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『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

●演劇鑑賞:『人数の足りない三角関係の結末』/演劇ユニット「 」(かぎかっこ):中

2015年05月31日 00時13分07秒 | ●演劇鑑賞

 

  「エピソード:3」に集約された謎

   【エピソード:3】(父と母と娘との三角形)(註1)には、「結婚式」当日の〈〉(丸尾行雄)、〈〉(酒井絵莉子)、そして〈ななえ)〉(せとよしの)が登場する。「花嫁控室」での “3人のやりとり” をはじめ、「父と娘」、「娘と母」そして「母と父」すなわち「夫婦」間の対話が進んで行く。

   ……と言えば、「嫁ぎゆく娘」と「夫婦」との “感動的な別れ” となりがちだが、一筋縄ではいかないこの「物語」の場合、“3人の間” には複雑な “いきさつ” があった。結論的に言えば、「父と娘」にも、「母と娘」にも、血のつながりはない

   のみならず〉と〈〉にしても、「(ななえ)」の「両親」となるためだけに「夫婦」となったにすぎない。しかも〈〉が「成人」したときに〈〉は家を出、〈娘〉が「結婚」すれば「離婚」するという「契約」が、すでに「結婚」の際になされていたようだ。

   以上の「事実」こそ、この「舞台」の「3つのエピソード」における「最大の謎」となるのだが、実はここでの「(ななえ)」は、「エピソード:2」の「山路)」の「娘」ということが後に判明する。それに加え、“見せかけの夫婦” のきっかけが、「エピソード:1」のドタキャン「料理人」とされた「長良川()」なる “和の鉄人” にあるようだ。ここに来て、ようやく、「3人×3エピソード=9人」+「α」なる「物語」の全容が、一応明らかになる。

        ☆

  独特の「家族の10か条」

  ともあれ、「控室」において、〈〉は〈〉から変態扱いや臭いもの呼ばわりを受けるなど散々な目に遭う。血のつながりのない「父娘」であり、年齢も15、6歳しか離れていない。どうやら「夫婦」は四十台半ば、「娘」は三十路前後のようだが。

   この〈〉は、3人が一緒に住み始めてから半年後、自分の下着が〈〉親の下着と一緒に洗濯されたことで「家出」をした経験を持っている。しかし、このときの「家出」がきっかけとなって「家族10か条」というルールが作られた。

  「ルール」については、〈〉すなわち「花嫁〈ななえ〉」が「披露宴会場」で参加者に語りかけるというスタイルで明かされて行く。この「ルール」はちょっと “泣かせる” ものだが、筆者としては「ルール」そのものよりも、そういう「ルールを必要とした家族」になるまでの“いきさつ”こそ知りたかったのだが。無論、「脚本」自体がそうなっているのだろう。

    「ルール」は変わっている。例えば、“感謝し合わない” とか “ごめんなさいを言わない” というもの。前者は、「家族」であれば “感謝しあう” のが当然であるため、あえて “感謝しあう” という “形式” は不要と言いたいのだろう。

   後者も前者と同じ考え方であり、“謝罪の必要” が生じたにしても、そういう事態は、家族として相手を思っての結果であるため、ことさら “謝罪の言葉” は必要ないという。 

   他の「ルール」として、下着は一緒に洗う。また、2人の喧嘩に残りの1人は加わらない。などだが、この「ルールは〈娘〉が成人になるまで守られることとなる。〈娘〉が「ルール」を紹介し終えたとき、「終幕」となった。

       ☆

 

  手堅い役者陣

   「役者」について述べてみよう。主宰の浜地泰造丸尾行雅の両氏に酒井絵莉子さんという3氏については、これまで何度もその “うまさ” や “凄さ” を見て来たし、今回も文句なしの演技だった。

  しかし今回、同劇団の役者として、初めて石川優衣さんを知った。とてもクリアな通りの好い声の持主であり、落ち着いた演技に好感が持てた。なぜこれまで同劇団の舞台に出演しなかったのか、不思議に思ったほど。

   また「客演」のせとよしのさんは、他大学の演劇部の部員でもあるようだ。今回、「エピソード:3」の〈娘〉役を演じたわけだが、酒井さんの〈母〉と丸尾氏の〈父〉という優れた役者や落ち付いた音響・照明等によって、印象深い演技を見せてくれた。

  それにしても、「エピソード:2」において「先輩OL」を演じた酒井さんは、いつもながらその存在感が凄い。「男」をめぐる「後輩OL」との “女の闘い” を演じたわけだが、“芯からのおんな” を実に “巧みにこなしていた”……というか “ドキリとするほどの女の生々しさ” を表現していた。その “リバタリアン的自然体” が酒井さんの真骨頂。「 」(かぎかっこ)の「旗揚げ公演」や前回の『山脈をのぼる気持ち』での演技同様、眼を見張るものがあった。

   その酒井さんの「先輩OL」役と渡り合ったのが「後輩OL」役の石川さんだった。酒井さん演じる「大阪のおばちゃん予備軍的感覚」に対し、「東京のお澄ましおねえさん的感覚」をうまく表現していた。凄みある低く太い酒井さんの声に対し、石川さんの声は柔らかくて高く、また爽やかなものであり、二人のやりとりは聞きごたえがあった。

   優れた主宰によって集められた役者陣だけあって、さすがである。安心して観ていられるというものだ。続く

             ★   ★   ★ 

 

  ※註1:前回の本稿(上)のあと、公演当日の「プログラム」を劇団員より郵送していただきました。

 それによると、「エピソード:1」は、【鉄人達の三角形】となっており、筆者が記した〈坂ノ上〉は〈坂乃上〉、〈サダコ〉は〈貞子〉となっていました。

 また「エピソード:2」は、【恋人達の三角形】。〈山路〉は〈〉、〈まきえ〉は〈女1〉、〈あい〉は〈女2〉という表記でした。

 さらに、「エピソード:3」は【父と母と娘の三角形】となっていました。今回、その表記に従い、前回本稿(上)に追記しています。


●演劇鑑賞:『人数の足りない三角関係の結末』/演劇ユニット「 」(かぎかっこ):上

2015年05月20日 00時11分48秒 | ●演劇鑑賞

 

    多い登場人物の複雑な関係 

   主宰浜地泰造氏の演出による今回の「舞台」――。演劇ユニット「 」(かぎかっこ)としての3回目の「公演」のようだ。その「案内チラシ」にはこう書かれていた――。※「太字」と「下線」は筆者。

 

   《 フランス料理中華料理和食。 先輩のOL後輩のOL。 3つの三角関係が織り成すそれぞれの悩み。

  3人集まるとつい始めてしまうような相談を、糾弾を、決断をしているだけなのに、この三角関係、何かが足りない足りないものが埋まったときにおとずれるのは喪失再生か。 

  三者三様9つのすがたを、かぎかっこが5人で描きだす。

 

  筆者は、上記の “前説” にタイトル名の『人数の足りない三角関係の結末』を加え、今回の「舞台」の展開を自分なりに想い描いた。古稀まであと2年と十日余の “単細胞系前期高齢型知能” には、ややこしい展開が予想される「舞台」の “予習” は欠かせないのだ。ことに各人物のキャラクターと、人物相互間の関わりなどの “事前整理” は、絶対不可欠といえる。

   そうした備えがなければ、おそらく舞台進行中の筆者は、間違いなく3、4ケタの “フラッシュ暗算” に追いまくられる。備えあれば憂いなし。予習あれば狼狽なし。

   ……のつもりだった。だが「舞台」は、「登場人物・各3人」×「エピソード・3つ」=9人の人間模様という、単純な「掛け算」では終わらなかったのだ。

   実際の「舞台」は、筆者の予測とキャパ(capacity)を超える “謎と推理に充ちた世界” となった。その “実態” を解き明かすためにも、「舞台」の全容を眺めてみよう。といっても、筆者自身、正直言って細部については、聞き洩らしや見落としがあるようだ。筆者は観劇中も多少メモを取ってはいるものの、無論、必要 最低限なものでしかなく、いつも苦労している。

         ★

  「舞台」すなわち『人数の足りない三角関係の結末』(作/大根健一)は、“時間・空間的に異なる” 3つの「エピソード」からなっている。だがこれら「3つ」は、一見、“脈絡もない” ような “ふり” をしながら、その実、“オムニバス的” に繋ながっている。上記の「前説」をもとに、それら3つの「エピソード」をまとめてみると……。

 

  TV番組を支える“裏事情に裏の顔”―エピソード:1

  【●エピソード:1】は、かなり昔に人気を博した『料理の鉄人』を想わせる設定だった。かれこれ20年前から10数年前まで、筆者は結構この番組を観ていた記憶がある。別に「料理」に興味を持ったからではなく、裏方の「料理人」を「エンターテイナー」として表舞台に登場させた番組作りのオリジナリティに惹かれたからかもしれない。「料理の鉄人」達を紹介する “鹿賀丈史のエンターテイナーぶり” も見事であり、不思議なリアリティと快感をもたらしていた。

   それはともかく、今回の「舞台」では「3人」の「料理の鉄人」……っぽい人物が登場する。「フランス料理」の〈坂ノ上〉(浜地泰造)、「中華料理」の〈〉(丸尾行雅)、「和食」の〈サダコ〉(石川優衣)。

   この【●エピソード:1】は、表向き華々しい「テレビ番組」の “舞台裏” を “覗き趣味的” に見せながら、その実、「人物3人」の“裏の顔や裏事情”を、“覗き込む” ように明らかにして行く

   鼻もちならない感じで、キャバクラ好きという〈坂ノ上〉。いかにも中国人が話しそうな日本語を、たどたどしく “きめてみせる”〈〉。本来は普通の食堂のオーナーである〈サダコ〉。彼女は今回、同じ「和食」の女鉄人〈長良川(ながらがわ)〉のドタキャンのため、急遽「代役」として頼まれたという。

   3人はそれぞれ「番組プロデューサー」との打合せということで、一人ずつ「舞台」から立ち去る。ということは、「坂ノ上と陳」「陳とサダコ」「サダコと坂ノ上」という “3とおりのデュオ” 状態が生まれる。そのような状態では “席を外している一人” に対する “残った二人の精神的優位性”が働きがちだ。そのため自然な成り行きとして、“欠席裁判的な悪口” や “眼の前の二人なればこそ” の “取引” や “駆け引き” も生まれる。

   この3人もその例に漏れないのだが、実は、〈坂ノ上〉と〈陳〉とは〈サダコ〉の前では不仲を装ってはいるものの、どうやらそれは番組構成上の演出と思われる。つまりは “つるんで” おり、実際には「坂ノ上・陳」の連合と「サダコ」との「2:1」の闘いとなる。だが、“或る予想外の出来事” によって、真っ当なクッキング・ファイトとなりそうだ。

              ☆   ☆

  漂流する三角関係―エピソード:2

   【●エピソード:2】は、海を漂流中の「人の女」と「」の計3人が登場する。3人は同じ会社に勤めている。「女」2人は先輩の〈まきえ〉(酒井絵莉子)と後輩の〈あい〉(石川優衣)であり、この二人は〈山路〉(浜地泰造)に “二股” をかけられている。つまりは、“三角関係の社内恋愛” というわけだが、〈山路〉は離婚経験者であり、〈ななえ〉という名前の少女がいるようだ。          

   なぜどのような経緯で漂流するようになったのかは不明だが(筆者の見落としや聞き損ないかもしれないが)、とにかく海の上で「3人だけの生活」を送っている。いや、何とか生きている。そうではあっても、〈山路〉を巡る女二人の “闘い” は凄い。この「二人の女」の間に挟まれた〈山路〉にとっては、“二重の漂流” というべきだろうか。“海” と “女の嫉妬” という。にもかかわらず〈山路〉は、“無人島に着いたら、二人の女にばれないよう二人と付き合って行こう” との夢想を抱いている。

   だが、そんな〈山路〉のユートピアン的ロマンチシズムなど軽~く吹き飛ばす女二人の “生命力” 。……というか “生理学的女子力” は凄い。この期に及んで〈山路〉に “子作り” を迫るため競い合おうとしている。女同士の見栄やハッタリ、意地や憎悪とはいえ、“生身の女性の産みの執念” のようなものがふっと頭を掠めた。

   “産む性” の “産める強さ” というものだろうが、この面での “性の強さ” があるかぎり、男は太刀打ちできない。ともあれ、そのように想起させる「酒井・石川2女優の “女のやりとり” に凄みを感じた。それは言うまでもなく「脚本」の勝利でもあるのだが。

   “嫉妬” と “執念” と “闘争” においてパワーザップする二人の女とは逆に、パワーダウンしていく男……〈山路〉。彼は「再就職」を果たして東京にいるはずだったとの想いに囚われている。そうした中、“逞しい女二人の中で、〈山路〉はある決心をする

   “自分がいなくなった後、ゆっくり話し合うこと” を二人の女に言い残し、海に消えて行く。だが、女二人の漂流は続く……。 [続く]

 


●演劇鑑賞:『段ボール少女』(九州大学演劇部)

2015年05月09日 00時00分54秒 | ●演劇鑑賞

 

  創造的な舞台空間の拡がり

  「九州大学・伊都キャンパス」内での「演劇会場」といえば、いつも「学生支援施設」の一室(音楽室?)となっている。それを「舞台」ごとに工夫しているようだが、いつも異なったセットに仕上がっている。何でもないことだが、これだけでもかなりのエネルギーと工夫とが求められるはずだ。

  もっともそこに、「演劇」にかける学生諸君の熱い想いやエネルギーが感じられる。と同時に、「演劇舞台」と言う名の「創造空間」の可能性が拡がりを見せてもいる。今回も〈段ボール少女〉を象徴する世界が、間口約5間×奥行約2間ほどの「舞台」のほぼ半分に、さまざまな大きさの「段ボール」を配して描かれていた。 

  今回の作品は、「九州大学演劇部」のオリジナル脚本らしく “社会的メッセージ性” が強い。『陰湿クラブ』(作・演出:山本貴久)の「演劇鑑賞」(4月17日)でも述べたように、学生諸君にはこのような「精神性の高い作品」創りに、もっと挑戦して欲しい。               

       ★

  さて今回の「物語」は、一応「幼児虐待」を題材としているが、作者の “本当の狙い” はどれだけ言い尽くされただろうか。残念ながら、それがうまく伝わらなかったのは、やはり「50分何がしの時間」では足りなかったからだろう。今思うに、「舞台」の冒頭からいきなり〈恭子〉を登場させていたらどうだったろうか……。いやそれでも……やはり……と、帰り道にそんな想いが脳裏を掠めた。

   しかし、誰よりも「作・演出」担当の「田中利沙」嬢自身が、“言い足りなさ” を一番よく感じているはずだ。そう思うと、今回の「作品」は大きな試練そして財産として残ったに違いない。

  といっても、「作品」自体がしっかりしているため、「キャスト」の熱演をうまく引き出すことができたわけだし、「音響」や「照明」等の「スタッフ」にしても、優れた企画・技術力を十二分に発揮していた。そのため、最低限の “作者の狙い” は何とか伝わったと言えるだろう。

       ☆

   「物語」は、〈恭子〉(竹ノ内晴奈)という「謎めいた19歳(?)の乙女」と〈斎藤〉(板橋幸史)という刑事部から転属して来た「警察官」を中心に進んで行く。〈恭子〉はある日突然、〈斎藤〉のアパートに現われ、『匿ってくれ』とそのまま強引に居着くわけだが、何処からどのようにして入り込んだかは謎に満ちている。状況からして、明らかに “家出少女” ではあるものの、真実はファジーとなっている。ただ〈恭子〉には不思議な力があり、『変な声が聞こえてくる』という。

   一方、〈斎藤〉は先輩婦警の〈世良〉(村上悠子)と組んで、「児童虐待」のおそれのある家庭を調査監視のために訪問している。ある日、訪問した一軒の家で、〈きょうこ〉という「3歳の女児」の死に出会う。〈斎藤〉の眼には、「段ボール」の中に排泄物と一緒に横たわる女児の「遺体」が横たわっていた……というのだが。

   ……わずか3歳で生涯を終えた〈いとう きょうこ〉という幼児。一方、部屋に散乱した「段ボール」を片付け、別の「段ボール」に何かを詰めて〈斎藤〉の部屋を出て行こうとする〈恭子〉。彼女の「苗字」を糺そうとする〈斎藤〉に、〈恭子〉は〈さくらい〉という苗字を告げる。そして、「お見合い結婚」から逃げるためだったと言い残し、大きな「段ボール」を引き摺りながら出て行く。 ――終幕。

   なかなか素晴らしい演出・演技の「ラストシーン」だった。やや大げさな言い方だが、この「ラスト」によって、前述した “言い足りなさ” がかなり救われたと言える。

       ★

 

   繋がっている “生” と “死”

   「ラストシーン」は、「段ボール」の中で “死” を迎えた〈きょうこ〉と、これから「段ボール」を引き摺りながらも “生きて行かなければならない” 〈恭子〉とを対照的に描きながら、結局、〈きょうこ〉も〈恭子〉も “受け入れられなかった” と、一応そのように言いたいのかもしれない。

   しかし、この「ラストシーン」の本当の狙いは、〈きょうこ〉という3歳の「死者」と、〈恭子〉という19歳の「生者」とが、ようやく “ここに来て繋がった” ということだろう。と言っても無論、両者は「別の人間」であり、「別個の人格」だ。

   それぞれが、明らかに “別の親” と “別の家庭環境” の中で生き、“その親や家族の愛情を受け” ながら、“喜びや悲しみ” を共有し、ときには “憎悪や虐待” の対象となったのだろう。その結果、一方は “命を落とし”、他方は “何とか生き続けた” と言うことなのだろうか。

   〈恭子〉が《段ボール》を引き摺りながら〈斎藤〉のアパートを跡にする「ラストシーン」は、確かに〈恭子〉が  “受け入れられなかった” ことを示している。もちろん “受け入れなかった” のは、「家庭」であり「社会」であり、警察官の〈斎藤〉が象徴的に示す「秩序」というものだろう。

   しかし、“生命力の逞しさ” を感じさせる〈恭子〉にとって、それらによって “受け入れられなかった” ことなど、いかほどのものだろうか。彼女にしてみれば、それらは “いとも簡単に自分の方から拒否できる” ものではないだろうか。“どんなことをしても、自分一人で生き抜いて見せる” と言わんばかりの、強さと執念とを感じた。

   〈恭子〉が引き摺って行った《段ボール》は、彼女の “溢れる生命力と未来の生” を象徴すると同時に、〈3歳で死を迎えた女児〉の “死の時空” を象徴してもいる。筆者の推測だが、作者が本当に言いたかったのは、“時空を超えた死と生” を “アウフヘーベン(止揚)する生” といったものではなかっただろうか……。そんな気がしてならない。そう感じさせたのも、二十歳にも満たない〈恭子〉の空恐ろしいほどの “逞しさ” と “希望” にあった。

   それにしても、〈恭子〉役の「竹ノ内晴奈」嬢は、なかなかの熱演だった。〈恭子〉は、“生をまっとうしえなかった”〈きょうこ〉を背負っているかのようであり、そのように感じさせる演技には、鬼気迫るものがあった。無論、相手役〈斎藤〉の「板橋幸史」氏も好演だった。    

            ★

 

  いっそう洗練された「音響」と「照明」

   今回の「舞台」は、とにかく「竹ノ内晴奈」嬢の「音響効果」と「兼本俊平」氏の「音響操作」が素晴らしかった。「クラッシック曲」をベースとした「音響効果」すなわち「音」の「企画デザイニング」が、物語の性格や展開にとてもよくマッチしていた。

   何よりも、その優れたデザイニングを、絶妙なタイミングと音量によって創りだしたオペレーターの兼本氏の功績であろう。

   優れた感性とイマジネーションの二人にして初めて可能であり、筆者が理想と考えるものに近い。無駄な「音響継続の時間」もなく、「音量」もとても心地よいものだった。どうりで、〈恭子〉がいっそう魅力的なキャラクターになったはずだ。

  また地味ながらも、「寺岡大輝」氏の「照明効果」に、「伊比井花菜」嬢の「照明操作」もよかった。派手な色彩照明など不要だ。優れた「照明効果」や「照明操作」は、「音響効果」や「音響操作」と相互に響き合っている。今回の「舞台」は、それをさらに強く確認させてくれた。

   最近の「九州大学演劇部」の「音響」や「照明」は、ぐんとそのレベルを上げたような気がしてならない。あの「海峡公演」の『桜刀』以降、特にそう感じる。

 

 【キャスト】  板橋幸史(斎藤)、竹ノ内晴奈(恭子)、村上悠子(世良)、寺岡大輝(田島)、中山博晶(おじいちゃん)、田中利沙(女)、石川悠眞(男)。

 【スタッフ】 中山博晶(装置)、寺岡大輝(照明効果)、伊比井花菜(照明操作・宣伝美術)、竹之内晴奈(音響効果)、兼本俊平(音響操作)、村上悠子(小道具)、田中利沙(衣装)、板橋幸史(制作)。 以上の諸氏諸嬢。

       ★

  作者「田中利沙」嬢の非凡な才能を感じる作品だ。筆者の余計なお世話かもしれないが、機会があれば、本作に手を加え、90分くらいのものにしてみたらどうだろうか。このままではとても惜しいような気がしてならないのだが……。

  ともあれ、「作・演出家」以下、この舞台の「キャスト」&「スタッフ」各位に敬愛と感謝の意を表したい。

 


●演劇鑑賞:『真っ黒サンタとまっしろ少女』他(福岡大学)

2015年05月02日 00時00分47秒 | ●演劇鑑賞

 

  「福岡大学演劇部」の今回の舞台公演は、30~35分の作品が3本だった。

  第1作は、「麻生悠花」嬢の作・演出による『opfer』。「タイトル」名は、「ドイツ語」の「生贄」や「犠牲」といった意味のようだ。神への「捧げ物」といったニュアンスを指しているのかもしれない。

  第2作は、「馬場佑介」氏の作・演出の『ゴジラが消えた日』。「ゴジラ」と渾名された松井秀喜選手に対する野球少年の想いを綴っている。

  第3作の『真っ黒サンタとまっしろ少女』も同じ馬場氏による作・演出。なお同氏は、全体の演出も担当した。第3作において、馬場氏は主人公の泥棒(真っ黒サンタ)を演じたわけだが、同氏なりの強い想い入れを感じた。

             ★

    しかし「3作品」とも、正直言って心に迫るものに乏しかった。作者が “言わんとしていること” がよく解らなかったからだろうか。「演出の言葉」から察するに、おそらく “作者の狙い” は、いずれの作品とも難しく考えずに物語をそのまま面白く感じてくれたら、ということなのかもしれないが……。

 

   音響過多と過剰音量に懸念

   しかし、「内容」よりも筆者が気になったのは、「音楽の多用過剰な音量」であり、「役者」の演技や台詞の魅力を損ねたことにあった。さまざまな「楽曲」をたて続けに流すため、必然、「舞台」に落ち着きがなくなり、役者の「台詞回し」をはじめ、その「動き」や「表情」をじっくり味うことができなかった。

   「演劇」において、役者の「台詞回し」や「声」に勝る「音楽」や「音」が他にあるだろうか。不要不急な「音響」によって、「舞台の進行」が追い立てられたような気がしてならなかった。この「音響問題」は、ここ数年の同大演劇についていつも感じる。

   初心に返って他劇団との比較検証を行い、 “役者の魅力を引き出す音響” を心がけて欲しい。……とここまで書いて来て、筆者は昨年12月27日に綴った『2014福岡都市圏の学生演劇を観終えて:下』を想い出した。その中で、同大演劇部の『天使は瞳を閉じて』に対する演劇評の最後に、以下のような一文を加えた。「原文」のまま再掲してみよう(太字も下線も)。   

    ★★「ミュージカル」や「音楽劇」ではない普通の「舞台」において、「音楽」や「音量(ボリューム)」は、ただひとえに「役者を活かすために存在する。それらは、「役者の台詞回し」を、すなわち「役者」の “言葉や声” を魅力的かつ効果的にするための補助手段にすぎない。

   逆な言い方をするなら、「役者」の “演技” や “台詞回し” の魅力を損なうものは、総て排除しなければならない。

    「舞台」から「音楽」や「効果音」を取り去っても、さらには「舞台美術」や「小道具」や「衣装」や「照明」を取り去っても、「役者」が存在する限り「舞台」は成立する

   ……「舞台演劇」における “絶対不変の原理” とも言えるこの意味を、演劇に携わる人々とともに、今ここで再確認したいと思う。★★

        ☆  

   「舞台演劇」については、「人」それぞれ、「学校」そして「劇団」それぞれの考えがある。とはいえ、そこには「舞台演劇」という表現形式が歴史的に背負って来た節度が求められる。無論、同大演劇部はそれを承知の上での「舞台創造」、すなわち「演出・演技」そして「音響」等なのだろうが……。

   今回の公演において、同大演劇部が作成した「新入生」向けの「演劇部・案内パンフレット」の表紙には、“演劇とは、皆で一つの作品を作り上げる総合芸術”という大きな文字が目を引く。この場合の「総合芸術」という意味を、もう一度 “演劇の原点” に立ち返って考えて欲しい。

 

   【キャスト】 ◎『opfer崎戸優弥(王子)、泉加那子(エリナ)、岩下祐里奈(魔法使い)、山中悠史(蛇)、松田隆寛(吟遊詩人)、山口奈子(教師)。 ◎『ゴジラが消えた日』岩下祐里奈(青年期のタケル)、大野日向子(少年期のタケル)、藤駿太郎(父親)、山中悠史(大和)、上村由美子(マネージャー)、馬場佑介(審判)、関大祐(相手ピッチャー)。 ◎『真っ黒サンタとまっしろ少女』馬場佑介(泥棒=真っ黒サンタ)、泉加那子(まっしろ少女)、関大祐(父親)、眞鍋朱里(母親)。

   【スタッフ】 岩下祐里奈舞台監督・衣装メイク)、麻生悠花舞台)、安田和輝(同)、馬場佑介(同)、河口愛(同)眞鍋朱里(同・記録)、野間直人(同・小道具)。山口奈子照明)、武藤君佳(同)、水谷耕(同)、関大祐(同)。藤駿太郎音響)、上村由美子(同)、西田尚史(同)、崎戸優弥(同)、矢山康哲(同)、藤岡美有(同)。大野日向子衣装メイク)、田中悠希(同)、奥水真美(同)、長谷川太一(同)、入江好海(同)。泉加那子制作)、松田隆寛(同)、荻迫由衣(同)。 以上の諸氏諸嬢。

  


●演劇鑑賞:『うちに来るって本気ですか?』(西南学院大)

2015年04月28日 00時09分42秒 | ●演劇鑑賞

 

 3大学の「新入生歓迎公演」

  4月4日(土)の「西南学院大学」、同9日(木)の「福岡大学」、そして21日(火)の「九州大学」(伊都・箱崎キャンパス)と、3校の「新入生歓迎公演」の「舞台」を観た。

  この時季、各校の「演劇部」は「新入部員募集」のための「舞台公演」を行う。そのため、上演作品は “親しみやすい作品” を選ぶようだ。今回は、「西南学院大学」を取り上げてみたい。

        ★ 

  「西南学院大学演劇部」といえば、何と言っても昨年の「新入生歓迎公演」のdecorettoのインパクトが強い。このときの「秀島雅也」氏をはじめ、「平川明日香」嬢や「宮地桃子」嬢の優れた演技は、今でも印象深く甦って来る。ことに今回の「舞台」で「主役」を務めた宮地嬢については、その演技の上手さや感性の豊かさに驚愕したほど。そのことは、本ブログにおいてかなり力を入れて綴った。

   さて、今回の『うちに来るって本気ですか?』(作:石原美か子)は、「田中里菜嬢が「演出」している。作品内容は、“コミカルなファミリー劇” であり、娘2人に息子3人という「5人の兄弟姉妹」の青春の一端を捉えている。三十路目前の長女の「結婚相手」の訪問を巡る、“ややドタバタ調” の「喜劇」ということになろうか。

  その長女〈縁(ゆかり)〉を演じたのが「宮地桃子」嬢。筆者としては、彼女の “コミカルな役” は初めてだった。彼女が「名優」であることは今さら言うまでもないが、他の役者諸君にしても丁寧な「役作り」をしており、演技には好感が持てた。

   同大演劇部特有の「キャスト」と「スタッフ」のバランスがとれた舞台であり、いつもながらの “節度ある演出・演技”、そして “音響・照明の企画・操作” だった。これといった “欠点” も “矛盾” もなく、“安定” した「キャスティング」であり、また「スタッフ」の高い技術力と言えるだろう。

 

  喜劇への“とまどい”?

   しかし、そうではあっても “物足りなさ” が残ったのはなぜだろうか。といってそれは、「物語の内容」や「特定シーン」に「問題」があったわけではない。筆者がそのように感じた最大の理由は、「演出家」や「役者諸君」が、“喜劇というものにとまどっていたのでは?” という疑念だった。

  この “喜劇への対応” というテーマは、「学生演劇部」や「アマチュア劇団」が抱える “大いなる弱点” と言ってよい。つまり、それだけ “コミカルな表現の課題” は懸念事項であり、筆者も一度きちんと話をしておきたいと思うに到った。とはいえ、この「課題」については「別の機会」に論じてみたい。

       ★

 

  客席指定は柔軟に 

  ついでといっては何だが、“もうひとつ” 気になったことがある。それは「観客」に対する「座席の指定」が、少し“固定化” しすぎるように感じられた点だ。「会場」左右の「列」の制限はある程度納得できるにしても、「通路」を挟んだ「前列」をそっくり「着席不可」としたのは、正直言って疑問が残った。 

  確かに、「舞台より後ろに下がって観る」方が、万遍なく全体を見通せるとの親心なのだろう。無論、その気持ちはよく判る。しかし、“生の演劇舞台” の魅力は、“どの「座席」(位置)から観て” も、それはそれで “観客自身が自己の視界の及ぶ世界” として “選択する” ものでもあるからだ。そこに、テレビドラマや映画では得られない、“生の舞台のダイナミズム” が、そして “その無限の変化を秘めた魅力” がある。

   「座席制限」を「食材」に譬えるなら、『ここの部分はおいしくないので、お出しせずに廃棄処分にいたします』と言われているようなもの。しかし、“食通の客” にすれば、まさにその “廃棄処分の部位” を味わいたいのだ。

   筆者は、「河豚の肝」を口に入れようとは思わないが、“舞台観客席の肝”は望むところだ。筆者にとっての “生の舞台” の魅力とは、極力、役者と接近した中で “役者の眼を中心とする顔の表情” をつぶさに観ることにある。「役者の眼や顔全体の表情」ほど、“役者が演技をしている部分” はないし、この「顔の演技」にこそ、役者の善し悪しのほとんどが言い尽くされている。

  【キャスト】 ●御殿場家:宮地桃子(長女:縁)、鼻本光展(長男:太一郎)、桝本大喜(次男:真琴)、讃井基時(三男:忍)、古賀麻友香(次女:百子)、 ●岸川織江(蝮田聖巳)、井口敬太(相良不見夫)。 

   【スタッフ】  田中里菜(演出・宣伝美術)、高倉輝(助演・小道具・衣装メイク)、尾野上峻(大道具・照明)、讃井基時(大道具・照明・舞台監督)、瀬川聖(大道具・小道具)、桝本大喜(大道具・制作)、森健一(大道具・制作)、岸川織江(小道具・音響)、宮地桃子(小道具・衣装メイク)、古賀麻友香(小道具・照明)、新ケ江優哉(小道具・音響・宣伝美術)、加藤希(音響・照明)、花浦貴文(音響・照明)、井口敬太(音響・制作)、藤野和佳奈(照明・衣装メイク・制作)、鼻本光展(衣装メイク・宣伝美術)。 以上の諸氏諸嬢。

       ★   ★   ★  

 ※演劇ユニット「 」(かぎかっこ)の『人数の足りない三角関係の結末』の「演劇鑑賞」は、次回の「福岡大学」、次々回の「九州大学」が終了した後に予定しています。


●演劇鑑賞:『陰湿クラブ』(「陰湿集団」旗揚げ公演)-(下)

2015年04月17日 00時01分23秒 | ●演劇鑑賞

  

 「舞台」と「観客席」との一体化 

   今回の「舞台」については 、“会場の狭さ” を巧みに活かした創意工夫にも感心した。「作・演出家」自身が「舞台美術」を手掛けたのは、そういう思惑があってのことだろう。「舞台」が始まった当初はそれほどでもなかったが、「物語」が進むにつれて、“この会場にして、この物語舞台あり” と納得がいった。

   「舞台」の特徴は、“会場の狭さ”を逆手に取り、“舞台と観客席とを一体化” させたことにある。ただでさえ “狭い会場” の “真ん中辺りを舞台部分” とし、この「舞台部分」を “両脇から挟むように観客席部分” を設けた。

   そのため、「演じる役者」にとっても、それを「見守る観客」にとっても、この「物語」が描こうとする “陰湿感” や、その “陰湿感” がもたらす “閉塞感” をいっそう強く “共有” できたような気がする。

   それに加え、「舞台」を挟んで “二手” に分けられた「観客」は、いつしか「舞台という世界」が繰り広げる “陰湿な世界” の「傍観者」に祭り上げられている。それも単なる「傍観者」ではない。“二手に分けられた「傍観者」(=観客)” は、あたかも “相互に監視” させられているかのようだった。

   筆者は「舞台部分」に眼を向けながらも、否応なく視界に入る「舞台向こうの観客(10人)」に対し、『舞台をちゃんと受け止めているだろうか』と、ときおり「表現者側」の気持ちになることもあった。「舞台向こうの観客」も、同じような気持ちを抱いたかもしれない。 

   ……いや、いや。「観客」は、“相互に監視し合う傍観者” どころではなかった。ときには、「同調者」や「支援者」、さらには「加害者」や「被害者」となっていたのかもしれない。「座席」が「役者」と身体が触れ合うほど近いため、“観客席に座っている” というよりも、“役者の一人として舞台の端に構えている” ……と錯覚する一瞬もあったほどだ。

   そのため、 「観客」として眼の前の「役者」を “観る” と言うことは、「観客」自身が「役者」から “見られている” ということでもある。無論、「観客」が「役者」を “観る” 場合との質的な違いはあるにしても、 “役者の眼差しの中に据えられている” という “実存感” は、「観客」の心の底に深く刻まれたに違いない。

   『……あのとき、自分は何の役を演じようとしていたのだろうか?』……と。その “実存感” こそ、“陰湿たるもの” に対し「傍観者」のままであってはなならないという「メッセージ」でもある。そう感じさせる「舞台会場の空間」であり、「演技・役者」であり、「演出」であり、「脚本」ということになろう。

        ★

 

  頼もしい “若者たち” の闘志

  今回の「公演」は、劇団「陰湿集団」の《旗揚げ》となった。作・演出の「山本貴久」氏をはじめとする「キャスト」や「スタッフ」は、そういう覚悟をもって本作の舞台づくりに臨んだようだ。山本氏は、公演当日の「プログラム」の「演出の言葉」の中で、こう述べている。

 

   『……脚本を、陰湿集団で演劇をする者として、また、日本に生きる1人の若者として、書かせてもらいました。…(中略)…舞台と客席の境目は、決して現実と非現実の境目では無いと、僕は思うのです……』(※註:「太字」は筆者)

 

   “日本に生きる1人の若者として” という一語が頼もしい。無論、この「言葉」は、山本氏だけのものではなく、キャストの「白居真知」氏、「丸尾行雅」氏、そして、「長野真結」嬢や「三留夏野子」嬢のものでもあろう。

   何と言っても、「役者」5人の「台詞回し」や「演技」が活き活きとしており、観客の全身にビシバシ沁み込んできた。「役者」として見ても、これまで以上のレベルを感じたわけだが、その一方、彼等自身 “本当にこれでいいのか?” という “戸惑い” があったかもしれない。

   その “戸惑い” は、「スタッフ」として関わった「照明」の「伊比井花菜」嬢、「音響」の「竹田津敏史」氏、そして「宣伝美術」の「本村茜」嬢にしても同じではなかっただろうか。

   確かに、“意味や展開が不明な部分や疑問点” がなかったと言えば嘘になる。しかし、それは「舞台を創造する側」と「受取る側」との “立場の違いから来る解釈のズレ” と言う程度のものだった。だからこそ「彼等」と「観客」とは、互いに “舞台と客席の境目は、決して現実と非現実の境目では無い” という確信を共有することができたと思う。

   『陰湿集団』の「プロフィール」は語る――。

 

  九州大学演劇部OBを中心に結成された陰湿な劇団。日々、まがりくねったものをもとめて活動中。

 

  青年らしい含羞と、静かな闘志が含まれている。彼等に敬意を表し、筆者も “日本に生きる1人の大人として” 次に彼らが “晒してくれるであろう陰湿なるもの” を受け止めることにしよう。それとともに、身の回りの “陰湿なるもの” に絶えず眼を向けたい。そのことは、必然、筆者自らの “陰湿なるもの” を直視することでもある。

        ★   ★

   今回、筆者が改めて確信したことがある。それは「演劇という表現」は、単なる “娯楽” に留まらず、今回のような堂々たる “社会的メッセージ” を伝えうるということだ。

   もっともっと、こういう  “若者や学生だからこそ為し得る” 作品を望みたいし、学生諸君には果敢に挑戦して欲しい。 それが結果として、“あるべき人間としてのsomething” となれば……。

             ★

   【キャスト】:白居真知、丸尾行雅、山本貴久、客演(2人):長野真結、三留夏野子。 

   【スタッフ】:舞台美術:山本貴久、照明:伊比井花菜、音響:竹田津敏史、制作・衣装:白居真知、宣伝美術:本村茜、宣伝美術イラスト:丸尾行雅。……以上の諸氏諸嬢。

   今回の『陰湿クラブ』は、豊かな感性と想像力に支えられた質の高い作品だった。「音響」や「照明」のプランや操作も、節度をもったものであり、小さな会場の不自由さの中で、意欲的な試みも感じられた。

   また今回の「案内チラシ」その他の「丸尾行雅」氏のイラストやデザインも素晴らしい。この小さな紙幅の中に、“哲学性豊かな世界観”が拡がっている。プロ級の実力を備えているのではないだろうか。

       ★   ★   ★

  『陰湿集団』の優れた「旗揚げ公演」を心から祝福するとともに、団員各位の感性と創造性のいっそうの研鑚に期待したい。(了)

 

 


●演劇鑑賞:『陰湿クラブ』(「陰湿集団」旗揚げ公演)-(上)

2015年04月14日 03時16分22秒 | ●演劇鑑賞

 

  「案内チラシ」は、『陰湿クラブ』についてこう語る――。

   《「陰湿クラブ」? 子どもたちの間で流行っているらしい。姿を見せず、痕跡を残さず、自らの手を汚さずに悪事を働く。……本当にそんなものがいるのか? それは強い? それとも弱い? 少ない? そもそも何の為にいる? ……あ、「陰湿クラブ被害者の会」始めたんですけど、入ります? 今なら事前の申し込みで入会無料キャンペーン中。傍観者大歓迎。》 (※註:「太字」や「下線」は筆者)

 

   上記「太字」の「キーワード」を整理すると――、

   第1は、『陰湿クラブ』という “陰湿な加害主体” (=加害者)。第2は、その “被害者及びその関係者” (=被害者)である『陰湿クラブ被害者の会』。そして第3は、以上「当事者」(加害者・被害者)に対する『傍観者』(第三者)ということになろう。

   今回の「舞台」は、“学校でのイジメ” を “テーマ” としているかのように見える。そうなれば、「いじめる子」に「いじめられる子」に「見て見ぬふりをしている子」となり、「加害者」、「被害者」そして「傍観者」が、一応揃うことになる。

   しかし、ここでの『陰湿クラブ』とは、実は “世の中” に蔓延(はびこ)る “およそ陰湿なるさまざまな意識(思想や考え)や行為(行動や事件)” を示唆している。“世の中” の部分に、“地域社会” や “日本” さらには “国際社会” といった言葉を当てはめて考えるとよく解る。中には “陰湿” のレベルを超え、“陰険” や “陰惨” といったものもあるようだが……。

        ★

   だが、これら『陰湿クラブ』の「関係者」は、「加害者・被害者・傍観者」の「三者」に留まらず、「同調者」や「支援者」などが複雑に絡むこともあるだろう。のみならず、「A」と言う『陰湿クラブ』の「加害者」が、「B」においては「被害者」となり、また単なる「傍観者」ということも考えられる。さらには、「C」なる『陰湿クラブ』の「支援者」や「同調者」が、いつの間にか中心的な「加害者」に……といったことも起こり得る。

   “ややこしい人間関係の相克”によって創りだされ、変化し、消滅していく “陰湿なるもの” ……。それはまた新たに創りだされ、変化し、消滅……を繰り返して行く。「人間社会」が営々と引き継がれるということは、“人間の本質” でもある “陰湿なるもの” と向き合うということかもしれない。いや……待ったなしに、向き合わざるをえないというところだろう。

   たえず “陰湿な意識(思想や考え)や行為(行動や事件)” に眼を光らせ、遅きに失することなく立ち向かうように……この「物語」は、そう投げかけてもいるようだ。

   もっと突き進めて行けば、“人間として生きる” とは、気付かないうちに “自分自身” が、“姿を見せず、痕跡を残さず、自らの手を汚さずに悪事を働く存在” になりうる可能性があるということかもしれない。同時に、自分の身の回りのそのような存在を “安易に許してはいないだろうか” と問いかけることでもあるようだ。

         ★

   今回の「舞台」は、“学校でのいじめ” という “ありきたりのテーマ” を展開しながらも、どことなく “現象学” や “実存主義”の雰囲気、それに “詩情” を漂わせてもいる。

   そのように感じさせた最大のポイントは、まずは高い問題意識に裏付けられた優れた「台詞」にある。次に演技における所作や小道具の使い方に、新しい試みが感じられたからだろう。舞台の場面転換に “ぎこちなさ” があったのはご愛敬としても、 “実験的な試み” という演出や演技の熱い想いは、充分伝わって来た。

   “今この瞬間に生き、この瞬間にしかできない何かを為す……” 。「作・演出家」をはじめとする「キャスト」や「スタッフ」の “意識” を強く感じた。彼等は「演劇舞台」の創造者である前に、自らの “五感” や “認識判断” を鼓舞させながら、懸命に “得体の知れない世の中の陰湿なるもの” と闘っているかのようだ。 

   しかし、我々が生きている “今この瞬間に存在する陰湿なるもの”、すなわち『陰湿クラブ』とは、“その真の正体” とは、いったいどのようなものだろうか。……あれだけ “真実を追究しよう” と懸命に立ち廻った「主人公」の「ジャーナリスト(記者)」は、その本質を掴みえたのだろうか……。 

        ★

   今回の「舞台」は、正直言って “世界の陰湿さ” という捉え難いテーマに、多少競り負けした感は否めない。と言うより、この “あまりにも大きく、あまりにも強い、そしてあまりにも捉え難い本質” など、所詮、“容易に捉えることなどできなかった” のだ。

   無論、そのことは「作・演出家」も「キャスト・スタッフ」も百も承知であるわけだが、食らいつくことを諦めてはいなかった。そこに “青春の力強さと潔さ” を感じた。安易に妥協せず貪欲に“高み”を目指そうとする彼等の “覚悟” が、“まがい物でなかった” ことは確かだ。

   筆者は彼等に対し、将来へ向けた “救いと可能性” を強く感じることができた。その証というほどではないが、帰り際、傍にいた山本・丸尾の両君に握手を求め、気持ちよく家路に就くことができた。 (続く)

 

                                                                                                          

 


●演劇鑑賞『幸せはいつも小さくて東京はそれよりも大きい』/九州大学大橋キャンパス

2015年04月04日 01時28分51秒 | ●演劇鑑賞

 

  ● 幸せはいつも小さくて 東京はそれよりも大きい

●原作:広田淳一 ●脚色・演出:廣兼真奈美 ●助演:井料航希、遠藤智 

●九州大学:大橋キャンパス演劇部

 

   終始、気になった“絶叫”口調

   この「舞台」については、“絶叫” 感覚の「台詞回し」がずっと気になって仕方がなかった。〈役〉の特徴を出すためかもしれないが、 “耳触り” な感じが抜けないまま舞台は終わった。他の役者の優れた台詞回しや演技がいくつもあっただけに、残念でならない。

  無論、「絶叫調」の総てを否定するつもりはない。しか し、「ごく普通の会話」において、「絶叫調」で喋らなければならないケースというのは、果たしてどれだけあるだろうか。 “不自然かつ不要不急な絶叫場面” が目立ったことは否めない。

       ★

  「絶叫調」の「欠点」とは、次のようなものだろうか。

 1.“絶叫調” の「台詞(言葉)」は、とにかく “聞き取りにくい”。その上、台詞が “絶叫調という画一化された響き” のため、その役者は無論のこと、相手役者の “真の感情や意識” も当然伝わりにくい。そのため、舞台上の役者のやりとりが判然としないまま、 “未解答のフラッシュ暗算問題が、頭の中にどんどん溜まって行く” ような気分だった。 

 2.“絶叫調” は、とかく “不自然でオーバーな表現” となりやすい。そのため、「その役者」だけでなく、その「役者」と絡む他の「役者」の「台詞内容」や「演技そのもの」も “リアリティ” が奪われがちとなる。

   「舞台」は、白色系で統一した素晴らしい背景、そして大道具、小道具だった。本来、そこから少しずつ生み出されて来るはずの “繊細な感性による想像の世界” が、あれよという間に萎んでしまった感がする。何とももったいない話だ。

       ★

 

  「演劇」という“作り物”が生み出す……

   思うに、人が「舞台演劇」に惹かれるのは、眼の前で「役者」達が繰り広げる “フィクション(作り物)の世界” を、少なくとも「舞台が進行している間」(=幕が下りるまで)は、“夢や希望やロマンを抱かせてもらえる時空(=時間・空間)” として堪能できることにある。

   それはときには、 “限りなく「ノンフィクション(本物)」に近い緊張と興奮をもたらす時空” として “酔いしれさせてくれる” ものでもある……のだが。

       ★ 

   「観客」は眼の前の「舞台」を、 “この瞬間の仮の世界”と意識しながらも、心のどこかで “現実世界らしきもの” を感じようとするものであり、また “現実世界との繋がり” を見出そうとしている(※無論、その逆もあるだろう)。

  それだからこそ「観客」は、「役者」すなわちその「台詞回し」や「演技」に、「観客」自身や「観客」の身近な人間をそこに見出そうとするし、秘かに “共感したい” と想っている。 “感情移入” や “自己投影”とはそういうことだろう。

   あるいは、こうも言えるだろう。「観客」とは、「演劇舞台」という「作り物の世界」に、 「傍観者」として参加しながらも、心情的には、“自らをその「作り物の世界」へ投げ込もうとする存在” でもある。

   「優れた演劇舞台」とは、“ときには” このような「観客=人間」の習性を巧みに取り込もうとするものであり、また「傍観者=人間」のままで留まろうとしている「観客」を、何とか “舞台の中の時空に引き摺りこもうとする” ……ように思えるのだが。

       ☆

   〈三谷クミコ〉役の「河野澄香」嬢の好演が眼を惹いた。掴みどころのない〈役〉の雰囲気がよく出ており、しっかりと “クミコ・ワールド” を発信していた。その「台詞回し」や「演技」には、〈クミコ〉ならではの独特の “ため” や “ゆらぎ” のようなものが感じられた。

   それにしても、“正常でも異常でもない” どこか “病んだ” とも言えるこのキャラクターは、本来、かなりの演技力を要するはずだが……。それを簡単に表現していたのが印象的だった。

   ことにそれは、〈小田ユキヒト〉役の「植木健太」氏と二人だけのシーンにおいて、いっそう顕著に感じられた。二人の役者の感性や演技力と言えばそれまでだが、この「舞台」を最後まで支えた原動力となったことは確かだ。  

        ★

 【キャスト】、9名:小田ユキヒト(植木健太)、星野カズユキ(江原圭佑)、仁村ヒトミ(成清花菜)、石橋ミカ(小渕あさ)、見城ダイスケ(石光真之助)、高橋サトル(今岡宏朗)、木村シズカ(藤田萌花)、木村ジュンタ(森友楽)、三谷クミコ(河野澄香)。

 【スタッフ】、8名:弥永さえ日高彩伽徳永拓海岸田祐真阿部隼也三留夏野子緒方卓也齊藤美穂。――の各氏各嬢。

  


●演劇鑑賞:『勝手にノスタルジー』(九州大学伊都・箱崎キャンパス)

2015年03月27日 00時19分30秒 | ●演劇鑑賞

 

   今回と次回に取り上げる作品は、いずれも「九州大学」のもの。しかし、「伊都・箱崎キャンパス」(伊都・箱崎C)と、「大橋キャンパス」(大橋C=「芸術工学部」)とは、別個に独立した「演劇部」があり、それぞれが独自の活動をしている。もっとも、相互の交流はあるようだが。今回の「舞台」は、両キャンパスとも「主人公」が、偶然、同じ「司法試験受験浪人」となった。

 

  勝手にノスタルジー

 ●作:辻野正樹 ●演出:石川悠眞

 ●九州大学:伊都・箱崎キャンパス演劇部

   「司法試験受験浪人」の〈沖ノ島淳二〉が借りている「部屋」に、一人また一人と集まって来る(生島哲夫〉、〈菊川コージ〉、〈花沢タカシ〉という「3人の男」。それに1人の女(吉沢志保)。彼等は、殺人罪で服役していた高校時代の友人の「出所祝い」を兼ね、久しぶりに集まると言う。「3人の男」は、怪しげな女装系のコステュームで歌い踊るグループだった。「出所祝い」の再会は、どうやらその「グループ」活動の “一夜限り” の再演でもあるようだ。 

    しかし、〈沖ノ島〉は彼等と面識もなく戸惑うばかり。それもそのはず、〈沖ノ島〉の部屋は、以前、「3人の男」の一人〈花沢〉が住んでいたものであり、「3人の男」達の手違いによって、“この部屋” で再会することになったようだ。〈沖ノ島〉にとっては、迷惑千万な話となる。

  ところで、〈ムショ帰りの男〉の服役理由は、〈志保〉をレイプした「先生」を殺害したからという。その〈志保〉は結婚を控え、“ケジメ” を付けるためか、 “過去との決別” のためかはよくわからないが、とにかく〈ムショ帰りの男〉に再会しようとこの部屋にやって来たのだが……。

        ☆

    現在の「部屋主」の〈沖ノ島〉にとって、〈3人の男〉は、“勝手にノスタルジー” に浸ろうとする傍(はた)迷惑な闖入者でしかない。しかし、この「身勝手なノスタルジアン」は、〈沖ノ島〉に対する〈3人の男〉というだけに留まらない。

   〈志保〉にとっても、〈3人の男〉はもとより、〈ムショ帰りの男〉も “勝手な思い込みによる確信犯的なノスタルジアン” となりかねない。のみならず、〈ムショ帰りの男〉にとっても、友達である〈3人の男〉は、“一方的に盛り上がろうとする勝手なノスタルジアン” と言えなくもない。あるいは、〈3人の男〉相互間にあっても、“微妙なノスタルジー” の “ずれ” があるのだろう。

   「登場人物」それぞれが秘かに抱え、また感じたいとする “ノスタルジー”。そもそも、ここでの “ノスタルジー” なるものは、誰もがいつでも “何かをきっかけ” に、いとも簡単に “勝手に浸りうるもの のようだ。

  事実、〈3人の男〉の “身勝手なノスタルジー” に悩まされた部屋主の〈沖ノ島〉も、昔の友人の〈夏雄〉に対する “ノスタルジー” を感じ始めたのだが……。

       ☆

  娯楽性の強い今回の「舞台」。役者個々が “そつなく” それぞれの〈役〉をこなしたのは確かだが、今一つ筆者の心に “迫って来る” ものがなかった。それは筆者が鈍感だからだろうか。それとも、貪欲さから来るのだろうか。こうして「鑑賞文」を綴ってはいても、正直言って “どのようにこの稿を締めくくろうか” と迷っている。

  個人的好みとして、冒頭の “カラスとの戯れ” のシーンは、もう少しあっても良かったと思う。その方が、これから起きる “人間個々のさまざまなノスタルジー” が、いっそう人間的な愚かさを示すことになり、“一方的な思い込みや身勝手さ” をより浮き彫りにしただろう。その方が、こじゃれた「エスプリ」としても効いたのではないだろうか。 

  ともあれ、“凡俗なテーマ” ではあったが、この手のドタバタ調にありがちな、“いかにもといったあざとさ” を何とか交わし得たのは、「九大演劇部」の伝統的な強さというべきか。欲を言えば、役者個々の “人物設定” すなわち “任された役の人間(観)の設定” が今一歩、いや二歩突っ込んだものであればと思ったのだが……。

       ★

  【キャスト】7名:〈沖ノ島淳二〉役の「木下智之」氏は、昨年の『カノン』での演技が印象的だった。〈生島哲夫〉役の「板橋幸史」氏は「小道具」を、〈菊川コージ〉役の「寺岡大輝」氏は「制作」を担当。〈花沢タカシ〉役の「八浪陽」氏は「衣装」担当した。〈吉沢志保〉役は「村上悠子」嬢であり、「照明効果」を担当している。〈夏雄〉(声の出演)役は「石川悠眞」氏であり、今回の「演出家」でもある。〈アナウンサー〉役の「田中利沙」嬢は、「音響効果」と「振付」を担当。

  【スタッフ】専従3名:「装置」は「中山博晶」氏、「照明操作」と「宣伝美術」は「伊比井花菜」嬢。「音響操作」は「兼本俊平」氏であり、優れた操作だった。

       


●演劇鑑賞『あゆみ』/福岡女学院大学四団体合同公演

2015年03月19日 00時04分25秒 | ●演劇鑑賞

  3月に入り、以下「3作品」の学生演劇公演を観劇した。

1.『あゆみ

●作:柴幸男 ●演出:岡崎沙良 ●舞台監督:本山真帆

福岡女学院大学・四団体合同公演」:3月6日(金)13:30

 

2.『勝手にノスタルジー

 ●作:辻野正樹 ●演出:石川悠眞

九州大学演劇部2014年度後期定期公演/3月7日(土)13:00

 

3.『幸せはいつも小さくて 東京はそれよりも大きい

  ●原作:広田淳一 ●脚色・演出:廣兼真奈美 ●助演:井料航希、遠藤智 

九州大学大橋キャンパス演劇部」/3月7日(土)18:00

 

   今回の3公演は、いずれも劇中に無駄な「音響」がなかった。逆に、少しはあってもいいかなと思えるほど。そのため、“役者の声” という “最高の音楽” が、深い余韻として残った。開演前のBGMにしても、曲目・音量とも適切だった。

 今回は、福岡女学院大学の『あゆみ』に触れてみたい。 

        ★ 

  役者8人の声と表情と動作のハーモニー

 今回の演出を担当した「岡崎沙良」嬢は、「プログラム」(当日パンフレット)の中でこう述べている――。

   この作品のテーマとは、生から死へ続くあゆみなのだと思います。今回の役者達は、8人で1人の女性の生涯を演じているわけですが、また同時に全く異なる人生を演じています。成長の過程で性格が変わったり、後から自分らしくないと思う行動をしてしまったり、というのはよくあることではないでしょうか。

   つまり、この作品の “テーマ” は “自己確立” へ向けたヒロインの “あゆみ” 。それは “誕生した生命” が、最後は “それを全うして去って逝く” 人生のプロセスを伝えるもの。それを “女性的な情感” をもとに、“時空を超えた寓話感覚” でまとめたということだろう。なかなかの演出であり、演技だった。

   随所に、“柴幸男脚本” の特徴が出ていた。「舞台」を「観客席」で取り囲み、女性の “生きざまの象徴” ともいえるさまざまな形態・デザインの「」を、“片方ずつ” 舞台の周りに並べたのは、意味深いメタファ(暗喩、隠喩)といえる。   

   最大のポイントは、“一人の女性” を演じる「役者8人」が、衣装の上下を白で統一したシンプルさであろう。それは、「人生という白いキャンバス」に、 “色とりどりの人生模様を描き続ける” イメージでもある。「舞台そのもの」が「観客席」に囲まれた「白い長方形の床」であるため、いっそうその感が強かった。

   無駄な「造形(形態や色調)」を一切排除した “美しさ” であり、8人それぞれの個性と魅力を充分に引き出した。加えて、 “余計な音響を一切排除” し、“女優8人の肉声を至高の音楽” としたところに、この演出の最大の魅力がある。

   縦横無尽に駈け廻り、また跳ねまわる彼女達の姿が、次第に「天使」に見えて来た。筆者はそこに、“見えざる神の絵筆” が「白いキャンバス」に8色8様の色彩とデザインを走らせているような気がした。「天井高」がたっぷりあったことも、そうしたイメージの膨らみを可能にした。低い天井では、到底そのような “想像” そして “創造” の飛躍はなかっただろう。

  シンプルな舞台、シンプルな大道具に小道具、シンプルな衣装に、極限まで抑制された音響……。筆者が常々「学生演劇」の最大の魅力と感じる素晴らしさを、余すところなく伝えている。

  ことに、「音楽・効果音」を限界まで控えたため、“8人それぞれの声” や “リズミカルな台詞” がより効果的に響き、“8つの声のハーモニー” が心地よく伝わって来た。そのため、女優個々の “声” はもとより、その “顔の表情” や “動作” がいっそう魅力的に感じられた。しかもその “表情” や “動作” が、「眼の前」で活き活きと演じられたのだ。この “迫真性” こそ、“生の舞台” の最大の醍醐味でもある。

        ☆

  とはいえ、一つだけ筆者の不満を述べると――、

   それは、《雑踏の効果音》だ。もう少し、いや、もっと工夫して欲しかった。今回の《雑踏の効果音》は “月並み” であり、“今回の舞台固有の独創性” をあまり感じさせるものではなかった。何と言っても “音質の粗さ” が気になった。

  思うに、今回の舞台における《雑踏の効果音》は、「ヒロイン」の “生から死” を取り巻く“ 他者の集団=社会” を象徴している。この “社会” すなわち “他者との関わり” がしっかり描かれてこそ、ヒロインの “アイデンティティの確立” も重みを持つ。同時に、 “死” へ到る “喜びや悲しみのプロセス” も、いっそう活きるはずだ。

   “時空を超え” た「ヒロイン」は、少なくとも “8つの様相” を見せながら成長し、やがて死を迎える。その “いずれの様相” においても、《雑踏》すなわち “関わるべき社会=人間関係” が存在する。……そういう、奥深い重厚な《雑踏》そして《雑踏の音》であって欲しかった。

   ……とはいえ、今回の舞台が優れていることに変わりはない。 “死期” の迫った「ヒロイン」が、人生の終焉へ向かって這いずりながら進んで行くシーンは、優れた「照明デザイン&操作」であり、筆者はこの舞台最大の感動を覚えた。演技も味わい深かった。

         ☆

  筆者は、開演30分前の「開場」とともに「公演会場」に入った。女優7、8人が、最後の調整をしていた。稽古とも雑談ともつかないその “開演前の舞台” に、筆者は惹きつけられた。躍動感ある若さに満ち、どの顔にも溌剌とした明るさがあった。その表情には、今回の公演にかける彼女達の “熱い想い” が感じられるとともに、“力強い意志と可能性” とが滲み出ていた。

  彼女達の “意志と可能性” は、当日渡された「プログラム」(パンフレット)にも表れていた。A4判2つ折り8ページものボリュームもさることながら、その一部一部に籠めた丁寧な作業の跡に頭が下がった。加えて、8人の女優陣の全身が入った「クリアファイル」。こういう発想や作業は、おそらく男ではできないだろう。

        ☆   ☆   ☆

   舞台『あゆみ』の【キャスト】8名は、いずれも【スタッフ】を兼ねている。「本山真帆」嬢は〈舞台監督〉でもあり、「児山夏海」嬢は〈衣装〉を、「三苫春花」嬢と「濱畑里歩」嬢は〈音響〉を担当。また「橋本美咲」嬢は〈照明〉、「畑島香里」嬢は〈製作〉、そして「大塚愛理」嬢と「武藤千裕」嬢は〈宣伝美術〉を担当した。

   【スタッフ】専従としては、〈衣装〉の「濱本菜奈子」嬢、「根岸美利」嬢。〈音響〉の「竹元美帆」嬢、「大田千智」嬢、「黒木真里奈」嬢。〈照明〉は「高尾美悠」嬢、「九十九泰葉」嬢、「藤本沙織」嬢、「佐々木春乃」嬢。〈製作〉は「福川由理」嬢、「原田希美」嬢の11名。

   今回の舞台に携わった、総てのキャストとスタッフに讃嘆と感謝を表したい。

 

 

 


・徹底した部員一丸による舞台創造/鑑賞『ゆめゆめこのじ』(西南学院大):下

2015年01月21日 21時22分16秒 | ●演劇鑑賞

 ★この「記事」は、1月20日に一度アップしたものに改稿・追加したため、あらためて本日アップしなおしたものです。 

 

  「秀島・半次郎」の圧倒的な存在感

   「役者」について――。「男優」としては、やはり〈中村半次郎〉役の「秀島雅也」氏を第一に挙げなければならない。彼の持ち前の声といい、台詞回しそして演技の所作といい、“人斬り半次郎” として怖れられた〈半次郎〉の雰囲気を見事に出しており、またそれを難なく演じ切っていた。「殺陣」の指導をするだけあって、時代劇にも向いている……というより、こちらの方が向いているのかも。いやいや、どのような役でもこなせるということだろう。

   秀島氏に関しては、現代劇decorettoにおいて、今回の演出を担当した「宮地桃子」嬢との卓越した “掛け合いの演技” に注目していた。同作品の鑑賞でも述べたように、その優れた演技による「独特のキャラクター」によって、筆者は抱腹絶倒させられたのだった。

   今回も同じように、実に巧みな “役作り” であり、深い味わいを秘めていた。それはもう、“演技が上手い” とか “役になりきっている” といった次元を超えている。もう少し踏み込んで言えば、“演じる” こと、すなわち “舞台演劇” についての “秀島ワールド” をしっかり創りあげている。彼の「舞台演劇人」としての確信に満ちた “哲学” を感じた。

   筆者がそう感じるのは、優れた「プロの役者」に対してだけのものだ。それだけのものを、彼は確実に持っている。筆者の足かけ15年に及ぶ「学生演劇」の「観劇歴」の中でも、5本の指に数えるほどの「男優」と言える。

        ☆

   この「秀島・半次郎」によって、「瀬川聖」氏の〈坂本龍馬〉をはじめ、「尾野上峻」氏の〈西郷隆盛〉、「吉田瞭太」氏の〈桂小五郎〉そして「山口大輔」氏の〈中岡慎太郎〉といった志士達、それに「眞鍋練平」氏の〈出雲〉、「高倉輝」氏の〈土方歳三〉、さらには「鼻本光展」「井口敬太」両氏の〈薩長藩士〉といった「キャスティング」の “収まり” がついたように思う。

   つまりは、それぞれの “人物像” にメリハリが付き、まさしく “魂を吹き込まれた” と言えるだろう。そのことはおそらく、共演者達が筆者以上に感じたはずだ。それほどの “存在感” があったように思う。

   なお「眞鍋」氏は、decorettoにおいて優れた「演出」をしており、その手腕は高く評価される。今回の〈出雲〉役も、繊細さがひときわ目立つ演技であり、ことに「女優陣」を惹きたてる役として貢献した。

        ☆

   おりょうと遊女の好演

   「女優」陣では、やはりまずは〈おりょう〉役の「松嶋小百合」嬢ということになろうか。嫌みのないコミカルなキャラクターを好演していた。筆者の座席は舞台から距離があり、眼や細かな顔の表情はよく判らなかったが、“龍馬の妻としての雰囲気” をよく表現していたようだ。「男優」陣における「秀島・半次郎」同様、この「松嶋・おりょう」によって、「女優」陣の「キャスト」にメリハリが付いたことは間違いない。

   〈禿〉の「高木理咲子」嬢に「平川明日香」嬢。〈秋雪〉の「藤野和佳奈」嬢、〈水狼花太夫〉の「松本花穂」嬢、〈香梅太夫〉の「渡邊桜美子」嬢、そして「古賀麻友香」「加藤希」の両嬢がそうだった。

   正直言って、「女子大生」に「遊女」という役は、おそらく「学生演劇」としては、もっとも “その役になりきることが難しい” と言える。もっとも今回は、〈太夫〉や〈禿〉という役回りのため、遊女本来の “どろどろした女” を追究することはなかったわけだが、無論、“その分” の「踊り」や「剣舞」はそれを補って余りあるものだった。「西南学院大学演劇部」ならではの、品位あるセンスのよい「舞台構成」であり、優れた演出・演技といえる。

       ☆   ☆   ☆

  徹底した“部員一丸”が生み出す“完成度の高さ”

   「西南学院大学演劇部」の特性については、これまでにも本ブログにおいて論じて来た。ことに昨年4月の舞台公演『decoretto』の「鑑賞」については、「上・中・下1・下2」と4回連載した中、特に「上」において明らかにしている。一度ご覧になった方も、もう一度眼を通していただきたい。

   筆者が感心するのは、「同部」が常に「舞台創り」において、“部員一丸” を徹底的に貫いていることにある。それに加え、とにかく丁寧に “時間と手間” をかけて創り上げる姿勢だろうか。

    ……と言えば、「そんなことは、どの大学演劇部でもやっている」と反論されそうだ。確かにそうかもしれない。しかし、“その徹底ぶり” は、他とはかなり違うように思う。

       ☆

   例えば、「プログラム」に記載された各「スタッフ」の紹介にしてもそうだ。今回の「舞台」をみても、各1人ずつの「演出」と「舞台監督」をはじめ、「助演」2人、「大道具」7人、「小道具」8人、「照明」7人、「音響」8人、「衣装メイク」8人、「制作」8人、「宣伝美術」3人となっている。

   それに今回は「殺陣」と「剣舞」の指導が各1人、「舞指導」が2人。無論、どの「大学演劇部」においても、「スタッフ」はいくつも「仕事(作業)」や「オペレーション(操作)」を掛け持ちするのが通例だ。 

   しかし肝心なことは、は“舞台当日の進行” を担う……というより “舞台そのもの”  の “出来不出来” を大きく左右する「照明」と「音響についてだ。

   今回、筆者が注目したのは、「照明」スタッフ「7人中4人」、また「音響」スタッフ「9人中6人」までを “女子が担当 したという事実だ。この事実は、筆者の舞台観劇経験として、2つの重要なことを教えてくれる。

   その「一つ」は、「音響」や「照明」の「プラン(アイディアやイメージ)」や「オペレーション(操作担当)」については、“できるだけ多くのスタッフが関わる” こと。言い換えれば、“限定されたスタッフの好みや傾向” を避けること。つまりは、“普遍性を持たせる” ことが不可欠となる。

   もう一つは、“音響や照明のプランやオペレーション(操作)” は、“男子より女子の方が適任である” こと。言い換えれば、“大雑把で荒っぽい傾向にある男子好み” を抑え、より多くの年代や性向の観客に即したものを求めること。そのためにも絶対に、 “女性的感性” を大切にすることが不可欠と言いたい。

   「西南学院大学演劇部」が創り出す「舞台」ことに最重要の「照明」と「音響」が、いつも安定した “美的感性” に満ちているのは、おそらく「特定個人」ことに「男性オペレーター」の「音響操作」を極力排除しているからではないだろうか。

  あまり “手の内” を明かしたくはないが、一部の学生諸君は気づいているので、この際、公言したい。筆者は「公演会場」に入った後、必ず「照明」や「音響」の操作ブースに眼を向ける(もちろん、観客席から見えないこともあるが)。

   つまり、“誰がどのような表情や動作でオペレーションするか” を確認するためだ。もちろんそれ以前に、「キャスト」や「スタッフ」名、ことに「照明」と「音響」の「オペレーター」は、特に重点的に確認している。

   その結果、一つの傾向として判ったことは、特に「音響効果」の「企画」や「オペレーター」に “男子が多い” のは “要注意” ということだ。中には、「DJ」感覚でオペレーションをしているのではと、驚いたことがある。それが結果として、“どのような音響をもたらしたか” 語るまでもない。

        ☆

  「西南学院大学演劇部」は、いつも「音響」(効果音含め)における “選曲” や “音量(ボリューム)調整” に品位とセンスがあり、何とも心地よい。 つまりは、“騒々しい音楽や不快な音量” はないといえる。それはおそらく、“”に対する “女性独特の柔らかい感性” を重視しているからではないだろうか。

  そのためにも「同部」は、 “多くの部員の叡智を結集” し、“演劇的な効果の普遍化” を目指しているのだろう。その結果、「同部」本来の “繊細な感性” と “豊かな想像力” が遺憾なく発揮されたと言える。この件については、別の機会に詳しく述べてみたい。

        ☆

  今回も素晴らしい「舞台」を楽しむことができた。正直言って、いくつか指摘したい点もないではないが、それは「キャスト」そして「スタッフ」自身が気づいていることと思うので、今回はそっと しておこう。

   ともあれ、「西南学院大学・演劇部」の部員各位に敬意を表し、本稿を閉じることにしたい。このたびの優れた素晴らしい「舞台」に、「キャスト」そして「スタッフ」その他の人々に、心からの労いと深謝を表したい。(了) 

        ★   ★   ★

  クリック!◆“役者の肉声は音楽”/西南学院大学演劇『decoretto』:下-2(最終回)

 クリック!◆“役者5人の絶妙な活かし合い”/西南学院大学演劇『decoretto』:下-1

  クリック!◆“的確なキャスティングによる役者・演技”/西南学院大学演劇『decoretto』:中

 クリック!◆“演劇部全体を貫く繊細な感性”/西南学院大学演劇『decoretto』:上

 

 


・完成度の高い繊細な表現力/鑑賞『ゆめゆめこのじ』(西南学院大学):上

2015年01月16日 00時36分08秒 | ●演劇鑑賞

 

   この「舞台」については、

   『2014年福岡都市圏の学生演劇を観終えて:下』【クリック!】(2014.12.27)に、簡単なコメントをしている。 要約すると――、

   《 総てに行き届いた “安定した舞台美術・衣装・照明・効果音響” であり、「西南学院大学演劇部」ならではの “繊細な感性にもとづく総合力” を堪能させてもらった。それが役者個々の能力と魅力を最高度に引き出した” 舞台となった。》

        ☆

  プロ意識による完成度の高い舞台

   「西南学院大学演劇部」独特の “バランスのとれた総合力による舞台” と言ってよい。いつものことだが、「舞台美術」(大道具)に「照明」「音響」、「小道具」「衣装メイク」、そして「ポスター」「案内チラシ」「プログラム」という「宣伝美術」、「制作」作業に到るまで、同部は常に “プロレベルの向上を意識” しているようだ。それが結果として、随所に “行き届いた姿勢” となって表れていた。

   つまりは、“完成度の高い繊細な表現力の舞台” であり、そのための「スタッフ」や「キャスト」個々の “高い目標意識や情熱”、さらには “観客に対する愛情” を感じた。今回に限ったことではないが、“チームワーク” の “まとまりのよさ” をあらためて感じさせられた。

   とにかく、“ミスの少ない舞台運営” であり、どのようにすれば “心地よく観客に楽しんでもらえるか” に徹している。そのため、何でもない作業にも気を配っていた。

   例えば、きちんと「幕」を上げ下げし、開演時には、完全に「非常灯」を消し去っている。この徹底ぶりに “プロ意識” が明確に表われている。当然、「観客」には “携帯電話の完全OFF” や “写真撮影・録音の完全禁止” そして “飲食禁止” を促し、“不要な光や音を出さない” ようにしていた。それは結局、“最低限必要なや音をいかに大切にしている” の裏返しでもある。

        ☆

   今回の「舞台演出」は、「宮地桃子」嬢であり、「助演」は、「高木理咲子」嬢と「新ヶ江優哉」氏。宮地嬢は、『decoretto』の演劇鑑賞において、筆者が “驚愕の十九歳” として、衝撃を受けた「女優」でもある。今回、彼女の「演出の言葉」に眼を通したとき、その才能や感性が、やはり “本物” であることを確信した。

   「演出の言葉」にセンスの良さが感じられ、一字一句の無駄もない。「演出の言葉」のお手本にしてもよいくらいだ。この「作品」の演出にかける彼女の “熱い想い” が込められている。無論、「助演」の高木嬢(〈禿〉役で出演)や新ケ江氏にも、同じような “想い” があったに違いない。

   「全文」をそっくりそのまま紹介したいくらいだが、そうもいかないので抜粋すると――。 ※「太字」は筆者。

 

   《……私たちが知る歴史とは、過去の時代の人々が残したほんのわずかなものばかりです。……(略)……。

   今回はそんな歴史の流れの中からひとしずくを掬い上げ、この舞台で一つの “ゆめ” を創りました。すべてが想像の産物です。……(略)……

   伝えたいもの、感じてほしいものを詰め込んであの時代の一瞬の “ゆめ” をあなたにお送り致します。

   歴史として語られることのない女たちの、美しくも儚い夢と恋の路を、どうぞ最後まで見届けてください。》

               ☆

    絶妙静寂(効果音)        

   ……公演当日、「受付」を終えて「公演会場」に入った。本格的な「演劇会場」であり、「」が降りた会場内に「遊女の里」をイメージさせる “甘い女性の声” による音楽がゆったりとしたテンポで流れていた。それに耳を傾けながら、素敵な「案内チラシ」や「プログラム」に眼を通した。

   「音楽」の曲想や音量が心地よいため、「幕に隠れた舞台」への興味が徐々に湧き始めた。それに伴い、どのような役者がどのような演技をするのかという、開演を心待ちにする気持ちも自然にたかまって来た。

   「優れた舞台」とは、このように “幕が上がる前” から、観客の心を掴んでいる。それに加え、「案内チラシ」は、“遊女の襟足” を大胆なポジションから見せていた。この写真撮影一つとっても、半端じゃない。「プログラム」の写真も、「遊女の里」の一角を捉えたもの。それらの「印刷物」は、いつもながらの繊細なデザイニングであり、心憎いばかりのセンスに溢れていた。

   ……やがて、流れていた音楽のボリュームがアップしたかと思うと、さっとフェードアウトし、場内が “真の闇” に包まれた。……僅かな “静寂” の後に “蜩(ひぐらし)の声” が微かに聞え、それと前後して「幕」が上がった……。

   眼の前に、「遊女の里」の路地と、その奥に設(しつら)えられた「座敷」が現れた。

   ……静寂……真の闇……これから何がどう始まるのだろうか……遠くで小さく鳴いている蜩の声……お座敷の小太鼓の音……灯りの光……眼の前に拡がる夜の遊女の里……。

   絶妙とも言える “真っ暗闇” に “静寂” に “蜩の声”……特に、この「蜩の声」の絶妙な “距離感” つまり “大きさ” そしてその “どんぴしゃりの長さ” にまいった。何と言うオペレーション(操作)! 何と言う演出! 

   この瞬間、「観客」は、眼の前に現れた「幕末の遊女の里」へと、その魂を “運び去られてしまった” ……。しびれるほどの効果音に音楽、灯りや光の照明……。う~ん! 「キャスト」もいいが、やはり「スタッフ」もよく訓練されている。また、よく研究されてもいる。“高い美意識” と “繊細な感性” ここにあり! しかも、いっそう “磨き” がかかっている!

        ☆   ☆   ☆

  “……心あれど形なし 想いを思えば憂うほど あなたの耳にはとおりゃんせ……

   ゆめゆめ恋の字ゆめこのじ……”

 

  秋雪に、 太夫(たゆう)二人に、 禿(かむろ)二人…… 

  おりょう~ ……おいも、 まっこと、 まいったぜよ~ 

  

 

 


・ベテランの「キャスト&スタッフ」の活躍/『桜刀』(九州大学演劇部):下

2015年01月04日 06時04分04秒 | ●演劇鑑賞

 

   〈侍兄〉役の「山本貴久」氏については、繊細な感性の持ち主というイメージに加え、どことなく “ストイック” なものを感じる。今回の〈侍男〉はピッタリの「役回り」なのかもしれない。

   山本氏は “役の雰囲気づくり” が上手い。たとえば、現代劇『六月の綻び』の〈弟〉役にしても、おそらく「劇中人物」と彼自身とは年齢的にも近いのだろう。その上、“キャラクター” の演じ方に無理がないため、観客は「自然体」で受けとめることができた。やはりそれは、“役の雰囲気作り” に無理がないことを意味している。そのため、ラストを含めたいくつかのモノローグが “哲学的な台詞” にも関わらず、不思議な現実感があり、共感が持てた。

   山本氏については、本ブログの「2014年福岡都市圏の学生演劇を観終えて:中」の『アルバート、はなして』でも触れている。そこでの化学者〈フリッツ〉役では、懐疑と懊悩を感じさせる “ニヒリスティック” な雰囲気を巧みに醸し出していた。

        ☆

   『桜刀』では、「人斬り」として “人を斬りすぎた” という山本氏の〈侍男〉。まさしく「鬼」そのものというわけだが、この「鬼」は、「竹田津敏史」氏演じる「弟」の〈サギョウ〉を想うときだけ「人」に戻ると言う。“義” を求める「弟」。それに対する 「兄」。……竹田氏は、とても丁寧な演技をしているという印象を受けた。

          ☆

   〈女〉と〈バニラ〉の「2役」を演じた「谷口陽菜実」嬢。彼女は、昨年4月の「新入生歓迎公演」の『真桜』(脚本・演出:兼本峻平氏)では「ヒロイン」であり、“目ぢから” を感じさせる表情に注目していた。

   今回、それを再確認できたし、手垢のつかないフレッシュな感覚の演技や台詞回しを観ることができた。欲を言えばキリがないが、“2役の違い” がもう少し……というところだろうか。それだけの潜在能力を備えているはずだ。

          ☆

   今回は「脇役」として登場した「本村茜」嬢。彼女の声は、NHKの朝のラジオ番組「すっぴん」のアンカーを務める「藤井彩子」に感じが似ている。この藤井さんと本村嬢の “声” は、いずれも女性としては “低めでやや太い”(※註1)。そのため小声でも “通りやすく”、「聞く側」にすれば “聞きやすい”。その上、“言葉の出だし” がしっかりしているため「言葉」がよりクリアに聞こえ、“耳に残りやすい” 。 

   他の役者として――。「南聖一」氏は、コミカル系というところが「持ち役」なのだろうか。「白居真知」氏とくれば、やはり「蒲田行進曲」の〈ヤス〉が想い出される。「丸尾行雅」氏については、いろいろな「舞台」で幅広く演じているとの印象がある。一見、不器用そうな感じだが、案外、器用にどのような役でもこなせる人かもしれない。「大倉嵩暢」氏については、筆者は初めて眼にした名前かもしれない。

         ☆   ☆   ☆

   以上のように、今回の舞台の特徴は、「キャスト」にベテラン勢をメインにしたことにある。そして特筆すべきは、「スタッフ」にもベテランを配したことだろう。

   「舞台装置」を「棟久綾志郎」氏、「音響効果」を「浜地泰造」氏、そして「音響操作」を演出の「森聡太郎」氏自らが担当したことにある。「照明操作」は新人のようだが、その操作の指導や「照明プラン」はベテラン陣によるのだろう。

   その結果、節度ある「音響・効果」や「照明の演出」が実現したことになる。ほんとうに印象深い素晴らしい舞台だった。(了)

 


・2014年福岡都市圏の学生演劇を観終えて:下

2014年12月27日 00時07分31秒 | ●演劇鑑賞

 

.『女の一生

  平淑江(文学座)さんの“持ち役”

   日本の演劇界を永くリードして来た劇団『文学座』――。無論、今日においてもその地位は不動と言える。今回、ひょんなことから「会員チケット」が筆者に廻って来た。

   この『女の一生』のヒロインは、杉村春子さんの “持ち役” だった。現在は、平淑江(たいらよしえ)さんが演じている。さすがにプロの役者陣であり、演出だ。「音響効果」や「照明」も申し分ない。むしろ「台詞」の “声の音量” はもう少しあったらと思ったほど。だが、ゆっくりした舞台進行のため、しっかり把握することができた。

   少し “声を荒げた” 場面が二度ほどあったろうか。無論、無理も無駄もない “的確で効果的な声” であり、“言葉” だった。つまり、それだけ “自然体の会話” に近い「台詞回し」ということになる。そのため「観客」は、「舞台上の登場人物」と同じ気持ちで 、“舞台が物語る時代状況や人間関係の変化” に、抵抗なく入って行けたようだ。

            ☆

  “をんな” を演じ分ける “声” と “所作”

   この「舞台」が表現しようとした “時代” ――。それは、明治38(1905)年正月から、明治42年春、大正4(1915)年夏の夜、昭和3(1928)年仲秋の午後、そして昭和20年(1945)2月の節分、さらに終戦後の同年10月の夜へと進んで行く。つまり「ヒロイン」は、「40年余」の人生を舞台上で生きたことになる。

   “さすが” と思ったのは、主演の「平淑恵」さんの “” だった。「堤家」に拾われた際のヒロイン〈娘・布引けい〉は、年齢的には「二十歳前後」だったのだろう。現在、さんはちょうど「還暦」を迎えたばかり(1954年10月生まれ)。

   その「彼女」が演じた〈娘・けい〉の何とも “愛らしい” こと。特にその “弾んだ声の初々しさ” に驚いた。「別の若い女優」が演じているのかと思ったほどだ。とても還暦とは思えなかった。まさに、“役者の声は、舞台における最高の音楽” の優れたお手本と言える。

   しかし、もっと驚いたことがある。それは、ヒロイン〈けい〉が結婚して〈堤けい〉となり、“舞台の時代” が進む中で、さんが見事にその “年相応の変容” を表現したからだ。

   それは、無論 “” だけではなかった。着物の着こなしから、歩き方、座り方、湯茶の接遇、手や指先の仕草にいたる一連の “所作” によって、 “女としての慎み深さ” や “巧みに歳を重ねた雰囲気” を演じ切っていた。何と言っても、洗練された着物の “着こなし” に強く惹かれた。 

   その中で、確実に “娘” から “妻” そして “母”、さらに “「家」を守るために、実業に精を出さざるをえなかった女” へと変貌を遂げていた。最後は、秘かに想いを寄せていた夫の弟と、敗戦後の焼跡の中で再会する。

  座敷の様子や衣装の変化に加え、そのときどきの “歳を重ねた” 〈けい〉という “女” を、さんは、その「声」や「所作」によって巧みに演じ分けていた。代表的劇団のベテラン役者と言ってしまえばそれまでだが、凄いの一語に尽きる。

   筆者の「座席」が、一般的な「学生演劇」のように、役者の眼や口元の表情が見えるほど近ければ、 “その一瞬、一瞬” をもっと鮮やかに感じ取れただろうに。……それにしても、恐れいりました。

   今回の「福岡公演」の実現には、平淑江主演の『女の一生』を観たいという、福岡の「演劇ファン」が働きかけたというのも頷ける。筆者も、彼女が出演していた時代劇シリーズは観ていた。昔も今も優れた「映画」や「テレビ」は、名優と言われる「舞台役者」が支えている。

        ☆

   筆者はこの十年ほど、平淑江さんが出演した映画やTVドラマは観ていない。それなのに、こうして原稿を綴っている今も、その “” が甦って来る。気品のある清澄な声であり、芯のある強さの響きの中にも、独特の “をんな” の甘さや柔らかさを持っている。

   JAZZ調で、「As time goes by(時の過ぎゆくままに)」や「Fascination(魅惑のワルツ)」を歌ってくれたら……と、つい余計なことが頭をよぎった。

   彼女の出演する「映画」や「TVドラマ」を、急に観たいと思った。

 

6.天使は瞳を閉じて

  今回「8人」もの〈天使〉役を揃え、見応えのある「天使」集団の楽しさを見事に演じ切っていた。たった一人の男子の〈子天使〉を除けば、あとは「加藤真梨」嬢の〈天使1〉と「瀬戸愛乃」嬢の〈天使2〉に、5人の〈女の子天使〉。

  白い衣装に髪飾りの「花冠」が、彼女達の “キュートな仕草や動き” と相まって、品位を湛えた、しかも “ほのかなおんな” を感じさせる素敵な「天使」を創り出していた。        

         ☆

 音響は、ときに役者の “言葉や声” の魅力を」奪う

   だが惜しいことに、“音響” に課題が残った。“不用意な音楽・足音・叫び声” が気になった。最大の難点は、全般的に “音量(ボリューム)” が大きすぎたことにある。

   中でも、開演前の「バスドラム」の効いた音楽は、明らかに “耳障り” だった。しかもそれが「日本語の歌詞入り」ときては、いっそうその思いを強くした。これから “舞台演劇の最高の音楽” とも言える “役者の声(台詞)” が始まると言うのに……。

   そのため、“どのような愛らしい天使が出て来るのだろうか” といった “ワクワクドキドキ感” を一瞬にして奪ってしまった。

   「天使」達が登場した後も、“耳障りな音響(音楽・音量)” に加え、 “足音や階段の昇降音” が気になって仕方がなかった。 「天使」本来の “キュートな動きや仕草” の魅力を半減させたことは否めない。

   同部の「卒業公演」の『わが星』も、「文化祭」の『奇妙旅行』も、いずれも素晴らしい「舞台」だった。しかし、やはりこの “音響” 問題が、せっかくの感動を減殺したように思えてならない。  

       ☆ 

  それはともかく、今回の印象深い「役者」としては、まず前述の「加藤」嬢と「瀬戸」嬢の二人。

   その他には、〈マスター〉役の「荻迫由依」嬢が強く印象に残った。地味な役ながら、口調が穏やかでゆっくりした台詞回しのため、言葉がクリアだった。そのためとても聴きやすく、好感度の高い説得力のある「シーン」を創り出していた。 

   「元天使」という「役回り」も幸いしたのかもしれない。また、彼女の台詞のときには、不要な音がなかったような気もする。

   ともあれ、“大きな声で叫ぶように早口” で喋るよりも、“普通の声で静かにゆっくり” 喋る方が、時間が経過すればするほど、印象深く残るものだ。

   同部の、これからの研鑚と感動的な舞台の創造に期待したい。さしあたっては、「卒業公演」ということになるのだろうか。万難を排して観に行きたい。

       ☆   ☆   ☆

  

   「ミュージカル」や「音楽劇」ではない普通の「舞台」において、「音楽」や「音量(ボリューム)」は、ただひとえに「役者を活かすために存在する。それらは、「役者の台詞回し」を、すなわち「役者」の “言葉や声” を魅力的かつ効果的にするための補助手段にすぎない。

   逆な言い方をするなら、「役者」の “演技” や “台詞回し” の魅力を損なうものは、総て排除しなければならない。

    「舞台」から「音楽」や「効果音」を取り去っても、さらには「舞台美術」や「小道具」や「衣装」や「照明」を取り去っても、「役者」が存在する限り「舞台」は成立する

   ……「舞台演劇」における “絶対不変の原理” とも言えるこの意味を、演劇に携わる人々とともに、今ここで再確認したいと思う。      

  

 .『ゆめゆめこのじ

   この「舞台」については、年が明けてから論じてみたい。

   期待に違わず、素晴らしい「舞台」だった。“総てにおいて行き届いて” おり、 “無理や無駄の限りなく少ない、安定した舞台美術・衣装・照明・効果音響” だった。いつもながら、「西南学院大学演劇部」ならではの “繊細な感性にもとづく「」としての総合力” を堪能させてもらった。

  それが結果として、役者個々の “能力魅力最高度に引き出した” ……そういう「舞台」だった。

   何はともあれ、この「舞台」は今年「2014年」の筆者の “観劇納め” に相応しいものだった。(了)

      

 


・2014年福岡都市圏の学生演劇を観終えて:中

2014年12月23日 00時45分39秒 | ●演劇鑑賞

 

  悩ましき“学祭ステージの音響”

   しかし、この「九大祭」において、非常に気になったことがある。それは、「学祭」の「メインステージ」の音響の凄まじさだ。「サブステージ」は何とか我慢できたのだが……。

   演劇部の「テント小屋公演」を “吹っ飛ばす!” いや “吹っ飛ばした!” と言える音量(ボリューム)だった。「役者の声」が “聞き取りにくい” といったレベルを遥かに超えており、「演劇部」の諸君が不憫でならなかった。

    “あの「ステージ」に、あれだけのボリューム”……本当に必要だったのだろうか。正直言って、筆者は数日間、耳鳴りと軽い頭痛に襲われていた。

   そのため「学祭当日」は “一つの舞台と次の舞台の間” は、できるだけ「メインステージ」から離れ、また建物内に避難することを心がけた。

   「演劇」の合間に「朗読会」の教室に入ったところ、予定時間内にも関わらず、室内は「人っ子一人」いなかった。広い「無人の教室」は、「ステージ」からの “轟音” に圧倒されていた。

   つまりは、「中止」せざるをえなかったのだ。“あれだけ大きな音” が押し寄せて来れば、“室内も室外” と何ら変わりはない。これを企画した学生諸君も気の毒でならない。

   筆者の超超 “SEIKO” な「鼓膜」と、超超 “SENSAI” な「感性」には、とても耐えがたい轟音だった。福岡市中央区の「六本松キャンパス」時代には、 “音量の節度” は保たれていたと思う。その証拠に、“うるさい” と思ったことは一度もなかったのに……。

 

    ……来年が、チョウ心配だ――。

   囁かれる花雅美秀理氏の「九演大テント公演」からの “引退”  ……年明けに“号泣会見” か? 》 

   “老い先短い年寄りの楽しみを奪っては……ダメよ~ ダメダメ~  

   

4.『アルバート、はなして』 

   この舞台は、「ノーベル物理学賞」を受賞した「アルベルト・アインシュタイン」(※註1)を主人公にしたもの。タイトルの「はなして」には、「話して」、「放して」、そして「離して」の意味を持たせていたようだ。

   「アルバート」が生まれ育ったドイツは、二度の「世界大戦」を経験している。「第一次」(1914-1918)と「第二次」(1941-1945)がそれであり、ドイツは両大戦において「敗戦国」となった。

   本舞台は “この大戦の時代を生きた” 主人公の身辺をコンパクトにまとめ、さらりと “時代の雰囲気” を捉えたものだった。 

   主人公の「アルバート」を直接描くと言うより、両親、妹、妻という家族や周囲の人々を描くことによって、「主人公」を浮かび上がらせようとするもの。その「手法」にマッチした舞台だった。

   「舞台美術」として、「大型の書物に擬した小道具」を「ベッド」や「椅子」にするというアイディアは、深い意味を秘めていたし、また斬新なものだ。“知識” や “学問” それに “ノーベル賞に値する学問的業績” といった “プラスの遺産” が、同時に “マイナスの遺産” をも意味すると言う “不条理性” を “暗示” していたからだ。なかなかのセンスだ。

   総勢10人からの「キャスト」は、いずれも20代から30代なのだろうか。若さと情熱溢れる溌剌とした演技に好感が持てた。

   筆者が個人的に知っている「役者」といえば、本ブログの「学生演劇の公演紹介」で述べた、「九州大学演劇部」現役生の山本貴久氏と「福岡女学園大学」OGの井ノ口美津希さん。その二人が夫婦役で登場し、期待以上の好演を見せてくれた。

       ☆

   当初はそうではなかったが、後に《毒ガス開発の父》と呼ばれた〈フリッツ〉。その役を務めた「山本」氏。「フリッツ」の開発による「毒ガス・チクロンB」は、「アウシュビッツ収容所」において、ユダヤ人の大量虐殺に用いられた。山本氏はその屈折した「役回り」を、持ち前のストイックな風貌に加え、ニヒリスティックな雰囲気を漂わせながら演じ切っていた

  その妻〈クララ〉役の「井ノ口」さん。この「クララ」も調べて判ったことだが、博士号を取得したユダヤ系ドイツ人の化学者。夫の毒ガス開発への抗議のために自殺したと言われる悲運の才女(※もっとも、自殺の理由は他にもあるようだが)。

   井ノ口さんについては、今春卒業時の公演で彼女が演出・出演を務めた『フローズン・ビーチ』が想い出される。それからほぼ9か月――。役に恵まれたこともあるだろうが、質的な変化と言えるほどの成長を感じた。卒業後にどのような “演劇活動” をしているのか。筆者はまったく知らないが、今回の「クララ」の演技から、それなりの刺激や訓練を受けていることがうかがえた。貪欲にさまざまな役に挑戦して欲しい。

             ☆

   他に印象に残った「役者」としては、何と言っても、アインシュタインの〈〉と先妻の〈ミレーバ〉、そして後妻〈エルザ〉の3役を演じた「清水ミサ」さん。先妻〈ミレーバ〉と後妻〈エルザ〉の “ボクシングファイト” 形式の “女の闘い” は、この舞台の大きな柱にもなったようだ。

   このときの歯切れのよい “台詞回し” と切れの良い “コミカルな動き” は、相当力を入れた稽古と覚悟があったことをうかがわせた。演出のうまさと併せ、この舞台を魅力あるものとした最大のシーンではなかっただろうか。

   あとはやはり、〈父・ヘルマン〉役の「君島史哉」氏に、演出を務めた〈アドルフ〉役の「垣内大」氏。いわゆる “安心して観ていられる役者” だ。  

        ☆

   ただ気になったのは、〈アドルフ〉が、実は「アドルフ・ヒットラー」であったという設定は、「フィクション」(舞台)とはいえ、“歴史観” として、また当世盛んに議論されている “歴史認識” における “視点” として、微妙な問題だ。

   「アドルフ・ヒットラー」という、かなり詳細にその生涯が把握されている「歴史上の人物」の “生涯の一部” を、たとえ「想像力に基づく創作」にしても、またそれが “ごく一部” ではあっても、アレンジする作業は危険が伴う。

   何と言っても「ヒットラー」は、 “人類史上最悪のホロコースト” の張本人であり、疑う余地なくその「生涯の歩みの詳細」や「評価」が絶対視されている。慎重の上にも慎重であって欲しい。

         ★   ★   ★

 

 ※註1:アルベルト・アインシュタイン(: Albert Einstein、1879.3.14-1955.4.18) /ドイツ生まれのユダヤ人理論物理学者。「アルバート」という表記は「英語」表記であり、一般的な表記としては、彼の生国「ドイツ」の「アルベルト」を採用しています。ナチスの迫害を受けてドイツを出国した後は、イタリア、スイスそして米国と渡り、そこで生涯を終えました。

 ※註2:ブログ開始は、2009年4月。今年で7年目となります。