普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

リビア カダフィ リンチ OK?

2011-10-22 14:39:03 | 普通な人々<的>な
 フセインの時もそうだった、そして今回のカダフィも。
 傾向性は異なるがビンラディンもそうだった。

 共通項は、負の要素を持った指導者(テロ指導者、独裁者。本人達、あるいはその取り巻き連中は、そうは自覚していなかったに違いないが)が殺されたということ。
 誰にどうしてという、理由や意味は別にして、殺されたと言う事実があり、そしてその殺される現場を、世界中が見た、見せられた。

 だがこれは、よく考えればあってはならないことなのではないのか?

 自由主義の代弁者のようなスタンスでアメリカが関与する。そして、公然と人を殺す。あるいは人を殺すことを「是」とする。認める。世界にその事実を当たり前のことのように伝える。
 そして世界中のメディアは、それがあたかも当然のことのように伝える。
 なんだか怖くないか?
 人を殺すということが、まるで正義のように伝えられる。

 目には目を、歯に歯を。ってか?

 だが、一方的とも思える価値観を根拠に、「殺す」と言う方法論で他方を断罪するなどと言うことが、本当の意味での自由主義世界で許されることなのだろうか? よしんばそうするにしても、裁判、法廷という、弁明の場や主張の場を、断罪される側にも与えてきたのが自由主義社会ではなかったか?

 論理的正当性も理由もなく一切の弁明すら与えずにユダヤ人を殺戮したかのナチズムに対してさえ、ニュールンベルグ裁判と言う、是非はともかくも裁判が行われたことは、人類の誇るべき歴史なのではないか?

 いまやそうした手続は面倒とばかりに「世論操作された世論」をバックに、国家が直接手を下し、人殺しをするまでになった。そしてその現場を世界に発信し、そのことで世界を共犯者に仕立て上げている。ビンラディンのことなどは、世界中の人々が完全にアメリカの一人芝居の観客にさせられた。
 そしてそのことにあまり疑問も感じない。
 人類の動物種としての蛮性が甦っている。

 はっきり言って今回のカダフィの死は、見せしめのリンチにしか見えなかった。
 ウェスタン映画でロープを木に掛け、自分の敵と思しき相手を縛り首にするのと同じ手法。正義もクソもなく、首のロープが緩むか絞まるかの分水嶺は、敵か味方か。
 もとより国家を壟断したと思しき人物を裁くという、当事者として当然の冷静さに欠けていた。
 むしろ、国家あるいはその萌芽を握り締めている後に続くものたちが、国民の勝手にやったことという粉飾を施しているようにさえ見える。

 フセインの時も、今回のカダフィも、煽るだけ煽り民衆のなすがままするがままにして殺させている。そこには政治的、軍事的統制などまったくない。それでありながら、次の瞬間に臨時政府がコメントを発表したりする。

 馬鹿げて恐ろしいことだと思わないか?

 「おまえたち一体どうしたんだ?」
 「私がお前達になにをしたというのだ?」

 カダフィの最後の苦痛の叫びだ。
 自分のしてきたことを、この程度にしか考えられない指導者だったというだけのことではあるのだが、カダフィが本気で国民が自分を慕っていると、つい一瞬前まで信じていたことの証明にもなる言葉だろう。そういう男ではあるが、弁明の場も与えず、しかも国民に殺させる……。

 人が死ぬことを、これほど無神経、無感動に見ることができるようになっている自分も、恐ろしい気がする。少なくとも、どんな人の死も尊厳が備わっているはずなのだ。その尊厳を剥奪した姿を見せしめとして世界に見せるなどということは、やはりあってはならないことのような気がする。

 この星の人々は、一体どこへ行くのだろう?
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