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隋書にある倭王の謎?(^_-)-☆

2023-04-29 09:51:00 | 古代史
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前回・前々回と吉備の楯築王墓に葬られたニギハヤヒ大王について考えました。今回は以下の隋書 倭国伝にある次の不可思議な文章の解釈がニギハヤヒと関連があると見ていますので、記事にしました。お付き合いください(#^.^#)

開皇二十年 俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言 俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰此大無義理 於是訓令改之 (開皇二十年(600年)、俀(倭)王、姓阿毎(アメ)、字多利思北孤(タリシヒコ)、号阿輩雞彌(オオキミ)は使を遣はし闕に詣る。上は所司をしてその風俗を訪はしむ。使者は言ふ。倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天が未だ明けざる時に出でて政(まつりごと)を聴き、跏趺(かふ)して坐す。日出ずれば、すなわち理務(政務)を停め、我が弟に委ねむと云ふ。高祖曰はく、これ大いに義理(道理)無し。ここに於いて、訓じてこれを改めしむ。)」が今日のテーマです(本文と現代語訳は塚田敬章氏「隋書俀(倭)国伝」より引用して黒字を追加しました)。

この「俀王以天為兄以日為弟」という内容は隋の高祖文帝(楊堅)でなくても誰でもが不可解だと思うはずです。これは、塚田先生の訳のとおり、素直に読めば「天は倭王の兄、日は倭王の弟」とあります。しかし、そのすぐ後ろでは、兄である天は、弟である太陽が昇ると政務を止めて弟に任せるとあり、政務は倭王の本来の仕事ですから、倭王は太陽という意味だと分かります。

具体的には、大王は天に居る兄神の意思に従って政務・祭りごと(祭祀)を行うということだと思います。これは、日本書紀 崇神天皇十年、大物主神(オオモノヌシノカミ)の妻となった倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトビモモソヒメノミコト)が葬られた箸墓を、「昼は人が造り、夜は神が造った」とあることを思い出します。つまり太陽が昇る前は倭王は寝ていても神がしかるべき活動をしてくれるので、日が昇ると倭王は起きて人々を動かすということだと思います。そして太陽(日)である倭王の兄は天、つまり神となってあの世に居る兄だという家族意識があるのだと考えられます。

一方、隋書の大業三年(607年)の有名なこの文章「日出處天子致書日没處天子無恙云云(日出ずる所の天子、書を日没する所の天子に致す。恙なきや、云々。)」にある天子はともに天に命じられて天下を支配する隋の皇帝でもあり倭国の大王を意味するので、上の文章が天が兄、倭王である日が弟というのとも異なりますから、不可解なのです。

実は、このことは倭国の史実に基づく倭王の政治理念ではないかと考えられます。107年に後漢に朝貢した奴国宮廷楽師師升らに奴国王スサノヲが殺され約四百年続いた筑紫の奴国が滅ぼされました。奴国を脱出した弟ニギハヤヒが、師升の倭国とも変わらず、交易によって潤っていた裏切り者の吉備の在地勢力を倒し、奴国を再興しました。そして兄神スサノヲの霊力によって弟のニギハヤヒ大王の子孫である倭王(大王、オオキミ)が師升の子孫を倒し、大和で政権を打ち立てました。纏向遺跡の旧奴国は魏志倭人伝では狗奴国とされました。

すでに前回の記事のとおりニギハヤヒがスサノヲの弟であることは、日本書紀は隠していますが、ニギハヤヒは出雲・伯耆を根拠地とするムナカタ海人族の助けがあったと推理できます。イザナミの墓所比婆山はムナカタ族の支配地にあったと考えられ、吉備と出雲の人々は互いに交流しており、二世紀の祭祀において密接な関係が見て取れるからです。



そして、ニギハヤヒ大王を祖とする物部氏の歴史書「先代旧事本紀」に「饒速日命の名称以外に、別名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)、天火明命(あまのほのあかりのみこと)、天照國照彦天火明尊、胆杵磯丹杵穂命(いきしにぎほのみこと)と表記される。他の別名として、神饒速日命(かむにぎはやひのみこと)、天照御魂神(あまてるみたまのかみ)、天照皇御魂大神(あまてらすすめみたまのおおかみ)がある。」とあることから(wiki「ニギハヤヒ」より)、ニギハヤヒは太陽神という位置づけなのです。ですからニギハヤヒは、王年代紀(宋史)の第19代王天照大神尊のことだと考えました。

従って、七世紀におけるニギハヤヒの子孫である大王(おおきみ)は太陽が昇る前の倭王が寝ている間は天神スサノヲが日本を支配しており(注1)、夜が明けると天に代わって太陽神ニギハヤヒとその子孫が統治するという理念の下で日本が存在すると考えていたのだと解釈できます。上で述べた日本建国前史を理解すると、隋書の倭王に関する記述はこのように解釈することができるのではないかと思いますが、いかがでしょうか?(#^.^#)。



(注1)菅原道真が天神様と呼ばれますが、これは大国主に国譲りをさせるよう高天原から命ぜられたアメノホヒの子孫だからなのです。記紀ではアメノホヒは大国主に国譲りさせるどころか、大国主の家来になって任務を放棄した神なのです。

後の大和朝廷は大国主の祟りを最も畏れているのですが、それは大国主がスサノヲの子孫であることも関係しています。道真の怨霊も恐れられているということはアメノホヒは大国主の分身だからだと考えています。そして、大和朝廷は大国主を討って倭国を奪ったことの後ろめたさが、大国主の祟りにおびえる原因なのですが、元々はスサノヲがかつての部下であった師升の裏切りによって拷問されて殺されたその怨念を重視しているようです。つまり、スサノヲは疫病神の元締めのような神なのです。だから、大国主も菅原道真もスサノヲの子孫だから恐れられたのだと考えています。詳しくは「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?(注1)」参照(^_-)-☆

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2023-04-25 19:33:26 | 古代史
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庄原市の日本ピラミッド葦嶽山と吉備津彦神社のストーンサークルはニギハヤヒが祭祀を行ったと推理していましたが、以下の動画で楯築王墓の南側の真宮(しんみや)神社に立派なストーンサークルがあることが分かりましたので、嬉しくてコメントしました。お付き合いください(#^.^#)



貴重な情報をありがとうございます。楯築王墓は王年代紀(宋史)第19代王天照大神尊とされたニギハヤヒ大王が被葬者です。詳しくは拙ブログ「【刮目天の古代史]楯築遺跡は師升の墓か?」を参照ください。この真宮(しんみや)神社は18代奴国王スサノヲを祀っていることは分かっていましたが、牛神様、薬王大菩薩はスサノヲの本地仏ですので間違いありません。同様のストーンサークルは吉備津彦神社にも見られますが、弥生後期後半(二世紀前半)に作られたものだと思います。真宮神社でニギハヤヒが兄のスサノヲを祀り、王位継承儀礼を行った痕ではないかと思います。実は日本ピラミッドが庄原市葦嶽山にあり、その山頂にもストーンサークルが見られます。その拝殿が東側の鬼叫山にあり巨石群が見られます。麓の蘇羅比古神社の祭神は山幸彦となっていますが、その社名から本当はニギハヤヒであると推理しています。今回の情報からニギハヤヒがこれらのストーンサークルを作ったと確信しました。どうもありがとうございました。
詳細は拙ブログにありますので、よろしければご参照いただき、コメントしていただけると幸いです。


真宮神社は楯築王墓の南側の王墓山の南端にあります。王墓山古墳は6世紀に築造されたもののようです。多数の副葬品が出土しています。その時代にヤマト王権の基礎を築いたニギハヤヒ大王の子孫(物部氏)によって奴国王スサノヲを祀るために築造されたと、真宮神社の存在から推理できます。ですからこの古墳には当然ですが奴国で殺されたスサノヲの遺骸はなかったと考えています(^_-)-☆

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2023-04-21 21:51:20 | 古代史
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とても参考になるご講演を拝聴させていただき有難うございます。ご指摘のとおり、当時の東アジアの情勢と我が国の建国は密接に連動していることは確かです。范曄後漢書に登場する倭国王帥升ですが、実はその原本は残っておらず、原本を参照したと思われる後続の文献から倭面土国王師升というのが正しいと思われますが、白鳥庫吉は、魏志倭人伝の倭国大乱の、元は7・80年間男王が治めていたという記述から面は 囬(回の俗字、ウィ)の誤写で、魏志倭人伝の伊都国王だった人物としています。帥姓も魏王朝以前は師姓だったということも広韻などの文献にあります。そして、師姓は周代以前から楽師の官位を表すと知られています。ということは師升は西暦57年に後漢光武帝から金印を賜った奴国王の宮廷祭祀を司る楽師の長(司祭)だったとすれば、奴国を乗っ取った人物だったと分かります。まだ続きがありますが、長くなったのでブログにしました。よろしければ、【刮目天の古代史】https://blog.goo.ne.jp/katumoku10
をご参照いただきご意見を頂戴できれば幸いです。失礼しました。


日本最初の王墓が福岡市早良平野吉武高木遺跡ですが、984年東大寺の僧奝然(ちょうねん)が宋の太宗に献上した「王年代紀(新唐書・宋史)」に記された初代王天御中主(あめのみなかぬし)から三代、天村雲尊・天八重雲尊と王族が葬られています。天御中主神は記紀神話でも高天原に最初に降り立った神とされています。天は海を意味し、中は奴(ナーガ)、つまり龍蛇神を信奉する海人族(倭人)の王という名前なのです。呉の太伯の末裔ということです。那珂、那賀、長柄、中山などの地名は江南出身の倭人が列島内で拓いた場所を示しています。天御中主神は各地の水天宮で龍神として祀られており、水神様なのです。

高天原が倭国ということですから、8世紀初頭に藤原不比等によって創作された高天原神話は、師升らのクーデターで奴国王が殺された史実を示唆しています。つまり乱暴者の神スサノヲは18代奴国王だったのです。そして、奴国を脱出したスサノヲの部下が逃げる途中で志賀島に隠した金印が江戸時代に発見されました。古事記に八百万の神々がスサノヲの髪を抜き、手足の爪をはがして財産を没収し、追放したと書かれています。つまり師升らは金印の在りかを白状させるためにスサノヲを拷問したのですが、金印が見つからないので殺し、107年に捕虜にしたスサノヲの部下160人を後漢安帝に献上し、倭国王に認められたと分かります。

日本書紀仲哀紀に奴国の地(博多)を儺縣(なのあがた)としていることから、日本書紀の編者がこの史実を知っていたことが分かります。つまり、儺は追儺(ついな)、鬼やらい・神やらいの意味なのです。



また、魏志倭人伝には魏に最初に朝貢するために239年倭大夫難升米が帯方郡に派遣されたとあります。当時は、漢字のニンベンを省略するのが流行った模様で、金印でも倭が委と書かれています。その他にも室見川銘板に二例ありますから難升米は儺升米と見ることができます。そこで、この場合、米は「め」と読み、頭(かしら)を意味するので、奴国王を追放した儺升(師升)一族の伊都国に王宮を置く倭国王を意味する名前だったと考えられます。

さらに、伊都国は殷王朝初期の伝説の宰相伊尹(いいん)に因む国名です。伊尹は放蕩者の王を追放したことで評価が議論される人物だったことが孟子・尽心上篇にあります。ウィト国を伊尹の事績に因む伊都国と書いて帯方郡太守劉夏に教えた人物は難(儺)升米以外に考えられません。難升米が伊都国男王であり、卑弥呼の政治を補佐する男弟とされ、魏の正規軍の旗黄憧が授けられているので、本当の倭国王だったことも分かります。3世紀前半の三雲南少路遺跡番上地区で楽浪土器が集中して出土していますので、難升米は華僑らシナ人と交流し、漢字を読み書きできる教養人だったと分かります。政治的な理由で魏志倭人伝に邪馬台国女王卑弥呼を登場させた人物だったのです。詳しくは拙ブログ「伊都国の意味がヒントだった?」などをご参照ください。

さて前置きが長くなり過ぎましたが、王年代紀に19代王が天照大神尊と記されています。つまり、先代王スサノヲが殺されて、約五百年続いた伝統ある筑紫の奴国が滅亡したのですが、この人物が奴国から出雲方面に逃亡し、ムナカタ海人族の支援で吉備を平定し、奴国を再興した大王だと推理できます。出雲市の大型四隅突出型墳丘墓西谷3号墳などから吉備の特殊器台・特殊壺が出土しています。昔話「桃太郎」のもとになった話が、吉備津神社に吉備津彦の鬼退治の伝承として残っています。日本書紀が孝元天皇の皇子の話として隠したこの人物の事績に基づく伝承だったのです。



楯築王墓の被葬者は、墳頂の神社のご神体亀石(ヘビを象った文様の弧帯文石)に人面が彫られていることから判明しました。中国神話の天皇伏羲と同じ人面蛇体の龍蛇神(ナーガ)なのです。天照大神尊こそ、初代奴国王天御中主の子孫で、ヤマト王権の基礎を築いた天照国照彦天火明櫛玉饒速日命ニギハヤヒ大王だったのです。

スサノヲの弟で国生み神話のイサナギ・イザナミの子だと推理しました。17代王伊弉諾尊の妃伊弉冉尊(イザナミ)の墓所は記紀神話で比婆山とあり、比定地はいくつかありますが、島根県安来市伯太町比婆山久米神社は縄文海人ムナカタ族の根拠地なのです。イザナミがムナカタ海人族の姫だったことは宗像大社の伝承に「ムナカタの子がスミヨシ」とあったことから分かります。スミヨシはイザナギから海の支配を命じられたスサノヲのことなのです。

そして、平安時代の朝廷は備中吉備津神社吉備津彦他三柱だけに皇族に対する特別な神階である品位を贈って丁重に祀っていますから、これらの神が、日本書紀が隠した皇祖神の正体だったと分かります(注1)。女神アマテラスや初代神武天皇にはこのような神階は贈られていませんから、王年代紀が日本神話を正したように、不比等が創作したことを朝廷が告白していると考えられます(^_-)-☆。



さて、倭国大乱ですが、ニギハヤヒ大王の子孫である狗奴国(旧奴国)王卑弥弓呼の官狗古智卑狗らが、復讐のために、半島の混乱で楽浪郡との交易ができず衰退していた倭国を攻撃し、倭国は苦戦していました。ところが、204年、公孫氏が半島を平定して帯方郡を置いたので、倭国は息を吹き返し、狗古智卑狗を討ち取ったと推理しました。狗古智卑狗はムナカタ族を束ねる王でしたので、大活躍していた王を喪って途方に暮れていた玄界灘を支配するムナカタ族和邇氏の祖赤坂比古(卑弥呼の父、天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神がイチキシマヒメ卑弥呼)を難升米が懐柔し、姫巫女(卑弥呼)による太陽神の神託に従って政治を行う条件で邪馬台国連合倭国を成立させました。

これに対抗するために3世紀初頭に卑弥弓呼大王が纏向遺跡を築いて、各地に散っていた旧奴国の勢力を呼び集めて、少し経緯がありますが、倭国を討ったのが日本建国のストーリーだと考えました。これらは2世紀後半(弥生後期後半)および3世紀後半(弥生終末期・古墳初頭)の鉄鏃・銅鏃の出土状況の調査結果から推理しました。詳細は拙ブログ「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。このような古代史解明にはアブダクションと呼ばれる仮説構築の科学的手法を採用していますので、その基本的な考え方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご参照ください。



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(注1)淡路国伊弉諾神社伊弉諾尊でスサノヲ及びニギハヤヒの父と、宇佐神宮八幡大神・八幡比売神も一品が贈られ、ニギハヤヒは二品となっています。八幡大神は通説は応神天皇とされていますが、その本当の父であった大国主久々遅彦でスサノヲの子孫です。八幡比売神は宇佐市安心院町下毛宮ノ原遺跡に疎開していた宗像女神卑弥呼です。三女神社が宮室です。径百余歩(直径約150m)の卑弥呼の墓三柱山古墳を遺跡の西側で発見しました。その遥拝所の摂社の祭神から大国主のいとこだと推理しています(上図参照)。

ちなみに、伊勢神宮内宮の真の祭神は、江戸時代まで男神説がありましたが、やはり大国主久々遅彦でした。クーデターを逃れたスサノヲの子イタケルの子孫です。上記のとおり代々、北九州から山陰・北陸・越を根拠地とするムナカタ族を束ねる王です。豊岡市久久比神社の祭神で、イタケルと同じ木霊ですので、現代まで上棟式の祭神屋船久久能智命としても祀られています。

そして、纏向遺跡の箸墓は、日本書紀に大物主大神の妻である孝元天皇の皇女ヤマトトトビモモソヒメとの伝承から、大国主の妃台与だったと分かります。応神天皇の母神功皇后のモデルです。宇佐神宮三之御殿で祀られています。台与は伊勢神宮外宮の祭神豊受大神で、ウカノミタマですので全国の稲荷神社で篤く祀られています。そのほか山岳信仰で白山比売などとしても祀られています(詳細は「悲劇の女王台与のはなし(その1)から(その4)」参照)。


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初期の新羅王も倭人だった?(^_-)-☆

2023-04-19 22:23:41 | 古代史
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最近、立て続けに大きな事件があり、どうも不自然な状況なので、気になってずっとYouTubeのニュースなどを見ていました。古代史ブログから離れていましたが、本日いい動画を見つけましたので、以下のようなコメントをしました。どうぞ、おつきあいください(#^.^#)




参考になる、とてもいい情報をありがとうございます。本当の新羅建国は4世紀で、それまでは半島南部は倭国王が支配していたと考えていました。ですから朴氏も倭人である可能性が高いと思います。

また、百済建国も4世紀前半のようです。高句麗と同じツングース族の国だったのですが、6世紀初頭に馬韓伯済国の王が東城王を殺して百済王に成りすましたと推理しました。BC473年に滅亡した呉王夫差の父闔閭(こうろ)王の弟夫概(ふがい)の一族が伯済国を支配しており、その王だった人物が百済武寧王(在位:501年 - 523年)を名乗ったということです。ですから、660年に滅んで日本に帰化した百済人はすべて倭人だったと推理しています。
続きが長くなったので、よろしければ拙ブログをご参照ください。どうもお邪魔しました。


ご存じのとおり、日本の最初の王墓は、福岡市吉武高木遺跡にあります。呉が滅んだ時に王族の一部が、その支配民の倭人(江南の呉人)に助けられて半島南部に逃亡し、紀元前4世紀初頭にそこから南下して移住しました。「魏略」にあるとおり、呉の太伯の後裔が日本の最初の王天御中主(あめのみなかぬし)です。記紀神話では高天原に最初に降り立った天御中主神とされています。天は海を意味し、中は奴(ナーガ)、つまり龍蛇神ですから、ナーガを信奉する海人族(倭人)の王という名前なのです。ご指摘のように、那珂、那賀、長柄、中山・・・という地名は江南出身の倭人が列島内で開発した場所を示しています。天御中主神は各地の水天宮で龍神として祀られており、水神様でもあります。

雍熙元年(九八四年)、東大寺の僧奝然(ちょうねん)が宋の太宗に献上した「王年代紀(宋史)」にも筑紫日向宮を王宮とする初代王とあり、2代王天村雲尊、3代王天八重雲尊までの奴国王が住んでいましたが、手狭になったようで、4代王天聞禰尊(あめのににぎのみこと)が福岡平野に進出して、王宮を春日市須玖岡本遺跡に遷しました。祖父天村雲尊から三種の神器を授けられて比恵・那珂遺跡に交易センターを作り、後漢光武帝から金印を賜るまでになった奴国の隆盛の基礎を築いた伝承が7世紀末にも残っていたのです。この史実から連想して「日本書紀」で天孫降臨神話が創作されたのです。(2023.4.20 赤字訂正)



多くの日本人は、天武天皇が歴史書編纂を命じたので、「日本書紀」と「古事記」が天皇の歴史書だと習っています。しかし、正史「日本書紀」が完成したのは崩御の34年後です。当時の権力者は藤原不比等でした。天武天皇の妃鵜野讃良(うののさらら、天智天皇皇女)と組んで皇位を奪ったので、その正統性のために鵜野讃良をモデルとする高天原神話の最高女神アマテラスを創作し、孫の文武天皇を15歳で即位させ、その妃に不比等の娘宮子とし、外戚として実権を振るったのです。唐の律令制度に倣って、藤原氏に都合がよい太政官と神祇官を置く制度とし、3世紀のヤマト建国時代の豪族が活躍した史実を隠すために神話を創作して宮中祭祀を握りました。そして建国に貢献した豪族を謀略によって次々に没落させて、平安時代の藤原氏の全盛期の基礎を築いたのです。

「古事記」は9世紀に宮廷で「日本書紀」を講義していた学者多人長(おおのひとなが)が突然表に出したものです。序文に712年の完成とありますが、「日本書紀」と次の正史「続日本紀」にも、どこにも「古事記」のことが記録されておらず、その他の理由からも人長の創作だと分かります。「日本書紀」に添いながら所どころ違えていますので、「日本書紀」が隠した歴史をそれとなく正すための暗号書だと分かりました。

ですから、不比等が何を隠したのかを考えて、物証によって仮説を検証すると、建国から奈良時代までの不比等に隠された史実が浮かび上がってきました。

先日豪華な副葬品で話題になった富雄丸山古墳の被葬者も、鵜野が持統天皇に即位したことにするために隠された天皇のひとり、初代応神天皇の皇太子とされた菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)宇治天皇だと分かりました。その他にも「古事記」の崩年干支と倭の五王の朝貢年から、空白の世紀に隠された二人の天皇と倭の五王の系譜が判明しました。



さらに、天皇を隠した理由が持統天皇として即位したことにするためだと分かったので、推古天皇と皇極(斉明)天皇は皇后から皇位についた前例として「日本書紀」で創作したことも分かりました。ですから、江戸時代の二人の女性天皇までの、すべての女性天皇がフェイクだということだと分かりました。

これは京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺で、天智天皇から飛んで、その孫光仁天皇から歴代の天皇を祀っていますが、明治になるまで女性天皇は誰一人祀られていないことが分かりました。また、江戸時代の二人の女性天皇の仏事に掲げる肖像画も、明治になって作られたものと分かりました。

ということで、「王年代紀」によって、記紀神話が正され、「新唐書」でやっと倭国から日本という国号に認めてもらい、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」という正しい認識になったのです。天御中主が日本における最初の皇祖神です。そして、中国神話の人類の始祖神である人面蛇体の天皇伏羲・人皇女媧そして中国最初の夏王朝を建てた禹王が呉の太伯の祖神ですから、日本の天皇はその末裔なのです。本当の日本人の神話は中国(なかつくに)神話だったのです(^_-)-☆

詳しくは以下の記事をご参照ください。(#^.^#)


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考古学者が考古学を無視する?(◎◇◎)

2023-04-07 00:20:58 | 古代史
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時々参考にさせていただいている「邪馬台国大研究」井上筑前先生のとても分かり易い、いい解説がYouTubeにアップされていました。邪馬台国は九州だという結論はいいのですが、魏志倭人伝の記述からは宇佐説以外にないのでコメントさせていただきました。お付き合いください(#^.^#)





邪馬台国畿内説に対して「考古学者が考古学を無視する?」これは名言だと思います。
しかし、畿内説が南を東に読み替えることが前提とおっしゃっていますが、九州説、北九州説?であっても伊都国の拠点集落の三雲遺跡から、奴国の拠点集落の比恵・那珂遺跡の方角は、魏志倭人伝にある東南ではなくほぼ東ということです。しかもその間の距離が百余里とあるのですが、直線で約20kmですから、1里は約20mになります。

そして、その前の末蘆国から南東陸行五百余里で伊都国とあるのですが、末蘆国を通説の唐津市桜馬場遺跡とすると、三雲南小路遺跡まで北東方向に直線距離約30kmですから1里約60mとなり、1里あたりの距離が3倍になっています。

つまり、考古学で比定されている地点三か所の位置関係が魏志倭人伝に一致していません。魏では1里が約434mなのですが、半島から倭国においては1里約77mとしたという短里説も、上の二つの区間でも1里の長さが一致しないので、そのような短里説は成り立ちません。ですから、なぜ魏志倭人伝ではこのような事実と合致しない行程記事になっていたのかを説明する必要があります。

つまり、合理的な説明をしないで、鉄製品や絹などの出土数が圧倒的に多いから邪馬台国は統計的に北九州にあったというのも問題があります。

逆に、魏志倭人伝の記述は正しいはずだから、末蘆国、伊都国や奴国などは通説とは違う場所だと主張する方もいますが、それならば、三雲遺跡や比恵・那珂遺跡は一体何なのかを説明できませんので、これも全く、説得力がありません。

ですから、三雲遺跡は伊都国、比恵・那珂遺跡は奴国というのは考古学の大きな成果ですので、これは正しいと考えるべきなのです。

そうすると魏志倭人伝の行程記事の記述は正しくないと認めた上で、なぜ行程記事がそのようなデタラメな記事になっているのかを説明する合理的な理由を探す必要があります。多くの皆さんは九州説の方も含めて、その考察がないまま邪馬台国の位置を特定しているので、各人が相手の説に納得しないという現象が起こっているのです。続きが長くなったので、よろしければ拙ブログ「刮目天の古代史」をご参照ください。長々とお邪魔し、失礼しました。


そこで、魏志倭人伝にはヒントがあります。帯方郡から東南万二千里に邪馬台国があったとしていることです。これは倭国の女王が居た邪馬台国は魏のライバルの呉を東海上から圧迫する位置にある、魏から遠く離れた東夷の大国だとしているのです。

ですから、実際にあった邪馬台国を戦略的に重要な、この位置にあるとしなければいけない理由があったからなのです。そうすると、この三世紀に列島内の交易センターとして最も栄えた奴国の比恵・那珂遺跡群が二万余戸とあり、これば1戸5人とすると人口10万人ですから妥当な数かもしれませんが、投馬国五万余戸で25万人、そして邪馬台国に至っては七万余戸ですから35万人の大都市がどこにあったのか?ということです。しかし、その証拠は今のところありません。

つまり、倭国が合計15万余戸という設定は、当時戦乱で人口が激減している洛陽の10万余戸を大きく越えるような大国ということにしたと考えられます。ですから、卑弥呼の邪馬台国は実際には、奴国ほどの大都市ではなかったということです。また、卑弥呼に千人の奴婢が居たというのも、卑弥呼の墓に殉葬された奴婢が百人くらいですので、大げさな人数だったと考えられます。さらに、邪馬台国は、女王への貢物を届ける役割の一大率が居た伊都国や北部九州の人々が頻繁に行った痕跡のない大和説の纏向遺跡や四国説の徳島県などはあり得ないということなのです。

このような話は、三国志を編纂した西晋の史官陳寿が創作したのではないと考えています。史官は宮廷の書庫から目的にあった文献を探し出し、文章を抜き出して史書を編纂するのが仕事なのですから、陳寿が書いた魏志倭人伝の行程記事は、倭国に遣わされた二人の魏使のいずれかの報告書に基づいていると考えられます。そして、その報告書の内容は、239年に魏への朝貢のために帯方郡を訪れた倭の大夫難升米が、司馬懿の部下の太守劉夏と談合して作られたと推理しました(詳細は「景初三年問題が謎を解く鍵でした!」参照)。

陳寿は魏志倭人伝を含む東夷伝だけにとどめ西域伝を残さなかったことから、そして魏志倭人伝の中に女王卑弥呼の朝貢を絶賛する詔勅のほぼ全文が記されていることから、東夷の大国を朝貢させて呉を圧迫する戦略上の大きな功績を揚げた司馬懿(しばい)を称揚することが目的だったと分かります。司馬懿は西晋の基礎を作った人物で、西晋宣帝と諡されていましたので、陳寿は西晋朝廷の実力者でパトロンの張華の顔を立てるのが本当の目的だったと岡田英弘「日本史の誕生」(弓立社 pp.132-137)で指摘されています。

当時の魏の朝廷内部の司馬懿の最大のライバルは、西域の大国で、蜀を背後から挟み撃ちにする位置にあった大月氏国の波調(バースデヴァ)王を朝貢させて、戦略上の功績を揚げた曹真の子で、魏軍を掌握する大将軍曹爽でした。大月氏国の王都カーピシ(現在、アフガニスタンのバグラーム)は洛陽から万六千三百七十里で十万余戸あったので、倭国の王都邪馬台国まで計万七千余里(洛陽から楽浪郡まで五千余里、楽浪郡の南の帯方郡から万二千余里)としてカーピシーよりも遠い大国としかたったからだったのです。より遠い大国が朝貢するのは皇帝の徳が高いことを示すものですから、倭国を朝貢させた司馬懿の方が曹真よりも高い功績を揚げたことにしたかったからだと分かります。そして、倭国の本当の王は伊都国を王都とした師升の一族の男王難升米でしたが、奴国や伊都国の位置が呉の東方海上にないことは知られていたので、魏の朝廷の人々の注意を引くためにめったに人前に出ない女王が呉の東方海上の邪馬台国の居城に居たとするためだと推理しました。



卑弥呼は、ムナカタ海人族の玄界灘を活動域とする和邇氏の祖先代赤坂比古の姫巫女です。倭国大乱で大活躍していた北九州・山陰・北陸を拠点とするムナカタ族を束ねる王狗古智卑狗(狗奴国の官、豊岡市久々比神社の祭神久久能智神(くくのちのかみ)で、上棟式の祭神屋船久久遅命(やふねくくのちのみこと)のことで奴国第18代王スサノヲの王子で木霊イタケルの子孫、代々襲名)が菊池川中流の前線基地で戦死したので、倭王難升米が赤坂比古を懐柔し、卑弥呼の太陽神のお告げによって政治を行う条件で、狗奴国を裏切って倭国側についてしまいます(詳細は「女王を共立した赤坂比古は?」参照)。

卑弥呼は不弥国(ウミコク、宗像市田熊遺跡)で生まれたようですが、倭国大乱期で海に近く物騒ですので、野麻国(ヤマ国、野麻郷は和名抄で宇佐市安心院町に比定される)の要害堅固な山城に疎開していました。安心院の地名は女王卑弥呼(院)が安全なヤマ国に疎開して安心した故事に因むと考えられます。

邪馬台国は漢字を読み書きでき、孟子を読む教養人が劉夏に書いて教えた国名で、女王(台)が住むヤマ国という意味です。その他の倭国の地名や人名・官職名なども同様で、例えば敵対する狗奴国は狗コロの奴国、漢字を読み書きできない赤坂比古の部下を馬鹿にして、卑狗などと難升米の感情が籠った意味の漢字が使われています。特に苦しめられた久々遅彦に対しては狗古智卑狗と貶めています。智という好字が入っていますが、古い知恵、つまり時代遅れの知識という意味でしょう(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」及び「投馬国へ水行してみませんか?」を参照)。ですから、卑弥呼の墓が安心院町三柱山古墳であることを発見したので、行程記事のトリックがそこから推理できました。


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