kasaruの今日も有り難う

僧侶歴46年。講演依頼受付中
サルコイドーシス・バセドウ病の旦那
岡山へ就職長男23歳
アペール症候群次男19歳

神?かみ?

2009-08-09 | Weblog
「神も仏もあるものか?!」「捨てる神あれば拾う神あり?!」

この時の『かみ』はどの『かみ』なのでしょうか?

仏教では基本的に『かみ』という言い方はせず

『ほとけ』という言い方をします。

『ほとけ』もそうですが『かみ』もまた抽象的な表現で、

実際にお目にかかったことが無いので、確かなことは言えませんが、

相当数の『かみ』や『ほとけ』が在中する世ですので、

いろんな場面で迷うこともあると思いますよ 実際。。。頼む方も頼まれる方も・・・

信心を持たないという人だって、どこかで多少なりとも、

何かに縋る(すがる)思いは芽生えてると思います。

実質的な目に見える確かなものではなく、

最終的な手段として漠然とした『かみ』『ほとけ』ではあっても・・・

それでも、人間の想像を超えた、世の中の不思議な出来事は、

ひとくくりで『かみ』や『ほとけ』の領域として表現されることも少なくありません。

我が家でも『かみ』や『ほとけ』かは わかりませんが、
「何かが取り付いているのでは??」

「誰かに守られてる??」と思える人物がいます。

誰も生きていること自体守られた存在だと思うのですが、

そういう漠然としたことではなく、
数々のとんでもない言動をやらかしても、家族に叱咤されている時でも、

感情的にならず、優しく、ユーモアを添えて

擁護してくれるヒトが必ずといっていいほど現れるのです。

擁護までいかなくても、自分に向かう矢を

知らないうちに、始末してくれるヒトが出てくるのです。。。。

誰かを呼ぶ笛でも持っているかのように・・・

本日、先ほども、

近くの市の体育館で市内リーグの大会があり、

送っていく車中でその人は「はい今日の大会のお手紙」と

運転している私に一枚の[かみ]をくれるのです(危ないから

ん??今日の部活の内容の手紙を貰ってたの?いつ?

特別 今までの大会と変わった持ち物は無いと思うんだけど、慌てて確認

すると、当然[ゼッケン]の文字が

「ね~!ここにゼッケンて書いてあるけど

数分前の出かける前の玄関先の会話で、ゼッケンを確認したら、
「僕は選手じゃないから要らない

「ほんとに 必要じゃないの?とりあえず持っていったら?」
「要らない

「あ。そう!」

自主性に任せることも、子どもの成長を見守る大事なこと・・・と

(自主性に任せたことへの後悔はこの時はほんの少しでしたが)

とりあえず送り届け・・・(それだって適当な時間を言うもんだからギリギリ

自宅に戻ったとたん

イヤな予感

あたり  って喜んでるばあいじゃ

「あの~~~ 僕はいらないと思ったんだけど、

みんなゼッケン着けてるんだよね~~

はい? 何? その他人事のような言い草は

この時後悔はMAX

それでも【良い親】を知らしめるために、直ぐに

そして車の中、私の頭の中は・・・

渡す時に一言?文句を言っちゃって良いのか?(今の感情のまま)

それとも満面の笑みで何も言わず渡すべきなのか?

5分とかからない道のりで頭の中は

既に体育館の中だろうと思うので、

入っていってみんなの前で言うのも・・・

どう渡すか決めかねているうちに到着。

既に先ほどのごった返しのような人は無くシ

そして、車を置いて体育館の前に行くと・・・・

すると ちょうど?偶然?誰か呼んだ?待っててくれた?

顧問の先生がこちらに
 (どうやら車に荷物を取りに出てきたところだったみたいで)

これって『かみさま』『ほとけさま』の仕業

母にとっても、子にとってもこの偶然?は、

今日一日のモチベーションを左右する大事な一瞬で、

さとる(あ!実名を明かしてしまいましたが・・)にとっても、

そして私にとっても先生は『かみさま・ほとけさま』でした

なので、本人の顔を直に見ることも無く、

ゼッケンを先生に渡し、しっかりお灸を据えてもらうことをお願いして退散。

皆さんは『かみ』や『ほとけ』の存在をどう受け止めていますか?

我が家では間違いなく目に見えない力の存在を実感していますので、

『かみ』も『ほとけ』もちゃんと側にいると思っています。

「信ずるものは救われる」どんな形であれ、

救ってくれるものがあるということは、心強いですね。

ただし、自分の『救われる』存在を、

自分以外の者に押し付けてはいけないと思っています。

常に自分が自分らしく社会生活できる力の出る源としての存在は