普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

音楽の歴史1-2 聴く者の存在2

2012-12-24 17:45:14 | 音楽にまつわる話<的>な
 前回は、急な用事があって中座した感じになってしまった。
 失礼しました。

「聴く者がいなくとも音楽は成立するのか?」と書いた。
 聴く者が存在しなければ、音楽は成立しないとも書いたが、成立する音楽もある。
 当たり前と思われるかもしれないが、こうした設問は成立する。

 音楽の概念は、「音を楽しむ」であれ「楽しい音」であれ、音を聞く、音を出す主体者が設定されている。誰が「音を楽しむ」のか、誰にとって「楽しい音」なのかということだ。それは、聴く者がいなければ音楽は成立しないということではないのか?

 ところが、誰も感得し得ない音楽があるとし、その楽譜を書いた人がいる。ケプラーだ。ケプラーの書いた楽譜は、惑星の奏でる音楽。誰も知りえない音楽が存在していることを、ケプラーは楽譜化し証明してみせたのだ。ただこの時点で、誰にも感得し得ない音楽ではなくなってしまったのだが…。それでも、スルーしたにしても音楽そのものはどこかで成立している。

 こんな屁理屈にも似たことを考える必要もないのかもしれないが、ここに音楽の本質というか、音楽に携わる人間が、常に考え続けなければならない大きなファクターがあるように思うのだ。

 つまり、自分の中で消化してしまうような音楽は音楽とは言えない、音楽は人に届けてなんぼ、という前提が生まれざるを得ないのだ。

 聴く者がいなくとも音楽は成立するが、その音楽は人に届いた瞬間に、音楽となるということなのだ。

 はっきり言って、ウザったいほど屁理屈に近い。だが、考えるべきファクターと思えて仕方ない。

 インターネットという何十億ものデータの海に、自分の音楽を投げ込んだとしよう。しばらく放っておいて見直してみると、0再生だった。この瞬間に音楽は投げ込んだ本人の中から出て行かなかったということになる。これは音楽が音楽として不成立だったということになるのだ。

 正直、面倒くさい感じがする。この先は、考えたい人はそれぞれに考えてください。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 音楽の歴史1 聴く者の存在 | トップ | 三が日も過ぎた頃に… »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿