かったかくんのホームページ

日々感じたこと、心に残ったこと・・・綴っていきますね。よかったら、立ち寄って下さい。

重光先生との突然の別れ

2011年07月12日 | Weblog
人には、いろんな生き方があります。しかし、突然に死が襲ってくることもあります。それも運命なのでしょうか。ある方の予期しない死の知らせはあまりにも衝撃的でした。


 9日の夕方テレビを見ていると、森高校野球部のバスの事故が報道されていました。重光監督が亡くなったことが伝えられました。しばらく呆然としました。数時間前まで開会式の様子がテレビに出ていたのに・・・。





 全国高校野球選手権大分大会開会式が終わり、学校に戻る途中の事故です。先週の木曜日、毎日新聞をたまたま見ていると、先生と森高校野球部のマネージャーをしている娘さんの記事が出ていて、感動したところです。





 5月に豊前でお会いしたときは、息子さんがバットを握って遊んでいるというような話を聞かされました。運命かも知れませんが、幼い息子さんを残して、あまりにも残酷な事故です。次の日も学校があったのですが、気持ちが晴れませんでした。




 誠実な先生でした。話をしていてもさわやかな気持ちにさせてもらえます。ご家族の方、関係者の方たちが苦しみの中にいます。コメントのしようもありませんが、今は、まず心からご冥福をお祈りします。



 先週の新聞記事の内容は、先生は、叱る意味をマネージャーに理解していて欲しい。選手と同じ目線ではなく、監督の意を分かって、選手に接して欲しいと臨む記事です。



 同じ野球をする者として、叱るには監督としてそれなりの叱る意味があります。生徒の成長のためですが、でもその真意を全て選手が分かろうはずがありません。



 それを娘さんが理解してくれて、選手にそれとなく話をしてくれる姿がうらやましく思っていた矢先の事故です。



 毎日新聞の記事から引用させてもらいます。


『◇ナイン支える親子鷹



 重光孝政監督(44)と3年のマネジャー、咲希さん(17)はひと味違う「親子鷹(たか)」だ。




 監督が柳ケ浦コーチ時代に産まれた。当時住んでいた寮の窓越しに選手の声が聞こえ、母和佳枝さん(43)が押す乳母車でグラウンドへ。




 少し大きくなるとユニホーム姿で試合を応援した。父を、そしてチームを支えたいと思うのも自然の成り行きだった。




 忘れ得ない試合がある。04年夏、甲子園をかけた大分大会決勝。重光監督率いる国東は王者・明豊に挑戦。1対4で惜敗したが、小学6年だった咲希さんは「手に汗握り、一瞬一瞬に感動した。」




 中学では「試合の緊張感や努力の大切さなど、選手の気持ちを知っておこう」とテニス部、陸上部、駅伝部に所属。駅伝部では2年連続県大会に出た。
 



 高校に進学し、念願のマネジャーになったが、最初は違和感があった。緊張の張りつめたグラウンドで怒鳴る父。



「みんな頑張っているのに……」
 


 練習試合で三振した選手がヘルメットを投げて悔しがった。礼を失した行為だった。試合後、自宅に戻った重光監督は選手に怒った以上に強い口調で、咲希さんを叱責した。各選手に「監督の娘さんが『頑張ってる』と見てくれているんだから。」という甘えがあったからだ。




「士気が乱れる。マネジャーをやってる意味がない。」



 落ち込んだ咲希さんだったが、
「監督の娘だからこそ選手に与える影響も大きい。高い意識を持て。」
との意図を理解し、段々と変わっていった。怒られた選手に、監督の真意を忖度(そんたく)して伝える。和佳枝さんも「成長したな」と顔をほころばせる。




 重光監督には、その姿勢に共感して県内外から練習試合の依頼が後を絶たない。周囲との信頼関係を築く父を「尊敬している」と話す咲希さん。「一緒に闘える」と笑顔の重光監督。「声を出し、全力疾走する野球を支えたい。」と言う咲希さんと父の視線はともに甲子園を見据えていた。』