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叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

 すべて無料です、気軽に読んでください。

人間賛歌 「新・仏教教室」 百四

2009年10月24日 | 新・仏教教室
 「聖愚問答抄」 解説 *
ジツチャン、
「生命の真理を悟った聖人からみると、それを知らずに迷い苦しんでいる
人々が、かわいそうで。痛ましくて。とても見てはいられないと嘆く声です。

生命は本来、生まれる始もなければ、死んで終わってしまうような限定され
た微小なものではありません。
生命の本質は、久遠の昔から永遠の未来えと続いている慈悲の心(他を幸
せにするために役立ちたいと願う思いやりの心)であります。

この本来の生命を仏界の生命といいますが、これを悟った人以外の人は、
この真理を知りません。

なぜ知らないかと言いますと、
生命には仏界の生命と、迷いの状態である九界の生命が一体になってい
ますが、九界の人にも仏界があることを教えなければ、迷っている人は自
分で悟ることは出来ないのです。

 九界の人は無明 (永遠に続いている尊極な命の仏界があることを信じな
い) という酒を飲んで酔っ払い、本心(仏界)を忘れているのです。
山本さん、ここまでのところで言葉の意味が分かったでしょうか。」

山本さん、
「先生、私たちは酒に酔って本心を失い、せつかく持っている仏界を知ら
ず、使わずにいる。という意味でしょうか。」

ジッチャン、
「その通りです。さきほど言いましたように、生命は慈悲の心で、その心に
無限の智慧があることを悟った人が仏で、歴史上はインドに生まれた釈
迦、中国に生まれた天台、日本で生まれた伝教、日蓮等の人たちです。
 (仏とは生命のことなり、が先師の悟りでした)

悟った人以外の人々は、仏界があることを知ることも、悟ることもせず、
生死を繰り返しながら、九界の境涯を永遠に流転します。

九界とは、六道(地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天界)のこと
で、六道の中を車輪が廻るようにグルグル、グルグル廻っていてそれに気
づかない境涯です。
 しかし六道の人でも、人の死を見たり、世間の栄枯盛衰を観じて無常を
知り、生命とは何ぞや、と探求する者もいます。

これを四生(声門界、縁覚界、菩薩界、仏界の一部<悪人でも自分の妻子
は愛すので仏界の一部になります> と言います。
六道輪廻の人より一歩進んだ境涯ですが、自身に具わる仏界を現してい
ないので、迷いの境涯の内に入ります。

次回に続く  


 

人間賛歌 「新・仏教教室」 百三

2009年10月21日 | 新・仏教教室

 生と死(生命)の時代 *
山本さん、
「前回、東京大学に希望学部というのができ、世界の大学が死後の研究を
していると伺いましたが、死後の研究をして本当に死後のことが分かるの
でしょうか。

死んだ人で帰った者はいませんから、仮に死後の世界があったとしても証
明のしようがないと思いますが、先生のご意見はどうでしょうか。」

ジツチャン、
「さすが山本さん、着眼点がいいですね。
たしかに死後の世界はあると、キュブラー・ロスは宣言しましたが、ロスが
面接した六万人余の臨死体験者は、死んだ状態から生き返った人たちで、
厳密に言うと死の体験者とはいえないかもしれませんね。
現にそう言う学者もたくさんいるそうです。

仮に死後の世界があったとしても、みんなにそれが分かるように証明でき
なければ、人間の役には立ちませんね。

そこで今回は少し難しいかも分かりませんが、日蓮大聖人の教えを通して
この問題を考えてみたいと思います。
大聖人が書かれた聖愚問答抄という御抄があります。

生命の真理を悟った人(聖人)と、そうでない人(愚人・愚かという意味では
なく迷っている人の意味です)の質疑応答ですが、その中の肝心のところを
学びましょう。

ケイタくん、ここを読んでくれないか。
読者には聞こえないでしょうから、文字を目で追つて行つてください。解説
はあとでしますから、意味が分からなくても耳しみこませるつもりで聞いて
ください。」

ケイタくん、
「それでは聖愚問答抄の一節を読ませていただきます。」


 悲しいかな、痛ましいかな、我ら無始よりこのかた、
 無明の酒に酔いて、六道・四生に輪廻して、
 あるときは焦熱・大焦熱の炎にむせび、あるときは紅蓮・大紅蓮の
 氷にとじられ、
 あるときは餓鬼・飢渇(ケカチ)の悲しみにあいて、
 五百生の間飲食(オンジキ)の名をも聞かず。

 あるときは畜生・残害(ザンガイ)の苦しみをうけて、
 小さきは大きなるにのまれ、短きは長きにまかる。これを残害の苦
 という。
 あるときは修羅・闘ジョウの苦をうけ、
 あるときは人間に生まれて八苦をうく、
 生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五盛隠苦なり。

 あるときは天上に生まれて五衰をうく。
 かくの如く三界の間を車輪の如く回り (中略)
 生を受けたる我が身も死の終わりを知らず、

 ああ受け難き人界の生をうけ、あい難き如来の聖教にあい奉れり、
 今度もし生死のきづなをきらず三界の籠ハン(ロウハン)を、
 出でざらん事かなしかるべし、かなしかるべし。

(読みやすいように句点をいれました。)  御書四七四頁  *

次回に続きます。   

         
 


人間賛歌 「新・仏教教室」 百二

2009年10月08日 | 新・仏教教室
 希望と実現 *
ケイタくん、
「希望したときに実現しているといっても、それでは苦労もないしそんな虫
のよい考え方が通用するのでしょうか。
 現実はもっと厳しいように思いますが。」

ジツチャン、
「もちろん希望しただけで、何もしなければいつまでたっても実現しないよ。
希望を実現しようと決意すれば、実現に向けて当然、努力しなければなら
ないね。 
自分の持っている知識や力を総動員して挑戦するワケだ。
だが希望が実現するまでの道中には、させまいとする妨害や、もうダメだ!
と絶望するような場面が必ずあるものだ。

フツウはそこで挫折したり、あきらめてほかに向かったりする例が多いん
だがね。
あきらめずにやりぬく力、この力を私たちは御本尊に題目を唱えて引き出
している。だから何をやるにしても題目は欠かせないのだよ。

希望する。決意する。はともに心の次元であるから、決意した段階で出来
ているが、果報として目に見えるまでには時間がいる。ということだね。」

ケイタくん、
「ジッチャンやボクは信仰しているから、題目をあげられますが信仰してい
ない人はどうするのですか。」

ジッチャン、
「どんな障害でも突き破っていける仏の力は、もともとみんなの心にも具わ
っているが、それが無明という闇に閉ざされて現われないのだ。
無明を破って仏の力を出すには、題目によるしかほかに方法がないのだよ。
だから信仰していない人は、
仏の力が自分にあることを知らないし、
それを引き出すカギが題目であることを知らないから、まず信仰に入るこ
とが先決であると思うね。
ケイタくんの友人にそんな人がいたら、ゼヒすすめてあげなさいよ。
 友達に喜ばれるから・・

さっきの話に戻るが東京大学が、希望について学問的に研究することは、
非常にいいことだと思うね。
希望の反対が絶望で、一般的には希望が生で、絶望が死であると長いあ
いだ考えられてきた。前にも言ったがキュブラー・ロスが「死は存在しない」
と宣言してから世界の大学が死後の研究を始めた。日本でもF大学が研究
していると聞いている。

希望が生命現象であれば、絶望も生命現象であるから、いよいよ法華経
で説く生命の時代が始まったと言えるのではないだろうか。
そういう意味で私たちは、それを先取りした先駆者であるワケだ。ケイタ君
もしっかりしてね。

つづく   


 

人間賛歌 「新・仏教教室」 百一

2009年10月05日 | 新・仏教教室

    希望学とは ?  
ケイタくん、
「ジッチャンこんにちわ、いつも元気そうですね。
 今日はちょつと聞きたいことがあって、やってきました。」

ジッチャン、
「ケイタくん暫くだね、なにか背が伸びて大きくなったように見えるが、成長
している証拠だね。
例えはよくないかもしれないが、タケノコは一日に一メートルも伸びるそうだ
から、ケイタくんもちょつと見ないうちに見違えるほど立派になったんだね。

それで聞きたいことって、なんだい、遠慮なく言いなさいよ。」

ケイタくん、
「ジッチャンも知っていると思うけど、
こんど東京大学に希望学部という新しい学部ができて、希望について研究
するそうですが、ジッチャンは聞いている ? 」

ジッチャン、
「このあいだテレビで放送したのを見た程度で詳しくは知らないが、
 ケイタくんはそれについて何を聞きたいというの。」

ケイタくん、
「ジツチャンは、希望というのは生命の別名だと、よく言われていましたね。
前に、ユゴーの「希望せよ、しこうして待て」とか、
何億年も前に生きて哺乳類の先祖になったイクチオーラという魚は、
サンソがいっぱいある陸地で暮らすことを希望し、何百万年もかけて陸の
生活に適すように体を改造したと、話してくれましたね。

それでボクはシロウト考えで思ったのですが、
希望学部というのは生命を研究する学問のことではないだろうかと・・
それでジッチャンの意見が聞きたくなったのですよ。」

ジッチャン、
「ケイタくんはなかなか頭がいいね。
昔の話をよく覚えていて、それに意味を完全に理解しているよ。さすがわ
ジッチャンの孫だな。

そこで質問についてだが、
「希望は生命の別名なり」と言ったのは私の師匠で、さらに、希望というも
のは自分でつくり出すものだ。とよく聞かされたものだよ。
みんなの生命は希望をつくり、それを実現するようにあらかじめ準備され
ている。とも言われていたね。

私たちが御本尊に題目を唱えるのは、希望(因)を現実(果)にするためで
あるが、生命の次元で観察すれば因と果は同時であるから、希望したとき
にすでに実現しているということになるんだね。

次回につづく  

 


人間賛歌 「新・仏教教室」 百回

2009年09月23日 | 新・仏教教室

 続 不幸になる宗教 *
ジッチャン、
「固い話が続いたので、ちょっと話題をかえましょうか。
中国念仏宗の開祖導公は、極楽往生を願って柳の木から飛び降り、自殺し
ようとしましたが、枝が折れて地に落ち、全身を打って十七日間もだえて死
んだと伝えられています。

日本でも隠岐の法皇が鎌倉幕府を討伐しようとして、逆に北条義時に破れ
島流しになっています。
これも真言宗が広まって朝廷の威勢が衰え、その結果武家政治にとってか
わったのです。
 では本題にもどりましょうか。

 三 禅天魔 禅宗は仏教を破壊する天魔の所為であること。

日本における開祖は栄西(臨済宗) 道元(曹同宗)です。禅宗は不立文字、
直指人心、見性成仏の義を立てます。
すなわち「経文は月をさす指であり、月(成仏の性)がとらえられれば指には
用がないとしました。これは仏教を破壊する天魔の業であります。

釈迦は涅槃経で「心の師となりて、心を師とせざれ」と説き、また、
「かくの如き経律は、まさに知るべし、これ如来の所説なり、もし魔の所説
に随順すすることあらば、これ魔の眷属なり」と説いています。
 故に大聖人は禅天魔と破折されたのです。

 四 律国賊 律宗を信じ広める人は国を滅ぼす賊であること。

鎌倉時代には忍性良観(真言律宗)が広めました。
小乗経の四分律を依経としましたが、衆生の機根を整えるために戒律を
説いたもので、大乗経がでれば無用の長物となります。

伝教大師は「末法に戒をたもつ者は市に虎あるが如し」と破しており、
戒をたもつ者は国の宝どころか国賊であると破折されています。


宗教に正邪があることを知らず、邪教を信じて不幸になっていく人が多い
ので、あえてこの稿を書きました。
日本には念仏宗、真言宗、禅宗に属している人はたくさんいますが、自分
の属している宗教が、不幸の原因であることを知っている人は皆無と言っ
てよいでしょう。

尚、律宗はあまり信徒もいないので影響も少ないでしょう。 以上

 ( 仏教哲学大辞典 参照 )      

  


人間賛歌 「新・仏教教室」 九十九

2009年09月17日 | 新・仏教教室
 不幸になる宗教 *
山本さん、
「釈迦が法華経にくるまでに説いた教え(方便教)というのは、
どんな教えですか、またどうして仮の教えを信じると不幸になるのですか。
 教えてください。」

ジツチャン、
「釈迦が説いた教えは、八万四千の法門といわれるぐらいたくさんあります。
その中で代表的な仮の教え(権教)を四つあげましょう。
 これは日蓮大聖人が、法華経に背く邪義であると判定されたもので、念
仏宗、真言宗、律宗、禅宗の四宗です。

正法正義である法華経に背くことをホウボウといい、人を不幸にする元凶
ですが、大聖人は四ケの格言で四宗の邪義を破折されています。

 一 念仏宗 阿弥陀仏の名号をとなえることは無限地獄におちる業因と
なる。
 浄土宗の日本の開祖は法然で、無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三
部をよりどころとした。来世に極楽浄土に生まれることを目指し、現実世界
である娑婆世界を穢土として嫌った。

 そして釈迦が説いた一切経を難行道の聖道門と、易行道の浄土門に分
け、法華経は難行道であるから、捨てよ、閉じよ、さしおけ、投げうてとい
い浄土宗だけが成仏できる易行道であるという邪義を立てた。
それに対して大聖人は、法華経を誹謗するものは無限地獄におちると破
折されている。

 二 真言亡国 真言宗を信じ一国に広まると必ず国が亡びるということ。
日本における開祖は弘法大師である。
 真言宗では法華経などの一切経は応身如来(仮の仏)である釈迦が説い
たもので、大日経は法身如来(真理を意味する法身の仏)の説法である。

大日如来に比べれば釈迦仏はぞうり取りにも及ばないとし、
大日経と法華経を比較すると「理」は同じであるが、大日経には別に印と
真言があるから「事」は勝れているという邪義を立てた。

これに対し日蓮大聖人は、真言は亡国の法であると破折された。なぜなら
大日経は方便教であるから捨てよと釈迦が明言しているからだ。
仏教の本主である釈迦如来を突き倒して、架空の大日如来を本主と立て
るから、真言宗は亡国、亡家、亡人の法と破折されているのです。
 (仏教哲学大辞典を参照)

 次回に続く

 注 ホウボウとは正法である法華経を誹謗すること。   



  

人間賛歌 「新・仏教教室」 九十八

2009年09月14日 | 新・仏教教室
 宗教が幸・不幸を決める *
山本さん、
「先生、人間は幸せになるために生まれたと聞きましたが、不幸な人が多
いのはナゼですか。」

ジツチャン、
「それはねえ山本さん、意外に思うでしょうが、宗教が人間の幸、不幸を決
めているのです。」

山本さん、
「先生のお言葉ですが、人間は幸せになろうと思って宗教に入るのでしょ
う。その宗教が人間を不幸にするのですか ? 」

ジツチャン、
「ゼンブがゼンブだめというわけではありませんが、宗教の正邪によって
人間の幸、不幸が決まることは確かです。
歴史上の事実や、客観的に証明できる例はたくさんありますが、それをあ
げていてはキリがないので、ここでは釈迦の言葉を紹介しておきますから、
それを参考にして考えてください。

 釈迦は、将来、人間は自分たちがつくった宗教や思想でガンジガラメに
なり、そこから脱出できず、不幸をさらに拡大していくだろう。と予測してい
ました。

それでは人間があまりにもカワイソーなので、人間が絶対に幸せになる正
しい教え(法華経)を残しておくので、みんなこの教えを信じなさい。

法華経はどんな病気でも治せる大良薬であると信じることが大事です。
飲んでも効かないのではないかとか、幸せにはなれないのではないかと
疑ってはなりません。
と断わったうえで出世の本懐(釈迦が生まれた目的)である妙法蓮華経を
説いたのです。」

山本さん、
「そのはなしは前にも聞きましたので覚えています。
それでは妙法蓮華経なら幸せになれるが、それ以外の教えは不幸になる
と言うのですか。」

ジツチャン、
「山本さんは頭がいいから、よく覚えていてくださいましたね。山本さんの
言うとおりです。
法華経を説く前の四十二年間の教えは、人々を法華経に導くために説い
た仮の教えで、本当の教えである法華経を知った以上、それらはゼンブ捨
ててしまいなさい。

 そうしないと誤った思想にこだわって不幸になりますから、
「正直捨方便」で私の言うとおりに、仮の教えである方便経は捨てなさい。
 と宣告しているのです。」

つづく   


  

人間賛歌 「新・仏教教室」 九十七

2009年09月05日 | 新・仏教教室

 政治激動 *
山本さん、
「先生、衆院選で自民党が大敗し、政権交代が実現しそうですが、
五十年以上続いた自民党政権に代わって民主党でうまくいくのでしょうか。」

ジッチャン、
「たしかに半世紀にわたって続いた自民政権が、壊滅的打撃を受けてなく
なることは地核変動に近い大事件だと思います。
日本では政権交代が行われた経験は余りないし、国民のハッキリした意思
によって政権が交代するのは、初めてのことではないでしょうか。

そういう意味では8・3〇は歴史に残る日であり、国民が自らの意思を発動
した大事な日であるといえるでしょう。

正直言って、国民がこんなに明白な形で意思を表すとは思っていませんで
した。ワリをくった公明党は気の毒ですが、捲土重来を期して奮起するしか
ないでしょう。」

山本さん、
「麻生内閣が打ち出した景気対策で、景気が立ち直る気配もありますが、
政権交代でどうなるでしょうか、それが心配です。」

ジッチャン、
「麻生内閣でとった景気対策は従来と同じで、財政支出を大幅に増やし、
公共投資や、企業支援を通して会社の景気をよくし、それが従業員の賃金
増になって個人消費が増え、景気が拡大路線に乗るという筋書きでした。

 この政策は赤字だけ残って結果的に失敗していますし、
小泉内閣のときは規制撤廃で企業を優遇した結果、企業は儲かったが、
賃金は減るという逆の結果を招いてしまいました。

 民主党の政策は、企業の景気をよくして賃金を上げるという今までのやり
方ではなく、直接家計を援助して消費を増やし、全体の景気をよくしていく
政策で、今までのパターンとは違うやり方をしようとしています。

これが成功すると民衆主体の景気対策として世界中で注目されるでしょう。
山本さん、
「民主党の政策がうまくいくには、どうすればよいと思われますか。」

ジツチャン、
「官僚をうまく使っていくことが大事だと思います。
押さえつけたり、批判するだけでなく官僚の能力を評価して、それを発揮さ
せることがカギでしょう。
 とにかく民衆を本気で大事にすれば旨くいくと思いますよ。」

つづく   



 



 


人間賛歌 「新・仏教教室」 九十六

2009年08月31日 | 新・仏教教室

 仏国土( ブツコクド ) *

 質問します。
仏国土というのはどんなところですか。

 答えます。
仏国土というのは法華経(御本尊)が広まって築かれる楽土のことです。
仏の住む国・寂光土ともいいますが、金剛不壊(コンゴウフエ)・ダイヤモンド
のように固くて、壊れることの無い幸福境涯である仏界を現した人や、それ
に縁する人が住む国土環境のことです。

九界の別にあるのではなく仏は九界の衆生と共に住み、全ての人に仏界
があることを教え、それを開かせようと導きます。

その意味で仏教では、
この世界を、仏と九界の衆生が共に住む同居土という場合もあります。

苦しみが充満する環境の地獄界も、
楽しみ、喜びに満ちた環境の極楽も、自分の心が現したものです。

故に、心が変われば地獄が一転して極楽になったり、逆に極楽がたちまち
地獄界に変わる場合もあります。
これに対して仏国土は常住不滅で、いつもあって変わることがない永遠の
楽土であることが特徴です。

 楽土では円満具足といって全てが備わっていますので、必要なものは必
要なとき手に入り欠乏することがありません。

「そんな旨いはなしがあるわけがない、ウソだろう」と思う人もいるでしょう。

でもこれはウソではありません。これが真実ですが、人々は真実を知らな
いので、信用しないのです。

 太陽が厚い雲に覆われていますと、太陽の光は見えませんが、雲がなく
なると光が燦燦と輝き万物をうるおします。
これと同じで各人の生命に具わっている仏界 (胸中の太陽といえます)  も、
真実に暗い無明 (生命の真実をしらないこと) の雲に覆われているので、
自分で気づくことも、現すことも出来ないでいるのです。

 質問します。
仏界を現すにはどうすればよいのですか。

 答えます。
日蓮大聖人が書き顕された仏界の命である御本尊を信じて、「南無妙法蓮
華経」と唱えれば、己身の仏界が現れます。
ナゼ現れるかと言いますと、元々自分の命に具わっているからです。無い
ものはいくら題目を唱えて呼んでも現れません。

 さらに詳しく知りたい方は管理人にお問い合わせください。

 注 楽土
貧、争、病の苦から開放され、平和でみんなが喜んで暮らせる国土のこと。
御本尊をたもった者が人間革命して、自分のいる所を仏国土に変え、それ
を広げていくことです。

つづく   


  


人間賛歌 「新・仏教教室」 九十五

2009年08月28日 | 新・仏教教室
 この世は苦か、楽か、 *

 質問します。

寿量品の中に「憂怖諸苦悩・如是悉充満」 (この世は苦であるの意) と、
「宝樹多華果・衆生所遊楽」 (この世は楽であるの意)  の文があります。
相反して矛盾しているように思いますが、なぜでしょうか。」

 答えます。

憂怖諸苦悩・如是悉充満(ウフショクノウ・ニョゼシッジュウマン)というのは、
もろもろの不安や怖れが充満していて苦しむという意味で、現実のこの世
は苦しみが絶えない世界であることを表わしています。

次に、
宝樹多華果・衆生所遊楽(ホウジュタケカ・シュジョウショユウラク)
というのは、人間の役にたつ植物がいっぱいあって果実が実り、食物が
豊富で人々が心穏やかに、楽しんで暮らすところである。という意味です。

 同じ世界なのに矛盾しているのはナゼでしょう。

 仏教では住む人の心によって環境が異なると教えています。
人の心が、貪欲、怒り、愚かの三毒強情であれば、災害や戦争、疫病など
が起きて、人々が苦しむ悪環境になると指摘しています。

反対に人々の心が穏やかで、他者を思いやるやさしさがあれば、みんな
が喜んで暮らせます。
天候も穏やかで、食料も豊富にとれ、住む人が満足して踊ったり、音楽を
楽しみながら遊楽する環境になります。

 前に依正不二のところで、環境と人間は体と影のように切っても切れな
い関係であると言いました。
人間の境涯が地獄界、餓鬼界、畜生界などの低い境涯であれば、環境も
それに応じた悪環境になり、

逆に人間の境涯が人界、天界、声門縁覚界であれば環境もそれに相応
した豊かで喜びに満ちた国土(住環境)になります。

経典の文は矛盾しているようですが、住む人の心によって決まりますの
で、心が大事になります。環境を変えようと思えば心を変える必要がある
のです。

つづく