いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング
すいません。やっぱり計算ミスしていました(;´Д`)仁徳天皇の崩御年を間違って378年としてしまいましたが、正しくは377年でした。図も修正して、本文に対応する記述を赤の番号①~⑧を追加し、本文中に追加しました。よろしければご参照ください(#^.^#)
三世紀後半から四世紀末までシナの歴史書から倭国の記述が消え、空白の世紀と呼ばれています。東アジアと倭国がどういう時代だったかは、半島北部を支配していた高句麗の好太王碑やその後の倭の五王といわれるヤマトの大王の朝貢に関するシナの史書の記録などを頼りに考えるのですが、応神・仁徳天皇の時代なのですが、本当はどうだったのか、ほとんど分かっていません。日本書紀の倭の五王に対応すると考えられる天皇は下図のとおり存在するのですが、例によって日本書紀にも古事記にも、その時代の天皇がシナの王朝へ朝貢した記載が全くないので、倭の五王のことも実際のところ、よくわかっていないのです。
今まで見たように日本書紀には本当の歴史が隠ぺいされていることが分かってきました。どんな史実を隠したのか、そういう視点でこの時代を解明したいと思います。今回はすでに解明したヤマト建国の過程の延長としてこの時代を考えていきます。かなり強引な説になるかも知れませんが、何せ現状では全くと言っていいほど分かっていませんので、わずかな手掛かりを見逃さず、リーゾナブルな説明ができるということをご理解していただければいいと思います。ちょっと長くなったので分割しますが、最後までお付き合いください(#^.^#)
まず日本書紀の内容を具体的に見ていきましょう。次の表は小沢一雅「古事記崩年干支についての疑念」(2009年)表1から一部引用した該当する時代の古事記・日本書紀の天皇崩御の年の一覧表です。古事記・日本書紀に記載される享年を赤字で追加しました。これを見ると反正から飛んで、安康・雄略が記載されていません。古事記はすべて記載されています。日本書紀は応神・仁徳の享年があり得ない年齢です。しかし、古事記でも応神・雄略はもっとすごい話になっていますから、とても信ぴょう性がないように見えます。
すでに見たとおり、日本書紀は藤原不比等が不都合な史実を隠ぺいし、歴史を改ざんするのが目的で編纂したのですから、このようなあり得ない年齢にしているのは、何かを隠した証拠だと思います。すでに、「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?」で見たように、天武天皇の崩御後の真相は、長男の高市皇子が天皇に即位していると推理しましたので、日本書紀ではそれを否定するために母の宗形氏は身分が低いので即位できないとしました。
ところが応神天皇の皇太子菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)の母は和邇氏で、「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?」で述べたとおり、宗像の神々を祀る氏族で、国生みの女神イザナミもムナカタ一族だったのですから、高市皇子の即位を隠し持統天皇を即位させた日本書紀の嘘がバレたのです。
編纂当時の人も皇后が天皇に即位するなど前代未聞のあり得ない話と知っていますから、前例として敏達天皇の皇后を推古天皇として即位させる話や、皇極(斉明)という女性天皇を創作し、さらに神代では高天原の支配者としてアマテラス女神を創作し、孫の文武天皇の即位の正統性のために天孫降臨神話も創作したのです。ということで、応神天皇崩御後に母方がムナカタ海人族和邇氏の血を引く菟道稚郎子が播磨国風土記に見られる宇治天皇として即位していたと考えられます。
古事記は基本的に日本書紀の記述に沿いながらも、所々で日本書紀の内容と違えています。日本神話では日本書紀にない大国主神話を挿入していますので、神代の主役のひとりであることをアピールしています。つまり、神話の大国主はヤマト建国の主役の実在人物ですので、古事記は史実を示唆しようと努力しているのです。
古事記はすでに「王年代紀は記紀神話を正した!」に述べたように古事記序文を書いた多人長(おおのひとなが)の家系と秦氏は深い親交があり、史実の伝承を共有していたと推理できます。ですから、古事記は何とかして歴史の真相を伝えるために多人長が書いたと考えられますから、享年があり得ない二人の天皇は、実は60年で一巡する干支をわざと一運増やしていると考えると、応神天皇は70歳、雄略天皇は64歳と読め、古事記に記載されたすべての天皇の享年は妥当な年齢となります。
なぜこのようなまどろっこしいことをしなければならないかは明らかです。もしも藤原氏が隠した史実を暴露する目的を藤原氏に悟られたら、酷い仕返しがあるからでしょう。先代旧事本紀や万葉集や懐風藻など当時の文献はすべて、藤原氏に悟られないように婉曲に暴露する努力が行われています(関裕二「古代史 不都合な真実」じっぴコンパクト新書2018に詳しい)。したがって、ここでは修正した古事記の享年に基づいて推理したいと思います。
応神天皇は、上述のとおり古事記の甲午年394年から60年引いて334年に70歳で崩御したと考えると、265年生まれとなります①。母は北陸や近江を根拠地としていたムナカタ海人族の姫巫女台与です。父はムナカタ海人族を束ねる王久々遅彦で、記紀神話で大国主命とされた人物です。応神天皇の生まれ年がぎりぎり倭の女王が朝貢した記録にある266年の前年です。247年に13歳の台与が女王に立ったとして265年は18年後ですから31歳の子ですので妥当です。
これまでは、応神天皇は台与が女王に立ち、その数年後に大国主が妃にして生まれた最初の子と考えていましたが、こうであれば、応神天皇の前には兄や姉たちが沢山居たはずです。記紀で景行天皇とされた尾張王建稲種命が父の仇討ちで大国主や台与や赤坂比古を討ちますから、その時に生き延びた二人の間の子供たちもいたと思います。また、大国主は神話の記述から数多くの妃がいたと想像されますから、大国主の子孫が後世、日本書紀で大国主久々遅彦を隠すために創られた、五代の天皇に仕えた三百歳を超える白髪・白髭の老人武内宿禰を祖とするとした紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏・波多氏などの有力な古代豪族としてヤマト王権を支えたと考えています。しきりに建国の史実を伝えようとする秦氏はこの波多氏だと考えています。
応神天皇崩御が即位41年とありますので、これを信じると即位の年が293年となります。応神天皇の即位は日本書紀では、三輪山の大物主(大国主)の祟りにより崇神天皇が大物主の子大田田根子を探し出して祀らせた話です。実際は280年に呉が西晋に滅ぼされて、呉の人々は同郷の倭人を頼って列島に流れて来たと推理しています。大陸で一面も出土していない三角縁神獣鏡はこの時の呉の職人が作ったものと推理しています。狗奴国(ヤマト)の人々は、西晋の朝貢国だった倭国を滅ぼして建国したので、次は狗奴国が討たれると心配して、倭国女王の子を呼び寄せてヤマトの大王としたと推理しています。ですから、纏向遺跡にあった狗奴国をヤマト(卑弥呼や台与の邪馬台国)と呼ぶことにしたということです。
大国主らの倭国を滅ぼした人物は、崇神天皇とされた狗奴国大王卑弥弓呼と同じ、吉備で奴国を再興してヤマト政権の基礎を築いた第19代奴国王天照大神尊ニギハヤヒ大王の子孫の尾張王建稲種命と推理しました(注1)。倭国や列島各地の残党を討ってヤマト建国の英雄として凱旋した一族ですが(熱田神宮の祭神建稲種命は、ヤマトタケルの副将軍として東征に従軍し、他の神社伝承では帰路に水死したとされている。)、上の話から分かるように大国主らを殺したことが引け目・負い目になったようです。それでも、記紀では景行天皇とされて隠された建稲種命の子孫とされる仲姫命(なかつひめのみこと)を即位2年294年に応神天皇の皇后とされました(建稲種命の子かも知れません)。そこで、翌年295年に大鷦鷯尊(おほさざきのみこと、仁徳天皇)を生んだと推理しました。
また、応神天皇即位6年298年には和邇氏の日触使主(ひふれのおみ、卑弥呼の弟赤坂比古)の子宮主宅媛(みやぬしやかひめ)を妃としています③(注2)。大鷦鷯尊と同様に、その翌年299年に菟道稚郎子が生まれたとしました④。大鷦鷯尊よりも4歳年下なのですが、応神天皇は恐らく大国主サイドの強い要請があったために優秀な人物だったこともあり、皇太子にしたと日本書紀にあります。
応神天皇は仲姫命の姉妹高城入姫と弟姫も妃にしています。狗奴国王の物部氏の祖の一族や尾張王の勢力が跡継ぎを生んでもらうために送り込んだと考えられます。高城入姫から額田大中彦皇子と大山守皇子が生まれています。
wiki「菟道稚郎子」によれば「翌年に天皇が崩じたが、郎子は即位せず、大鷦鷯尊と互いに皇位を譲り合った。そのような中、異母兄の大山守皇子は自らが太子に立てなかったことを恨み、郎子を殺そうと挙兵した。大鷦鷯尊はこれをいち早く察知して郎子に伝え、大山守皇子はかえって郎子の謀略に遭って殺された。」とあり、「この後、郎子は菟道宮に住まい、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年に及んだ。永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ郎子は互譲に決着を期すべく、自ら果てた。尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、郎子は蘇生して妹の八田皇女を後宮に納れるよう遺言をし、再び薨じたという。」という話ですが、美談とされています。しかし、こんな現実離れした話は、日本書紀の正体がバレていますので、デタラメだとすぐに気づきます。
そうすると真相はどうだったかですが、菟道稚郎子は応神天皇の崩御334年の二年後の壬申年に自殺したと日本書紀にあります。その年に埋葬されたとか散骨されたという伝承まであります。しかし、その336年は丙申年で、近い壬申年は312年と372年となりますから、矛盾します。編纂者がすでによく知られていた菟道稚郎子の本当の没年を間違って書き残したとすれば、宇治天皇として崩御した年と考えられます。
そうなると、応神天皇崩御の334年に即位した②宇治天皇(菟道稚郎子)が崩御した年を後の壬申年372年と考え、仁徳天皇は、翌年まで待つ必要はないのでその年に直ぐに即位したと考えられます⑤。宇治天皇が別の人物を皇太子としていれば争いはあったかもしれませんし、宇治天皇が仁徳天皇を次の天皇にと考えていたのかは全く分かりませんが、妹の八田皇女を大鷦鷯尊の後宮に納れるよう遺言したと日本書紀にありますので、本当は宇治天皇が在位中に大鷦鷯尊に嫁がせたと推理できます⑥。(2022.12.4 青字追加)
しかし、仁徳天皇の崩御年は古事記によると丁卯年427年で享年83歳とありますから、これですと、345年に生まれたことになり、父である応神天皇が崩御して11年もあとに生まれたことになり、矛盾します。一運戻して367年に崩御したとすると、285年に生まれた計算になります。そうすると母の仲姫命が皇后になる応神天皇二年294年⑦よりも9年も前に生まれたことになり、これも矛盾します。
ですから古事記の崩年干支は使えないということになり、困りました。一晩悩みましたが、翌朝になって結論が出ました(^_-)-☆
古事記は仁徳天皇の崩御の年をわざと真実と異なる丁卯年にして、この時代は宇治天皇を隠していることを示唆しようとしたと推理しました。
それでは本当の仁徳天皇の崩御年はいつかですが、それは母が皇后になった翌年に生まれ、83歳で崩御したのではないかと推理しました。つまり大鷦鷯尊は295年に生まれ、83歳つまり82年後377年に仁徳天皇が崩御したということです⑧。(2022.12.4 赤字訂正)
なぜ、丁卯年に仁徳天皇が崩御したと嘘を書いたのかですが、宇治天皇の事績と関係があると思います。丁卯年427年の一運戻して367年に宇治天皇が何かをした記念の年なのかもしれません。宇治天皇に関して何か証拠が出てくればいいのですが、現状では、日本書紀の編纂者が歴史改ざんに疲れて、本当の宇治天皇崩御の壬申年をそのまま残してしまったという仮説を考えるしかないようです(#^.^#)
下に図を載せたので、確認してみてください。わたしも疲れましたが、皆さんも少し疲れてきたと思いますので、続きは次回にします。またよろしくお願いしますね( ^)o(^ )
(注1)卑弥呼が247年に暗殺され、その直後に狗奴国(旧奴国)による倭国追討軍が到着しました。卑弥呼が死んだことを知った弟赤坂比古は先代の父が狗奴国を裏切って倭国に加わっていたので、狗奴国への戦意が喪失して恭順したと推理しました。そこで、倭国王は勝ち目がないとみて半島に逃亡したので、追討軍の大将だった尾張王乎止与命(おとよのみこと)が狗奴国を裏切り、倭王に立ったのです。それを不服としたムナカタ海人族の王久々遅彦が尾張王と戦うことになり、赤坂比古が味方して尾張王を殺したと推理しました。赤坂比古が和邇氏の祖で、卑弥呼が日食のために暗殺されたことを示唆する名前の日触使主(ひふれのおみ)と不比等が名付けたと推理しています。
内乱の勝者久々遅彦が13歳の台与を女王に立て、魏を後ろ盾にして纏向遺跡に王宮を構えていた狗奴国(旧奴国)王卑弥弓呼と対立しました。大国主久々遅彦が台与を妃としていますが、265年に魏から帝位を禅譲された西晋に、翌年朝貢したという記録があります。それ以降の倭の五王の最初の讃王が東晋に朝貢した413年までの約150年間の記録が空白ということです。それでも、考古学や民俗学などの成果から、尾張王を継いだ建稲種命が大国主と赤坂比古と台与まで討ち取って日本建国した、その真相を前回の記事に述べた内容などから推理したのです。
(注2)ヤマト政権は天照大神尊ニギハヤヒ大王を祖とする物部氏の祖である狗奴国王や尾張王が実権を持っていましたが、この頃には応神天皇側の発言力が出てきたのだと考えられます。ですから、権力は応神天皇を支える大国主を祖とする豪族や台与の実家を祖とする息長氏と卑弥呼を祖とする和邇氏などの豪族との権力争いを繰り広げたという構図が見えてきます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング
すいません。やっぱり計算ミスしていました(;´Д`)仁徳天皇の崩御年を間違って378年としてしまいましたが、正しくは377年でした。図も修正して、本文に対応する記述を赤の番号①~⑧を追加し、本文中に追加しました。よろしければご参照ください(#^.^#)
三世紀後半から四世紀末までシナの歴史書から倭国の記述が消え、空白の世紀と呼ばれています。東アジアと倭国がどういう時代だったかは、半島北部を支配していた高句麗の好太王碑やその後の倭の五王といわれるヤマトの大王の朝貢に関するシナの史書の記録などを頼りに考えるのですが、応神・仁徳天皇の時代なのですが、本当はどうだったのか、ほとんど分かっていません。日本書紀の倭の五王に対応すると考えられる天皇は下図のとおり存在するのですが、例によって日本書紀にも古事記にも、その時代の天皇がシナの王朝へ朝貢した記載が全くないので、倭の五王のことも実際のところ、よくわかっていないのです。
今まで見たように日本書紀には本当の歴史が隠ぺいされていることが分かってきました。どんな史実を隠したのか、そういう視点でこの時代を解明したいと思います。今回はすでに解明したヤマト建国の過程の延長としてこの時代を考えていきます。かなり強引な説になるかも知れませんが、何せ現状では全くと言っていいほど分かっていませんので、わずかな手掛かりを見逃さず、リーゾナブルな説明ができるということをご理解していただければいいと思います。ちょっと長くなったので分割しますが、最後までお付き合いください(#^.^#)
まず日本書紀の内容を具体的に見ていきましょう。次の表は小沢一雅「古事記崩年干支についての疑念」(2009年)表1から一部引用した該当する時代の古事記・日本書紀の天皇崩御の年の一覧表です。古事記・日本書紀に記載される享年を赤字で追加しました。これを見ると反正から飛んで、安康・雄略が記載されていません。古事記はすべて記載されています。日本書紀は応神・仁徳の享年があり得ない年齢です。しかし、古事記でも応神・雄略はもっとすごい話になっていますから、とても信ぴょう性がないように見えます。
すでに見たとおり、日本書紀は藤原不比等が不都合な史実を隠ぺいし、歴史を改ざんするのが目的で編纂したのですから、このようなあり得ない年齢にしているのは、何かを隠した証拠だと思います。すでに、「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?」で見たように、天武天皇の崩御後の真相は、長男の高市皇子が天皇に即位していると推理しましたので、日本書紀ではそれを否定するために母の宗形氏は身分が低いので即位できないとしました。
ところが応神天皇の皇太子菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)の母は和邇氏で、「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?」で述べたとおり、宗像の神々を祀る氏族で、国生みの女神イザナミもムナカタ一族だったのですから、高市皇子の即位を隠し持統天皇を即位させた日本書紀の嘘がバレたのです。
編纂当時の人も皇后が天皇に即位するなど前代未聞のあり得ない話と知っていますから、前例として敏達天皇の皇后を推古天皇として即位させる話や、皇極(斉明)という女性天皇を創作し、さらに神代では高天原の支配者としてアマテラス女神を創作し、孫の文武天皇の即位の正統性のために天孫降臨神話も創作したのです。ということで、応神天皇崩御後に母方がムナカタ海人族和邇氏の血を引く菟道稚郎子が播磨国風土記に見られる宇治天皇として即位していたと考えられます。
古事記は基本的に日本書紀の記述に沿いながらも、所々で日本書紀の内容と違えています。日本神話では日本書紀にない大国主神話を挿入していますので、神代の主役のひとりであることをアピールしています。つまり、神話の大国主はヤマト建国の主役の実在人物ですので、古事記は史実を示唆しようと努力しているのです。
古事記はすでに「王年代紀は記紀神話を正した!」に述べたように古事記序文を書いた多人長(おおのひとなが)の家系と秦氏は深い親交があり、史実の伝承を共有していたと推理できます。ですから、古事記は何とかして歴史の真相を伝えるために多人長が書いたと考えられますから、享年があり得ない二人の天皇は、実は60年で一巡する干支をわざと一運増やしていると考えると、応神天皇は70歳、雄略天皇は64歳と読め、古事記に記載されたすべての天皇の享年は妥当な年齢となります。
なぜこのようなまどろっこしいことをしなければならないかは明らかです。もしも藤原氏が隠した史実を暴露する目的を藤原氏に悟られたら、酷い仕返しがあるからでしょう。先代旧事本紀や万葉集や懐風藻など当時の文献はすべて、藤原氏に悟られないように婉曲に暴露する努力が行われています(関裕二「古代史 不都合な真実」じっぴコンパクト新書2018に詳しい)。したがって、ここでは修正した古事記の享年に基づいて推理したいと思います。
応神天皇は、上述のとおり古事記の甲午年394年から60年引いて334年に70歳で崩御したと考えると、265年生まれとなります①。母は北陸や近江を根拠地としていたムナカタ海人族の姫巫女台与です。父はムナカタ海人族を束ねる王久々遅彦で、記紀神話で大国主命とされた人物です。応神天皇の生まれ年がぎりぎり倭の女王が朝貢した記録にある266年の前年です。247年に13歳の台与が女王に立ったとして265年は18年後ですから31歳の子ですので妥当です。
これまでは、応神天皇は台与が女王に立ち、その数年後に大国主が妃にして生まれた最初の子と考えていましたが、こうであれば、応神天皇の前には兄や姉たちが沢山居たはずです。記紀で景行天皇とされた尾張王建稲種命が父の仇討ちで大国主や台与や赤坂比古を討ちますから、その時に生き延びた二人の間の子供たちもいたと思います。また、大国主は神話の記述から数多くの妃がいたと想像されますから、大国主の子孫が後世、日本書紀で大国主久々遅彦を隠すために創られた、五代の天皇に仕えた三百歳を超える白髪・白髭の老人武内宿禰を祖とするとした紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏・波多氏などの有力な古代豪族としてヤマト王権を支えたと考えています。しきりに建国の史実を伝えようとする秦氏はこの波多氏だと考えています。
応神天皇崩御が即位41年とありますので、これを信じると即位の年が293年となります。応神天皇の即位は日本書紀では、三輪山の大物主(大国主)の祟りにより崇神天皇が大物主の子大田田根子を探し出して祀らせた話です。実際は280年に呉が西晋に滅ぼされて、呉の人々は同郷の倭人を頼って列島に流れて来たと推理しています。大陸で一面も出土していない三角縁神獣鏡はこの時の呉の職人が作ったものと推理しています。狗奴国(ヤマト)の人々は、西晋の朝貢国だった倭国を滅ぼして建国したので、次は狗奴国が討たれると心配して、倭国女王の子を呼び寄せてヤマトの大王としたと推理しています。ですから、纏向遺跡にあった狗奴国をヤマト(卑弥呼や台与の邪馬台国)と呼ぶことにしたということです。
大国主らの倭国を滅ぼした人物は、崇神天皇とされた狗奴国大王卑弥弓呼と同じ、吉備で奴国を再興してヤマト政権の基礎を築いた第19代奴国王天照大神尊ニギハヤヒ大王の子孫の尾張王建稲種命と推理しました(注1)。倭国や列島各地の残党を討ってヤマト建国の英雄として凱旋した一族ですが(熱田神宮の祭神建稲種命は、ヤマトタケルの副将軍として東征に従軍し、他の神社伝承では帰路に水死したとされている。)、上の話から分かるように大国主らを殺したことが引け目・負い目になったようです。それでも、記紀では景行天皇とされて隠された建稲種命の子孫とされる仲姫命(なかつひめのみこと)を即位2年294年に応神天皇の皇后とされました(建稲種命の子かも知れません)。そこで、翌年295年に大鷦鷯尊(おほさざきのみこと、仁徳天皇)を生んだと推理しました。
また、応神天皇即位6年298年には和邇氏の日触使主(ひふれのおみ、卑弥呼の弟赤坂比古)の子宮主宅媛(みやぬしやかひめ)を妃としています③(注2)。大鷦鷯尊と同様に、その翌年299年に菟道稚郎子が生まれたとしました④。大鷦鷯尊よりも4歳年下なのですが、応神天皇は恐らく大国主サイドの強い要請があったために優秀な人物だったこともあり、皇太子にしたと日本書紀にあります。
応神天皇は仲姫命の姉妹高城入姫と弟姫も妃にしています。狗奴国王の物部氏の祖の一族や尾張王の勢力が跡継ぎを生んでもらうために送り込んだと考えられます。高城入姫から額田大中彦皇子と大山守皇子が生まれています。
wiki「菟道稚郎子」によれば「翌年に天皇が崩じたが、郎子は即位せず、大鷦鷯尊と互いに皇位を譲り合った。そのような中、異母兄の大山守皇子は自らが太子に立てなかったことを恨み、郎子を殺そうと挙兵した。大鷦鷯尊はこれをいち早く察知して郎子に伝え、大山守皇子はかえって郎子の謀略に遭って殺された。」とあり、「この後、郎子は菟道宮に住まい、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年に及んだ。永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ郎子は互譲に決着を期すべく、自ら果てた。尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、郎子は蘇生して妹の八田皇女を後宮に納れるよう遺言をし、再び薨じたという。」という話ですが、美談とされています。しかし、こんな現実離れした話は、日本書紀の正体がバレていますので、デタラメだとすぐに気づきます。
そうすると真相はどうだったかですが、菟道稚郎子は応神天皇の崩御334年の二年後の壬申年に自殺したと日本書紀にあります。その年に埋葬されたとか散骨されたという伝承まであります。しかし、その336年は丙申年で、近い壬申年は312年と372年となりますから、矛盾します。編纂者がすでによく知られていた菟道稚郎子の本当の没年を間違って書き残したとすれば、宇治天皇として崩御した年と考えられます。
そうなると、応神天皇崩御の334年に即位した②宇治天皇(菟道稚郎子)が崩御した年を後の壬申年372年と考え、仁徳天皇は、翌年まで待つ必要はないのでその年に直ぐに即位したと考えられます⑤。宇治天皇が別の人物を皇太子としていれば争いはあったかもしれませんし、宇治天皇が仁徳天皇を次の天皇にと考えていたのかは全く分かりませんが、妹の八田皇女を大鷦鷯尊の後宮に納れるよう遺言したと日本書紀にありますので、本当は宇治天皇が在位中に大鷦鷯尊に嫁がせたと推理できます⑥。(2022.12.4 青字追加)
しかし、仁徳天皇の崩御年は古事記によると丁卯年427年で享年83歳とありますから、これですと、345年に生まれたことになり、父である応神天皇が崩御して11年もあとに生まれたことになり、矛盾します。一運戻して367年に崩御したとすると、285年に生まれた計算になります。そうすると母の仲姫命が皇后になる応神天皇二年294年⑦よりも9年も前に生まれたことになり、これも矛盾します。
ですから古事記の崩年干支は使えないということになり、困りました。一晩悩みましたが、翌朝になって結論が出ました(^_-)-☆
古事記は仁徳天皇の崩御の年をわざと真実と異なる丁卯年にして、この時代は宇治天皇を隠していることを示唆しようとしたと推理しました。
それでは本当の仁徳天皇の崩御年はいつかですが、それは母が皇后になった翌年に生まれ、83歳で崩御したのではないかと推理しました。つまり大鷦鷯尊は295年に生まれ、83歳つまり82年後377年に仁徳天皇が崩御したということです⑧。(2022.12.4 赤字訂正)
なぜ、丁卯年に仁徳天皇が崩御したと嘘を書いたのかですが、宇治天皇の事績と関係があると思います。丁卯年427年の一運戻して367年に宇治天皇が何かをした記念の年なのかもしれません。宇治天皇に関して何か証拠が出てくればいいのですが、現状では、日本書紀の編纂者が歴史改ざんに疲れて、本当の宇治天皇崩御の壬申年をそのまま残してしまったという仮説を考えるしかないようです(#^.^#)
下に図を載せたので、確認してみてください。わたしも疲れましたが、皆さんも少し疲れてきたと思いますので、続きは次回にします。またよろしくお願いしますね( ^)o(^ )
(注1)卑弥呼が247年に暗殺され、その直後に狗奴国(旧奴国)による倭国追討軍が到着しました。卑弥呼が死んだことを知った弟赤坂比古は先代の父が狗奴国を裏切って倭国に加わっていたので、狗奴国への戦意が喪失して恭順したと推理しました。そこで、倭国王は勝ち目がないとみて半島に逃亡したので、追討軍の大将だった尾張王乎止与命(おとよのみこと)が狗奴国を裏切り、倭王に立ったのです。それを不服としたムナカタ海人族の王久々遅彦が尾張王と戦うことになり、赤坂比古が味方して尾張王を殺したと推理しました。赤坂比古が和邇氏の祖で、卑弥呼が日食のために暗殺されたことを示唆する名前の日触使主(ひふれのおみ)と不比等が名付けたと推理しています。
内乱の勝者久々遅彦が13歳の台与を女王に立て、魏を後ろ盾にして纏向遺跡に王宮を構えていた狗奴国(旧奴国)王卑弥弓呼と対立しました。大国主久々遅彦が台与を妃としていますが、265年に魏から帝位を禅譲された西晋に、翌年朝貢したという記録があります。それ以降の倭の五王の最初の讃王が東晋に朝貢した413年までの約150年間の記録が空白ということです。それでも、考古学や民俗学などの成果から、尾張王を継いだ建稲種命が大国主と赤坂比古と台与まで討ち取って日本建国した、その真相を前回の記事に述べた内容などから推理したのです。
(注2)ヤマト政権は天照大神尊ニギハヤヒ大王を祖とする物部氏の祖である狗奴国王や尾張王が実権を持っていましたが、この頃には応神天皇側の発言力が出てきたのだと考えられます。ですから、権力は応神天皇を支える大国主を祖とする豪族や台与の実家を祖とする息長氏と卑弥呼を祖とする和邇氏などの豪族との権力争いを繰り広げたという構図が見えてきます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング