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東京「昭和な」百物語<その53>留置場

2019-06-19 02:52:06 | 東京「昔むかしの」百物語
暴力行為の現行犯とやらで、逮捕・拘留された。1978年だか79年だかのことだから、昭和53か54年の、まだロッキンFの編集者だった頃のこと。

荻窪の駅前でサラリーマン風の男が、年寄に馬乗りになり殴りかかっている場面に遭遇した。なぜそういうシチュエーションになったのか分からぬまま、とにかくサラリーマン風の男の「殴る」という行為を止めさせようと、彼の腕を押さえつけた。

ボクのその行為が気に入らなかったのか、今度はボクに突っかかってきた。で、止むを得ず相手をしようかと身構えた矢先に、近くの駅前交番から巡査が2名やってきて、ボクとそのサラリーマンは交番に連れて行かれた。

ボクはそのサラリーマンの腕を抑えただけで、むしろ突っかかってこられた時に喉のあたりをつかまれ、痛みすら覚えていた。

ところが、サラリーマンには二人の連れがあった。その二人と3人で、まるでボクが連中に先に手を出したかのようなことを言い出した。

それはないだろうと、殴られていた爺さんを探したが、どこかにトンズラしてしまったようで姿はない。結局、ボクが悪者にされた。

そのサラリーマンと仲間は、ボクを告訴した。どんなつもりだったのか?

そこで、耳を疑う発言を巡査がした。

「こういう場合、見て見ぬふりをした方が良いんですよ」

そう言った巡査の後ろの壁に、「許すな暴力! 云々」と書かれた啓発ポスターが貼ってあったのを、今でも忘れない。

結局ボクは荻窪警察署の留置場に2泊3日する羽目になった。その間ボクは何番だったか忘れたが「○○番」という、聞きなれない呼ばれ方をされることになった。

爺さんを殴っていたサラリーマンも2泊3日したようだが、ボクとしてはどうにも釈然としない。納得もできない。で、取り調べには応じたが、ボクが暴力をふるったということに関しては頑なに否定した。留置場で出る食事にも、一切手を付けなかった。房の中ではずっと座禅を組んでいた。

荻窪警察署の取調官は、オリジナルの調書をサクサクと作成し、ボクに認めろと迫るがボクは認めなかった。

すると「何時までも帰れないぞ」と、テレビドラマにでも出てきそうなセリフを吐く。

ボクはそこそこに長髪だった。そして黒いジャンパーを着ていた。それは革ジャンなどではなく、レコード会社が宣材で作った黒い薄手の生地で背中にアーティスト名が白抜き文字で書かれた、一見して宣材とわかる代物だったが、警官はあくまで「革ジャン」でなければならないと言うのだ。

調書にはボクの風体が書かれていたのだが「革ジャンを着た活動家風の男」としてあった。

もうその一点で調書そのものを否定した。はじめの頃はボクをどうにかして拘留しておこうという警察の意志がありありとしていた。だが、話をしていくうちに、風向きが変わった。どうやら、もう一人の逮捕者・サラリーマン風の男の言い分が、二転三転したらしい。早く帰りたい一心で、ボクへの敵意もなにもどうでもよくなったのだろう。ボクの言い分の方が間違いないという流れになったようだ。それに加えて、ロック雑誌の編集者というボクの素性も納得し始めた。

取調官は、終いには「お願いだから認めてくれ」と言う。一度作った調書は、変えられないということらしかった。

ふざけるなとは思ったが、結局、腰縄に手錠を掛けられ護送車で地検に送られ、不本意だが「罪状」を認め、ボクは「晴れて」釈放された。

父親が荻窪警察まで迎えに来てくれたが、ボクを担当した取調官に「意志の強い青年」と評価されたことを告げられた。2泊3日も人の時間を奪って、なにを今さらと思った。

そしてボクを告訴したサラリーマン三人組は、当寺羽振りの良かったスーパー「ダ●エー」の社員だと教えられた。なぜそんなことを教えてくれたのか? 本来言うべきでもない、どうでも良い話ではないか。

おかげでボクには「歴」が一つ着いた。だがそれも、それほど嫌なものでもなかった。

昭和という時代は、アウトサイダーがかっこ良さげに見えた時代で、放っておいてもさしたる妨げにもならない、そんな価値観が普通にあったのだった。











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