ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

〝走り梅雨〟はある?

2019年05月26日 | 俳句

 今日も暑かったですね。あちらこちらで真夏日を通り越して〝猛暑日〟とか…山口も最高気温は33度。でも、宇部はそこまではないです。28度ぐらいかしら。家の中ではTシャツ一枚でちょうどいいくらいでした。月末ですので、このところ作句と原稿書きで忙しいんですよ!

 でも、今ちょっと気分転換にブログを書いています。明日は句会です。兼題は〝走り梅雨〟。主人と二人で、こんな天候じゃ実感の湧かない季語よね~と、ぼやきながら作句してます。

 歳時記では「五月の下旬から末頃にかけて、梅雨めいた天候になることがあり、その頃の称」と。そもそも「走り」というのは「季節に先がけて出る野菜や果物、魚鳥など。はつもの」という意味から「同種のものの中で、最初となるもの」。それで、ある意味人々に待たれている喜ばしいものに使うんですが、「梅雨」はそんなに歓迎されるものではないのに、なぜなんでしょう?やっぱり農耕民族にとっては梅雨の時期がないと困るからかしら…。

  書架の書の一つ逆しまはしり梅雨      

 馬醉木同人・林翔先生の句です。先生は「沖」の元主宰であった能村登四郞氏と同じ千葉県市川市の高校の国語教師として、長く教職にあった方で、私も馬醉木に入会してご指導を受けた先生でした。では『ウィキペディア(Wikipedia)』にある人物紹介をどうぞ。

 林 翔(はやし しょう、1914年1月24日ー2009年11月9日)は、日本の俳人。長野県長野市生。

 生後10ヶ月で母と死別し、5歳まで祖母に養われる。國學院大學を卒業。大学在学中に能村登四郞と知り合い、登四郎とともに短歌雑誌「装填」の同人となるが、同誌の廃刊後ともに俳句に転じた。1940年、水原秋櫻子の「馬醉木」に入門、1950年、登四郎とともに「馬酔木」同人となる。1970年、登四郎が「沖」を創刊し、その編集長を務め、1983年より副主宰。2001年に登四郎が息子の能村研三に主宰を譲ってのちは同誌の最高顧問となった。句集に『和紙』『寸前』『石笛』『幻化』『春菩薩』『あるがまま』『光年』など。1971年『和紙』で第10回俳人協会賞、2005年『光年』で第20回詩歌文学館賞受賞。俳人協会顧問も務めた。2009年11月9日、膵臓癌により死去。95歳。
 
 今私が受け継いで選評などを書いています「あしかび抄」は、林先生が若手育成のために始められた「馬醉木」のコーナーなんです。その後選者が替わって、私で五代目かしら(?)…いつもその責任の重さにフーフー喘いでいますが、実は今もそれを書いているんです。
 さて、上掲の句、きっと勤勉な先生でしたから、蔵書もたくさんあったことでしょう。見るとその中の一冊が逆しまになっている…う~ん、これはいけんとすぐに直される、そんな先生の姿が浮かびます。何事も不実が嫌い、人の道に反することが嫌い、そんな実直な人柄でしたから、一冊でも逆しまなものがあると許せなかったのでは?今はまだ走り梅雨なんだからいいが、でも〝だらけていてはいけんぞ!〟と、これから迎える本格的な梅雨に対する気構えのようなものを感じませんか? もし違っていたら、先生ゴメンナサイ!
 
 写真は、我が家の〝十薬〟、夏の季語です。もう草取りも暑くなって大変ですので、思いっきり咲かせてから一気に草刈機で…。でも、キレイな花ですよね~。大好きなんですが…
 
 
 
  
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