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東京「昭和な」百物語<その6> 上板橋1

2015-04-05 23:50:16 | 東京「昔むかしの」百物語
小石川から、上板橋に引っ越した。たぶん6歳になっていたはずだ。
東武東上線の上板橋は、池袋からおよそ12~3分だったと思う。今から考えればそれほど遠くもないのだが、当時は相当に遠かった。

緑ヶ丘幼稚園という幼稚園に転園した。ふと思い出したが、小石川で通っていた幼稚園は大山とかなんとか、そんな感じの名前だったような……。残念だが、まだ曖昧だ。

緑ヶ丘幼稚園には、半年くらいしか行っていない記憶だが、どうだったか……。

ボクが上板橋に引っ越した当時は、自治体が汚物を回収するのに、まだ牛の曳く大八車に肥桶をつんで各家庭をめぐっていた時代。それは直ぐに車での回収に代わり、バキュームカーにとって代わられたのだが、確かにまだ大八車だった。そのうちに、クロガネの三輪車やミゼット(ミゼットには肥桶は積めないけどね)などが登場してくる。

車と言えば、タクシーはルノーだらけだった。なぜフランス車だったのか? なんでだろう?

小学校は文京区立窪町小学校に入学した。越境入学というヤツだ。姉も同じ窪町小学校に通っていた。

小学生のボクは、革靴を履いて、制服などなかったが、まるで制服のように立派なテイラードの上下を着て、毎朝通勤客で満員の東上線から池袋で乗り換えて、できたばかりで淡路町くらいまでしか行かなかった丸ノ内線で茗荷谷まで通っていた。

窪町小学校の一番の思い出は、地下一階のコークス貯蔵エリアだ。冬のダルマストーブ用の燃料を、子供たちがバケツを下げて地下まで取りに行くのだ。そのエリアはほとんど灯りも無いような薄暗いスペースで、子供たちにとっては一種の肝試しのようなものだった。

まだ、あのコークスの乾いたような臭いを忘れない。二人組で行くのだが、恐る恐る出かけて行っては、コークスで一杯の重たいバケツをぶら下げて、逃げるように早足で階段を上った。

学校には基本電車で行くのだが、実はボクは電車で行くうちに気分が悪くなっていった。耐えられない日もあって、そんなときはバスで池袋まで出た。このバスも壮絶で、乗降口の扉が閉まらない状態で、ステップにしがみつくようにして乗った記憶もある。

通勤ラッシュが始まりかけた時代。それは凄まじいもので、無理やり客の尻を押し込んで、閉まらない扉を無理に閉めるという荒業が、毎日行われていた。

その中に身長110㎝位の子供も一緒に押し込まれる。降りたくても降りられないなどという子も大勢いた。幸いボクは終点だったから、そんな憂目には合わずに済んだ。

茗荷谷から地下鉄に乗るのが嫌で、歩いて帰ったこともある。池袋から上板橋まで歩いたこともある。電車で帰るよりは、はるかに気分が良かったのだ。

<続く>

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1 コメント

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東京だよおっかさん (萩原水音)
2015-04-07 21:34:20
当時は、高度成長期がまさに始まろうとしていたころでしょうか。それにしても、小学校低学年でぎゅうぎゅう詰めのバス・電車で毎日通学とは酷ですね。
●藤少年の「歩いて帰ったほうがはるかに気分が良かった」という気持ちは、東京に半世紀以上住むわたくしも、いまどきの言葉で言うと「禿同」ですネ(おいおい)。働き出して40年近く経ちますが、いまだに混んだ電車・バスに乗るのは「折詰の寿司になった気分」で苦痛ですからネ。なので、移動は可能な限り自転車です。
なんでそんな自分が東京に住んでいるのか、自分でも不思議でなりません(おいおい)。
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