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松村克己:古代キリスト論の評価 —今日の神学的課題として—

2017-05-31 16:12:28 | 松村克己関係
松村克己:古代キリスト論の評価 —今日の神学的課題として—
(小田切博士献呈論文集「キリスト論」の研究)

第1章 今日におけるキリスト論の課題
『古代教会におけるキリスト論の歩みとその意義』という書物を書いたアーノルト・ギルクは、 その書き出しのところで一つの挿話を語っている。それはアルブレヒト・リツチュルが晩年のドエリンガーから聞いた話だというのである。教皇べネディクトゥス14世(在位1740〜58)が、妹が院長を勤めているボーロニアの尼僧院を訪ね、そこで守護聖徒の祭日に歌ミサを執行した際のことである。尼僧たちの美しい歌声は果しなく続いて、信条の genitum, non, factum (造られずして生まれ) を繰り返すのにしびれを切らした彼は、奉献の儀式に移るベく祭壇の前に進み出て、そこで身をひるがえして Sive genitum, sive factum, pax nobiscum (生まれたにせよ、造られたにせよ、平和が私たちと共にあるように)と言って、歌を止めさせた、というのである。リツ チュルはこの話を大変に喜んでハルナックに伝え、その手紙の中で「これはあらゆる教義学とその論題に対する素晴らしい皮肉だ」と言って、ドイツ敬虔主義の創始者と見られるシューペーナーの中にそれに似た言葉のあることを記している、と。
この挿話を掲げたギルクの意図は何であれ、この挿話自体は1っの大切なことを私たちに想起させる。宗教の根本問題は生きること、本当に生きるということはどういうことかという問題であって、形而上学的認識や道徳的規範の問題ではないということである。「平和」ということはこの立場に立つとき、たしかに聖書宗教の最も重い言葉だということを改めて強く認識させられる。義・信仰・愛・忠信など種々な語も、平和という根本概念の部分的局面を示すと言うことさえできそうである。平和は福音的生を端的に把えた語と言ってよい。この平和が静的な状態を意味するものでないことは旧新約聖書の伝統的用法から既に明らかである。信仰が啓示と相関的にしか理解されないように、人間の側における宗教的実存のすベての相は神の働き・恵みのわざと相関的であるとすれば、私たちにおける平和とは、神の和らぎ(和解)のわざに対応する信仰の告白として、動的・行為的な性格をもって歴史の地平で生かされるほかはない。平和ということは今日の世界の状況の中で、深く神学的な根拠に支えられた課題であることも認識されなくてはならない。その点でアメリカ合衆国合同長老教会の「1967年信仰告白」が「和解」という語をもって貫かれていることは極めて象徴的な事実であって、これは信仰告白の歴史的性格というものをよく示している。
ハルナックの言うように、プロテスタントにおいてはロマ・カトリツクの理解するような「教理」はない。つまり教理は「信仰の規準」ではあっても、それ自身が客観的・絶対的な真理、永遠の真理なのではなく、それをどのようにして自らの信仰として告白するかという局面で取り上げられる。従ってプロテスタント諸教会は信条(Symbolum) という語をその原初的意味において信仰の象徴と解し、信仰告白(Confessio)という形の中に古代のいわゆる世界信条と呼ばれるものを取り入れてはいるが、それは何らかの解釈の下に立たされている。これらの基本的と考えられている諸信条も、プロテスタント諸教会の信仰告白と同じように、特定の歴史的・社会的状況の下にあって成立したものであり、これらを形式的に承認し唱えることに意味があるのではなく、今日の教会が置かれている状況、特定の場所においてこれをどのように告白するかという点に信仰告白の中心課題がある。その意味で前記のアメリカ合衆国合同長老教会の信仰告白が1967年という年代を明記して現代の信仰告白であることを明確にし、信仰告白というものの歴史的相対性を充分に自覚しながら、それゆえにこそかえってこの状況下における信仰告白を具体的に打ち出した誠実さと勇気とに敬意を払わなくてはならない。
その事は、1966年の秋に香港において開かれたアジアにおける最初の信仰・職制会議が、ローザンヌやモントリオールのそれと非常に異なった問題意識と内容とをもって遂行されたこと、とも深い関係をもつ事柄である。日本から参加された代表者の中には、その意図と意義とを充分に吸みとりかねて、その意識の深さを信仰・職制会議以前のものと評価し、日本の教会との間のズレを強く感じたという感想をもらされた向きもあったというが、これは非常に残念な受けとり方である。この会議は1964年、バンコックで開かれた東南アジア・キリスト教協議会(EACC)第2回総会において決定・企画されたものであるが、最初の主題 The Confession of the Faith in Asia Today (今日のアジアにおける信仰告白)が Confessing the Faith in Asia Today と変えられたことは、むしろ問題意識の深化・発展を示すものと見るベく、キリスト教社会(Christendom)というものの成立した上での西欧世界の教会およびその信仰告白と、絶えず異質の歴史的・文化的社会の中にあって激しい変化・革命の渦中にある伝道教会とその信仰告白とでは、その問題意識に重大な差異のあるのがむしろ当然なのである。
上の日本側の参加者の感想が事実だとすると、むしろそこでは日本の教会と神学者の抽象性・非現実性というものが反省されなくてはならない。日本における10年余にわたるキリスト論の課題の追究も、小田切信男博士の提出された問いの深さに目ざめた結果であるとともに、今日の世界教会の課題に連なる必然性を持った問いであることを知る。今日の神学的課題として古代キリスト論の再評価を試みようとする私の意図はそこから出発する。

第2章 種々のキリスト論
古代キリスト教会における教理形成の過程とその理解・解釈については多くの勝れた労作が数多く存在するし、私自身も既にそれについて書いたことがあるので、ここにはそれを繰返すことを省略したい。<1959年の秋、キリスト論研究会第7回講演会で語られた「三位一体論について」は「三位一体の神」という標題の下に『神学研究』第9号特集『教会と神学』(関西学院創立70周年記念論文集)の中に収録されている。>
キリスト論とは、ナザレのイエスという歴史的人物をキリスト(救主)と信じる信仰の根拠と意味とを問うことだ、と言ってよかろう。内容的に言えば、イエス・キリストの人格とわざとを問うこと、と言われてきた。狭義のキリスト論は彼の人格に関する論であり、広義のキリスト論は彼のわざを含む、つまり贖罪論・救済論との関連を含む、と理解される。前者が当面の課題として取り上げられる場合でも、後者がその背景にあることを忘れてはならない。さて「イエス・キリスト」という名は既にキリスト教信仰の原初的・中心的告白を示しているとともに、この信仰の関わる対象を一人の歴史的人物、人格として示す固有名詞でもある。キリストとは周知のように、旧約聖書においてメシアと呼ばれていた者のギリシァ訳であって「油を注がれた者」を意味し、神から特別な救済の使命と能力とを付与されて地上に遣わされる者をさす普通名詞であり、職分に対して用いられる。それが30年の地上の生涯をもったナザレのイエスという特定の人物と結合されて固有名詞となるとき、「イエス・キリスト」はもはや単なる過去の歴史的人物ではなく、信仰の対象として信仰者のうちに生きて現在に働く超歴史的な超越的存在者、霊的存在者という面を帯びてくる。イエス・キリストの人格というとき、既にそこには一人格のうちに、歴史的・人間的な面とともに超歴史的・霊的な面の存在が意識されており、後者は更に神的存在に連なることを予想している。メシアは神から遺わされて地上に来る救済者として、その起源を天に持つというところから、後期ユダヤ教においては「雲に乗って天から降りてくる」霊的存在者として黙示文学に描かれていたことも周知の通りであり、イエスもまたそうした精神的雰囲気の中で彼の活動を展開した。そこではメシアは王や預言者の一人であるよりも終末的存在者としてむしろ独自な姿と意味とを持ってくる。自ら神の霊に生かされて働く者というだけではなく、すべての人に霊を注ぐ者として、救いの現実をもたらす者となる。
ここにおいてメシアはもはや霊的存在者というよりも進んで神的存在者、人間の姿をとった神という観念に近づく。生前のイエスに対してある人々が「主よ」という呼びかけをしたであろうことは事実として否定しがたいと思われるが、その一つの理由は上のようにして理解されなくはない。また弟子たちの口からこの呼びかけがなされた場合には「主人」という慣用的意味が強かったとしても、なお時にイエスのうちに神的なものを感じていなかったとは言えない。「主」の起源を専らへレニズムの世界に求めようとする解釈は今日ではもはや色あせて説得力を持たなくなっている。がエルサレムの原始教団において弟子たちから受けつがれたと考えられる「主」の呼称が異邦人教会の地盤に移されると、そこでは異なる響きと色調とを帯びるようになったであろうこともまた想像に難くない。へレニズムの世界は多神教の世界であり、そこでは諸々の起源をもつ諸宗教がそれぞれの救済主(ソーテール)を掲げて競い合い、「主」(キュリオス)の呼称は神というのと変りはなかった。皇帝もまた「主」として礼拝されるようになり、そこではイエスもまたそれらの諸々の主の一人として迎えられることになる。だからパウロはコリントの教会の人々に対して「多くの主があるようではあるが」「唯一の主イエス・キリストのみがいますのである」(1コリント6:5~6)と強調しなくてはならなかった。そしてその根拠として神は唯一だからと言う。この論拠は非常に重要であって看過されてはならない。キリスト論の根本前提もまたここにある。
だからここで2つのことが確認される必要がある。第1は、神が唯一であるということが承認され受容されないところでは、イエス・キリストを主と呼ぼうが神と呼ぼうが、それはキリスト論として意味を持ち得ないということである。第2は、ヘレニズムの世界で思想的に多神教が克服され——実生活の面でというのではないにしても——一神教が一般に承認されるようになって、 始めてキリスト論が固有の問題として登場する、ということである。換言すれば、キリスト教会において、ユダヤ教的伝統とヘレニズム諸宗教の伝統とが混合し、ストアや新プラトン主義の思想運動によってキリスト教会とヘレニズム世界とが共通の地盤に立ちうるようになって、はじめてキリスト論が思想・神学の問題として登場する。そしてその最初の担い手となった人々は2世紀中葉から輩出する護教家(Apologeten)と呼ばれる人々であった。
1世紀末から2世紀を貫いてニケアの流れを概観するならば次のようになる。そこには常に2つの対立する流れがあり、それをどうして1つにすることができるかという思想的な問題である。キリスト論の課題はイエス・キリストと呼ばれる人物の人格の理解を目ざすにある、と先きに述ベたが、教理史の歩みの示すところ、教理形成の道は、「イエス」が次に稀薄にされ忘れられて「キリスト」に専ら関心.興味が集中されていく。キリスト輸とは本来「イエス・キリスト論」であるのに、それが「キリスト論」と呼ばれるのは便宜上の略語ではなく、本来の問題が既にズレている、というところにその問題性が認められる。ユダヤの地盤・伝統にあっては、メシアは「ヤハウェの僕」であり「神の人」であって、神そのものではなく、神の委任・全権をもって地上に遣わされ救済のわざを行なう人であった。この思想的伝統に立って神の唯一性が守られようとするところでは、キリストの神性は認められても創造者なる神に対しては従属的な地位をあくまで保持しなくてはならない。この流れに立つ者はエビオン主義者(Ebioniten)と呼ばれ、そのキリスト論は養子説(Adoptionismus)として特色づけられた。これに対立する立場は、キリストの神性を強調する余りその人性を稀薄にし、人間イエスを影のような存在とするもので、そのキリスト論は仮現説(Doketismus) という形をとる。前者をキリスト教のユダヤ教的歪曲と呼ぶならば、後者はその異教的歪曲と呼ばれてよい、一般にグノーシス主義と呼ばれる流れの中で成立した考え方である。教会はこの両極端を退けてその中道を行こうとするのであるが、3世紀に入ると、この素朴な対立は共通の地盤の上での対立に変る。先きに述ベたように本来的な意味でのキリスト論が成立するのはここからである。共通の地盤というのは一般思想史的背景として、ストア主義と新プラトン主義とが思想界に浸透し優位を占めて、ヘレニズムの多神教を実際的にもほぼ克服して一神教の雰囲気を強く打ち出して来たことである。ここではユダヤ教的と異教的という立場の対立は超えられて、問題は新しい視点から見られようとする。神の唯一性、その独占活動という立場——これを Monarchianismus と呼ぶ——に立つとき、キリスト論における上記の対立は勢力説(Dynamismus) と様態説(Modalismus) との対立と変ってくる。イエスは神の力(霊)を受けて神の子・キリストとされたのであって、神の力としての聖霊は人間を神的たらしめる、というのが前者の主張であり、後者は、父・子・霊の三者は同一の神の異なった顕現様式にほかならない、一人の人間に体・魂・霊の三者があるのと同様であると考える。この立場に対する疑義は存在様式という後の説明の仕方からではなく——K.バルトは Seinsweise というこの考え方をとる——顕現様式としての前の説明から出てくる。サベリウス(3世紀始)によって東方で唱道されたこの説は西方ではプラクセアス(2、3世紀交)及びその弟子ノエトス(3世紀始)によて受け継がれ、神自身が人類の救済のために人となったのが「子」と呼ばれるキリストである、彼の復活・昇天後は同じ神は「聖霊」として働く、と時間的様態としても説明したからである。そこから天父受難説(Patripassianismus)という批難を呼び起こした。キリストは地上にある間は神の化身あり、キリストの受難は父のそれにほかならない、という帰結を免れなかったからである。

第3章 ロゴス・キリスト論
ニケア信条(325年)がキリスト論の信条だと言われるのは、ここで父と子との同質(ホモウーシオス)という規定が明確に打ち出されているからであり、この事によってキリスト論の中心問題は解決され、三位一体の神の教理は確立されるかに見えた。が実はこの語をどう解釈するかを回って果しない論議が展開されることになるのであって、三一神論の教理はもう一度キリスト論へと押し戻されるのである。451年のカルケドン信条は専らこのために生まれたのであって、その特長は頌栄(Doxologie)的性格にある。それによって、護教家たちによって道を開かれたロゴス・キリスト諭の根本志向を明確にすることには成功したが、同時に一切の論議と理解とを断念したとも見られる。カルケドン信条のキリスト論は両性論(Zweinaturenlehre)という名で呼ばれるのであるが、ニケア信条におけるウーシアの概念が新たなる論議を呼び起こしたように、フュシス(ナートゥーラ)の概念も同様であった。その理解のために持ち出されてくる諸々の言葉・概念、東方と西方との言語的・心理的な理解のズレ、それを解きほぐしてゆく努力がやがてスコラ学の中心課題となる。
ギルクは使徒教父たち(クレメンス、バルナバス、イグナティオス、ヘルマスの牧者)のキリスト論を「Geist chritologie (霊のキリスト論)」と呼んで護教家たちから始まるロゴス・キリスト論と区別している。問題はすベてその発端の理解にかかると言ってもよい。キリスト論、三位一体論の問題を聖霊論から新たに考えてみようという試みが最近特に顕著に見られるのも同じ観点からだと考えられる。古代キリスト論の歩みを大まかに言えば、霊のキリスト論がロゴス・キリスト論を経て両性論ヘと辿りつき、ここから混乱と思弁に陥る、と言ってよいが、事態の正しい把は当初の経験と意図とを理解することにあり、そこから今日の課題に応える道を見出すことが私たちの責任となる。
アンテオケ(シリア)の監督として殉教したイグナティオスは2世紀の初めに死んでいるが(107年)、回心前は異教徒として当時の折衷的哲学思想の持ち主であったと想像される。彼のキリスト論において注目されるのはパウロの「われらの主、イエス・キリスト」という表現を変えて好んで「われらの神、イエス・キリスト」(ロマ6:3)という語を用いていることである。しかしこの「神(セオス)」 は定冠詞を持ってはいるがユダヤ的伝統における神をさすと即断することはできない。彼の他のさまざまな言い方や思想的背景からすると、どうしても異教的・グノーシス的なものを少なくとも否定し得ないように思われる。神は彼にあっては主として救済者を意味し、天地の主である創造者を意味することは殆んどない。一なる神とはむしろグノ−シス的な統一原理をさしている。キリストは「神の子」とも「ロゴス」とも呼ばれているが、これも必ずしもパウロやヨハネと全く同じ意味には解されていない。ロゴスと呼ばれるのは「沈黙から出て来たことば(マグネシア人への手紙6:2、註:イグナティオスの書簡)として、隠されていた救済の真理を明らかにするからであり、救済の内容は永生にほかならない。キリストは地上の歴史を持ったナザレのイエスと復活して天に挙げられた栄光者との同一をさす語であり「御子は肉によればダビデの子孫から生れ、聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた」(ロマ1:3)というパウロの言葉が、彼のキリスト論の出発点である。キリストには「肉を担う者」という面と「霊的な者 」との両面がある。「神の子」という語は地上を歩んだイエスを指す語であるが、本来は必ずしも先在の意味を持たなかった——ロゴスの語も同様である——。復活によって彼の霊的存在たる真相が顕わにされることによって、その先在が語られることになるのである。イエスは、「永遠の昔から父と共に在った神の子」(マグネシア人への手紙6:1) が人間となって現われたものである。「霊的な者」が終りの日に至って現われたのがイエスである。人間イエスはこの霊的な者を担う者であり、霊的な者はイエスにおいて肉を担った。この霊的な先在者は「永遠の昔から父と共にあった」が父に対して子と呼ばれるように、父に対する低位は否定されない。「生まれる」とか「造られる」とかいうことは考えられていない。
上記のような「霊のキリスト論」は基本線において原始教団のキリスト綸を継承するものと見ることができる。使徒の伝承を直接に保持するという意味で「使徒教父」と呼ばれる人々の特色はここにも明らかである。が同時にそこには後の問題となるようなキリスト綸はまだ成立していないと言ってよい。
それへの歩みは彼らに続く護教家たちの中に見られる「ロゴス・キリスト論」に始まると言ってよい。2世紀中頃から活動するユスティノス、テオフィルス、タテイアヌス、アテナゴラスと呼ばれる人々の努力は、キリスト教信仰が理に適えること、 真理の啓示であり、完成であることを弁証するにあった。そこに恰好のものとして取り上げられたのがロゴスの概念である。ユダヤ教とギリシャ思想とを結合しようとする努力はすでにアレクサンドリアのフィロンにおいてその先駆を見ることができ、この概念がそこで中心的重要さを持ったことは周知の通りである。ヨハネ福音書記者もまたその序詞においてイエスがキリスト(メシア)であることをこの語をもって紹介している。が彼はその福音書の本文においてロゴス諭を展開してはいないし、どういう意味でイエスがロゴスであるかを説いてはいない。ただメシアとかキリストとかいう語を読者に近づけるためにロゴス概念を導入したと見るほかはない。護教家たちはこれを受けて、ヨハネにおいては明確に規定されていないロゴスとキリストとの関係を明らかにしようとする。ロゴス・キリスト論とはそれを指すのであって、ヨハネにロゴス・キリスト論を見ることはできない。ヨハネのキリスト論はむしろ「霊のキリスト論」の豊かな展開と見るべきである。
ヨハネのロゴスがフィロンのそれと同じでないように、護教家たちとヨハネとの間にも隔たりが見られる。その隔たりはむしろフィロンのグノーシス的思弁ヘの接近の方向において見られるようで、キリスト論本来の志向からしてこれが幸いであったかどうかは疑問である。紹介者・説明語として導入された象徴が今や当のものにとって代られ、関心と論議の中心となるからである。救済論的視点は創造論ないしは世界観的視点へと移される。イグナティオスにおいては啓示者としての働きから取り上げられたロゴスが、ここでは世界と存在の原理となる。彼において「沈黙から出てきた言」と呼ばれたロゴスは「世々に先立って父と共に(許に)あった」(マグネシア人への手紙6:1) と言われはするが、先在者として実体(ヒュポスタシス)的に考えられていたかどうかは疑問である。「父と共に」と言われるからには「子」としての存在が考えられていたに違いないが、これは地上におけるイエスが神を父と呼んだことからの類推であり比喩的な表現と見られないこともない。何となれば、イグナティオスにおいて「神の子」という語は第1に地上に生をうけたイエスを指すのであって、神の子もロゴスもイエスの述語である。それ自身が主語として考察の対象になることはなかった。
この一歩を踏み出したのが護教家たちであって、それは言うまでもなく、ヨハネ福音書序詞に基づくと考えられる。その歩みはテオフィロスにおけるロゴス・エン・ディテートス(内的ロゴス)とロゴス・プロプォリコス(語られたロゴス)との区別に見られる。前者は世々に先立って神の許にあったロゴスであるが、 世界の創造に当って神は創造者としてこのロゴスを自己から別なものとして外に立てた。これがロゴス・プロプォリコスであり、神の子と呼ばれるものにほかならないとされる。ユスティノスもこれを受けて父は起源を持たないがロゴスと呼ばれる子は世界創造の際にその起源を持つと言う。この考え方、またロゴスに2つを区別する用語そのものは、フイロンに由来する。フイロンにおいてはロゴス・プロプォリコスは既発のロゴス現象界たる被造世界におけるロゴスてあるが、護教家たちはこれを「父の最初のわざ」(タティァーヌス)とか「神から最初に生まれた者」(ユスティノス)とか呼んで、父と不可分ではあるがそれぞれの特性において区別されるものとしている。ロゴスは神と呼ばれはするが定冠詞なしで示され、定冠詞を付せられる「神」とは区別される。子は「別の神」であって、父と共に「主」と呼ばれはするが、祈りの対象とはされない。


第4章 キリスト論の復権
護教家たちがロゴスの概念を取り上げたことが混乱のもとであったと言ってよい。当時の情況からしては止むを得なかったと言えるにしても、安易な思いつきと折衷主義のそしりは免れがたいであろう。 救済論の動機からすれば救済者は人であって神でなければならないが、この順序は逆にされてはならない。その働きは仲保者のそれであるが、働きから働き手へと関心が移され世界観的視点が強くなると、仲保者は媒介者となる。ロゴスの概念がここに取り上げられてくることになるのである。
キリスト論を救済諭の立場から新しく出発させようとし、ユスティノスら護教家たちの神観がかなりギリシァ化の方向に動いているのと著しい対照を示すのは、2世紀末に登場するエイレナイオスである。
彼はイエスとキリストとを分けようとするのはグノーシス主義者の救いがたい迷妄であるとし、イエス・キリストの救済論的意味を教会の伝統に従って主張しようとする。彼もまた言(ロゴス)が人となったとしばしば語る。受肉の概念は彼の思想の中心をなすと言える。しかしそれはあくまで思想であって、救済の現実は思想ではない。そこでは救済者の歴史がその中心関心事なのである。イエス・キリストなる救済者は現実に「真に人であり真に神」(vere homo vere deus)であると語り、この事実に人々の関心を向ける。人と神という順序にここでも注意する必要がある。この現実を出発的としてその何故が問われ説明が与えられる。後に現れるカルケドンの方式、両性論ヘの近さが感じられよう。救済者イエス・キリストの秘密はイエスなる人性とキリストと呼ばれるロゴスなる神性とが一身、一人格に一っとなっていることにある。受肉とは神人の合一にほかならず、その不思議な事実は人間が神となるための救済の根拠である。人間が神となるという言い方は厳密には比喩的な表現であって、創造の初めのアダムに見られたアダムの回復を意味する。彼はイエス・キリストの救済のわざをアダムの堕罪と対照的に結びつけ、アダムによって為されたところを逆にやり直す回復のわざが救済であると解してこれを recapitulatio(要点), アナケパライオーシス(再統合)とよんだ。救済とは人が 「神の子」とされることである。
急激なギリシァ化の危険に対して教会の伝統を守ろうとしたエイレナイオスに呼応する西方の教父はテルトゥリアヌスであり、神論とキリスト論にとって決定的用語となった substantia-personae という一連の概念を取り上げたのは彼であった。ペルソナの概念は近代の人格という含蓄を含まない。法律用語に由来するものであってせいぜい法人格の意味を出ない。東方のプロソーポンが顔の意から役者のつける面、演ずる役割という意味で、これと対応する語として取り上げられたのと同列に立つ。彼が神を一なるスブスタンチァにおける三つのペルソナであると言うとき、スブスタンチアにおける一とは数的な意味での一ではなくて統一における一を意味する。父と子と霊の三者は一(unum)であるが、一者ではない(non unus)。神は三つのぺルソナに分けられるのではなく(non ad dividionem)、ペルソナソナの区別に基づいて(ad distinctionem) 一つなのである。彼は内在的・本質的三一論に興味はなく経綸的三一論の立場をとる。東方の教父の用いるオイコノミアに対応する dispositio, dispensatio(配剤)の語は彼における重要慨念であって、父 ・子・霊の存在は神の本質的存在substantia の分離によるのではなく、まさに神の働きによる(ex dispositione) によるのである。三一(trinitas) という語もまた彼に発する。
救済論の立場に立って言わねばならないことは上の諸点につきている。不幸にしてキリスト論論争は三位一体の教理とともにこの線を越えて進むのである。それは主として東方教会において行なわれた。護教家たちの道を継承してキリスト教哲学からキリスト教神学形成への歩みを押し進めたのは周知のようにアレクサンドリアの教校を地盤とするアレクサンドリア神学であり、オリゲネスをその代表者としている。がアレクサンドリアの教会は古代における教会伝統を保持する一拠点として有力であり、後のキリスト諭諭争におけるアレクサンドリア学派は正統派を代表し、これに対抗するアンティオケア学派の方が教校の流れを吸むものとなる。オリゲネスが後に異端として却けられるのもそのような事情から理解されよう。
さてキリスト論諭争と呼ばれるものは周知のように ニケア信条におけるホモウーシオスという語を回って展開されることになる。この信条を決定した325年のニケア会議の歴史的背景やその経緯については省略する。事はアレクサンドリアの教会に起こったロゴス・キリスト論の理解に関わる問題であったが、やがてこれが各地に拡まって論争の種となり、教会の分裂を危惧したコンスタンチヌス帝によって会議が召集されたのであった。西方からの参加者は極めて少数であったが、会議の決定はむしろ西方教会に歓迎された。ホモウシオスという語はオリゲネスにおいても見られるが(ヘブル書註解)、その意味はニケア信条のそれとは違っていて、むしろホモイオス
(同類)に近い。彼は護教家の線に添うてロゴスを理解しており、ロゴスを神の像であり父から生まれたもの——但しその出生を永遠のもの、世に先立つものとする——としながらもセオスと呼んで ho theos を父にのみ保留することによって、子の父に対する従属関係を考え、また明らかに被造者と呼んでいる個所さえあるからである。ロゴスは父と並ぶ永遠の存在であるが父に対して固有性をおち、その存在と固有性において父とは別のものである。子が父に従属するように聖霊もまた子に対して従位にある。子も聖霊も父と共に永遠ではあっても、聖霊は神がロゴスによって造りたもうた最初のものだからである。
アタナシウスによればホモウーシオスは2つの別々の存在が同じ性質を持つというのではなく——それはホモイオスと呼ばれる——ウーシアを同じくするものは一つのヒュポスタシスでなければならないから、父と子とは人間の親子のように別々のものではなく、不離であり一つであると強く主張する。彼はウーシアとヒュポスタシスとを区別することに反対し、トリアスという語は用いても三つのペルソナとかプロソーパ、ヒュポスタセイスについては語らない。使徒信条の三項目的信仰告白は一ヘと押し進められてアタナシウス信条に見られるような特色ある表現「一なる神を三位において、三位を一体において礼拝する」(第3条)へと到達する方向を打ち出すのである。この線は西方の実践的態度を示すもので、父・子・霊の区別における三を認めつつも結局においてその一なることを強調し、三位の間の関係を問うことを思弁として断念し、これを啓示の秘義として主張するのである。
アタナシウスの強調したのは三位が一体であるという点である。従って一なる神がどうして三位として考えられるかは更に問われなくてはならない。彼自身これに苦心しつつも遂にこれを思弁として断念したのであるが、彼に続く半世紀の人々の関心と努力はこの点に集中されたと言ってよい。神とロゴス・キリストとの関係に加えて次いで、聖霊が論議の対象となり、父と子とだけではなく聖霊を加えた三者の関係が問われて来たからである。主として東方において論じられたこれらの論点を整理し、ウーシアの概念を明確にして、ニケアのホモウシオスを東方にも受け容れらるものとしたのはカパドキアの神学者と呼ばれる三人の教父たち、バシレイオス、その弟ニッサのグレゴリウスとナジアンズスのグレゴリウスの功績であった。これらの人々は何れもオリゲネスの流れを吸むと見られる。その解釈によれば、混乱の源はアタナシウスに見られるように、ウーシアとヒュポスタシスとの混同にある。両者は明瞭に区別さるベきで、前者は本質であり後者は実体である。後者は個性的存在であり、前者はそれらに共通の性質、本質を意味する。この考え方はアリストテレス的である。ヒュポスタシスをプロソーポン(ペルソナ)の意味に解するのは東方の傾向であったが、西方ではこの語をウーシアの意に解してスブスタンチァと訳していた。ここに混乱がある。いま彼らによって、父・子・霊なる三つのヒュポスタシスは一つのウーシアを共有すると考えられ、三者の関係は、父は「生まれぬ者」子は、「生まれた者」聖霊は「父から出た者」として互いに区別され、共通のウ−シアとして神性(セオテース)を持つ、と説明された。
このセオテースという語がカルケドン信条においても、それに先立つ(420年から450年頃と推定される) アタナシウス信条にも現われる。言うまでもなく後者はラテン語で記されているので divinitas(神性) という語がそれに当り、この語 humanitas (人性)という語と対置されていることは、 カルケドン信条においてアンスローポテースとセオテースとが対置されているのと全く対応する。ニケア会議までの中心関心事はロゴス・キリスト(子)と神(父)との関係をどう理解するのかということであったが、その後の問題は一転して、ロゴスの受肉者と考えられるイエス・キリストにおいて、ロゴスと人間イエスとの関係がどうなっているのかという点に向けられた。セオテースとアントロポテースという語はここで持ち出されて来たのであった。この両語の元来の意味は「神たること」「人たること」であって、必ずしも神性・人性と訳される性、後に理解される natura の意味を含まない。このような理解への推移また含蓄の成立の背景にはキリスト単性論(Monophysitismus)と呼ばれる立場・主張が存在したのである。この立場はラオデキアの監督アポリナリウス(390年没)が、イエス・キリストなる一のぺルソナを神性と人性の一致と規定したのに始まるが、これに対立するのはアンテオケア学派でモプスエスティアの監督テオドロス(428年没)を代表者年、一致はただ意志的に(kat’ eudokian)のみ考えられると主張した。この両者を否定して正統主義を樹立したのが、カルケドンの会議(481年)であった。ここに両性論(Zweinaturenlehre) が登場するわけである。
カルケドン信条には新約聖書以来長らく忘れられていたプシューシスなる語が現われる。アタナシウス信条には natura という語は出て来ないが、キリストにおいて一なる神性と人性とはスぶすタンティアの混淆によるのでなくして一なるペルソナこおいて結合されているという表現を見出す。ここではスブスタンチア概念の新しい問題提起に出会うのである。それは西方の伝統的用法を離れて、カパドキアの教父たちによって示された理解と方向の受容である。同じ事柄はカルケドン信条では「御子は二つの性(フュシス)において認められ、それは混同されることなく、 ……一なること(エノーシス)において両性は取去られない」と言われ、また「各の性の特性(イディオテース)も保持されると言われてしる。このフュシスがやがてナトゥーラと訳されるのてあるが、それじゃこのサブスタンティアと等しい意味を持つのでなければ、その下位概念として説明的に用いられていると解する他はない。ところでカルケドンの決定とその用語とをどのように理解しまた説明するかは次の問題となる。単性論者にこれを受け入れうるものとするために調停者として登場するのがビザンティムのレオンティウス(543年没)であり、そのエンーヒュポタシスの説である。この人は、単性論者がフュシスをほとんどヒュポスタシスと同義に解したのに対して、両者の区別を主張し、これを通性と個性との別とする。ここに来るとフュシスとウーシアとの接近、ヒュポスタシスとスブスタンチアとの接近が感じられる。何となれはフュシスはもはゃスブスタンチアではなくヒュポスタンスの中に見出される通性であるから、スブスタンチァ(実体)の属性と解されるから。ただ彼においては、ロゴスをヒュポスタシスとしたために、ロゴスの受肉者イエス・キリストにおける人性は損われることなしに完全にその中に含まれている、と言うのであるが、われわれはこれを逆にするほかまない。本来的意味でのヒュポスタシス(ペルソナ)は私にとっては(pro se)イエス・キリストだけであって、そこからして言わば2次的、比喩的に父のヒュポスタシスも聖霊のそれも理解されるのである。イエス・キリストにおける神性は父と共通に持つ通性であって、彼を述語的な用法で神と呼ぶことはできても、主語的な用語法で神と呼ぶことまふさわしくない。イエス・キリストは「真に人であり真に神である」という表現は、神性と人性とを一つの人格において、共に完全に持っているということてあって、実体的に神と人が一つだと言うことを意味しない。 人性と神性との両性が互いに他に与って一つであると考えられるところから、ダマスコのヨハネ(777年没)においてペリコペーシス(circumincessio) 両性の交互内在という概念が作られることは理解できても、後のスコラ学やルター派神学における communicatio idiomatum (属性の融通)の原理の適用に至っては、もはや悪しき思弁と言うほかはない。
キリスト論は絶えずイエスに伴い返されねばならない。キリスト論が教理になることは不幸であり、まして神学の論理とされることは致命的な混乱を生む。キリスト論的という語は注意して用いらるベきである。

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