・四川・江西ほか。(「百歳への招待「長寿の源」食材を追う:ウコン茶」百菜新聞1998.05.10 32号 14面より)(2023.3.18 追加)

【関連記事】
中国神話は日本人の神話だった?
【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その19)7.記紀と日本人の信仰の謎⑤


「呉音」はいつ日本に入って来た?


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【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その23)天皇即位の密教の儀式の正体?

2023-03-12 23:44:05 | 古代史
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7.記紀と日本人の信仰の謎
⑨天皇即位の密教の儀式の正体?(@_@)


刮目天
戦国武将に人気の毘沙門天は戦の神様ですが、弥勒菩薩と共に、実は日本のある神様の本地仏なのですよ。江戸時代までの多くの人は知っていたのですが、明治になって廃仏毀釈が行われ神仏習合のことが現代人はほとんど忘れてしまっています。日本の古代史は江戸時代までさかのぼると見えてきますから面白いですよ。なぜ空海が高野山を開いたかにも関係します。高野山は高野御子の鎮魂のために修業場としたのですが、高野御子って誰?ここが分かると日本の歴史がかなり理解できるようになります。日本の中世や近世までは密教と修験道の考え方が動かしていたのだと思います。深く知りたければ、【刮目天の古代史】にお越しください!卑弥呼の謎もすべて解けますよ。お待ちしています!お邪魔しました(#^.^#)

すでに「本当は怖い七福神の謎」で述べましたが、毘沙門天が大国主の本地仏だというのは、女王台与の本地仏の吉祥天が毘沙門天の妃だと分かって確信しました。そして、サルタヒコとアメノウズメ、アソツヒコとアソツヒメなどなどの男女ペアの神様がすべて大国主と台与の分身となっていることを発見しています。

そこで、羽賀ヒカルさんの横に居られるのが愛染明王です。一面六臂で弓と矢を持ち獅子の冠をかぶった憤怒相ですが、「恋愛・縁結び・家庭円満」などをつかさどる仏として古くから信仰されており、また「愛染=藍染」と解釈し、染物・織物職人の守護仏としても信仰されている。さらに愛欲を否定しない[7]ことから、古くは遊女、現在では水商売の女性の信仰対象にもなっている。とあり、「離愛金剛、つまり愛欲(煩悩)を離れ、大欲に変化せしむの意味」の密号を持つwiki「愛染明王」にあります。

動画で紹介されたように、鎌倉時代を終わらせた後醍醐天皇(第96代)が、真言密教の庇護者で阿闍梨(師僧)の位を持っていたそうですが、特に愛染明王を熱心に祀っていたようです。すでに天皇の即位に当たり密教の秘儀を導入されていました。即位灌頂(そくいかんじょう)と言われる儀式です。

古代以来、天皇が行ってきた神道儀式は中世以降衰退していった。例えば大嘗会の翌年に古くから行われてきた八十嶋祭は鎌倉初期以降行われなくなった。そして大嘗会自体や新嘗祭も、15世紀にはいったん中絶する。そのような中、天皇の宗教的権威を保つ新たな儀式として即位灌頂は生まれ、発展していったとみられる」とあり、その起源は平安時代後期の後三条天皇(第71代)からという説がありますが反論もあるようで、鎌倉時代の後深草天皇(第89代)からは行われたものと考えられています。

一般的には即位式の前に摂関家、主に二条家の人物から天皇に対して印相と真言が伝授される「印明伝授」と呼ばれる伝授行為と、即位式の中で天皇が伝授された印明を結び、真言を唱える実修行為を併せて即位灌頂と呼んでいる。」とあり、また「天皇が結ぶ印相は金剛界大日如来を表す智拳印とされる。大日如来を表す智拳印を結ぶ点については、本地垂迹において天照大神と同一視された大日如来の印相を結ぶことによって、即位する天皇が大日如来と同一化し、至高な存在となる意味があるとされる[6]。」とあります。

皇祖神天照大神の本地仏が密教における最高仏尊大日如来ということになりますので、神式の大嘗祭における「真床覆衾(まとこおふふすま)」という儀式の密教版だと思います。精選版 日本国語大辞典 によれば、金剛界というのは密教で説く大日如来の理の一面のことで、その「智徳は堅固ですべての煩悩(ぼんのう)を打ち破る力を持っているので金剛という」とあります。

そして驚くべきは「真言は、胎蔵界大日如来の真言ないし荼枳尼天の真言を唱えたとされる。」とあることです。真言とはサンスクリット語でマントラ(Mantra)と呼ばれる言葉で「真実の言葉、秘密の言葉」を意味します。真言を唱えることで、現世利益や功徳が得られるとされています。胎蔵界は大日如来のもう一面で、「胎児が母胎の中で成育してゆく不思議な力にたとえて、大日如来の菩提心があらゆる生成の可能性を蔵していることを示したもの」と解説されています。

胎蔵界大日如来の真言は「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・アビラウンケン」ですが、荼枳尼天(だきにてん)の真言はいくつかあり代表的なものは「オン・ダキニ・ギャチ・ギャカニエイ・ソワカ」です。二つは異なるものですが、それでも同じ御利益ということなのですから、荼枳尼天、つまりお稲荷さんは胎蔵界大日如来の化身と考えられます。そして五穀をつかさどる御食津神・ウカノミタマと稲荷神が同一視されることから、総本宮の伏見稲荷大社を含め、多くの稲荷神社ではウカノミタマを主祭神としていますウカノミタマは伊勢神宮外宮の豊受大神のことなのです。すでに「伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その1)(その2)」で説明したとおり、天照大神は大国主久々遅彦で、豊受大神は大国主の妃の女王台与のことなのです。ですから、二柱の皇祖神の霊魂と一体になる即位灌頂は神道の儀式よりも日本建国の歴史の真相に踏み込んだものだったのです。

この伏見稲荷大社の主祭神は、下社の宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)で女王台与ですが、中社になんと佐田彦大神(さたひこのおおかみ)、つまり大国主の分身である猿田彦大神が祀られていましたからビックリです。さらに下社の摂社で田中大神(たなかのおおかみ)が祀られていますが、「かつては大己貴神や猿田彦神、鴨建角身命などとも同一視された」とwiki「伏見稲荷大社」にありましたから、すべて大国主のことだと分かります。鴨建角身命(かもたけつぬみのみこと)は京都市賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神で、神武天皇を導いた八咫烏(ヤタガラス)ですから、ニニギノミコトの天孫降臨を案内したサルタヒコや、真の初代天皇である応神天皇を呪力によって即位させた大国主大神と同じ役目なのです。また、上社に大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)という聞きなれない女神が祀られていますが、台与のことでしょう 。

江戸時代の後期になると、国学が盛んになるなどの社会の動きに対応して、仏教と神道が結びついた神仏習合に批判的な意見が見られるようになった。そのような中、即位式の仏教儀礼である即位灌頂に非難が集まるようになった。」<中略>「1868年の明治天皇即位時には、即位式の神道儀礼化が追求された結果、仏教的な色彩は全て追放され、即位灌頂は廃止されることになった。」ということです(wiki「即位灌頂」)。

最初に登場した愛染明王は「吒枳王(だきおう)」という異名がありますので、荼枳尼天とペアだと直ぐに分かりますから、これも大国主と台与の分身でした。後醍醐天皇は大国主の本地仏として愛染明王を祀ったということです。

なお、ウカノミタマが中世以降、「宇賀神(うがじん)」として祀られていますが、面白いことにその姿は、中国(なかつくに)神話天皇伏羲人皇女媧と同じ、人面蛇体(人頭蛇身)でトグロを巻く形で表されています。老人の宇賀神は武内宿禰(大国主久々遅彦)であり、女神は神功皇后(台与)なのです。だから、二人から生まれた応神天皇が初代天皇ということなのです。



日本神話が、中世から近世にかけてこのような記紀神話と全く異なる姿に変わってしまったことについて、斎藤英喜「読み替えられた日本神話」(講談社現代新書 pp.6-7)で以下のように述べられています。

 近代の始まりとなる明治維新は「王政復古」「神武創業」の言説に象徴されるように、古代神話をベースにする。もちろんその「古代神話」は、近代日本によって読み替えられた虚構の古代神話であった。それは近代的な国民国家を支える、新しい「神話」なのだ。(中略)なによりも「作られた古代神話」という見方を導く近代的な価値観からは、「中世日本紀」「中世神道」の世界などは、荒唐無稽(こうとうむけい)牽強付会(けんきょうふかい)という一言で、一刀両断のもとに切り捨てられてしまうだろう。だがそれこそ、近代的なイデオロギーに限界づけられた、神話の理解以外の何物でもないのだ。
 その時、一見「トンデモ本」のように見える、中世の自由奔放な神話世界は、近代的な価値観や感性を揺るがす、手付かずな原石のような輝きをもって、立ち現れてくるのだ。中世日本紀を、それだけ切り離し、物珍しい世界として興味本位で見てはならない。中世の神話世界の可能性をきちんと評価することができたとき、閉塞した近代の思考様式を組み替え、これまでとは違う「歴史」の捉え方が可能となるだろう。そしてそれこそが、日本神話にまつわる数々の「不幸」を脱却する重要な手立てとなるに違いない。


日本神話を研究した学者のすばらしい見識・予見だと思います。しかし、明治政府は神仏分離令を出して神仏習合の日本文化を破壊してしまいました。おかげで、日本の古代史が闇の中に葬られたということなのです。でも、日本はやっぱり神の国ですのでヒントはいたるところに転がっていましたよ(^_-)-☆

【関連記事】
高野山の秘密?(;^ω^)
【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その21)7.記紀と日本人の信仰の謎⑦



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今日は東京大空襲記念日だった!"(-""-)"

2023-03-10 23:58:41 | 歴史問題
最近は、古代史調査で忙しく、ブログのテーマ探しがお留守になっていました。ところが、このところの参議院で高市大臣と小西議員の放送法に係る捏造の行政文書問題が話題になっており、事実関係をYouTube などで調べました。真相は初の女性総理として期待される高市大臣を引きずり下ろす目的の謀略ではないかと見られます。もっと重要な国防や経済問題があるにもかかわらず、国民の目をそらすもので、日本の政治が末期的な状況まで劣化しているようです。そして、百田尚樹先生の動画で、今日3月10日が東京大空襲の日だと思い出させていただきました。ご存じない方はぜひこの動画をご覧ください。以下のコメントは、またかという内容で恐縮です。どうぞ、お付き合いください(*´Д`)



刮目天
百田先生!重要な記事をありがとうございます。
すべての日本国民が思い出さないといけません。日本人大虐殺の責任者に戦後の日本政府が勲章を与えたという事実は、衝撃的です。それを継承している今の日本が、戦前の裏切り者たちが敗けると分かっていた日米戦争を引き起こすことにより、何百万人の同胞を犠牲にして成立させた、敗戦革命国家だったという証拠のひとつです。

戦後GHQが日本の中枢にいた愛国的な日本人20万人以上を公職追放したので、工作員たちは日本を属国として統治するために米国に占領憲法と権力を頂いたわけです。彼らは、戦争を煽った犯罪的行為・裏切り行為を誤魔化し、すべて軍部に責任を擦り付け、弟子たちと一緒に戦後の日本国民にウソの教育をしてきました。現在はその裏切り者の2世・3世などの世襲議員や弟子たちが権力を握っていますので、平気で国民を貧困化させながら支配階級として外国資本に日本を売って、利権にありついているというのが実態だと思います。日本を憎む裏切り者の弟子たちがやっている大手メディアの世論誘導の欺瞞に気づかないと、もうじきタイムアップで、日本という世界一長く続いた国民国家が終わります。

日本国が消えると日本人の人権を護る仕組みも同時に消えるということに気づきましょう。今のうちに何とかしないと残された日本人にはこの世の地獄が待っています。東京大空襲で亡くなった方々と同じ苦しみを長期に渡って受け続け、最後は日本人は地上から消えるのだと思います。そうならないように、戦前・戦後の歴史の真実を勉強して、早く正気に戻りましょう。すでに戦後の欺瞞に気づいて、何とかしようと頑張っておられる愛国的な政治家を自分の目で見つけて投票し、日本のカジ取りをお願いしましょう。政治は誰がやっても同じではないですから、裏切り者マスメディアに騙されないように投票所に行きましょう!








対談・吉田茂という反省―憲法改正をしても、吉田茂の反省がなければ何も変わらない
阿羅 健一/杉原 誠四郎【著】


『東大法学部という洗脳』
倉山満著 いまだ逃れ得ぬ呪縛を解明 2019/6/8 13:20

8月革命説!日本の大学や官僚の劣化の原因はこれでしょう!日本を憎む愛国心のないエリートが何をやるのかは自明でしょう。そんな連中を日本国民が飼っていると日本は確実に終わりますよ( `ー´)ノ。