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東京「昭和な」百物語<その31>自衛隊

2017-10-10 23:39:35 | 東京「昔むかしの」百物語
(今日本の置かれている地政学的な立場を見るに、自衛隊が自衛隊のままで良いのかという、国家としての根源的な問題を真剣に考えなければいけない時のような気がします。

というような大仰なことではなく、2014年8月23日に昭和の時代に経験した自衛隊にまつわる思い出を書き留めた原稿があったので、再録します。
以下のものです)

ボクの父は、そこそこに名の知られた人だったのか、ボク自身は幼かったこともあって詳しくは覚えていないが、政治家先生の選挙などにもそれなりに力を貸したりしていたようだ。

父の口から聞かされた記憶のある、関わりのある政治家の名前といえば、島根の竹下登、岩手の志賀健次郎、志賀節・父子、青森の津島雄二などと言った代議士の名前だった。

ボクがよく覚えているのは、志賀健次郎。彼は昭和37年7月~38年7月に防衛大臣を務めた。そしてその任期中の自衛隊観閲式に父と一緒に参加したことがあった。

敗戦後まだ17~8年の頃の軍事装備を、小学生だったか中学生だったかのボクは、きっとキラキラと目を輝かせて見ていたに違いない。

そして問題はその観閲式の場所だ。おそらく今では朝霞などの自衛隊駐屯地で行われているのだろうが、ボクの記憶が間違いでなければ、昭和37年の自衛隊のパレード、観閲式は千駄ヶ谷の絵画館前だった。

今ではデート・スポットとして有名な絵画館前を、軍隊と呼べない軍隊が当時の最新装備を誇らしげに掲げながら、パレードしていたのだ。おそらく、戦後初の陸自最高装備と謳われた国産61式戦車なども、そこで実物を見たかもしれない。

その自衛隊というキーワードで、一つ思い出す苦い思い出。

それは昭和37年の観閲式を遡ることさらに5年、ボクが小学校2年のこと。当時は板橋区上板橋に住んでいた。小学校は文京区立窪町小学校に通っていたから、学校が終わり地下鉄の茗荷谷から池袋経由で東上線の上板橋下車、商店街を抜け、川越街道を渡って家にたどり着く。

だが、その日は学校からの帰り道、お腹が痛くなった。それでも家まではもう5分も歩けば辿り着く、と思った。

トイレに行きたいのを我慢して、もうじき家に着くその前に、川越街道を渡らなければならない。渡れば1分もかからない。

信号などという洒落たものなどまだそれほどなく、交通量もそれほどではない時代。普通に川越街道を渡れれば、なんということもなくトイレに駆け込めるはずだった。

それが!

あろうことか川越街道を大挙して戦車部隊が移動しているではないか! 自走砲やら装甲車の類まで、延々と東京の都心方向に移動していく。ボクのお腹は、残念ながら10分耐えるのが精いっぱいだった。おもらし。悲しくて惨めで、しばらく立ち上がれなかった。

ようやく川越街道を渡れたのは、おそらく20分ほど経ってからだったろう。

泣きながら帰宅したボクの有様を見て、母は「あらま」と言っただけで井戸端できれいに洗ってくれた。何も言われなかったことが、本当に救いだった記憶がある。

思うに、あの戦車の隊列は、間違いなく観閲式に向かうものだったに違いない。

思い出はここまで。

(今、自衛隊は災害救助などで国民との接点を持ち、組織として大きな理解を得るに至っているが、昭和の時代には戦後の日教組教育の中で、歪んだ国軍のイメージを植え付けられていた。教育は必要不可欠だが、誤った教育、バイアスのかかった教育は怖い。日教組教育は軍備は悪しきものというスタンスが顕著だった。戦前戦中の国家神道、軍部主導の悪しき前例を完全否定したといったところだ。だが本当にそういう教育でなければならなかったのか? ボクは実のところ、今の韓国とは真逆の自虐史観を押し付けられたように感じている。そして自分の所属する国家を否定するという歪んだ歴史教育を受けたと思っている。

自衛という軍のあり方は決して間違ってはいなかったとは思うが、世界は刻々と変化している。その変化は思いもかけない形で自衛というスタンスで居続けることを許してくれない状況を作り出す。その時に、自衛にこだわり続けることは果たして正しいのか? そこを真剣に考えなければいけない状況が、目の前にあるような気がしてならない)
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