ルビーとフーラは犬と猫

愛犬ルビーと愛猫チニタ。罰や「NO!(ダメ)」を一切使わず彼らと楽しく暮らす為の勉強をしています。

見送るということ

2015-01-16 10:32:38 | 諸々

今まで全員自分で看取ってきたから、もうあんな辛い思いをするのは嫌だから任せた、って。
まるで彼らを見送る作業をしたことが損だったような言い方。
その子(伴侶動物)が病気になった途端、自分は怖いから辛いから疲れるから関わりたくないという意思表示をする人が身近にいて本当にびっくりしてしまいます。

でももしこれを読んでいる人の中に上記の様な人がいたら、
「最期はなんとしても自分の腕の中で」
と、そう思える自分を育んでくれるような情報に日々触れる事ができますように。

最期の瞬間に立ち会う自分を支えるものはひとことで言えば”愛情”なのではないでしょうか。
だから日頃から愛情あふれる言葉かけ、態度で接することが出来る様に自分で自分を安定させることが大切なのだと思います。そういうものは相手だけでなく自分のことも支えてくれるものなのだと、フーラを旅立せる時に私は強く感じました。(フーラは2012年に旅立った私の猫です。)

じゃあ愛情ってなに?

暴力や支配、傲慢やもろさとは対局にあるものかなと思います。
そして相手を知ろうとする姿勢かな・・。

例えば犬は、理由があるから吠えるんですよね。
だからなぜ吠えているのか(咬むのか)、その理由を知る為には日々の観察や犬ってどんな生きものかを勉強する必要があると思いますし、そうしていく過程でなぜその子がそうだったのか分かれば(またはたとえ分からなくても、分かろうとすることで)、彼らの寛容さに気づく事になるでしょうし、すると増々その子を知りたい、わかりたい、、、そして愛しい。
そんな風に思える様になるはず・・。
本当にそう思えたら、その子の最期の瞬間を応援できることは感謝に値するとさえ感じる様になると思うのです。

彼らを見送ることに悲しみや寂しさがない訳ではなりません。(私は、ですけど。)
もうずっと会えなくなるということを知っている私には、悲しみを感じるなという方が無理で。
でも悲しみを感じることと、彼らの命を称える事、そして命の終わりを見守れる喜びとは別のもの。

CDSで犬のことを学んでいるうちにそんな風に思える様になりました。
犬の事を学んでいたけれどその学びは、フーラ(猫)を見送るときの(お互いの)支えになったのですね。だから命って根本的なものは一緒なのかなと思います。
1人で旅立つフーラを自分は応援できる、安心させることができる、そういう自信があの時の私を支えてくれたのだと思います。

だから、少しでも多くの人が愛情あふれる犬(猫)との暮らし方を知る事ができますようにと願っています。そして私もそんな発信ができるように、自分を磨いて行かなくては思っています!


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