今日は土曜日(13日)だから、誰か歩いているだろうと恐々旧跡御廟谷と額谷(ぬかだん)石切り場跡を訪れた。
熊が出たら大変と掛け声?を掛けながら山を登っていった。
ここは、額谷レクレーション遊歩道と名前が付いているらしい。
遊歩道
最近熊が出ると喧しい性か誰も歩いていないのか何処が道なのかさっぱりわからない。
御廟谷
ながーい階段を登って行くと右に一寸それたところにある。
石碑二基とあるがどれの事を言っているのか分からない。
そこから更に数百メートル登って行くと展望台らしきところに出る。
周り木で覆われていて見通し がきかない。
そこから下り坂を降りていくと旧石切り場に出る。
危険だから中に入るなと書いてある。
洞穴の中は縦横に繋がっているらしい。
中に入ってみたいが、もし熊が潜んでいたら大変。
洞穴が幾つも並んでいる。中で繋がっているのだろうか。
ここは終戦直前に軍事工場になる筈でした。
終戦で機械は据え付けられたものの稼動をすることはなかった。
向こうの風景が見える。ここは、工場とは関係がない只の石切り場だったのだろうか、それとも自然に出来た洞穴なのだろうか。
船の舳先のような岩肌です。
とうとう誰一人で会うことなく終わってしまった。
ここは携帯電話の電波の届かない所である。もし熊に襲われていたら一巻の終り。誰も助けに来てくれないだろう。
長享2年(1488)冨樫政親が一向一揆に攻められ高尾城にて討死した。
実は本当のところ当時は城といった物はなく、峰の上に点々と砦が散らばっていただけという。
昭和45年、北陸自動車道の建設の為、地元で城山といわれていた山の一角が大きく抉られ大量の土砂が持ち去られた。そのことに気付いた金沢大学の偉い先生「全国的にも有名な、大事な史跡を削るとは何事ぞ」と県庁に抗議した。何も知らなかった石川県庁側は、詫びると共に即工事を中止するよう業者に指示した。
その時までは高尾城のことは誰も話題にしなかった。
当時、冨樫政親は何処の砦にいたかは定かでない。
ところが金沢大学 の先生が騒いだ事によって削られた所に城があったといつの間にか決め付けられていった。そこの地名が高尾町だったので、ここは高尾城になってしまった。
その土砂が持ち去れた場所に現在、県の教育センターが建っている。
もしかしたらここ額谷レクレーション遊歩道の展望台のところに冨樫政親がいたのかも知れない。