ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

来年は〝天皇誕生日〟ですよ!

2019年02月23日 | 俳句

 今日は皇太子さまの誕生日。来年からは〝天皇誕生日〟になって国民の祝日になるんですね。明日は私の誕生日…関係ないだけど。エヘッ…  この「天皇誕生日」も季語なんですが、現在は、12月23日ですから冬の季語。それ以前の昭和天皇の誕生日は4月29日で、晩春の季語。崩御にともない改称して「みどりの日」になり季語として残っています。平成天皇の誕生日はどういう名称になるのでしょうね。

   天皇誕生日その恋もまたかたらるる    林翔

 これはもう国民周知の事実、皇后美智子様とのロマンスの〝テニスの恋〟ですよね。ところで、作者の林翔先生…あえて先生と呼ばせてもらいます。だって私が本気で俳句の勉強をしようと思って、直接ご指導を仰いだ一人だからなんです。
 そこで『ウィキペディア(Wikipedia)』より、その解説を見てみましょう。
 
 林 翔(はやし しょう、1914年1月24日ー2009年11月9日)は、俳人。長野県長野市生生。
 生後10ヶ月で母と死別し、5歳まで祖母に養われる。國學院大學を卒業。大学在学中に能村登四郞と知り合い、登四郎とともに短歌雑誌「装填」の同人となるが、同誌の廃刊後ともに俳句に転じた。1940年、水原秋櫻子の「馬醉木」に入門、1950年、登四郎とともに「馬酔木」同人となる。1970年、登四郎が「沖」を創刊し、その編集長を務め、1983年より副主宰。2001年に登四郎が息子の能村研三に主宰を譲って後は同誌の最高顧問となった。句集に『和紙』『寸前』『石笛』『幻化』『春菩薩』『あるがまま』『光年』など。1971年『和紙』で第10回俳人協会賞、2005年『光年』で第20回詩歌文学館賞受賞。俳人協会顧問も務めた。2009年11月9日、膵臓癌により死去。95歳。
 
 林先生にお会いしたことは何度もありますが、とても寡黙な先生で、ご挨拶をしても〝ああ、そう…〟ぐらいしか言って貰えませんでした。先生の『初学俳句教室』が、初心者の私にとっては非常に勉強になり、何度も読み返しました。とてもこまめな先生で手紙へのお返事は、いつも達筆の毛筆でしたね。私の第一句集『風聲』の出版に対しても目を通してくださり、〝いい句集ですね〟と言って帯の十句選をいただきました。そのお礼にお会いしたとき、食事をご一緒しましたが、〝ここのこれが美味しいんだよ〟と言って連れて行って下さいました。また、その時に石田波郷や福永耕二についても話して下さいました。もう15年以上も前の懐かしい話です。
 その林先生からよく聞いた…〝1句10年〟という話。「馬醉木」に投句して1句級を10年間続けて辛抱した結果、やがて巻頭へ上がり同人になったと。信じられないかもしれないが、秋櫻子先生の時代には没も多く、1句載るのさえも大変だったのだ。今の人は辛抱が足りませんよとも。そう言えば、前出の『初学俳句教室』のあとがきに次のようなことが書いてありましたね。
 
 〝戦後の「馬醉木」の興隆を担ったのは、馬醉木新人会の活躍でしたが、私は能村登四郞氏と同時に上位に進出したので、新人会への入会を許されたのも同時でした。新人会は秋櫻子先生が人選され、指導は篠田悌二郎氏に委嘱されていました。或る時悌二郎先生がしみじみ言われた言葉がまだ耳についています。「あなたと能村さんが上位に進出してから一度も下がったことがないのは、下積み時代が長かったから、その間に基礎的な力をすっかり身につけてしまったからでしょうね」と言われたのですが、確かにそういうことは言えると思います。〟
 
 今改めて読み返してみても、ああその通りだと思うことばかりです。先生あの世でくしゃみしていらっしゃるかしら…いろいろと本当にアリガトウございました。これからも先生の教えを守って進んでいきますから、どうぞ見守っていて下さいね。合掌。
 写真は我家の〝椿〟、春の季語です。私はこの藪椿と白玉椿が大好き!
 
 
 
  一つ咲く酒中花はわが恋椿     石田波郷
 この波郷の句で〝酒中花〟が江戸時代からの古典椿で、名花なのだと知りました。実物はまだ見たことがありませんので写真はお借りしました。ゴメンナサイ!
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする