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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

歓談そして空論

2020-06-21 18:48:39 | 丸谷才一

丸谷才一対談集 一九九一年 立風書房
これは2018年の秋の古本まつりでいくつかまとめて丸谷才一を買ったときの一冊、最近になってやっと読んだ。
対談集なんだけど、いままで読んだ文学全集に入れる作品を選ぼうとか源氏物語を研究しようとかってのと違って、もとが週刊誌掲載だからか、極めてざっくばらんな感じ。
文藝評論ぢゃなくて随筆みたいな感じだから、まあ難しいこと考えずにおもしろい話。
相手は、丸谷さんとの共著もあるようなおなじみのひともいれば、不勉強な私は存じ上げないひともいるが、それぞれの専門分野についてわりとわかりやすい話が展開される。
以下、いくつか、さらっと一読したなかで私が気になった箇所など。
山崎正和さんが太平記と能の話から、
>特に高僧でもない、これといった能力もないつまらない坊さんなのですが、これがやって来ると、その前に恨みを込めた亡霊が現れて、一部始終をきいて貰う。これが能の構造そのものなんです。(略)
>現代においても、日本人は自分の苦労を他人に聞いてもらうと、それが結果的に何の助けにならなくても、得心してしまうことがあるでしょう。(p.32)
なんて日本人の気質について言うと、丸谷さんは「そうだねえ。だからNTTが繁盛する。」なんて答えるんだけど、こういうのって現代ではパーソナルな通話ぢゃなくてSNSに移行してるけど、基本的には変わってないんぢゃないかという気がする。
田中優子さんは明治政府による近代化によって天皇の恋歌を切り捨てたことに比べ、江戸時代は正統ではないものでも切り捨てなかったことについて、
>それもあいまいな融通無碍ではなくて、正当なものはまず認めるわけですね。またどんなものも次第に正統なものになってしまう。芭蕉も、俳諧だから本来は正統ではないんだけれども、権威が出てきて表向きのものになる。するとそれに対して反が出てきます。そういうふうに日本の文化には必ず正と反とがある。(略)正反両方を抱え込まないと秩序がうまくいかないとか、宇宙が完結しないという宇宙観が、どこかにあったんじゃないかと思うんですね。(p.55)
という辺境も抱え込むという江戸の文明を解説してくれてるのがおもしろい。
池内紀さんと丸谷さんの対談では、ラブレターがテーマなんだけど、作家の書簡集なんかが残されてたとしても、
>池内 (略)ただ、仮にラブレターを通して、ある作家の人間性が見えてくる、その手掛かりにはなるにしても、ラブレターを読まなければ見えてこないってことは絶対にない。
>丸谷 そういうものを介して人間性を見ようとするのは、そもそも文学研究の邪道だね(笑)。ぼくは、そんなものはどうだっていいんで、某作家の靴のサイズを研究したところで、某作家の人間性は分かりっこないわけで。(p.70)
なんてやりとりをして、そんなものは基本的に読むもんぢゃないって言ってるのはいい意見だ。
平安の王朝貴族の恋文ってのは一つも残っていない、光源氏のようにみんな焼いて処分したんだろうと言い、それに比べて最近の日本人の恋文が残るってのはよくないねって話にもなる。
平安朝の恋文といったら、やっぱ歌を送るってとこがポイントとしてあるんだけど、丸谷さんは「楽しかった」って歌よりも「あなたは私に冷たかった」という歌のほうが多いんだという。
>王朝和歌は、「私は悲しい」ということを歌う形式のものなんですね。「私は幸せだ」なんて歌ったらダメなんですよ。なぜかといえば、王朝和歌は神々の加護を得るために歌うものだからなんです。つまり、相手に訴えかけるのではなく、神々に訴えかけるものだから、「私は幸せです」と歌ったんじゃ、神々は助けてくれないからね。(p.77)
って解説は、目からウロコ、学校ではそういうことを教えてくれよって感じがする、ただペシミスティックなんぢゃないんだ、神々の加護が欲しいんだ。
このラブレターの話はけっこうおもしろくて、「恋文は恋の儀式」ってタイトルにあるとおり、恋文には作法があると。
丸谷さんの言葉によれば、「いままでの型に則って書くというもので、奔放に個性の赴くままに書くようなものではなかった(p.63)」という性質のものだと、恋愛は儀式なんだという。
1880年代のパリにはラブレターの見本帳が本として出てたけど、日本古来の勅撰和歌集の恋の部ってのは「恋歌の手本集」なんだってのもいい解釈だ。
文学を離れたとこでも丸谷さんがビシビシいうことは面白かったりする。
>たとえばね、「JR」。あんなふうに簡単に変えられては困るんだ。そして「JR」なんてみっともないと書いた新聞は、あの名称は使わず、たとえば「旧国鉄」とかで押し通すべきなんだ。そうすれば、むこうだって反省する。悪趣味な名称は徹底して批判する……。そういう姿勢がジャーナリズムにはまったくない。(p.143)
とか、
>僕はかねがねこう思っているんですよ。日本人がテレビを見るのは、出演する人の悪口を言うためなんじゃないか。(略)ほんらい日本人は非常に礼儀正しい国民でしょ。(略)心では思っていても、口にはださない。ところがテレビの前では、平気で悪口を言う。(p.181)
とかって調子。
あと、イギリス出身のデニス・キーンさんが、イギリスでも体罰があるけど、日本の軍隊は個人が力を持ってるのに対してイギリス軍は組織に力があるとして、
>日本人は、自分より上の人を個人として信じてる。西洋人は学校という組織を信じているんです。(略)個人が権力を行使すれば、それに反発してよろしいということなんです。殴ってしまったら、上官の負けなんです。先生が殴れば生徒は反発していい。軍隊時代、われわれ下の者は、いまかいまかと待ってましたよ、上官が暴力をふるうのを。(p.189)
なんて言うところは興味をもった、儀式としての体罰が日本では単なる暴力になったんだと。
私の感覚だと、組織の力を自分個人の力と勘違いしてるやつってのはたくさん見たような気がするが。
コンテンツは以下のとおり。

お定さんとサザエさん 野坂昭如
『太平記』と日本史 山崎正和
江戸人と日本の古典 田中優子
恋文は恋の儀式 池内紀
II
天皇のダボシャツの話 遠藤周作
昔の日本人の字の話 小松茂美
女性管理職が二割を超えたら世の中危ないの話 木村尚三郎
二日酔いにも精力減退にも効く秘薬の話 井上光晴
12球団ファンの質にも洗練の差ありの話 山藤章二
今の日本語はめちゃめちゃの話 百目鬼恭三郎
「絵を買う」とは何であるかの話 山崎正和
日の丸の赤と日本人の色彩感覚の話 和田誠
「朝まで生テレビ」の出演者は視線中毒の話 野坂昭如
日本を理解しようとしてアンパンと苦闘の話 デニス・キーン
なぜ、天皇の恋歌が出てこないのかの話 岡野弘彦
銀座のバーの今昔の話 吉行淳之介
III
なぜ東京が好きなのか 粕谷一希


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