かったかくんのホームページ

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「黒田如水と如水小学校」

2022年04月24日 | 大分県
『静けさと朝陽がまぶしい学び舎の
      廊下に浮かぶ優しい空気』


子どもたちがやってくる前に、教室に上がります。
天気の良い日には、朝の陽ざしが廊下に差し込んでいます。
陽の光を明るく反射させている廊下を見ると、
「今日も一日がんばろう。」
という気にさせてくれます。
しかし、今は、気持ちよい陽ざしでもこれから夏に向けてだんだんと暑くなっていくのでしょう。

 

前から気になっていたことがあります。

如水小学校に勤務する前から、
「如水小学校」

「黒田如水」
はどんな関係があるのだろう思っていました。
 

が、思っていただけで、時は過ぎていました。
きっと何らかの関係があるのだろうと思い、勤務することになって、ネットで調べてみました。


『「関が原の戦い」が始まったことを、黒田如水自身がつくりあげた早船によって知りました。
ちょうどその時は、築城中の中津城はうるさいからと城下の商人伊予屋に遊びに行っていたときといいます。

彼は「時こそきたれり」と思い、家臣に「わしは内府(徳川家康)に味方する」と宣言します。 

明治期に日本帝国陸軍参謀本部が作成した「関ヶ原の役」の調査では、動員兵力は1万石につき300人と計算されています。
黒田如水の嫡男、黒田長政は関ヶ原の戦いに5400の兵力で戦いに挑みました。

黒田家の兵力すべてを動員していたといえます。
ということは、中津に残った父黒田如水の手元にはほとんど兵がいません。
中津城の築城を中止させ彼は日頃より豊富に貯えていた金銀を大広間いっぱいに盛り上げ、兵を募ります。
 

身分をとわずに来る者を兵にしてしまい。たちまちのうちに8000の兵(9000の説あり)をつくりあげます。
8000の兵を集めたとしたら約27万石の米代金、金銀の蓄えでしかも、武器と食糧を求めなくてはなりません。
どれだけの蓄えがあったのでしょうか。
大広間に積み上げられた金銀をみて、家臣が
「これだけの金銀があれば天下も買えましょう」
と言ってうなずきました。
 

その兵の集合場所に指定したのが荒涼な場所、現在の如水小学校です。

この故事により「如水ヵ原」と呼ばれることになります。

現在の如水小学校のグランドは、昭和30年代までは松の木が自生する小高い丘の形状で、最後まで残されていた「明神山」は、昭和44年にプールが造られるために削られました。
 

明神山は土地の人の話では山頂に明神様を祀る祠があり、高さは4m~5mはあったそうです。
口伝では、山頂横の大松に如水自らの兜をかけたそうです。
だから「兜かけの松」と呼ばれていたそうです。
この山頂で如水は立ち、馬揃え(観兵式)をおこない、豊後へと出兵していきます。
 

そして、大友宗麟などの軍勢を打ち破っていきました。
この故事にちなみ「如水小学校」の名を先人たちは与えました。』

なるほど。
史実が違っていたり、またもっと詳しいことを知っている人は教えて下さいね☆
学校にはそれぞれに重みのある歴史があります。