Action is my middle name ~かいなってぃーのMorrisseyブログ

かいなってぃーのMorrissey・The Smithsに関するよしなしごと。

モリッシー13歳、初めてライブに行く(“Thrasher Magazine” July 13, 2015 インタビュー翻訳1)

2015-07-14 23:49:47 | Morrissey Interview

5月末にシドニーオペラハウス4日間、6月からのアメリカツアーは10日間、

7月も今までに5日間を順調にこなし(アメリカは、8月までにあと8日間)、9月には

再びUKツアー始まり…と怖いくらい順調にツアーをこなしている56歳のモリッシーさん!

 

ニューヨークのライブでもこんな感じ。

お元気で何より。

 

「あのひときらーい!!」

(by Sachyn Mital for The Village Voice)

 

そんなモリッシーの最新インタビューが、アメリカのスケーター雑誌

『スラッシャー・マガジン』に掲載されました。


なぜスケーター雑誌…。

 

スケボーになってるくらいだからスケーターさんにも

需要ありなのかしらん。

(なんかビーバス&バットヘッドタッチなモリッシー…)

 

独占インタビューと言ってるけど、9日付けのBoulderWeeklyとちょっと

内容かぶっているが…まあ、それはいいとして、ぼちぼち訳して紹介したい

と思います。


////////////////////////////////////////////////////


★あなたはマンチェスターで育って、70年代や80年代の「プログレッシブ・パンク」を、いかに

ご自身の血肉としてきたのでしょうか?

 

プログレッシブ・パンクって何のことを言いたいのかよくわからないんだけど、マンチェスターはいつも

レコード屋には恵まれていたし、名だたるバンドがロンドンに次いでライブしようっていう都市だった。

だから12歳からギグやらコンサートに行き始めたし、見るべき時に見るべきアーティストを見てきた。


Tレックス、デヴィッド・ボウイ、ロキシー・ミュージック、ルー・リード、それにラモーンズの初英国ライブ。

パティ—・スミス、デビュー前のセックス・ピストルズ、などなど。誰にライブでも観るのは、とても簡単だった

けど、見れなくて後悔しているバンドは2つある。ジェネレーション・エックスと、Xレイ・スペックス。

1972年にニューヨーク・ドールズを観に行ったけど、彼らはプレイしなかった。そしてその翌年にリーズに

来たけど、当時まだ13だった私にとっては、リーズなんて火星の近くか!?ってくらい遠くに思えたし、

行けなかった。

 

…翻訳を進めようとしましたが、ちょっと待って。

この1972年の、モリッシーが観に行ったけど演奏しなかったニューヨーク・ドールズ、

それはロキシーと一緒にやるはずだった、ライブですね。

 

ツアー中にドラムのビリーがドラッグを服用後、

ホテルの浴槽で溺死している所を発見された…そのためキャンセルになってしまいました。

バンドはその後、新たにジェリー・ノーランを加えて黄金期メンバーとなるわけですが、

13歳モリッシーの失望たるや。。。

 

このインタビューでは「12歳からギグに行き始めた」と言っていますが、自伝によれば

「1972年6月16日」

のTレックスが、初めてのコンサートだったはずです。6月だから、13歳になってるんだな。


Tレックスは私の初めてのコンサートだった。1972年6月16日、父と姉は面倒くさがりながらも会場の

ベル・ビュー(スタジアム)まで車で私を送ってくれた。ふたりは、紫のサテンのジャケットを着て、

ひとりでヨチヨチ歩いていく私を見ていた。精神鑑定されてもおかしくない、その私の姿…。

 

そして9月には、ボウイを観に行っています。

 

1972年の9月、文化のない世界から、ボウイのライヴ会場であるストレットフォード・ハードロックまで

這うようにして向かった。その午後、ボウイが黒いメルセデスからでてきた。彼は8次元において寸分の

隙もなく、ハイヒールでよろめきながら、人類の祖先の持つすべての知恵を備えて、鋭く微笑んだ。

そして退屈な学生の私からノートを受け取り、サインをした。私の吹き飛ばされた魂は、

その時着ていた制服のブレザー(blazer)より燃え立って(ablaze)いた.

そして私は、我々に自由を与える、この改革者の手に触れた。

オスカー・ワイルドのような先見の明を持って、イギリスを作り直す彼。

そして青い制服で苦しむ、このみっともない私。


 モリッシー!せっかくライブに行ってるのに、ゴキゲンじゃないなぁ!(自意識過剰だし…)

しかも、ボウイには会えてるのに(ボランにも会ってます、この人)いつも、スターと比べた

「ちんちくりん」の自分への嘆きで終わるのやめて~!


しかし、13歳なのに、ほんとよく行ける、ライブ。私が13歳の時など、年に何回か

行くのが金銭的に精一杯だったが…まあ、チケ代格差もあるのでしょうが、

(あと、モリッシーんちから比較的ヴェニューが近かったりする)

このお金はどこから?まさか、お年玉崩してる??


(補足)

※なんと!ブログを読んだ、先日渡英し、マンチェスター名所めぐりもされた

 さんより、

「1972年9月にボウイを見に行った、モリッシーん家(384 Kings Road)

のすぐ近くのハードロック、今は当時を偲ぶものは何もなくこんなホームセンターになってるw」

…と貴重な撮影画像をご提供いただきました!ほんとだ~すっごくロックじゃなくなってる…w

敷地はとての広いのね。しゅんさん、ありがとうございます!!

 

 

 



11月9日には先ほどのライブ告知にもあったロキシー・ミュージックに行っているのです。

ああ、モリッシー忙しい~。

 

それから2か月後、同じ会場でロキシー・ミュージックを観た。彼らはファーストLPのプロモーションを

まだその時もしていた。しかし彼らのセカンドLPのジャケットはロビーに飾られていた

—新作を待ちきれないファンに向かって、急進的な輝きを放っていた。私は彼らのサウンド・チェックに

忍び込んだ(無名のバンドはセキュリティーが甘いので、実に簡単だった)。そして私は、会場のロビーで

ピンボール・マシーンをやっていたサックスのアンドリュー・マッケイと話しをした。

マッケイとの出会いはこの世のこととは思えなかったほど、やっかいな少年には、この上ない喜びだった。

ロキシー・ミュージックが彼らのファーストシングル「ヴァージン・プレイン」で、不可解にもチャートの

4位に上ったのは、すべてのことに新しい意味をもたらした。


ヴォーカルのブライアン・フェリーについては「名誉ある北の異国人」「現実逃避家でシャイ」

「海のようにさざめき、妖しい魔力の上をずるずるとすべる」人と形容。

文学的ですが、言い得て妙。

他のアーティストに対しては卑屈になってたのに、ロキシー(特にフェリーさん)に対しては

、ガンガン居丈高モリッシー節炸裂~止めません。

 

「フェリーの笑顔にはヒロシマの原爆のような気分の悪さがあった」

「ステージを右から左へ蟹のようによろよろ歩いた。まるで食器を片づけている人みたいだった」

「冷たい金属のような声で、かろうじてうわっ面でははりきって歌っていた」


1972年当時の蟹歩き食器片づけ色男とその仲間たち…


…ロキシーに対する悪意的コメントたちはさておきw

 

この1972年、モリッシーは、モット・ザ・フープルとルー・リードも観ました。

本当に、モリッシーの原点が詰まった1年だったと言えるでしょう。

私ごとながら、私がザ・スミスを知りモリッシーに出会ったのも13歳。

13歳という大人の階段をのぼりはじめる特権的な時期。

何かで「13歳に出会った音楽を、人は一生聞く」と読みましたが、真実かもしれません。

 

最新インタビュー訳していたのに、脇道にそれ過ぎ。

あ、このインタビューのインタビュアーさんも、ザ・スミスに出会ったのは「14歳」だそうです。

 

★私が初めてザ・スミスを聞いたのは14歳の時。『ラウダー・ザン・ボム』が最初で、この

アルバムは私の青春時代を彩るサウンドトラックとなりました。あまりに多くの人々に

共鳴するこのアルバムのことをどう思いますか?


最初から最後まで、とても愛のこもったアルバムだと思うよ。愛のこもったアルバムであるのに、

手加減してないだろう。だからこのアルバムを聞くと、思いやり深い世界にいるなぁと思っていたのに

その世界が急に極めて野蛮で、しかも完全に現実をつきつけたりするものに様変わりもするんだ。

『ラウダー・ザン・ボム』はロックのファンタジーでもなかったし、ニセモノでもなかった、

聴き手に直接的に語りかけてくるものだったし、商業的なものでもなかった!

しかしとてもよく売れたんだ。


…そっか、だから一枚のアルバムなのに、優しく真綿で撫でられてるかと思えば

いきなり鞭がびゅんびゅんふりまわされるような緊張感もともなっているのか、

モリッシーも好きみたい。久しぶりに聞いてみよう、

…ということで、あっちこっちいってまったく翻訳進みませんが、続く…!


最新の画像もっと見る