ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

松村克己『ヨハネ福音書講釈』再話(11)<15:1~16:33>

2015-06-25 08:11:46 | 松村克己関係
松村克己『ヨハネ福音書講釈』再話(11)<15:1~16:33>

第15章

この章の前半には有名なぶどうの木の譬えが記されている。それはイエスと弟子たちの交わり、愛の関係を生命の関係として説いたものである。と同時に、この関係の背後には弟子たちとこの世との険しい関係があることを忘れてはならない。弟子たちに対してこの世が憎むのにはそれなりの理由がある。それは信仰者として生きるということに伴う必然性である。それを語っているのが18節以下の部分である。

1.ぶどうの木の譬  (1~17)
イエスと弟子たちとの愛の共同は、生ける有機的生命的な関係である。生命の源であるイエスを離れるならば弟子たちは何者でもない。この譬えはコリント人への第1の手紙第12章における身体とその部分との譬えを思い起こさせるが、パウロの譬えでは身体の部分相互の関係に重点が置かれていて、印象はこの譬えに及ばない。この譬えは13章34節のあの「新しき戒め」を可能にする理由、根拠を示している。最後の晩餐の際に弟子たちと共に飲んだワインを連想して生まれたのかも知れない。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる」(6:56)の「わたしにおり」ということを明らかにする譬えである。

1節
「わたしはまことのぶどうの木」と語りはじめられる。これは前に出て来た「まことのパン」、「まことの食べ物」(6:32,55)を思い出させる表現である。「まことの」とはヨハネ福音書では「霊の」「霊的」を意味する特有の表現である。そしてこの譬えは5節で「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とはっきり出てくるが、ここでは「わたしの父は農夫である」と別の点が先ず注意されている。イエスは父によって植えられ養われ管理される樹木である。この譬え話において「父」が見失われてはならないことが示されている。果樹園においては必ず剪定ということを行う。「手入れをして」と訳されている言葉はこのことを意味している。
神の国は自然の国ではなく、神の意志によって形成される国である。実を結ばない枝は無駄に場所をふさぎ、他の枝の実に行くべき養分を浪費してしまう。それで、それを防ぐために切り取られる。これが神のやり方であり、選びと呼ばれるものである。自然のまますべての人が救われるのではなく、現実には救われる人と救われない人とがいる。「なぜ」と問うことは許されない。「陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか」「造られたものが造った者に向かって、『なぜ、わたしをこのように造ったのか』と言うことがあろうか」(ロマ9:20,21)とパウロは反問し、「神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう」(ロマ11:22)と言っている。「既にきよくされている」(15:3)。彼らは剪定によって残されたものである。「わたしが語った言葉によって」。イエスが語った言葉を信じ、「これを守る人」(14:21)、その言葉が彼らの中にとどまる(5:38)ことによって、彼らもまたその言葉にとどまる(8:31)からである。4節に「わたしにつながっていなさい」と命じられているのはこのことである。
イエスは暗黒を照らす光として彼の言葉は人の罪を明らかにし(22節)、しかもこれを超えて交わりを確保している。この言葉は「霊であり、命である」(6:63)ことによってこのことを可能にしている。信仰とは言葉を聞くだけではなく、その言葉を内に保ち、これに従い、これを行うことがその言葉に「つながっている」いうことである。そうすれば「わたしもあなたがたにつながっている」(15:4)。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」、「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように」。「実を結ぶ」とは神より栄光を与えられることであり、神に栄光を帰することである(8節)。信仰によってなされるすべての行為、すべての徳(ガラテヤ5:22)、それらはすべて神に仕えることである。そしてこれらのものの果てが永遠の生命にへと至る。これらのことを語りながらヨハネの脳裡にある中心的なものはあの13:34の戒め、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し愛なさい」であっただろうということは8節の言葉「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となる」や、また12節にこの戒めが繰り返し述べられているところからも明らかである。

7節
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」。ここでは2つの重要なことに注意しなければならない。前半の前提になっている言葉は4節の「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっていよう」、5節の「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば」を要約したものであるが、「つながっている」という言葉は神人合一を説くようないわゆる神秘主義を意味しているのではなく、人格的な共同関係、愛を指し示していることは、9節以下にこの関係が明瞭に「愛」という単語で説明されていることで明らかである。そしてこの人格的共同を基礎付け支えているものこそ彼の言葉に他ならない。
ヨハネ文書の思想について、神秘的であるとか、神秘主義であるといわれるが、表現が神秘主義的であるということは必ずしも彼の信仰、思想が神秘主義でありまた神秘主義的であることを意味しない。人格的共同、愛の関係というものは必ず神秘的なものを含んでいる。しかし、このことと神秘主義とは明確に区別されなくてはならない。第2に注意しなければならないことは、このような共同関係が成り立っているならば「求めよ」、という奨めであり命令である、という点である。共同とは互いに他なる主体が共に生き共に何かをするということであり、それを可能にしているものが愛である。ところで愛とはただ与えることでもなければ、ただ奪うことでもない。惜しみなく与える愛(アガペー)も、これを受けとめ、感謝をもって応える愛(信仰)がなければその愛は現実に実を結ばない。共同関係が樹立され得ない愛は片思いの愛、観念的な愛、独りよがりの愛であって、いずれにしても悲劇的であり、愛に固有なあの喜びと生命とを経験できない。同じように惜しみなく奪う生物的、本能的な愛においても、ただそれだけでは愛は欲望と同じで、共同ということは成り立たない。共同は与えると共に受け取り受け取りつつ与えるという交互関係が不可欠である。
イエスが語る言葉は、繰り返し述べられているように、自分の言葉というよりもイエスを派遣した父なる神が語らせている言葉である。イエスの行為も同様である。だからこそ、それは「霊であり生命である」と言われた。神が求める愛に対応するものが信徒の求め、応答としての祈りである。互いに求めあうということは相手への信頼の上に成り立つ。従って「望むもの」「求めるもの」も決して恣意に基づく自己中心的なものではあり得ない。相手の意思を求めつつ、なされる愛においては。だからこそ「なんでもかなえられる」という約束が与えられる。求める祈りがないということは、わたしたちの愛がまだ十分でなく、恐れを持っているからである(1ヨハネ4:16~18)。
9節は愛を求め、呼びかけ、追及を語っている。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである」とはそれであり、「わたしの愛のうちにいなさい」という言葉は、だからあなたたちもわたしを愛して欲しいという意味である。イエスを愛する道は「その戒めを守る」ことであり、それはイエスが父なる神の戒めを守ることに対応している。このようにして、父なる神とイエスとの愛の共同は、イエスと弟子たちとの愛の共同へと移され、同時にこれを基礎付けるものとなる。「父なる神──イエス──あなたたち」との間には類比的(再話者注:アナロギア)な並行関係が見られる。神対イエスはイエス対弟子たち、この式の何れの側においても愛に居る条件は同じ服従ということである。

11節
11節以下には、10節までで語られたぶどうの木の譬えを離れて、愛の共同という同じ思想がさらに詳しく語られている。「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである」。交わりの樹立、それが神の愛の目標であり、イエスが語り、教え、働く目的であるが、この目的が達せられるところには言語に絶する「喜び」がある。信仰が愛の共同であるならば「喜びが満たされ」てない信仰というものはあり得ないし、喜びのない信仰というものはどこかに誤りがあると言わねばならない。恐らく、その信仰は単なる信仰であって「愛によって働く信仰」(ガラテヤ5:6)ではないからであろう。だからこそ、イエスは今も、生命と喜びに生きる信仰を求めるならば、わたしの言葉を守り、わたしの愛にとどまれと訴えつつ、その戒めを繰り返す。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」。
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」、実際に自分の命を捨てることは兄弟愛の頂点である。これをイエスは一片の教えとして語っているのではない。「わたしがあなたがたを愛したように」という彼の愛は「友のために自分の命を捨てる」愛として現実に示されたのであった。イエスは弟子たちを友と呼ぶ。「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」。この「わたしの命じること」とは彼の言葉、特に互いに愛し合えという戒めを指している。僕は主人の命じることを行うが、これを単に義務として行い、形だけで行う。もし命じる者の心を知り、彼を愛し彼の心を絶えず自分自身の心として行う場合には、もはや単なる僕ではなくして同時に友である。普通の僕は「僕は主人のしていることを知らないから」、ただ命じられていることを行うだけにすぎない。しかし、イエスは弟子たちをそのように考えず、またそのような存在であることを望んでいない。イエスは「父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせた」、彼自身が行うこと、その意図を弟子たち知らせ、共に分かち合い、協力し合うことを求めている。「弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない」(マタイ10:24)というイエスの言葉は常識的には、イエスは神の子であり、わたしたちは罪のある者であり、信徒とイエスとの間には超えがたい溝がある、と解釈されやすい。しかし、イエスがこのように語り出したのは、そういうことを教えるためではなかった。マタイ福音書の場合には、この言葉には「弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である」という言葉が続いている。この「十分である」という翻訳は不十分である。この言葉の真意は「わたしは満足する」ということであり、弟子たちに対するイエスの嘆きをあらわし、彼らを叱っている言葉である。ルカ福音書ではこのことを裏書きするように「弟子はその師以上のものではないが、修業をつめば、みなその師のようになろう」(ルカ6:40)と記している。弟子が師のようになる、僕が主人のようになるというのは、弟子が弟子であることをやめ、僕が僕であることをやめることではない。ただ彼らがその師、その主人の心を知ってその命じるところ、求めていることを行う時には、友となるのだという意味である。命じることを行うということも必ずしも言葉通りではない。言葉通りに行わないことが主人の心に適う場合すらある。信頼する弟子また僕とは、一々命じることをその通りにしなくても、その心を知り時に応じて働く者である。信仰のこの面、この姿勢をとらえることは非常に重要である。「神の僕」とはそういう意味で「神の友」でなければならない。だからこそ、アブラハムも神の友と呼ばれ(イザヤ41:18、歴下20:7、ヤコブ2:23)、預言者もそう呼ばれている(外典ソロモンの智慧27節)。友のために生命を捨てることは最大の愛であるが、人はまた友のためにのみ、しかも喜こんで命を捨てることが出来るのであって、神が単に畏るべきものにとどまる間は人は神のために殺されることはあっても、神のために命を献げるということはあり得ない。犠牲と喜びとはここでは対立し背反し、あるいは並立するのではなく、一つである。ヨハネの描くイエスの特色の一つがここにあり、それは愛の秘密に他ならない。

16節
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」。イエスは弟子たちを愛の相手として、ただ共同という現実を実現するために選んだ。弟子たちがイエスを選らんだのは必ずしもそういう目的のためではなかった。「あなたがたがわたしを選んだのではない」という。12使徒選任のことについて書いているマルコ福音書の簡単ではあるが含蓄の深い語を注意すべきである。「彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった」(マルコ3:14,15)。イエスが彼らを選らんだのは単に伝道の補助者としてではない。むしろ、第1目的は彼らと共に生活することであり、そのことから使命を共にする自覚に生きて初めて彼らは派遣されるのであった。彼らの「行って実結び」とはこのようにして世に遣わされて(マタイ28:19)使命を果たすことを指している。彼らの実(活動)が火に経験されて残り(1コリント3:13~14)、「また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父が与えて下さるためである」。イエスは彼らを共同の相手として「あなたがたを立てた」という。使命の自覚はますます本来立つべき場所、そこから出て行き、またそこの帰ってくるべき場所、イエスとの交わりを明らかにする。そしてそれが保たれ、また実現される場所こそ、信徒の交わり、またキリストの体としての教会である。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。

2.世の憎しみ  (18~27)
この主題は実は16:4までをひとかたまりとするべきであろう。
互いに相愛することをもってイエスの弟子であり、神の子たることを証しする弟子たちに対して、世は必ず憎しみをもって対するであろうが、そのことを驚いてはならないとイエスは彼らに語る。イエスと弟子たちとの愛の関係の背後にはこの世との関係が横たわっている。この世の弟子たちに対する憎しみはイエスに対する憎しみである。「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい」。この「先に」は時間的にも程度の上でも言われる。イエスは神より遣わされた者としてこの世にとっては異質的なもの、異分子である。そして「わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである」。それによって彼らもまたこの世にとって異分子となった。「あなたがたはこの世のものではない」。「だから、この世はあなたがたを憎むのである」。「もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう」。
ここに弟子たちの愛がこの世の愛と異なることが暗示される。「『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい」。この言葉はヨハネ福音書にはここ以外には出て来ないが、前に述べたように、共観福音書にあるので読者はよく知っているということで、このように述べられているのであろう。そしてここでもまたこの言葉が引合いに出されているのは、主人と僕とが同じ場所に立ち、同じ責任・運命を担う仲間であり、友だという点を強調するためであろう。僕より主人の方がより大きく憎まれるという点を主張しているのではないであろう。それは次の言葉からも明らかである。世の人がわたしを責めたとするならば、その事実からしてお前たちをも責めるであろうことは当然予想されることであり、わたしの言葉を守った人があったとしたら、その人はお前たちの言葉をも守るに違いない。「彼らはわたしの名のゆえに、あなたがたに対してすべてそれらのことをするであろう」とは弟子たちがイエスの名を担うこと、彼の弟子であることによって、という意味である。弟子たちを責めその言葉を聞かないのは「わたしをつかわされたかたを彼らが知らないからである」。信仰の側で、父――イエス――弟子の間に類比的連続(アナロギア)の関係が存したように、不信の側でも同じような関係が並行してある。父を「知らない」というこの無知はもちろん自然的なものではなく道徳的なものであり不信による。不信は罪である。だから世の人々は今となっては、言い逃れる道がない(22節)。イエスの言葉がそのことを明らかにし、彼らの良心もそれを否定できないからである。「もしわたしがきて彼らに語らなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう」。これは9:41の言葉を思い起こす。罪は決して孤立し静止してはいない。義理にからみ、さらに罪を重ねて行く。不信は信じないという消極的な事柄にとどまらず、積極的に相手を否定しこれを憎む。弟子を憎むということは彼を憎むことであり、彼を憎む者は父をも憎む者である。そしてやがてすべての者を憎むにいたるであろう。彼らにはこのことが彼の世に来たことによって顕わになった。彼の語った言葉によってだけではなく、彼の行った行為によって。彼の行為は「ほかのだれもがしなかったようなわざを」であり、彼を見た者はその意識において何と解釈し、またこれを否定しようとも、その背後に神が存在することを感じざるを得なかった筈である。彼を否定する者は神を否定し、彼を憎む者は神をも既に憎んでいる。
25節は著者の註である。聖書の引用は詩編35:9、69:4である。
さて以上の真理は聖霊の証しによって明瞭となる。共観福音書ではこのことが「人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない」(ルカ12:10)と伝えられている。聖霊が「真理の霊」と言われるのは、イエスの言葉と行為とが神のそれであること、父と彼とが一つであることをわたしたちの内面に明らかにする霊だからである。従って聖霊の一つの重要な働きは「わたしについて、あかしする」こと、彼が神の子であるということをわたしたちの良心に示すことである。宗教改革者たちはこれを聖霊の内的証明と呼んだ。――聖霊の今一つの重要な働きは愛で、信じる者のうちに交わりを樹立し、かくてこれを潔めることである――。聖霊の内なる証しに対応して外なる証しがある、それはイエスを信じる者のそれ、信仰の告白と愛と行為とによって彼を絶えず指し示すことである。「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから」とイエスは言う。イエスに従い彼と共に生きた弟子たちによってイエスの言葉と行為、その生涯の内的意味が解釈されて人々に対して証言される。この解釈と証言とは根本的には彼らがイエスの復活に出会うことによって与えられた聖霊によって可能にされたものであり、また使徒たちの証言を通して聖霊は人々の内面に働く。聖書は根本的に言えばすべて使徒の証言に他ならない。
以上に述べた関係が宗教改革者によって聖書(神の言葉)と聖霊との内的循環と呼ばれたものであり、一が神の言葉の形式的原理、他が実質的原理として区別され、しかも引き離すことができないものと考えられた理由である。

第16章

既に述べたように4節までは15章後半に続く部分であり、5節以下は別離を告げたことによって憂いに満たされた弟子たちに対して、このことが聖霊が降るために必要なこと、また聖霊の働きと意義とを語る。また聖霊が与えられることによって弟子たちは真に祈ることと喜びとを悟ることになると語る。祈りはキリストとのまた父との交わりを現実に生き生きと経験することができる唯一の道である。祈りにおいて弟子たちはもう一度キリストを見出し、再度見失うようなことにならない勝利の秘密であることを教える。
15章、16章にはキリスト教信仰の概略が語られていると見てよい。そしてその背後には聖徒の群れが繰り返して守べき晩餐がある。逆に言えば、教会は聖餐式のたびにこれらの言葉を思い出して信仰の慰めと生命とを新たらしくし、世に戦い出るべき力が与えられることを著者は期待している。

1.つまずかせないため  (1~4)
イエスは自分が世を去った後、弟子たちが混乱することを予想している(16:32)。必ず彼らはつまずくであろう。しかし、その時彼らは倒れてしまうことなく、つまずいても再び立ち直って行けるように、寄って立つべき根拠をしっかりしておかねばならない。「彼らの時がきた場合、わたしが彼らについて言ったことを、思い起させるためである」。そのために彼らの心に刻み込んでおく必要がある。イエスが群衆への活動を打ち切って弟子たちの教育に没頭したのもそのためであった。ことに、最後の時が近づいたことを意識し始めたときから、心を砕いてこのことに専心した。その様子はどの福音書にも明らかである。「わたしがこれらのことを語ったのは、あなたがたがつまずくことのないためである。人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう」(1~2節)。
これらの事実はヨハネの当時、小アジヤ地方で見られたものであろう。使徒行伝もこのことが各地で行われたことを記している。つまり、このことはイエスの時代のことではなく、イエスの死後のことである。これらの迫害は非ユダヤ人から起こったことではなく、狂信的なユダヤ人から起こった。「彼らがそのようなことをするのは、父をもわたしをも知らないからである」。狂信とは「知らない」のに「思う」(2節)ところに生まれる。パウロも聖徒たちを迫害していたかつての自らの経験を想起して、申し訳なかったという気持ちから彼らの「思い」を同情して説明している。「その熱心は、深い知識によるものではない」(ロマ10:2)。信仰において知識は不可欠であることはヨハネもパウロも共に強調する点である。しかし、なぜ、「これらのことを初めから言わなかった」のだろうか。その理由は「わたしがあなたがたと一緒にいたからである」。しかし、「けれども今わたしは、わたしをつかわされたかたのところに行こうとしている」(5節)。だから、これを語らなければならないという。その言葉には、しんみりとした雰囲気が語調にも漂っている。

2.霊の働き  (5~15)
何回か繰り返して語られる「わたしをお遣わしになった方のもと行く」というイエスの言葉に弟子たちはもう「どこへ行くのか」と問わない。次々に語られる言葉にただならぬ気配を感じ、弟子たちの気分は滅入るばかりである。イエスは彼らを励ますようにして言った。本当は「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ」。「わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう」。キリストは父の許に行き、地上での制約から解放されることによって、さらに大きな仕事をする霊を弟子たちに遣わすことが出来る。人間は別れることを悲しむのが常である。しかし人格的関係の成長と深化のためにはしばしばこのこと別離ということが必要な場合もある。
一度母国を離れて、そこから母国を見たとき、本当の母国の姿や母国を思う心が与えられる。同様に、一度見失い離れたときそのものの真の価値を知るという経験をする。もしイエスが道半ばにして十字架上で死ぬということがなく、天寿を全うしていたなら、あるいは彼の事業がパリサイ派の人々にもある程度理解され、成功していたとしたら、キリスト教はどんな発展の仕方をしたのだろうかと想像してみる。恐らく仏教のようなものとなっていたのではなかろうか。彼が未完成にして世を去り、弟子たちが未完成にして残されたところに重要な意味がある。キリスト教の動的性格、その創造力はここに由来しているとは考えられないであろうか。
別離の悲しみが弟子たちを包んで、このことの意義、イエスが父の元に行くということの意味を誰も考える者がいない。「どこへ行くのか」と問うてくるならばこのことを当然考えてくるであろうに。イエスは弟子たちに対って、彼が去ってやがて彼らに来る助け主、聖霊が彼らにとって何を意味するか、どんな働きをするかを告げて、去ることが彼らの益であるという意味を明らかにしようとする。

8節
「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」。彼は「真理の御霊」として「わたしについてあかしをする」からである(15:26)。ユダヤ人、つまり世はイエスを犯罪人として殺し、また弟子たちを同じく責めて、「自分は神に奉仕している」(16:2)と考えているが、やがて真理は彼の側にあって彼らが間違っているということが明らかになる。「彼らがわたしを信じないから」である。不信は真理の認識を阻み誤りを犯させる。「義について」は逆に、彼らはこれを自分たちの側にあると信じているのであるが、「イエスが父のもとに行き、あなた方がもはやわたしを見なくなる」ようになって、彼の側にあったことが明らかになる。またイエスを審いた彼ら(この世の君)の審判は、彼を十字架につけたことによって彼ら自身が「断罪されること」になる。

12節
「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」。イエスにして見れば、後に残す弟子たちに言い遺しておきたいことは次から次へと果てしなく出て来たであろう。しかし理解できないことを多く注入することは無駄に混乱をひき起こすだけである。最も重要な事柄、中心的な点を明瞭に印象づけておくことが肝心である。それは彼が去って後、地上の彼に代わって弟子たちの導き手、助け主となる霊のことである。繰り返し語る主題はここにある。彼は弟子たちを父の配慮に委ね、この彼に代わって来る霊の働きに委ねる。ただこのことを弟子たちに語れば十分である。「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる」。聖霊は内的発展の原理である。イエスの語った言葉を思い出させるだけではなく、その内的意味の理解、新しい解釈を可能にする。ヨハネ福音書が聖霊について多くを語っているのは偶然ではない。徐々に若さを失って固定化しようとする教会に、人々に啓示の現実とその発展とに注意させるために生命の霊として提示したものが聖霊だからである。
ヨハネはドグマを固定することに反対し、あらゆるドグマの源、それを生み生かす原理を強調する。新約聖書の啓示を発展的に把えたのはヨハネであり、新約聖書中にヨハネ文書の占める地位の重要性は、上に述べたように後代の教理的発展、神学形成の道を拓いた点にある。「それは自分から語るのではない」。聖霊は独立した存在ではない。父と彼とに密接に結合されている霊である。それは「わたしが父のみもとからあなた方につかわそう賭している助け主」(15:26)であり、「父のみもとから来る真理の霊」(同)である。だからその語るところは「それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」。「聞くところ」とは父と子とから聞いたことである。「来たるべきこと」とは、未来の出来事を予示するというよりも、――それも含意されてなくはないが――むしろ、弟子たちがどのように歩むべきか、その方向にあるものを一歩一歩告げるという意味であろう(マタイ10:19)。そしてそれはイエスの心、意志として示されるので、聖霊の導きは「わたしに栄光を得させる」こととなる。「彼のもの」は「父のもの」であるから、それはまた父の栄光を顕わすこととなる。聖霊はこのように神の霊でありまたキリストの霊であると言われる(ロマ8:9)。

3.別離と再会 (16~33)

16節
「しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」という言葉は再会の約束である。死の別離をおぼろげながら予想していた弟子たちにとってこれは理解できない言葉として受け取られた。それでこれは何のことだろうと互いに言った。ユダヤ人たちが彼は「どこに行こうとしているのだろう」(7:35)と疑問に思ったのと同じである。またこの「しばらく」とはどういう意味だろうと弟子たちは話し合った。もし、どこかに行くということならば、この「しばらく」ということも理解できるが、「死の別離」を意味しているとしたら理解できない。先には「あなたがたはだれも、『どこに行くのか』と尋ねない」(16:5)と言われたが、弟子たちはやっとこの質問に近づいてきた。イエスはここで言葉を改めて教えようとする。彼の別離はどこかへ行くのではなく死の別離である。従って彼らには「あなたがたは泣き悲しむ」が、「この世は喜ぶ」ことになると、はっきりと語る。しかし「あなたがたは憂えているが、その憂えは喜びに変わる」と。それは再会の喜びである。復活が弟子たちにもたらした直接の結果は「喜び」であった(20:20)。
イエスはこの別離がこの喜びに変わることを確信している。今の憂いは出産が近づいた妊婦の憂えに比べられる。それは大きな喜びのためには避けることができない前奏である。イエスにとっても弟子たちにとっても。「女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである」。既に述べたように、イエスの復活の経験は弟子たちにとっては聖霊の経験に他ならない。彼らは聖霊を受けて新しい人として生まれたのである。彼らのこの新生のためにイエスの側にも苦痛があり、このことを告げられながら未だ経験していないことであるだけに理解出来ず、悟ることができない。そのために弟子たちの間では悲嘆が彼らの心を閉ざしている。弟子たちもまた、いつ迄も先生にぶら下がって歩く幼児ではなく成人して子を産めるようになるために苦痛の時を過ごさなくてはならない。復活の経験の主調となった喜びは、彼らの中に死をも怖れぬ力となり、イエスをキリストであると宣べ伝えて信じる者に救いを得させる神の能力の担い手、その器となって、神の子たちを生んで行った。「その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」ということは本当であった。復活は躓いて信仰を失おうとしている弟子たちへのイエスの愛の追及であり、それが彼らの心を把えその眼を永遠の世界へと開くことによって、彼との尽きぬ愛の交わりの回復、充実を経験したことに他ならない。「その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう」。イエスを再び見、彼と共に歩んだ地上の交わりが永遠の交わりとして確保された今、彼らはもうかつてのように問うことを必要としない。「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(2コリント5:17)。

24節
地上における先生あるいは主を失い、再び彼を霊において見出した弟子たちは初めて本当に祈ることを学んだ。「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった」。聖霊を受けるまで、彼らは祈ることができなかったし、また祈る必要もなかった。イエスが共におられたからである。しかしこれからは「求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」。
「わたしはこれらのことを比喩で話した」と言う。比喩とは衣を被せた言葉という意味である。16節の「しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」というように、曖昧で謎のような言葉でイエスは語ってきた。「父のこと」、神の国の消息については、イエスと弟子たちとの間には経験の有無によって超えられない溝があって、イエスが語る言葉は、比喩でなくては語られないものであった(マルコ4:34)。しかしもうその必要はなくなり「あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう」と言う。地上を去った彼が聖霊として来られ弟子たちに内側から、即ち彼らが経験において知ることができるように、すべてのことを教えるからである。霊なる彼と共に生き共に歩くことによって、弟子たちは彼と共に父の子であることがわかる。従ってその日には、彼らが「彼の名によって」――共なる彼と共に――求める祈りは直接父への祈りとなり――アバ父よ(ロマ8:15~16)――彼の父への執り成しを必要としないで、「父ご自身があなたがたを愛しておいでになるから」、その祈りは聴かれ、求めたものを受けると言う。聖霊の経験は弟子たちにイエスとの愛の交わりを確信させ、イエスと父との交わりの中に摂取されて、彼が「神のみもとから来た」こと、イエスの父が自らの父でもあることを知らせるからである。そのような事態が明らかになるために、今は「わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである」。

29節
「弟子たちは言った」という29~30節はイエスの言葉に応じる彼らの信仰の告白である。イエスの言葉に対するアーメン、その通り、を述べているのであるが、これも非常にヨハネ的な表現であって、後の教会の経験・聖霊において知るイエスの言葉への応答を溯及して記しているものであろう。よくはわからないままにイエスの真実に打たれて弟子たちはその信仰を新たに表明したものと考えてよい。イエスはお答えになった。「あなたがたは今信じているのか。見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう」と。(ゼカ13:7、マタイ26:31、マルコ14:27)。彼らの信仰の告白に対し、イエスはやがてそれが動揺すること、既にその時が来ていることを告げる。「しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである」。
以上のような危機もイエスと父との関係には何の変化もない。かえってこういうことがあることによって、弟子たちの信仰の動揺・躓きも倒れるに至らず、回復されてむしろ堅うされる。そこでイエスは彼らに平安を約束する(14:27)。「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである」。この平安が世の平安ではないことは既に語られたとおりである。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。これがイエスが決別の際に最後の言葉である。
以下は祈りの言葉となる。キリスト者は「世に」ありつつ「彼に在って」生きるという二重の生き方をする。彼は弟子たちを「世から選んだ」が、彼らが世を捨て、世から離れることを望まない。再び「世に遣わし」、苦難の道を行き、勝利した彼を仰いで雄々しく進むのである。「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」(1ヨハネ5:5)とヨハネは呼びかける。キリスト者の平安とは静的な、なにごともないという平和ではなく、戦うべき敵を前にして戦陣の間で上よりの豊かな力に養われ慰められて憩う平安である(詩篇23:5)。

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