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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/10/19~10/25

2014-10-25 09:13:11 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/10/19~10/25

2014日々の聖句 10月19日(日)
主はサムエルと共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。(1サムエル3:19)
パウロの手紙:わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。(1テサロニケ1:5)

私の黙想:
預言者サムエルの他に類を見ない特徴は、神の言葉を聞くということである。まだ、幼い時から地方祭司の家に預けられ、人間の言葉と神の言葉とを聞き分けることができないほど幼かったときから、神の声を聞くという経験をした。その一生はただ「神の声を聞く」ということに終始し、それ以外の何の権威も持たず、学識もなかった。ただ、神の声を聞き、それに従い、必要なときに人に語る。それが預言者サムエルであった。しかし、神の声を聞くというただその「一つのこと」だけで、サウル選び、サウロを捨て、ダビデを選び出し、イスラエルの王制を確立した。「その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった」、何という総括だ。人間の一生を語るにこれほど凄い言葉はない。この部分をフランシスコ会訳では「主は彼の言葉をすべて実現された」と訳している。新改訳は「(主は)彼のことばを一つも地に落とされなかった」。問題は「その言葉」とは誰の言葉なのかということであろう。口語訳は「その言葉を一つも地に落ちないようにされたので」と微妙に訳している。多分、原文は、主が、サムエルの言葉を全て実現したという意味なのであろう。しかし、その「サムエルの言葉」とは何か。サムエルが主の言葉ではない「自分の言葉」を持っていたのであろうか。それはサムエル記を読めばすぐ分かる。サムエルの語る言葉は全て「主の言葉」である。彼は「主の言葉」以外の言葉を持たない。主はサムエルに自分の言葉を告げ、サムエルはそれを人々に語り、主はそれを実現した。これが旧約聖書が語る預言者であり、サムエルは預言者の原型(プロトタイプ)である。現代の預言者(牧師、説教者)は「自分の言葉」が多すぎる。もちろん、私を含めて。

2014日々の聖句 10月20日(月)
乏しい人は永遠に忘れられることなく、貧しい人の希望は決して失われない。(詩9:19)
イエスの言葉:貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。(ルカ6:20)

私の黙想:
本日の詩9編と10編とを一つにして題名をつけるとしたら「世界の裁判官なるヤハウエ」ということであろう。ここでの「乏しい人」「貧しい人」とは「ヤハウエ以外に頼りにするものが何もない人々」を意味する。おそらくそれが、捕囚後のイスラエルの人々の民族的自意識であったのであろう。
「神のみが頼り」というあり方は、現実の世界においては価値が逆転する。神の他に頼りにするものがあるということは、その頼りにするものが失われたとき、あるいは価値がなくなったとき、その人自身もあるいはその民自体が存在の根拠を失い、世界の歴史から消え去る(18節)。
ということで、いきなり使徒パウロの言葉を思い起こす。ここらあたりが「黙想」の強みである。彼は生まれながらに持っていたいろいろ頼りになるものを数え上げた上で、「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」(フィリピ3:7~9)。

2014日々の聖句 10月21日(火)
わたしは言いました。「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。(詩32:5)
わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。(コロサイ1:14)

私の黙想:
簡単に告白できるような罪は大したこと無い。自己の本質を抉られるような罪、それは罪そのものよりも、その罪を犯した自己の本質が露出するような罪、これが問題である。だからそう簡単に白状できない。先ず隠そうとする。誰にというわけではない。究極的な言い方をすれば自己に対して、としか言い様がないであろう。自分自身が犯した罪なのであるから自分自身に対しては隠しようがないが、そんなことを自分がしたという事実を認めたくない。その自己の内奥における葛藤、苦しみ、それが「神に対する罪」である。
幼い頃にはそれは「親に対する罪」として体験される。親の目からは何が起こったのかミエミエなのであろうが、その時の親の姿勢が重要である。簡単に見過ごしてはならないし、赦してはならない。徹底的に、それを子どもが、子どもの口で「告白(白状)」するまで赦してはならない。私の親はそういう親であった。私はかなり頑固な子どもであったので、そういう経験を何度か繰り返した。とうとう根負けして、罪を認める。そして親から赦され、やっと食事が与えられる。その時の開放感、明るさは経験したものにしかわからない。これが私の信仰の原風景である。

2014日々の聖句 10月22日(水)
主の言葉:彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答えよう。(詩91:15)
すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。(ロマ10:12)

私の黙想:
詩91は面白い構造になっている。13節までは「あなた」に対するヤハウエとはどういう方かということについての教訓で、14節以下はヤハウエ自身の言葉になっている。ここでの「彼』とは13節までの「あなた」である。つまり詩人自身はあなたとヤハウエとを仲介する形、ヤハウエの言葉を背景にしてあなたに教訓を垂れる「教師」あるいは「説教者」である。つまり、今日の聖句で言うと、「あなたがヤハウエを呼び求めるとき、ヤハウエはあなたの願いを聞いてくださる」という説教である。つまりヤハウエとは「応答する神」である。他の神々は「口があっても話せない」(詩115:5、135:16)。しかしヤハウエは「呼べば応える神』である。
パスカルにとって哲学者の神と「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」との違いは、この応答性にある。観念的な神と現実的な神との違いはここにある。神を経験するとは、呼んだ時に応えられたという驚きである。

2014日々の聖句 10月23日(木)
なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることを説明されない。神は一つのことによって語られ、また、二つのことによって語られるが人はそれに気がつかない。(ヨブ33:13~14)
イエスの言葉:空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。(マタイ16:3)

私の黙想:
ヨブ記32:1~37:24はエリフという人物の弁論というよりも「神学」である。資料的にはいろいろ説があるが、ここでは取り上げない。エリフは突然ここに登場する謎の人物である。興味深いことはエリフの神学にはヨブは一切答えない点である。エリフの神学はまさに正しい。完璧に近いほど正当な神学であり、ここで論じられていることはそのまま新約聖書の神学にも通じ、現代の神学にも通じる。
今日の聖句の部分をフランシスコ会訳では次のように訳されている。「あなたは、なぜ、神と言い争うのですか、神が一言もあなたの言葉に答えてくださらないからといって」。「神はある方法で語り、また、別の方法で語られますが、人は悟りません」(新改訳もほぼ同じ)。
しかし、ここが重要である。著者または編集者にはそういう意図はなかったかもしれないが、ここに注目してほしい。エリフの神学的演説がひと通り終わった後、何の説明もなしに、突如、神が語り始める。「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは」(38:1~2)。これは一体ににを意味するのだろうか。文献的な立場から、あるいは語義的立場から、いろいろ解釈できるであろうが、私自身は、ここに神学の限界が示されていると思う。どれほど優れた神学であっても、神学では人は救われない。神の言葉が登場しなければ、いや、その人自身が神の言葉を聞かなくては、人は救われないし問題は解決しない。たとえ、その語られている内容が同じであったとしても。そこが神学と説教との違いである。

2014日々の聖句 10月24日(金)
今日までしてきたように、ただあなたたちの神、主を固く信頼せよ。(ヨシュア23:8)
キリストの言葉:わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。(黙示録3:11)

私の黙想:
指導者ヨシュアのイスラエルに対する激励の言葉。「今日までしてきたように」、何という慰めの言葉だろう。今更、生き方を変えよと言われても、それは非常に難しい。しかし、この言葉には「今までのとおりで良い」という現状肯定の響きがある。反省してみれば、今まで何をどうしてきたのだろう。自分自身の中には悔いと反省とがある。課題はまだ「あなたたちのうちに今なお残っている」(7節)。しかし「今のままで良い」と言われる。そう言われて安心して緊張が破れ、怠惰になってしまうなら、その人はそれまでだ。しかし「今のままで良い」と言われたら、かえって「今まで以上の人間になろうとする」。それが信仰である。いや、「愛(人情)である」と言うべきか。そこに希望がある。「今までしてきたように」という一句に信頼(信)と人情(愛)と期待(望)とが込められている。ヨシュアという男は偉大だ。

2014日々の聖句 10月25日(土)
わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。(申命記15:11)
あなたがたも同じように心を広くしてください。(2コリント6:13)

私の黙想:
申命記は、荒野において与えられた十戒を「約束の地」に入ってからも守るようにと、モーセ自身が民全体およびその指導者たちに解説された形をとって語られている。本日の聖句の前提になる「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう」は4節の「あなたの神、主は、あなたに嗣業として与える土地において、必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなる」という言葉と矛盾するが、それは「建前(理想)と現実」あるいは「全体性と個別性」の対立ということで理解されるべきであろう。全体として(国民総生産)としてどれほど豊かになったとしても、社会的現実においてはほとんど必然的に、富者と貧者を生む。そこで民族の指導者たちに与えられている課題は、この現実的問題をどう解決するのかということにある。国民全体が豊かになるのは国民全体の課題であるが、そこに生じる貧富の格差をどう解決するのが政治家の責任である。富者をますます富ませるのは政治家のするべきことではない。政治というものは、あくまでも貧者の立場に立って、「貧しい者に手を大きく開く」こと、つまり金持ち連中の所得を削り、それを貧者に分配する、つまり所得の再分配である。それが「税」ということでなければならない。金持のために、便宜をはかることに戦々恐々とする政治家は恥ずべきである。

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