刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

邪馬台国論争、完全解決のお知らせは悲報?朗報?( ^)o(^ )

2023-06-29 21:45:25 | 古代史
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とても良い内容の動画を見つけ、初めて聞く内容でしたので、九回までの連載を拝見しました。そこで、いつものように不躾なコメントをさせていただきましたので、おつきあいください(#^.^#)



三国志の編纂過程について、とても勉強になる解説をありがとうございます。

邪馬台国問題の解明には重要な話だとは思いますが、邪馬台国への行程記事の内容が誰によってどのように作られたのかまで解明されておられないので、当方が得た知見を披露させていただきます。

概略を申し上げれば、倭国内の国名の内、考古学の膨大な成果から特定できる対馬国から奴国までは間違いないと思います。

そして倭国内の政治の中心地とも考えられる伊都国の国名がとても深い意味のあるものなのです。通説では漢字を読み書きできない倭人の発音(ヤマト言葉)を聞いた魏の役人が韻書の冒頭の字をあてたとなっています。

しかし、弥生中期から硯石の欠片が多数出土し、後期後半の福岡市雀居遺跡では木製組机が丸ごと出土しています。そして伊都国の三雲遺跡番上地区では楽浪土器が集中的に出土しています。これらの成果から漢字を読み書きできる倭人が存在したと考えられます。

さらに伊都国は孟子に登場する殷(商)王朝初期の伝説の政治家伊尹に由来する、倭人伝に登場する国名としては特異なものであり、伊尹の事績を知っている教養のある大夫難升米が、司馬懿の部下である帯方郡太守劉夏と談合して書いて教えたことが判明しました。

司馬懿の功績を持ち上げる政治的な理由で、司馬懿に都合の好い内容になったということです。ですから、行程記事をどのように正しく読んでも邪馬台国には到達できないのです。

さらに、考古学や民俗学などの成果などから倭国大乱の原因と内容、そして卑弥呼の登場の経緯や人物も解明できています。

よろしければ、「刮目天の古代史 伊都国の意味がヒントだった? 」をご参照ください。

ちなみに卑弥呼の墓の候補となる日本最大の円墳「三柱山古墳」を発見しておりますので、「古墳マップ」をご参照ください。お邪魔しました。

【関連記事】
邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!

(詳細は「投馬国へ水行してみませんか?」参照)。


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天皇家に名字はあった?(@_@)

2023-06-23 16:15:14 | 古代史
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1年も前に発表されたものですが、天皇陛下に関するとてもいい話題でしたので、コメントしました。
お付き合いください(#^.^#)




みなさん、天皇家に名字がないと思われていますが、隋書倭国伝には姓は「阿毎(アメ)」と書かれています。新唐書日本伝にも日本の「王の姓は阿毎氏。自ら言う。初主は天御中主と号し、彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで凡そ三十二世(宋史にある二十三世が正しい)、皆尊(みこと)を以って号と為し、筑紫城に居す。彦瀲の子神武立ち、更めて天皇を以って号と為し、治を大和州に遷(正しくは徒の土を止としたもの)す。」と書かれています。宋史の王年代紀には二十三世が列記されています。

阿毎は発音を隋の役人が漢字に宛てたもので、本当は「天」です。海を意味します。初代王天御中主の「中」は龍蛇神(ナーガ、奴)ですから、龍蛇神を信奉する海人族の王という意味です。水天宮で龍神として祀られ、各地で水神としても祀られています。地名にも那珂、那賀、長柄、中山等などがみられ、江南出身の倭人(アズミ族)が入植した土地の地名に見られます。記紀にも高天原に降り立った最初の神とされています。筑紫を支配した奴国王だったのです。だから新唐書・宋史にも「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」と明記され、新唐書以降の正史から倭国を改めて日本とされています(詳細は「「日本国」へ、八百年も掛かったのか?」参照)。

日本の最初の王墓は弥生前期末から中期初頭の福岡市吉武・高木遺跡です。天御中主から三代の王とその妃や王族などが埋葬されています。副葬品にも三種の神器に相当する剣・玉・鏡が見られる王墓は宋史王年代紀二代目天村雲尊のものと比定でき、三代目は天八重雲尊です(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。

四代目天彌聞尊(ににぎのみこと)から春日市須玖岡本遺跡に王宮を造り移り住んだようです。奴国が内外の交易によって最も隆盛になったのは、多分各地の神社で祀られている十三代王国常立尊(くにのとこたちのみこと)の時代でしょう。そして建武中元二年(57年)後漢光武帝から賜った「漢委奴國王」の金印は十六代王沫名杵尊(あわなぎのみこと)の時代でしょう。次が国生みの神とされた伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、次が素戔烏尊(すさのおのみこと)で、記紀神話で高天原から追放された乱暴者の神とされています。その次が十九代王天照大神尊(あまてらすおおみかみのみこと)となっていますので、記紀神話のスサノヲの姉アマテラスは創作だと分かります(詳細は「神話が隠した不自然な史実」参照)。



史実はスサノヲが宮廷楽師師升の反乱で殺され、奴国は一度滅びますが、弟ニギハヤヒが奴国を脱出し、吉備を平定して奴国を再興し、倉敷市楯築王墓に葬られます。纏向遺跡に発祥のヤマト王権の基礎を作った人物だと推理しました(詳細は「【刮目天の古代史】楯築遺跡は帥升の墓か?」参照)。

楯築神社のご神体の弧帯文石(亀石)が人面蛇体なのです。つまり、中国神話の天皇伏羲の末裔の天御中主龍蛇神の子孫ですから大発見でした。魏略逸文「自謂太伯之後」は正しかったようです。太伯は初代呉王です。紀元前1900年夏王朝を興した禹王の末裔なのです。禹王も蛇体で、伏羲・女媧の末裔なのですから天皇陛下は人類の始祖神の末裔なのですよ(詳細は「民族は言語と神話で区別するのか?」参照)。



日本人は、現存する最古の正史は天武天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書だと学校で習っています。しかし完成したのは崩御から34年後です。当時の権力者は藤原不比等でした。日本の建国の史実が都合が悪いので、神話を創作して史実を隠したことが考古学や民俗学などの成果から分かってきました。

日本書紀よりも先に完成したとされる古事記は、九世紀の朝廷で日本書紀を講義した学者多人長(おおのひとなが)が日本紀講に当たり突然表に出してきたものです。それまでの正史などに一切記載はありませんし、日本書紀にも参照した痕跡はありません。人長が創作したものなのです。日本書紀に添って書かれていますが、所々違えています。不比等に隠された本当の歴史に導くための暗号書だったことが、空白の四世紀と倭の五王の系譜を調べて分かりました(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)から(その3)」参照)。

古事記は江戸時代まで祭祀に関わる氏族によって細々と伝えられてきたのですが、江戸中期の国学者本居宣長によって発掘され、高く評価されるようになりました。神道家平田篤胤がその影響を受け復古神道を作り、幕末の志士らに人気となりました。明治になって、それまで人々の間で伝えられてきた、神仏習合、山岳信仰の修験道、道教・陰陽道などの影響を受けた記紀神話と全く別物の神話が存在していましたが、神仏分離令が発せられて、多くの寺院などとともに破壊されてしまいました(詳細は「アマテラス大神はヘビだった?」「天皇即位の密教の儀式の正体?」参照)。

国家神道が創設され、学校教育でも記紀神話に基づく国史が教えられましたので、戦後も日本国民に記紀神話が定着しています。しかし、それは本来のものではない全く新しい神話なのです。というか、藤原氏が権力を維持するために捏造した神話と歴史だったということなのです。天皇の歴史書ではなかったと気づくと、古代史の謎がどんどん解けてきますよ。詳しい話は【刮目天の古代史】をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)


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卑弥呼の墓は見つかってるよ!

2023-06-18 14:35:38 | 古代史
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2018-03-20 19:13:14に掲載した記事を少しだけ書きなおし、読みやすくしたつもりです。疑問点などをお寄せください(^◇^)

2020-06-03 15:17:42に記事にしましたが、世界最大の大仙陵古墳(全長525m)を周濠部を除けば上回るような、以下に紹介した田川市赤村の巨大前方後円墳の記事がまた報道されましたので、念のために地形を調べてみました。結果は下の図の通り、やっぱり古墳ではないと思います(;^ω^)


「卑弥呼の墓では」巨大な前方後円墳?謎の丘陵 日本最大に迫る全長450メートル 福岡県赤村
3/20(火) 10:08配信 西日本新聞

 赤村に巨大な前方後円墳-。こんな話が、地元住民の間やインターネット上でささやかれ始めている。地元の古代史研究グループによると、現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートル。日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(堺市)の墳丘長に迫る大きさとあって、古代史ファンからは「卑弥呼の墓では?」といった期待の声も聞かれる。
<中略>
 現在まで発掘調査はなされておらず、真偽は謎のまま。田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している。
=2018/03/20付 西日本新聞朝刊=


この新聞記事はとても良心的ですが、新聞などマスメディアで取り上げられると、いかにも真実のように思えてきますので、その時代の大きな墓かもしれないという程度のものが報道されるようです。卑弥呼の墓が見つかるということは、日本建国の歴史が解明されたということです。邪馬台国問題は地域の村おこし、街おこしとして扱われる格好の材料ですから、無理もありませんが、歴史学や考古学などの関係学会がしっかりしていないからとも言えます。と言いますのも、なぜヤマト王権の始まりが分かるの?( ^)o(^ )で述べたように、最近までの考古学の成果によってほとんど解明できるまでになっているからです。

だから最早、邪馬台国畿内説、九州に在った邪馬台国の東遷説、最近復活してきた神武天皇東征説や九州の人々に人気の九州王朝説などの従来の学説は古臭いものになっているのです。

一番有望と思われている纏向遺跡も、簡単に言うと、「魏志倭人伝」では一大率を伊都国において女王への貢物などを間違いなく届けることになってますから、大率やその部下が行き来した痕跡がないことが外来土器の発掘で分かっているので邪馬台国ではないのです。詳細はこちらでどうぞ( ^)o(^ )
【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!(^◇^)
【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-☆

卑弥呼が亡くなった当時は纏向遺跡にあった狗奴国ヤマトと対立していましたので、ヤマトのシンボルの前方後円墳などが卑弥呼の墓になりようがありません(「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」【検証6】倭国大乱の実相は?(*^-^*))。



そうなんです。

邪馬台国がどこかは、この図に示したとおり范曄の「後漢書 東夷列伝倭伝」に正確に書かれていました。「魏志倭人伝」で短里が使われていたという説も、各区間の一里当たりの距離がバラバラですから、そのような短里制はこじつけだと分かります。シナではどの時代でも一里は約450mと決まっていると東洋史家の岡田英弘さんも指摘していました。「魏志倭人伝」の邪馬台国への行程記事は、邪馬台国を置きたい場所に置くためのトリックというかデタラメでしたから、現代まで位置が確定しなかったということです(正史は正しい歴史なのか?|д゚))。

卑弥呼の墓の伝承も宇佐市にいくつかありましたから、間違いないですよ(^_-)-☆

ある伝承では宇佐神宮の本殿下の亀山だそうです。

でもその前には安心院町の妻垣神社(一柱謄宮または足一騰宮)にあったという伝承もありました。

しかし、「魏志倭人伝」に記された径百歩余りの墓はその妻垣神社の、安心院盆地を挟んで北側の台地(三柱山)にある三柱山古墳という国内最大の円墳でした(家族旅行村「安心院」内の旧冒険の森、現在ケビンなどが建っている、テニスコート南側の小山)。ヤマトが最も畏れた人物のひとりですから、二度も丁重に改葬されたようです。



卑弥呼が亡くなった理由は「魏志倭人伝」には書いてませんが、狗奴国ヤマトが倭国に押し寄せてくる前に日食が北部九州で観測され(北九州付近は皆既日食)、卑弥呼の霊力が衰えたとみて伊都国の男王が送った刺客に暗殺されたと推理しました(注1)。

卑弥呼が暗殺者によって引き出されて殺されたと思われる場所も分かりました。卑弥呼の宮室だった三女(さんみょう)神社の南西の河原は、日食に因む「ヒカケ」という地名が残されていました。そこに同名の小さな社が卑弥呼の墓(直径150メートルほどの円墳)を遥拝する位置に造られていました。



女王の居城(邪馬台国は卑弥呼の居城を中心に宇佐平野、大分平野などを含む周辺地域一帯です)





卑弥呼の墓と遥拝所の間の断面図をアップしました(^_-)-☆

30mほど土を盛り上げた急造りの径百余歩(直径約150m)の円墳です。魏志倭人伝の記述のとおりでした。残念ながら家族旅行村の建設や三女神社(ヒカケ)北側の道路工事などによってなのか、あるいはのちの時代に隠す目的だったのかよく分かりませんが、現在は卑弥呼の墓を目視して遥拝できなくなっています。


(注1)「魏志倭人伝」に「倭国から、使いが海を渡って中国に往来するときは、一人を選んで、その人に髪をとかさず、しらみもとらず、衣服も洗わず汚れたままにしておき、肉を食わず、女を近づけないで、人を葬るときのようにさせる。これを持衰(じさい)という。もし使節の旅が無事であれば、持衰する人に奴婢や金品を分けてやる。もし途中、使節が病気になったり暴風雨にあったりしたときは、その者の持衰の仕方が不謹慎だったからと言って殺そうとする。」とある(藤堂明保他「倭国伝」講談社学術文庫2010、p.109)

太陽神を祀る卑弥呼についても同様に、この日食(=日が欠ける不吉な現象)は卑弥呼が不謹慎であったために霊力が衰えたからと伊都国の男王も考えたはずです。狗奴国ヤマトの強力な軍団が倭国追討に向かっている噂を聞いていたから、不吉な前兆現象と捉え、それを回避したいために卑弥呼は暗殺されたと考えていいでしょうm(__)m

記紀神話「天岩戸(あまのいわと)」は日食のために殺された卑弥呼のこの事件の伝承をもとに、架空の女神アマテラスの話に作り変えたものだと考えています。日本書紀編纂時の権力者藤原不比等の命令で舎人親王が創作したものでしょう。面白いことに、卑弥呼の殺害現場の横に横穴群(遺跡ウォーカー「ヒカケ横穴群」)が作られているようです。後世に「天岩戸」をイメージして、大和朝廷がひた隠しに隠す、日本誕生の真実を伝えたいために誰かが掘ったのかもしれませんね。( ^)o(^ )

【参考記事】
日食図・日食計算プログラム(WindowsXP)
では、 日食が地球のどの地域で起きるかを表示する日食図、 さらにそれを拡大した拡大図、 各地点での食の推移の情報が得られます。プログラムをダウンロードして、解凍してECLMAIN.exeを実行してください(Windows 8.1 Proでも動きますよ(^^♪)。

メインの画面が出たら、計算年は247を入力すると日付が二つ出てきますので、3/24を選んでください。

さらに、地球時計の遅れDTは8700秒を入力してください(注2)。

「食の推移」のボタンを押し、観測地点の緯度・経度・標高を入力すれば卑弥呼たちが見た日食のアニメーションを見ることができます。

ちなみに安心院町下毛は北緯33度26分、東経131度21分、標高93m、時差9時間をセットして「アニメ」ボタンを押してみてください。

欠け始め 3月24日17時29分    食分 0
最大        18時6分40秒   食分 .9812

アニメと一緒に時刻と高度と方位と食分が表示されますよ(^_-)-☆

もう日没のだいたい1時間くらい前から欠け始めますから、太陽の高度が低いので、西側の山が邪魔すると直ぐに見えなくなりますが、恐らく楼観という物見やぐらではかなり長く見ることができたのではないでしょうか( ^)o(^ )

(注2)「247 年 3 月 24 日の日食について」(相馬,上田,谷川,安本、 国立天文台報第 14 巻,15-34、2012)で、以下のとおり結論が得られている。
「北九州市周辺は皆既になるが,福岡市や佐賀市は皆既帯からはずれ,いずれの場合も食分0.99ないし0.98となる.日食の間中,あたりは暗くならないことを指摘しておく.
天照大御神は卑弥呼のことが神話化・伝承化したものであり,天照大御神の天の磐戸伝承は卑弥呼の死と関係する,との見解がある([12]).卑弥呼の死の前後と見られる紀元 247 年に,北九州で,皆既または皆既に近い日食があったことは,注目に値する.」
[12]安本美典:『倭王卑弥呼と天照大御神伝承』,勉誠出版(2003).

ΔT=8500とΔT=8900の中間の値ΔT=8700を採用しましたが、ΔT=8700以上であれば卑弥呼の居城の在った宇佐市安心院町を含む北部九州の広い地域で観測できるということです。



【関連記事】宮ノ原遺跡発掘成果などについて以下の記事を参照ください。
本当に卑弥呼の墓なのか?(^◇^)
誤解と幻想の卑弥呼(*^▽^*)
卑弥呼の日食は珍しい日没帯食だったのか?(^◇^)
古代史の謎を推理する(^_-)-☆





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【刮目天の古代史】出雲大社は新しい名称だった!(^_-)-☆

2023-06-17 11:47:04 | 古代史
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アートワークス@YouTube
17条憲法に書かれている「和を以って貴しと爲し忤(さから)ふこと無きを宗と爲す」の文中の「忤ふ」という文字の意味を考える。忤は杵(きね)の原字である事を知り、杵という字を使っていた杵築大社の本当の姿を推理。更に大分の宇佐神宮が杵築市の近隣にある。ともに日本では珍しい四拍手の拝礼作法を持つ。佐賀の杵島、長崎の彼杵も古代、土蜘蛛がいたとされている(黒字は刮目天による)

刮目天
いい解説をありがとうございます。杵築大社が明治になって出雲大社とされたというのは深い意味がありそうです。記紀神話は実は江戸時代に本居宣長の影響を受けた平田篤胤の復古神道によって作られた、新しいものだと分かりました。それまでの神話は神仏習合や山岳信仰の修験道、道教などの影響で記紀神話と全く違うものになっていたのです。明治になって復古神道が国家神道になり、国史を国民教育したので、戦後も記紀神話が定着しているのだと分かりました。

出雲大社と宇佐神宮の関係ですが、宇佐神宮の主祭神八幡大神は、創建後に藤原氏によって八幡大菩薩応神天皇にされましたが、その前は神宮寺が弥勒寺ですので弥勒菩薩を本地仏とする大国主命だと突き止めています。つまり、出雲大社と同じ祭神なのです。なぜなのかは、宇佐の地と出雲が関係あるからそれを断ち切るために藤原氏が牛耳る朝廷がやったのです。つまり、史実が都合が悪いということを示唆しています。詳しくは拙ブログ「本当の古代史はどこに?」をご参照ください!お邪魔しました。(^^;)


ドリップ珈琲
当方も明治4年にもなって、わざわざ築杵大社からなぜ出雲大社へ改名したのか疑問に
思っていたんですよ。原因は「明治政府が皇室の権威を高める政策」でしょうね。
出雲=出雲大社(島根)を明治政府の強い力を使い、多くの人々に刷り込むためにあえ
て出雲大社へ改名したんでしょうね。
と言うのは、出雲(古事記の文面中)が他県にあっては都合が悪いので、人々の目をそ
らすためとも思えるのですね。
他県にある風土記によって、出雲を手がかりに皇〇のお里が解明されることを隠すこと
に、あえて出雲大社へ改名をすることに明治政府が利用したんではないでしょうか。


刮目天
日本神話は藤原不比等が政治的な理由で創作したものだと分かってきました。江戸時代まで多くの日本人の間では史実が基になった神話が語られていました。歴史学者斎藤英喜「読み替えられた日本神話」(講談社現代新書2006年)に変貌した日本神話が詳しく書かれています。しかし、神仏習合や修験道や道教の影響とみており、不比等が神話を創作したとまでは気づいておられなかったと思います。吉田和彦「『日本書紀』の呪縛」(集英社新書2016年)の中で「日本の過去をありのままに記したような書物ではない。それは、権力の座についた氏族たちが自分たちの権力の根拠と正統性を神話と歴史から述べた政治の書物であり、過去を支配することを目的とする書物であった。」(p.225)とあります。歴史学者も天皇の歴史書ではないと気づかれたようです(^_-)-☆
刮目天は考古学や民俗学などの成果から日本建国の史実を解明しましたので、よろしければ「【刮目天の古代史】古代史を推理する」などをご参照ください。


杵築大社の杵築の意味をもう少し説明した方がよいかもしれません。
三世紀後半の纏向遺跡の狗奴国(旧奴国)(ヤマト王権、後の大和朝廷)に杵(さから)う者、逆ふる者を討って日本を建国した話は七世紀末から八世紀初頭の大和朝廷を牛耳る藤原不比等が権力を維持するために不都合でしたので、建国の史実を隠すために出雲の大国主の国譲り神話を創作したのです。ですから神話の里の出雲の地に大国主の鎮魂のために日本一の巨大な神殿を築いたというのが杵築の地名の由来でしょう。

それでも出雲は大国主に確かに縁がある土地です。大国主とされた実在人物の祖父が出雲国風土記の意宇郡の最初の部分に書かれた国引き神話の神八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)です。二世紀初頭に奴国宮廷楽師師升らの反乱で殺された最後の奴国王スサノヲの子孫です。『八束水臣津野命は、遠く「志羅紀」「北門佐岐」「北門農波」「高志」の余った土地を裂き、四度、「三身の綱」で「国」を引き寄せて「狭布の稚国」に縫い合わせ、できた土地が現在の島根半島であるという[1]。』という話になっています(wiki「国引き神話」より引用)。以後、長い名前なので八束命と略します。

八束命が、出雲の地を根拠地として、半島南部(志羅紀、しらぎ)の鉄素材を入手し、「北門佐岐」と「北門農波」の北門は、「北方の出入口の意とし出雲の日本海側の港、佐伎を出雲市大社町鷺浦、・・・農波を松江市島根町野波」や越(高志)などを根拠地とする縄文系ムナカタ海人族に鉄を供給して、彼らを傘下とする王となった事績を意味する伝承と考えられます(詳細は「初期の新羅王も倭人だった?」参照)。

日本海沿岸部の各地の部族長が娘らを八束命に妃として差し出し、血縁関係を結んで鉄供給のネットワークに参加したと考えられます。従来行っていた「見る銅鐸」や銅剣などの青銅器を用いた穀霊・祖霊祭祀から、鉄製農工具の導入で生産性を上げた実績により族長の権威と権力が強まり、部族を代表する族長の祖霊に対する米神(めのかみ、首長霊)祭祀に変わっていったと考えています。弥生時代後期後半(二世紀後半)と推理した出雲市荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡で発見された大量の青銅器の埋納はこの頃行われたと考えています。そして出雲市西谷墳墓群に大型四隅突出型墳丘墓が登場し、日本海沿岸部などの部族長がこぞって四隅突出型墳丘墓を作るようになりました。地形を利用して造成された弥生時代後期の墓を墳丘墓と呼んで、その後の古墳と区別していますが、この宗教観の大きな変化が古墳時代の始まり(草創期)になったと考えています。



そして、大国主の父は魏志倭人伝の中で王よりも先に紹介された狗奴国の官狗古智卑狗(久々遅彦、代々王が襲名)で実力者だったと分かります。大分県大野川流域から熊本県阿蘇山麓にかけて、半島南部の鉄素材を持ち込み(下図の板片)、鉄製の武器を大量に生産する鍛冶工房の集落を多数作りました。さらに菊池川中流域の方保田東原遺跡を最前線基地としました。この遺跡で出土する外来土器から分かりますが、山陰や畿内などの兵士を呼び寄せ、倭国に属する佐賀平野、筑紫平野や福岡平野まで襲撃して伊都国三雲遺跡を王宮とする倭国王難升米を苦しめていました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。



ところが三世紀初頭に半島の混乱を公孫氏が鎮めて帯方郡を設置したので(204年)、疲弊していた倭国は息を吹き返し、菊池川の集落を襲い大国主の父を討ち取ったと推理しました。大活躍していた王を喪って途方に暮れていた玄界灘を活動域とするムナカタ族の赤坂比古(和邇氏の祖)を難升米が懐柔しました。赤坂比古は八束命の姫を妻にして、生まれた姫巫女(卑弥呼)イチキシマヒメが告げる太陽神の神託によって政治を行う条件で狗奴国を裏切ったのです。赤坂比古は久々遅彦に代わって半島南部の鉄を入手したので、九州東部・中・南部、中国西部、四国などの大勢力が赤坂比古に従い、倭国側に着いてしまいました。

魏志倭人伝では政治的な理由で難升米によって倭国女王ということにされた卑弥呼は、元々不弥国(うみこく)である宗像市田熊遺跡で生まれたと思われますが、そこは伊都国・奴国などの敵地に近く、海に近いので物騒です。ですから早くから野麻国(ヤマコク、宇佐市安心院町宮ノ原遺跡)に疎開していたと思われます。倭国女王とされてからも数多くの兵士に護られてそこに住み続けました。女王(台)が住まうヤマコクという意味で邪馬台国と難升米が名付けました。安心院という地名は、要害堅固な城に移ったので院(女王)が安心したという故事から後世につけられたものでしょう。

そして、赤坂比古が狗奴国を裏切った時にはまだ幼い子供だった大国主久々遅彦は、おそらく祖父が作った和邇氏の陣屋跡との伝承のある北九州市八束鬚神社から八十神(赤坂比古の子供、大国主のいとこたち)に苛められて、身一つで追放されました。父王が本拠地とした豊岡市竹野町の鷹野神社まで落ち延びる途中の話が、因幡の白兎の話になったと思われます(詳細は「新説「因幡の白兎」だ!」参照)。兎(うさ、宇佐)は下でまた述べますが、大国主のニックネームなのです。高野山縁起で登場する高野御子(たかののみこ)も別名ですよ。これを隠すためにこの地やスサノヲとゆかりのある京丹後市の地を朝廷は竹野と字を変えさせたようですが、地元ではタカノと呼んでいます(「高野山の秘密?【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その21)」参照)。

後に、大国主は成人して倭国大乱の英雄だった父の跡を継ぎ、豊岡市久久比神社を王宮とし、久々遅彦を襲名します。偉大な父祖の業績を引き継ぎ、父祖の霊と一体となってさらなる偉業を達成できると信じたのだと考えています。大国主は卑弥呼の死後に王に立った狗奴国の有力者尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト)を討ち、魏を後ろ盾にして13歳の台与を外交上女王に立てて倭国を支配しました。古事記神話で、大国主が八十神を倒して妃とした薄幸の八上比売は台与のことでしょう。

        

大国主の祖先とのつながりのある列島各地の部族長は直ぐに狗奴国から離れ、大国主の味方になり、鉄供給ネットワークに加わったと推理しています。大国主という名は倭国の領土を大きく広げたこの故事から付けられた名前でしょう。大国主は菊池川で父王を弔った後、卑弥呼の墓である宇佐市安心院町三柱山古墳を訪れて、安心院盆地を挟んだ南側の妻垣神社奥宮一柱謄宮(いっちゅうとうぐう)で若い台与と一緒に弔ったと考えています。日本書紀では神武天皇が東征に当たり最初に立ち寄った母玉依姫の墓所として隠しています。そして、大国主の最初の国造りを行った場所が、安心院町佐田地区なのです。群生した葦を払って水田にして、最初の王都にした場所です。国造りを成功させるために、佐田京石や米神山のストーンサークルを造り父の霊をこの地に呼び寄せたことが米神山中腹の月の神谷に多数見られるアンテナ状の石棒から分かります。それらの方向がすべて南西(裏鬼門)に揃えられていると巨石文化研究家の猿田彦氏によって報告されています。サルタヒコもまた大国主の別名です。父王狗古智卑狗の終焉の地に向けられていた模様ですから不思議な話です。古代の人々は霊を明確に感じ取るスピリチュアルな超能力を持っていたようです(詳細は「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」参照)。

(#1【古代ピラミッド】米神山 超古代文明!世界最古のピラミッドは日本にある!2万3千年前の巨石の謎 / Japanese ancient civilization 猿田彦TV@YouTubeより)

台与の父で近江・北陸・越を根拠地とするムナカタ族の王が息長宿禰王(おきながすくねのみこ)です。大国主神話で少彦名命とされた国造りのパートナーです。米原市日撫神社(ひなでじんじゃ)で少彦名命と息長宿禰王が一緒に祀られています。少彦名命は「草に弾かれて常世へ渡った、川で溺れて神去りしたなど様々な説話が存在する。」とwiki「スクナビコナ」にあります。今話題の吉野ヶ里遺跡の謎のエリアから出土した石棺墓の被葬者が肩幅36cmよりも小さい、とても小柄な有力者・シャーマンですので、男王ならば息長宿禰王だと推理しています。土の中から微小な骨片が発見されて、DNA鑑定されるとはっきりするかも知れませんね(^_-)-☆

大国主は、半島南部の鉄を支配し、帯方郡と交易を盛んにし、高温鍛冶炉の技術も手に入れて列島各地に普及させたので、大国主の倭国は大いに隆盛になったようです。ほとんど、狗奴国を呑み込むばかりの勢いになったと思います。



265年に司馬懿の孫司馬炎に魏の帝位が禅譲され西晋が建国されます。翌年に倭女王台与が西晋に珍しい宝石などを献上したと記録にありますので、恐らくその数年後に、纏向遺跡に集まった狗奴国勢を率いた尾張王建稲種命(たけいなだねのみこと、熱田神宮祭神、記紀の景行天皇)が父(記紀では孫の仲哀天皇)の仇討ちで大国主・台与・赤坂比古(卑弥呼の弟、日触使主)を討って日本が建国されます。しかし大国主の人気は死後も衰えることがなかったようです。現在でも日本全国、いたるところで別名や分身の名前でも祀られています。藤原氏への配慮もありますが、藤原氏自身も心から畏れていたようです。祟りを恐れるのは、藤原氏自身に何らかの問題があることを白状しているのですが(^_-)-☆

280年西晋によって狗奴国の後ろ盾だったと考えられる孫呉が滅ぼされ、呉人(倭人)が倭国(狗奴国)を頼って逃げてきたようです。大国主・台与の倭国を滅ぼしたので、次に狗奴国が西晋から報復されることを恐れて、大国主と台与の子を探し出して、大王(祭祀王)にしました。卑弥呼・台与の倭国をその子が継承したとするために、国名を邪馬台国(やまとこく)としたと推理しています。すべて大国主・台与そして、卑弥呼の祟りで起こった災難と考えていたようです。宇佐神宮に祀られるこの三柱を朝廷は特に畏れたのです。比売大神卑弥呼をヤマト勢が直接手にかけたわけではないのですが、狗奴国の倭国追討軍が押し寄せる情報を得た伊都国の難升米が、そのタイミングで起こった日食を不吉な前兆と見て、魏志倭人伝で説明された持衰(じさい)と同様に、卑弥呼が不謹慎だったからとして暗殺を命じたと推理しました。だから、卑弥呼もヤマトに祟ると信じていたようです。

以下の図に示す日本建国の過程を簡単に述べましたが、話をもとに戻して、出雲大社に名称を変えたのは宇佐との繋がりを切って、藤原氏が不都合と考えて創作した大国主の国譲り神話のもとになる日本建国の史実を明治政府も隠すことが目的だったということなのです。明治政府のこれに関わった人々は、江戸時代までは記紀神話とは全く異なる神話が語られていたので、建国の史実をある程度知っていたのではないかと思います。しかし、国史教育で記紀神話を国民に教育したことで、それまでの本当の日本人の神話が今となっては忘却の彼方に消えてしまいました。このような日本神話を否定して、歴史の真相を暴くことは日本人に喜ばれないかもしれません。しかし、真実が隠されたことを知らない日本人は将来間違った選択をして日本を消滅させる可能性があることを心配しています。やはり歴史の真相を考え、日本人の正体を知ることは、これからの日本人にとってとても大事だと思いますよ(^_-)-☆





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【吉野ヶ里遺跡】邪馬台国の条件とは?(^_-)-☆

2023-06-14 11:21:31 | 古代史
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下のようなタイトルのいい動画がYouTubeにいくつか出てきていましたので、いつものようにコメントしました。お付き合いください(#^.^#)

【速報】邪馬台国論争ついに終結?吉野ヶ里遺跡の謎エリアで日本の歴史が変わる!
歴女は古代史を語る@YouTube
 

いい話題をありがとうございます。
邪馬台国論争がなぜ二・三百年続いているのか?よく考えてみれば、魏志倭人伝にある邪馬台国への行程記事を素直に読んでも、みんなが納得して一致する場所に到達できないからなんですよね(^^;)。では、なぜなのか? 

多くの研究者は魏志倭人伝は正しく書いてあるはずだから正しく解釈すればいいと単純に思っているようですが、その人によって正しい解釈が全く異なるからなんですね。最初にその人が邪馬台国と思った場所になるように、どうとでも解釈できるというのが魏志倭人伝の特徴だったのですよ(^_-)-☆。

ですから、魏志倭人伝の行程記事だけでなく、邪馬台国であるための条件をきちんと整理し、三世紀の日本建国の過程を考古学や民俗学の成果から推測する必要があり、その過程で邪馬台国も明らかになります。

しかし、日本書紀や古事記には卑弥呼も邪馬台国も、それを匂わす話すら全く出てきません。神功皇后紀に卑弥呼や台与の朝貢記事の注があるだけですから、何らかの目的で史実が隠されたと分かります。注を最初から編纂者が書き入れたという意見もありますが、編纂者の意図がよく分かりません。ほとんど本文の内容は考古学や民俗学の成果と一致しませんので、ウソが書かれていると分かります。この様なやっかいな状況ですが、科学的に真相を解明する方法があります。詳しくは拙ブログ「【刮目天の古代史】古代史を推理する」を参照ください。

そして、邪馬台国であると特定するための重要なヒント「邪馬台国の条件」が魏志倭人伝に書かれています。これを当時の状況を考慮して、しっかり考察できていないのも不毛な論争になる原因だと思います。具体的な条件についてはさらに長くなるので拙ブログ「【吉野ヶ里遺跡】邪馬台国の条件とは?」で述べています。よろしければご参照ください(#^.^#)


多くの方は、金印などが見つかった場所が邪馬台国を示す決定的な証拠だと思い込んでいますが、それは怪しいです。なぜならば人間が簡単に持ち運べるからです。たとえ女性の墓の中に金印があったとしても、その女性が卑弥呼だと推定できる、これから述べるいくつもの根拠が必要だからです。

魏志倭人伝には、女王が外国に贈る品物を伊都国の一大率(だいそつ)が最終チェックすると書かれています。封泥という封印に使う粘土板に金印が押されると考えられますので、伊都国で厳重に保管されていると考えられます。でも、戦乱によって散逸した可能性も大いにあります。

だから人間が持ち運べない遺構などがある遺跡が邪馬台国の条件となるでしょう(^_-)-☆

そして、多くの皆さんは卑弥呼が千人の侍女に囲まれているので大集落の中にいたと考えているようですが、当時はまだ邪馬台国に敵対する狗奴国という勢力がありましたから、一般人が頻繁に出入りするような大規模集落では危険です。むしろ要害堅固な城砦の中で兵士に厳重に護られていたと考える方が自然です。卑弥呼は人前に出ませんし、卑弥呼の墓に約百人の奴婢を殉葬させたとあるので、千人の侍女というのは大げさな表現のようです。ですから、大集落などから少し離れた場所にあり、食料補給などの問題も考えると、卑弥呼と奴婢約百人と、それと同程度の数の護衛の兵士が居住する規模の居城が考えられます。主食のコメを自給自足していたとしたら、城柵の外に水田などがあったかも知れません。水田や湿田は防御にも有効です。

また邪馬台国が七万戸という表現も正確ではないようです。当時列島内で最も多くの人が集まって交易センターとなっていたのが奴国の比恵・那珂遺跡群だと知られています。最盛期は吉野ヶ里遺跡の広さの約4倍です。奴国が二万戸というのは一戸あたり5人と考えると10万人ですから概ね妥当でしょう。そうすると投馬国五万戸、邪馬台国の七万戸ですから倭国全体で約十五万戸となります。当時戦乱で人口が1/10に激減したといわれる洛陽で十万戸なので、何らかの理由から倭国を大国と見せるために大げさに書かれた可能性が大きいです。それは政治的な理由からなのです(詳細は岡田英弘「日本史の誕生」(弓立社)参照」)。

ですから、邪馬台国は、長官らが居住する屋敷のある中規模の環濠集落と周辺に多数の小集落が点在し、それらの奥の、地形的に大軍勢が一気に押し寄せられない、より安全な場所と思われる卑弥呼の居城で構成されていたと考えられます。さらに居城の傍に径百余歩(直径約150m)の巨大円墳が在り、その主体部は郭室のない棺だけで、墓の傍に奴婢約百人の殉葬地があれば邪馬台国と考えられますが、野ざらしであれば骨も残っていないと思われます。

畿内説の最有力候補が纏向遺跡ですが、九州の土器がほとんど出土していないので、九州の人々との交流がほとんどありません。ヤマト王権の発祥地であるのは間違いないので、非常に重要な遺跡ではありますが、環濠集落でもなく、周囲に水田も見られません。遺跡の中には大型建物があり、有力者が居住する掘建て柱建物が多数ある、大規模な宗教都市です。箸墓の後円部は確かに直径150mほどですが、大きな前方部があるので、もしも卑弥呼の墓であるなら単に径百余歩の表現で留めず、全長278mですので長さ百八十余歩とか周囲何歩の巨大な墓と書いているのではないかと思います。

また、魏志倭人伝には次のように記されています。正始八年(247年)卑弥呼は帯方郡に到着した新任の太守に使者を送り、狗奴国と互いに攻撃し合っている様子を報告しています。そして二人目の魏使張政が倭国に到着すると、卑弥呼はすでに死んでいて、計百余歩の大きな塚に葬られていたとありますので、何年もかけて丁寧に造られたものではなく、土を盛り上げただけの急造りの巨大円墳と考えられます。ですから卑弥呼の円墳は箸墓のような時間をかけて造った古墳ではないし、残された伝承も三輪山の大物主(大国主)の妻ヤマトトトビモモソヒメの墓とあるだけです。

纏向遺跡は邪馬台国の条件に全くあてはまりませんから最初から邪馬台国の候補ではありません。マスメディアが畿内説を持ち上げたために起こった現象でしょう。

むしろ列島内の一大勢力であることと、ヤマト王権発祥地であるので、邪馬台国と対立した狗奴国と考える方がよいと考えます。大和盆地に当時の大きな戦争の跡が見当たらないので、神武東征などが虚構であると分かります。むしろ纏向遺跡やここに集まった大勢力が九州にあった邪馬台国を滅ぼして日本を建国したと見るのが妥当です。

さて、大規模な環濠集落である吉野ヶ里遺跡の今回の石棺のある墓は、巨大円墳だという意見がどこかの動画にあったので調べてみました。確かに直径105mほどの円墳だったのかもしれません。そこで、石棺墓周りの地形の断面図を国土地理院の地図のツールで調べてみましたが、円墳とは呼べない自然な地形だと分かりました。やはり卑弥呼の墓の候補の可能性はありませんね(^_-)-☆。




また、当時の吉野ヶ里遺跡は近くまで海が迫っていたようで、夜陰に紛れて襲ってくる敵の軍勢に急襲される場所です。倭国大乱時に狗奴国側が攻撃した痕跡である鉄鏃がいくつもの環濠の中で発見されています(「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。多重の環濠で護られてはいるものの要害堅固とまでは言えず、とても安全な居城ではないと考えられます。




被葬者が女性であり、女王に相応しい副葬品が出土したとしても卑弥呼ではない別の女王の可能性が大です。日吉神社の祭神オオヤマクイと被葬者の関係の伝承などがその正体を特定するヒントになります。(^_-)-☆

しかし、すでに卑弥呼の墓の有力な候補地を見つけています。この場所は宗像三女神天降り伝承の地であり、宗像女神卑弥呼の宮室だったと考えられる三女神社(さんみょうじんじゃ)があります。境内に「二女神社」という奇妙な神額の鳥居があり(本ブログのバナー参照)、カモフラージュのために三女神としたことを示唆しています(^_-)-☆。



神社の西側にV字溝(幅2.5m、深さ1m)が作られており、城柵があり兵士が護っていたと考えられます。卑弥呼の死後の古墳時代初頭にこの溝の中から銅鏃が1個発見されています。住居跡からは鉄鏃が1個見つかっており、兵舎か工房と推理できます。さらに西側約500mに、直径150mの日本最大の円墳である三柱山古墳(古墳マップ参照)を発見していますので有力な候補地なのです。その他にもいろいろと「いわく」が数多くありますので、ご興味のある方は【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!をご参照ください(#^.^#)



【関連記事】
邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!



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