ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/09/10~09/16

2017-09-16 09:27:01 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/09/10~09/16

2017 日々の聖句 9月10日(日)
わが民は平和の住みか、安らかな宿、憂いなき休息の場所に住まう。(イザヤ32:18)

どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。(2テサロニケ3:16)

私の黙想:
今日の聖句は、その数節前から読むとスッーとわかる。「ついに、我々の上に、霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり、園は森と見なされる。そのとき、荒れ野に公平が宿り、園に正義が住まう。正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である。わが民は平和の住みか、安らかな宿、憂いなき休息の場所に住まう」(イザヤ32:15~18)。これが第1イザヤが描く終末における平和の回復である。力による平和と「正義が生み出す平和」とは次元が違う。軍事力による平和、それは「パワーバランス」にすぎない。その平和は常にアンバランスの危機を含んでいる。とくに現代ではそれは核兵器によるバランス、そんなものが平和であるはずがないではない。戦争の放棄による平和、それを国是とする日本国憲法を私たちは誇りにしなければならない。しかし、アメリカもそして残念ながら日本国政府も「核を捨てる勇気」を持たない。北朝鮮による「対話を求めての核開発(軍備拡充)」も言葉の矛盾である。「安らかな宿、憂いなき休息の場所」、それは決して豪華なマンションでもなく、ガードマンによって守られた宮殿でもない。ゆっくり、安心して睡れるところ、私が求めているのはそういう場所である。主よ、今も「ゆっくり、安心して睡れるところ」を求めている世界の難民たちを顧みてください。

2ー017 日々の聖句 9月11日(月)
あなたのような神がほかにあろうか、咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に、いつまでも怒りを保たれることはない、神は慈しみを喜ばれるゆえに。(ミカ7:18)

神は規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。(コロサイ2:14)

私の黙想:
預言者ミカは、イザヤと同時代の反体制派の預言者である。この預言者が見ている現実は、神の民とは名ばかりで、上から下まで腐敗しきった現状である。既に北のイスラエル国はアッシリアによって滅ぼされている。南のユダ国も滅亡の寸前という状況である。それはまさに神から離れた民族の状況である。その現実を見て、民が悔い改めて神に立ち帰るならば、神は民の中の「咎を除き」、「残りの者」、つまり南のユダ国まで滅亡させないと語る。何故なら、神は基本的には「慈しみの神」だから、というのが今日の聖句の趣旨である。この文章自体は、神への祈りの言葉である。預言者は神へ祈りつつ、その言葉は民に向けられている。フランシスコ会訳では最後の部分を「いつまでも怒りに固執されることはありません」と訳している。「ねぇ、神さま、あなたはそうですよね、いつまでも怒りっぱなしでは神さまらしくない。このままいってしまうと、神の民そのものがなくなってしまいますよ。だから残りの者には慈しみを」という。
ここでは「残りの者」という言葉が重要である。まさにその後のイスラエルの歴史は、すべて「サバイバル(生き残り)」である。

2017 日々の聖句 9月12日(火)
恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。(イザヤ43:1)

私は神からの助けを今日までいただいてきました。(使徒26:22)

私の黙想:
第2イザヤの預言だ。第2イザヤはイスラエル史においてもっとも惨めなときの預言者である。バビロン捕囚の終わり頃で、おそらく預言者エゼキエルと同時代と思われる。このときの預言者たちは口を揃えて、イスラエルの回復を預言した。今日の聖句はまさにその時の典型的な預言の言葉である。現状を見るとき、どこにも「救い」は見いだせない。このまま、世界の歴史からイスラエルは消滅してしまうのか。その時イスラエルの神ヤハウェは、「ヤコブよ」(イザヤ43:1)と呼びかけられた。大丈夫だ、お前たちのことを「ヤコブ」と呼ぶ方は生きておられる。そしてその方があなた方のことを「ヤコブ」と呼ぶ。
「ヤコブ」という名が歴史から消えることはない。彼等を古い名前で「ヤコブ」と呼ぶ方が居られる。彼等にとって「ヤコブ」という名前は、祖国から追い出され、異国をさまよい歩き、祖国に帰りたいが帰れないという状況の中で、神と葛藤した先祖の名であり、そのとき「イスラエル」という名前が与えられたのだ。いわばイスラエル史の幼少期の名前が「ヤコブ」である。ヤコブという名前は、日本人でいうなら「やまと」のようなものだ。日本人が日本人になる前の幼少期の名前が「ヤマト」だ。その名前の響きには「大和魂」が宿っている。ユダヤ人にとって、イスラエルでもなく「ヤコブ」という名前はそういう意味がある。

2017 日々の聖句 9月13日(水)
主の言葉:わたしはあなたを目覚めさせ、行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。(詩32:8)

イエスの言葉:わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(ヨハネ8:31~32)

私の黙想:
この歳になると朝早くに目が覚めすぎるので、「願わくはもっと朝寝をさせ給え」と祈りたい。また、「行くべき道」となると、どういう死に方をするのかを教えて欲しい。と思いながら口語訳を見ると、「目ざめさせ」を「教え」と訳し、「教えよう」の方を「示し」、「勧めを与えよう」を「さとす」としている。今の私としては、この方がスッキリする。フランシスコ会訳では、ほぼ口語訳と同じでさいごの「さとす」を「見守る」とあり、もっとピッタリする。関根先生の訳も味わい深い。新改訳は少々固い訳になっているが、これが恐らく原文にもっとも忠実な訳であろう。文語訳は非常に優しい。聖公会の祈祷書訳では以下にも礼拝式文らしい。岩波訳は「あなたにさとし、示そう、あなたの歩むべき道を。あなたに忠告しよう、あなたの上に目を向けて」で、罪に悩み、ざんげし、赦されたダビデ王に対するヤハウェの思いやりがにじみ出ている。ここで面白いなぁ、と思ったのは、だらかが誰かに忠告をする場合、忠告する者は忠告される者にきっちりと「目を向けて」いるのか、ということである。しばしば、私たちは、わざわざ視線を外して忠告しているのではないだろうか。そう言えば、カトリック教会に常設されている「告解室」では懺悔する者と懲戒師とが顔を面と向かわない構造になっているように思う。目を向けないと言うことが、優しさなのだろうか。

2017 日々の聖句 9月14日(木)
わたしの時はあなたのみ手にあります。(詩31:15、口語訳)

目を覚まし、身を慎んでいましょう。(1テサロニケ5:6)

私の黙想:
今日の聖句、何故口語訳なのか。新共同訳にはこれに相当する語句が見つからない。多分「わたしにふさわしいときに」という言葉がそれに当たるのであろう。フランシスコ会訳では、思い切って「わたしの生涯はあなたの手の内にあります」と訳している。新改訳、関根訳は口語訳と同じ。岩波訳では「わが諸々の時はあなたの手のうちに」。文語訳はほぼ口語訳と同じであるが、「わが時はすべて」と時を複数形にしている。以上を比べてみて、この句の言語がほぼ確定された。
ここでの「時」とは「私自身の全て」を神が管理、支配しておられるのだから、あなたご自身が必要だと思われるときに、どうぞあなたの思うままに私をあしらってください」。つまりそれは14節の「あなたこそわたしの神」とほぼ同じ意味である。
ところで、わたしの頭の中に「機に会う助け」という言葉がちらついて離れない。確かパウロの言葉じゃないかなと思っていろいろ調べても出て来ない。どなたか覚えておられ方がおられたら教えて欲しい。要するに、神は「機(おり)に会う助け」を与えてくださるという意味であるが、どうやら最近では「機」を「おり」と読む読み方はなくなったらしい。口語訳でもほとんど「機会」という言葉になってしまっている。意味は「good timing」あるいは「good chance」である。神は「いつでも」ではなく、「ここという時」、最もいい良い時に最もいい助けをくださる。これを神学者ティリッヒは「カイロス(ギリシャ語で「時」を意味する)」と呼んだ。(今朝はこれを調べているうちに時間切れとなってしまい、朝食後の投稿となってしまいました)。

2017 日々の聖句 9月15日(金)
遠くから流れる冷たい水が涸れることがあろうか。しかし、わたしの民はわたしを忘れた。(エレミヤ18:14~15)

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。(黙示録3:20)

私の黙想:
今日の聖句、前後の状況を示す言葉が省略されているので、文脈がわからない。ともかく、編集者は「わたしの民はわたしを忘れた」ということに集中して黙想せよとメッセージであろう。まったくあり得ないことが起こっている。「わたしの民が私を忘れた」。誰が考えたった、そんなことはあり得ないだろう。ところが実際、そのことが起こっている。つまり、私のことなど、まったく考慮せずに生きている。生きていけると思っている。全てのことを自分たちの判断で、自分たちだけで考えてそれを実行して、やっていけると思っている。そんなことあり得ないではないか。あなたがそこに存在していること、それは遠い先祖からの一つの結果であり、その命の流れの源泉は私から出ているのじゃないか。
自分たちだけで、やれるならやってみろよ。その結末ははっきりしている。全てが荒廃し、ゼロになり、世界中からの笑い者になる(16節)。16節後半を岩波訳では「そこを通り過ぎるものは皆ぞっとして、頭を振る」と訳している。「目も当てられない」どころか、それをみて「ぞっとする」という結末。それが私を忘れ、全てを自分たちだけで決断し行動したら、その結果はこうなる。
最近、隣国の親分が、「日本列島を核爆弾によって海に沈めてしまうぞ」と、脅かしてきている。まさか、そんなことにはならないと思うが、歴史を書き直し、神に対する畏れを失った民の行く末は、世界が「ぞっとする」結末なのだ。

2017 日々の聖句 9月16日(土)
焦って口を開き、心せいて神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ。(コヘレト5:1)

主よ、(ヨハネが弟子たちに教えたように、)わたしたちにも祈りを教えてください。(ルカ11:1)

私の黙想:
「コヘレトの言葉」は以前は「伝道の書」と呼ばれていた、旧約聖書の「知恵文学」で、「教会の書」とも呼ばれていた。箴言と同系統であるが、箴言よりも哲学的で、ユダヤ思想のニヒルな面を代表している。有名な語句としては冒頭の「なんという空しさなんという空しさ、すべては空しい」で、文語訳では「空の空、空の空なる哉。すべて空なり」であろう。しかし、最後の結びの言葉は「すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう」という言葉で結ばれている。私事になるが、私の父の座右の言葉がこれであった。
さて、今日の聖句。鍵の言葉は「神の前に」であると私は思う。口語訳では「神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない」と冒頭に出てくる。他の主要な邦訳でも同じで「神の前で」が冒頭に出てくる。何しろ哲学的なコヘレトのこと、この「神の前で」は場所的なことというよりも「神についての私たちの言説」だと、私は解釈する。「神について、軽率に喋るな」。地上にいる人間が、天におられる神について、何がわかるか。神が在るとか、無いとか、神の属性はとか、何を言っても無駄だ。だからと言って、「一切喋るな」ではない。思い巡らすことは自由だし、いろいろ考えたら良いが、口に出して論じるときには、大口を開くな。どうせ、あなたが何を語っても、それはすべて「空の空」だ。その結論は「神を畏れ、その戒めを守る」ということに尽きる。牧師や神学者に対する厳しい言葉である。

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