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ぶんやさんの記録

松村克己『ヨハネ福音書講釈』再話(10)<13:1~14:31>

2015-06-25 06:42:46 | 松村克己関係
松村克己『ヨハネ福音書講釈』再話(10)<13:1~14:31>

第13章

第13章からヨハネ福音書は第2部に入る。不特定多数の人々に向かって語りかけ、働きかけてきたイエスは人々から「身を隠し」(12:36)、少数の弟子たち、神の国の中心となるべき12弟子、イエスと運命を共にするために選んだ「自分の者たち」(13:1)にのみ語る。語られる内容は、決別に当たっての最後の教訓という形式をとってはいるが、彼と彼らとの間柄が何であるかということ、一言で言えば信仰の開明であり、堅信の奨めである。彼と彼らとの間は彼と天の父との関係に根差していること、彼によってまた彼と共に、彼らもまた天の父の子となることを教える。第17章までの部分はヨハネ福音書における最高峰であり、山上の垂訓に比べ手も遜色のない珠玉の文学である。繰り返し熟読玩味して信仰の秘儀を学ぶべきである。
過越の祭を前にして、イエスこの世を去り、父なる神の元に行くべきときが来たことを悟り、「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。これがこの部分(1~30)のまとめである。
信仰生活とは神の御心を行うことであり、神の御心を行うとは「自分の時」を知って出処進退を間違わないことである。イエスは絶えず祈り、この「時」を確認しつつ生きた。過越の祭が近づき、イエスは自分の最後の時が来ているということを感じていた。イエスは神から託された使命、この世で果たさなければならいないことに決着を付けることであった。それはこの世にあって神から賜わった者たち(17:9)、弟子たちをトコトンまで愛して、彼らのうちに、彼が知っている父なる神の愛を知らせ、この愛によって互いに相愛する群れを確立することであった。「最後まで」の愛とは単に時間的に最後までという意味だけではなく、程度において徹底的にという意味を含む。イエスの弟子たちに対する愛は十字架を前にして極度にまで高められた。それが今や弟子たちの足を洗うという象徴的な行為とこれに伴う数々の教えによって示される。ここから「愛」という単語の使用が急にふえる。前章までの前半部では19回なのに、13章以下の後半部では46回も見出される。

1.弟子たちの足を洗う(1~20)

ユダヤ人たちの間でイエスを殺そうとする計画が進められていることはイエスも知っている。人々に妨げられることなしに、寝食と苦労とを共にした弟子たちと水入らずの会話の時、恐らくは最後の思い出となるかも知れないと思われる食事の席をもとうとイエスは考え、周到に準備をしている(ルカ22:15)。それは過越の羊を屠って食する除酵祭の日の夕の食卓(ルカ22:7)ではなく、その前夜であったと思われる。祭はニサンの月の15日から始まる。祭の期間中に十字架刑が執行されることはない。イエスの処刑はその前日であり、最後の晩餐は従って14日で、これは過越の食卓ではなく普通の会食であり、訣別と盟約の宴であった。(ユダヤ暦では日没が次の日が始まる。従って、今日の表現では祭は14日の日没、過越の食卓で始まる。最後の晩餐はその前夜13日の夕に行われ、イエスの処刑は14日の日中い行われたことになる)。共観福音書は何れも最後の晩餐を過越の食卓としているに対して、ヨハネ福音書はイエスの処刑後、過越の食卓が待っているのでその屍を手早く処置したと語っている(18:28、19:42参照)。この点は恐らくヨハネ福音書の方が、正しい日取りを伝えていると考えられる。場面はこの前夜の夕食であり、時は木曜日(今の数え方で)の夕べである。

3節
「自分は神から出てきて、神にかえろうとしている」という言葉にはイエスの派遣意識と時の意識とが示されている。「思い」という言葉は2節と3節の全内容を含んでいる。イエスは今やユダの心にサタンが働いて、恐るべき計画の廻らされつつあることを知っているが、同時に父は万物を彼の手に委ねているということ、また最後の時は近づき、この世にいる時間は残り少ないことを知っている。それで夕食の途中ではあったが、あるが「立ち上がって」、弟子たちが驚くような行動に出た。それはユダを引き戻すためであり、地上における最後の努力、祈りに押し出された行動であった。究極の愛はこのような形で現われる、しかも弟子たちはそのことを知らない。「上着をぬぎ、手ぬぐいをとって」という言葉に用いられている動詞はそれぞれ10:17~18で「生命を捨てる」「(生命を)得る」に用いられていた動詞と同じで、ヨハネに特有な象徴的用法の例をここに見ることが出来る。
 
5節
招かれた客を入り口で迎えその「足を洗う」のは僕の役割である。イエスの一行の夕食は他人を交えない内輪だけの食事で、その食卓のマスターはイエスであり、弟子たちは招かれた客である。彼らの足を洗う僕がここにはいない。この家はおそらくヨハネ・マルコの母の家、後に弟子たちが集まるのを例とした家であろう。イエスは弟子たちだけでの別れの宴を持つことを望んだので、彼女は奴隷を出さず水と手拭いだけを用意してそこに置いたのであろう。
先生の異様な行動に茫然としてされるままの弟子たちの中でペテロだけが、イエスが彼の足を洗うことを拒否した。ここで述べられている「決して」という言葉は「永遠に」を意味する強い言葉である。この拒否はマタイ16:22に対応する。しかしイエスもまた譲らなかった、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。先生に洗ってもらうことが先生との関係がより親密になり、より深くなるならば、足だけではなく手も頭も、全部洗って欲しい。ペテロは前言を取り消して先生の前に全身を投げ出す。しかしイエスの態度は固い。彼らは「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」とイエスは確信している。そのうえでイエスは次のように説明する。「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ」。この言葉は恐らく著者の理解を反映したものであろう。
イエスは自分自身、洗礼者ヨハネの洗礼を受け、ヨハネを先駆者と認め、その任務を継承した。イエスの弟子たちもこの前提の上に立っている。キリスト者は罪を告白してイエスの名によってバプテスマを受けた者である限り「全身がきれい」なのである。しかしわたしたちは救われて直ちに天国に移されるのではなく、この世において、イエスと神との証人として宣教の使命を与えられて生きる。この世で生活をする以上、わたしたちの足は汚れる。それを避けることは出来ない。全身はすでにキレイだ言われながらも、「みんなキレイなわけではない」。この汚れを日毎に洗わない限り、汚れはやがて全身に及ぶ。イエスの群れがいまこのような状況にあるではないか。そしてこれは教会のがこの世に存在している限り、避けることができない現実である。ただ教会は不断の執り成しと謙虚な奉仕に支えられてたち、立ち続けることが出来る。イエスはこのことを身をもって模範として行動し、弟子たちにも互いに足を洗うことを求められる。弟子たちはこの先生の行動を、今はその意味を十分に理解しないままに、深く感動したに違いない。

14節
イエスが弟子たちの足をあらったという行動は、「模範」として命令・誡命という意味を持っている。「主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである」(14節)。しかし重要なことは形式的・外形的にこれを行うことではない。この行為のこころ、その精神を「わかっていて、それを行うなら」ことが求められている。「互いに」相手の「足を洗う」ということは、互いに相愛することなしには出来ない。「互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることそれは互いがイエスの弟子であること」(35節)を表明することである。イエスの弟子とは、イエスに愛される者という意味である。彼らにとって「主、また教師」であるイエスが弟子たちの足を洗う、僕としての行為によって彼らを愛し高めようとする。
兄弟が互いに相手の足を洗い合うことが出来ない筈がない。イエスのこの究極の愛は弟子たち一人一人に向けられ、しかも弟子たちすべてを彼のグループの一員、彼の弟子と呼ばれるに相応しい者にしようとしている。世間では「僕はその主人にまさるものではない」と言われている。しかし真の僕は主人から命じられるままを行うだけではなく、主人の心を「わかっていて、それを行う」ものでなければならない。イエスは弟子たちがこのような者になることを願い、彼らを友と呼ぶ(15:13,15、ルカ12:4)。「僕はその主人にまさるものではない」という言葉には弟子たちに対するもどかしさと不満の気持ちが感じられる。イエスは自分自身遣わされた者としての自覚において、つねに遣わした者の心を知って、これを行った。いま弟子たちの足を洗ったのもそのためであった。神と彼との関係はそのままに彼と弟子たちとの関係に移される。彼が父と親密な交わりのうちに立つことを感ずれば感ずる程、彼は弟子たちとの間にこのような交わりが樹立されることを願っている。彼が遣わされた使命は結局この一事に尽きると言えるし、弟子たちにとって最も重要なことはイエスを知るということに凝縮される(17:3)。

18節
ところで、イエスが徹夜で祈り選んだ最も信頼すべき12人の弟子たちの中に、彼の心を理解出来ないで反対の方向に行こうとする弟子がいる。彼の心を理解出来ないという点に関してはユダだけのことではなく、他の弟子たちも五十歩百歩である。むしろ他の弟子たちのいい加減さがユダを弾き出し、彼らに対する不信と不満とがイエスに対する反逆を無意識の中に育んだと言えるのではないだろうか。弟子たちはイエスの心が理解出来ないが、イエスには彼らの心は手にとるようにわかる。そのギャップがイエスの深い憂いと痛みとなり、別れの宴は重苦しい場面となった。18節、19節は著者による解説である。「あなたがた全部の者について、こう言っているのではない。わたしは自分が選んだ人たちを知っている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしにむかってそのかかとをあげた』とある聖書は成就されなければならない。そのことがまだ起らない今のうちに、あなたがたに言っておく。いよいよ事が起ったとき、わたしがそれであることを、あなたがたが信じるためである」。ここで引用されている言葉は詩篇41:9である。ただし、原文では「わたしのパンを食べた親しい友」となっている。「わたしのパンを食べている者」というも同じ意味で、「同じ釜の飯を食べた親しさ」を言い表している。「わたしは自分が選んだ人たちを知っている」。この12人は徹夜の祈りの後に、使徒となるべき者して、イエス自身が選んだ人たちである(ルカ6:12~13)。使命を共有し、運命を共にしようとして選んだ者の中から「かかとをあげる者」が出るということは堪えがたい悲痛である。イエスにおいてさえ弟子として選んだ者が必ずしも「救いへの神の選び」を意味しなかったことは教会の姿と信徒の運命とに対して暗示するところが深い。

20節
20節は別の場面で語られた言葉であるに違いない(マタイ10:40、ルカ10:16参照)。ここで注意すべきは「受ける」という単語が聖餐式を受けるという場合と同じ言葉であるということである。共観福音書では最後の晩餐を聖餐式の設定と結びつけて語っているが、ヨハネ福音書はこのことに触れない。それは読者が既にこのことを熟知しているということが前提になっているからであろう。
むしろ共観福音書では触れられていない「聖餐のこころ」、聖餐式に与る信仰と精神とをイエスによる洗足の模範に結び付けて、新しい愛の誡命として述べられ、共観福音書の記事を補足している。
その視点からヨハネ福音書の記事を読むとき、5節、10節の「洗う」は洗礼の洗いを暗示していると思われる。つまり、この記事の背景には洗礼と聖餐とが固く結び付ける意図を読むことが出来る。
それはこの文書の成立した時代の教会の情況を反映しているに違いない。そしてイエスによる洗足という行為は、弟子たちの眼を開き、また心の罪を潔めるための死、つまり師が僕となることを意味すると見てよいであろうし、弟子の側から言えば、イエスの「洗い」を受けることによって、彼と運命を共にしその死に与って、その恵みと栄光にもまた与りうるという真理を象徴していると考えてよいであろう。

2.ユダの裏切り  (21~30)

流石のイエスも、ここまで語ってきて、「心が騒いだ」。かなりの動揺である。その動揺の理由は、「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」(13:21)からであると「おごそかに」告白する。おそらく、その言葉を聞いて弟子たちは互いに顔を見合わせtたに違いない。共観福音書では、弟子たちは「心配して」、ひとりびとり「まさか、わたしではないでしょう」と言い出した」(マルコ14:19)と記している。ペテロはイエスの左の席にいる弟子に向かって誰のことか言えと顎で合図をした。ペテロは、この弟子は既にイエスより囁かれて誰かを知っていると想像したのであろう。「イエスの愛しておられた」弟子ということで名前は書かれていない。著者がこの伝承を伝えたということは、読者がそれは誰のことか分かることを期待している。普通にはヨハネその人であるとされて来た。この弟子が歴史的に誰であるにしても、「み胸に近く」という表現によって、イエスの真の弟子を理想的・代表的に示していることは疑いない。イエスが父の「ふところにいた」ように(1:18)、弟子はイエスの胸に寄ってその心を知りその霊を受けている。ヨハネ福音書がこの弟子とペテロとを常に並べて語っているのは(20:4,8、18:16、21:20)、ペテロの伝承を基本とする共観福音書を補足し訂正しようとする意図があるようである。この弟子がイエスの胸に寄り添うているというのは食卓についている位置の上から言われているのであって、ユダヤの風習によればあの有名なレンブラントの名画「最後の聖餐」に見る姿とは違って、食卓を囲んで銘々が左手を下にして横になって寝そべる。箸やサジを用いず右手で食物をつまんで食べる。従ってイエスの左手に横たわる者は自然にイエスの胸によりかかる姿となり、ことに首を返して物を問おうとすれば首をその胸に埋める形となる。「主よ、だれのことですか」と問うこの弟子に対してイエスは「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」と答え、ユダに対してそのようにした。テーブル・マスター(食卓の主)からこのようにして食物を与えられることは特別な光栄・恵みを意味する。ユダに向かってイエスはこのようにして最後の呼びかけを心をこめてなしているのである。しかし結果は逆となった。恐らくユダの心にイエスの心が響かない筈はない。その場に居たたまれない苦しさから逃げるようにして部屋を出て、ユダは日ごろの思いを実行に移す決意したのであろう。人間の心というものは不思議なものであるが、また同時に特別に不思議だというわけでもない。預言者も既に「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」(エレミヤ17:9)と言っている。「この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった」と、これほど悲劇的な瞬間というのはほかにない。聖餐式の起源となったこの食事はユダにとってはイエスとの交わりの手段とならないで、かえってサタンと結びつく出来事となった(1コリント11:29)。イエスはすべてを見てとるや次の手を打った。涙をのんで実を結ばない枝を切りとる。実を結ぼうとしているば他の枝を助けるためである。同時に自分自身も肚をも決めた。十字架の道へと進まなくてはならない。このユダの救いのためにも。
このようにして静かにユダに囁いた、あなたの道を行きなさい。、「しようとしていることを、今すぐするがよい」。同席していた者は「なぜユダにこう言われたのか、わかっていた者はひとりもなかった。ある人々は、ユダが金入れをあずかっていたので、イエスが彼に、『祭のために必要なものを買え』と言われたか、あるいは、貧しい者に何か施させようとされたのだと思っていた」と記されているほど、それはごく自然にまた静かに話されたのである。ユダが同席している間、その部屋には暗い空気が流れていた。ユダが外に出た時、そこは暗闇であり時は夜であった。ユダの心も夜だった。彼の行く先を知っている者はいなかった。

3.新しい戒め (31~35)

「さて、彼が出て行くと」、勿論「彼」とはユダを指す。ユダが出て行くと、イエスの心には再び平静と確信とが戻って来たし、席は明るさを取り戻した。もはや何も言う事はない。父なる神がされることを待つだけである。そのような安心感に満ちた確信により次の言葉が語られた。「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をお授けになるであろう。すぐにもお授けになるであろう」。父の命令に従って自己自身の命を捧げる子によって父は父として崇められ、子は父の真の本性(愛)を示すことによって父の栄光を現し(12:28、17:4)、父は子の真の本性を明らかにする。聖霊の業がそれである(16:14)。それらのことはやがて今、すぐに行われるであろうというのである。さらに弟子たちに向かっては「子たちよ」と呼びかけて既に語った言葉をまた繰り返す。「わたしはまだしばらく、あなたがたと一緒にいる」。しかしそれは「もうしばらく」であり、やがてわたしが見えなくなる。そのとき、あなたたちはわたしを捜すだろうが、すでにユダヤ人たちに言ったことではあるが、今改めてあなたたちにも言っておく。「あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない」。しかし、このことはしっかり覚えておくように。そのときこそ、わたしがあなたがたに言ったことを思い出し、わたしが命じておいたことを守りなさい。それがあなたたちが私の居るところに一緒にいること、わたしをもう一度見出す道でなのである。そしてそのことによって人々もまたお前たちがわたしの弟子であることを知るであろう。
それで、その「わたしが命じておいてこと」が「わたしは、新しい戒めをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」という言葉である。ヨハネ第1の手紙の方ではこの戒めは、「新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである」が「それは、彼にとってもあなたがたにとっても、真理」なるものとして新しき誡命であると言われている(2:7)。「隣人を愛せよ」「互いに相愛せよ」という戒めは言葉としては古く、ユダヤ人なら誰でも聞いて知っている(レビ19:18)。しかしイエスはこの古い戒めを取り上げ、永遠に古るびない新しい戒めとした。なぜそんなことが言えるのか。「わたしがあなたがたを愛したように」と言う言葉に注目して欲しい。新しい戒めとは単に隣人愛、兄弟は互いに仲良くせよという教えではなく、この愛の中心また原動力としてイエスの愛が与えられていることである。弟子たちは一人一人、自分に注がれた、イエスの「徹底したの愛」を思い起こすことが出来る。その時、「互いに相愛せよ」は単なる戒めではなく、自分自身に迫ってくるイエスの愛が現実となる。愛と交わりの中心にイエスが居り、キリストを告白する新しい愛の共同体の成立する。これが教会の誕生であった。
ユダが出て行った後に残った弟子たちと共に、イエスは共観福音書が記しているパンを裂き酒杯を分かつ盟約の式を訣別のしるしとして行われたものと思われる。この「盟約の式」の中心的な精神を後の教会は聖餐式というサクラメントとして設定のである。従って聖餐式の中心的精神はこのような愛の共同に他ならない。ここに私たちの生命線があり、これさえ守るならば、教会は生きる。高齢になり長く立っておれなくなった老使徒が、説教に立つと毎回この言葉を繰り返した伝説もありうることだと思う。

4.主よ、どこへおいでになるのですか  (36~38)

この部分は恐らく第16章の最後の部分(16:33)に置くべき著者の付加であろうと思われる。16:31、32とこの部分とを合わせて見れば、マルコ福音書14:27~31とそのまま同じである。しかしこれは16:33から14:1への移行を妨げると思われたので後の写本家はこの部分を13:33との関連に注目してここに置いたのだろうと考えられる。そうすると順序は13:35に15、16章が続き、そこに13:36~38が挿入され、その後に14章が来るということになる。14章、15章、16章との3つ章は共通の資料から出て著者の編集に委ねられたものかも知れない。

36節
「わたしはまだしばらく、あなたがたと一緒にいる」が、やがてあなたがたのところを去る。あなたがたはわたしを捜すだろうが、「あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない」とイエスが語ったので(7:34、13:33)、ペテロは「主よ、どこへおいでになるのですか」と問う。それに対してイエスは「あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう」と答える。
「あとになってから、ついて来ることになろう」という謎のような言葉は21:19で明らかにされる。しかしイエスが行くのはの「あなたがたのために、場所を用意しに行く」のであって、ユダヤ人たちは再びイエスを見出すことが出来ないが、弟子たちにとってはイエスを見ることの出来ないのは「しばらく」で、彼らのための場所が用意できたら彼らをそこに迎えるために再び来る。そこで弟子たちはイエスを見ることが出来る、と後から教えられる(14:2,3,19)。しかし慌て者のペテロはなぜ今、従えないのかとしつこく問う。「主よ、なぜ、今あなたについて行くことができないのですか。あなたのためには、命も捨てます」。これはそのときのペテロの本心であったのだろう。イエスもペテロの純情さを認め、そうか「わたしのために命を捨てると言うのか」とこれを肯定しつつ、しかし彼の本心とは違う行動をとるであろうと重大な警告を与える。「鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」。これは大きな愛である。何も醸し知った上で、それを包み込み、執り成しの祈りをする。ペテロの失敗はイエスのこの言葉を思い出すことによって救われた(ルカ22:61,62)。この言葉があらかじめ告げられていなかったら、ペテロイエスの愛を想いだして「泣く」ことも出来ず、ユダと同じように絶望して心を閉ざし、首を吊っていたかも知れない。ルカ福音書は「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」(ルカ22:31~32)というイエスの言葉を伝えている。ペテロの決心には偽りはない。それが本心であったであろう。しかし人間は残念ながら弱い存在である。現実の世界に生きている限り、気が変わるという弱さから逃げられない。イエスに向かって「あなたのためには、命も捨てます」と誓ったペテロも本当なら、大祭司の庭で「門番の女」からイエスの弟子ではないかと問われたときを「そうではない」と否定したペテロも本当なのである。自分の力で悔い改め出来ると考える人は、まだ本当の自分を知らないし、神も知らない。先行的恵み(「先手の恩寵」)、愛の中に包まれている自分を見出して、はじめて人は悔い改めることが出来し、自力によらない真の信仰に立つことが出来る。

第14章

イエスを信じることによって人は何を持つのか、この章はこの問題を主題としている。ルターは大教理問答書の冒頭で、信仰はその信じるものを所有することだと言っている。イエスを信じることは彼を持つことであり、彼を持つことは神を持つことであるが、この持つは言うまでもなく物件的所有とは異なる。人格的共同において相手の中に生き相手に持たれ支えられつつ相手を持つという愛の所有である。それは用いて尽きる物資とは異なり、用いることによっていよいよ豊かにまた深く共同の内容を展開し新しいものを創造して行く。そこでは別離でさえこの共同を固くし深くする道であり得る。これらの事が3つの部分に分けて語られている。

1.弟子たちの信仰の所有  (1~11)

1節
イエスはいま弟子たちとの離別を前にして、彼らが信仰において持っているもの、彼の弟子であること、つまり彼と共に歩くということが何を意味するかということを明確に自覚させようとする。信仰にはこの自覚が必要である。信仰の問題を自覚の領域内でのみ解決できると思うことは近代人の陥り易い誤りであるが、──ヨハネ第1の手紙の中でヨハネは「神はわたしたちの心より大きく、すべてをご存じだからです」(1ヨハネ3:19-21)と言っている──、しかし、その反面、信仰を単なる生活・習慣・感情であるとするのも間違っている。イエスはこの部分の説話で3つのことを教えている。
(1)イエスを信じる信仰とは父のもとに居場所を持つということ(1~3)であり、
(2)イエスによってそこに至る道を持っていることであり(4~7)、
(3)そこで父を知ること(8~11)であると。
過ぎ行く世界、すべてのものが激しく変転するこの世においては、人の心を騒がすことが多い。しかしイエスは弟子たちに向かって「信じる」ということは心を騒がしたり、労したりしないことだと教える(マタイ6:25,34)。「神を信じ、またわたしを信じなさい」(1節)。信仰とは単なる信頼ではあるが、信心とは違って信じ頼る対象についての明確な意識、認識をもち、絶えずこれを「仰ぎ」、凝視する眼を持っている。見えない神、隠れている父を信じることが難しければ、見えるわたしを信じなさい。神信仰がキリスト信仰であること、この2つが2つではなくして1つになって重なっていること、それがキリスト教信仰の特色である。ここから神の国の構造が開示される。

2節
「わたしの父の家にはすまいがたくさんある」。父の家にはイエスだけが住める場所しかないのではない。地上に天国をもたらすということは逆に言えば天国に多くのすまい持つということである。イエスはこのために来て、このために世を去らねばならない。「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ」(16:7)。もしそうでなければ「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」とは言わなかったであろう。だから「行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」。「わたしがおる所」とは、父なる神と子なる神との交わりであり、イエスは人々をここへと招き、弟子たちにこのことを保証する。イエスとの交わりが弟子たちにとっては神との交わり、永遠を意味する。そしてこのことが人生の目標に他ならない。「また来て」とは復活ともとれるし再臨ともとれる。そしてそれは何れも本当であり何れをも意味する。復活以前においては再臨と復活とは1つのことである。復活が訪れて再臨はさらに待たれるものとなり、1つのものは2つに分かれた。わたしたちはこの2つの時の間を生きている。そして彼を信じる者、その弟子は信仰において彼と共にいるので「わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」とイエスは言う。
このことをイエスは弟子たちに自覚させようとしたが、彼と共に在りながら、弟子たちは彼が言う信仰が何かということを悟ることができない。先生はそう言われるがわたしたちは先生の行き先を知らない、どうしてその道を知ることができるのか、とトマスは抗議した。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない 」。道・真理・生命の3つは形式的には並列されているが、中心思想は「道」で、真理と生命とは道をに対する畳みかけであることは間違いない。だからモハットはこれを「わたしは真にして生ける道である」と訳している。道はいうまでもなく父への道であり、この道を行くことによって真理と生命とが経験される(ヘブル10:20)。真理とはそこで神がその真の姿において示されて出会われるということであり、生命とはそこで神が魂に生き生きと働くということである。イエスは一度彼らのもとを離れ、自由な恵みの霊として再び来ることによってこの本質を一層明瞭に発揮する。そのことを分からせるために、今、彼を信じる弟子たちの信仰がはっきりと自覚されていなければならない。信仰は静止しているものではなく、「信仰より信仰へ」(ロマ1:17)という姿でのみ生きる。そのことを彼は次の言葉によって弟子たちに確かめる。「もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」(7節)。「神を見る」とは彼方の世で与えられる約束であって(1ヨハネ3:2)誰も未だこれを見たものはいない。この身のまま神を見るものは死なねばならないと言い伝えられて来た。「心の清い人々は神を見る」(マタイ5:8)。これは最大の祝福であるがこの世では不可能なことと考えられていた。にもかかわらず、イエスは「 わたしを見た者は、父を見たのだ」と言う。もちろん、この「見る」は外面的感覚的な「見る」ではない。イエスを霊的洞察によって見る、その人格の秘密を把えることが神を見るということである。そのためには「心の清さ」が必要である。「幼な児の心」「生まれたばかりの乳飲み子」(1ペテロ2:2)の澄んだ眼が必要である。それは新たに、霊によって生まれた者の眼である。詩人は「あなたの光りによって光を見る」(詩篇36:9)と歌ったが、光である神を見るこの眼は神から賜わる信仰である。「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしに来ることはできない」(ヨハネ6:44)。この眼、この信仰の眼に神はキリストにおいて自らを馴染ませてくださる。従ってこの「見る」は単なる観想や傍観ではなく、精神的、倫理的要素を含んでいる。ヨハネ福音書においては「見る」「信じる」「知る」はほとんど同一の含蓄をもって相互に交換できる言葉である。「わたしたちに父を示して下さい」と願うピリポの言葉は、余計な問いとしてイエスを悲しませたに相違ない。「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ」と、イエスはピリポに迫りつつ「わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか」 と問い返す。このことが理解できればピリポは既に父を見ているのである。キリスト教信仰の特色は神秘主義と違ってこの間接性、媒介性にある。しかもその間接性は徹底的である。そこに信仰が終末的彼岸的でありつつ、しかもなお現世に粘り強く挑む倫理的な力となることが出来る。イエスはさらに言葉を継いで言う。わたしが語る言葉、わたしが行う行為は、「自分から」のものではなく「父がわたしの内におられて」なされているのである。「わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい」。もしこの言葉がを信じられないなら、「わざそのものによって信じなさい」、とイエスはじゅんじゅんと訴える。イエスの心は次第に高揚して新しい真理を語り始める。

2.弟子たちへの約束  (12~26)

12節
「よくよくあなたがたに言っておく」。この言葉によって、重大な発言が述べられる。信仰者、彼の弟子とされた者に許される所有は現在のものに留まらず、更に大いなるものが将来の約束として与えられる。それは大別して以下の5つの内容に分けられる。
(1) 弟子たちはイエスと同じ業を行い、それよりもさらに大きな業を行うことが出来る。(12~14)
(2) 真理の霊を助け主として賜わる。(15~17)
(3) 彼との交わりを固くする。(18~20)
(4) そこに成り立つ愛の共同の故に、父と子とは弟子たち一人一人の中に住む。(21~24)
(5) 真理の霊の働きについての附言。(25~26)
「わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう」。信仰が生の共同であり愛の交わりであるとするならば、彼を信じる者が彼が行う業を行うのは当然であり、「主よ、主よ」とただ讃仰するだけの信仰はイエスの求めたものではない。しかし、注意すべき点は次の言葉である。「もっと大きいわざをするであろう」ということで、その理由として「わたしが父のみもとへ行くからである」という。イエスは人の子として地上で生活する上での制限から解除されて完全に霊的存在となり、彼の弟子たちとの交わりは一段と進展、深化、充実することになるということは十分に予想されることである。この自由なる霊との共同において行われる弟子たちの業が、地上におけるイエスの業よりも大きいということは理解できる。この条件となる霊の降るということについては16節以下で語られる。もっと大きな業とは必ずしも奇跡のことだけを意味しない。奇跡は神の御子だけが行えることで罪あるわたしたちにはできないとか、啓示の時である聖書時代にのみあったことで今日ではあり得ない、というような解釈は誤った正統主義の理論である。それは聖書の示すところとも教会の歴史の示すところ、わたしたちの現実の経験とも合わない独断である。信仰において行われる業を奇跡だけであると解して聖書主義を主張する人々の考え方もまた偏った独断である。「もっと大きな業」とはイエスの業の継承、発展を、彼が真のイスラエル、神の国の中核体として望んだ教会の結成を意味していると解することは誤りであろうか(マタイ16:18)。ユダヤ人に限られていたイエスの業を弟子たちは世界伝道へと展開する。21章前半の物語に出てくる153匹の魚(ヨハネ21:11)を世界の全民族の象徴と解釈する人もいる。

13節
「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう」という約束が、12節を支えている。地上の生の制限から解除されて、父のもとに行く彼において初めてこのことが可能になる。そしてそのことによって父は栄光を受けられる。「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」(16:24)と、後になったさらに語っておられる。(16章の後に14章を置いて読むと思想の連絡は更になだらかになる理由はここにある)。イエスと共に地上を歩む間、弟子たちは「彼の名によって」「父に求める」必要はなかった。しかし、彼を地上より失うならば、「彼の名」は唯一の支えとなる。彼の名を担うものが聖霊に他ならない。聖霊は「キリストの霊」と呼ばれ(ロマ8:9)、聖霊においてわたしたちはは祈る(ロマ15:20)。困難と危険に追いつめられて人は本当の祈りを知り、逆境に立って真の友を知る。だからイエスは「心の貧しい人たちは、幸いである。わたしのために、人々があなたがたをののしり、迫害し、あなたがたに対して偽って様々の悪口を言うつ時には、あなたがたは幸いである」(マタイ5:3,11)と言われた。その意味でも弟子たちが彼と別れることは益であった。キリストは何時も先頭に立って導くとは限らない。時に姿を隠す。その時弟子たちは慌て戸惑うが、背後より見守り、執り成し、祈っている。このような彼によって初めて「彼の名によって祈る」ことを学び信仰は飛躍する。

15節
聖霊をうけ、イエスの名によって祈り、聴かれるためには1つの条件、前提がある。「彼を愛し」「彼の戒めを守る」ということである。彼との共同は彼への絶えざる愛と、その言葉を守るということによって証しされ、保たれる他はない。そしてこの戒めとは13:34に示された兄弟愛そのものである。
聖霊は愛の原理であるから、愛がないところには来ないし、住まない。イエスは人々に神の愛を示し、その生命を受けさせるために世に来られた神より遣わされた助け主であった。
「助け主」と訳されている言葉は、弁護人、保護者という意味を含む(17:12、1ヨハネ2:1)。弟子たちにとってこの第1の助け主(地上のイエス)がいなくなる時、彼は「わたしは父にお願いしよう」(16節)と約束する。これは地上にいるイエスではなく「永遠にあなたがたと一緒にいる」弁護人である。そして「この方は真理の霊である」と明言されている。聖霊とは「もうひとりの彼」であって彼と別のものではない。いわゆる「分身」である。地上のイエスと霊なるキリスト即ち聖霊とは互いに他の「分身」であって、どちらが本物というようなことは言えない。
「真理の霊」とは真理を示す霊という意味も含んでいるだろうが、真理そのものがここにあるということ、現実の真理を示し、神の現在を啓示する霊という意味であろう。彼を信じ彼を愛してその戒めを守るものに送られるこの霊を「世」は受けることが出来ない。「見ようともせず、知ろうともしない」とは同じことを言う。しかし、「あなたがたはこの霊を知っている」と強く呼びかけている。聖霊は彼らに降り、彼らと「共に」おるからである。「あなたがたのうちに」とは心の中にというよりは「あなたがたの間に」という意味であろう(ルカ17:21)。「からである」とは将来における確実性を示している。当然、このことにはイエスの時代というよりも後代の教会において経験している事実からヨハネは書いている。

18節
イエスがいなくなるという不安に戸惑う弟子たちに対してイエスは「わたしは、あなたがたを捨てて孤児とはしない」と言い、さらに「あなたがたのところに帰って来ると約束する。しかし、この「帰って来る」ということは弟子たちに対してだけのことである。「もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る」。この「来る」と「見る」において意味されている事柄は聖霊であり復活である。復活の経験とは聖霊の経験に他ならない。そしてイエスの復活は弟子たちの信仰の復活に他ならない。復活の主によって弟子たちもまた活きた。「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである」と言われるのはこのことである。また復活は交わりが回復し復活するという経験であり、確認であった。イエスと父との交わりの、そしてイエスと弟子たちとの交わりの復活。「その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう」。キリストと父との交わり、交わりにおける一致が原型また原動力となってキリストと弟子たちとの交わりが成立する。

21節
交わりは愛によって生かされ、維持される。イエスとの交わりに立つ者はイエスを愛する者であり、イエスを愛する者はその戒めを守る。彼を愛する者は彼に愛されるだけではなく、父なる神にも愛される。イエスとの交わりは父なる神との交わりを支えている。交わりとは不思議な経験であって次第に相手を知ると共にまた自分自身が分かってくる。「わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」とは不思議なことではない。しかし、愛のない関係においては、人格の秘密は閉ざされている。
「主よ、あなたご自身をわたしたちにあらわそうとして、世にはあらわそうとされないのはなぜですか」というユダの問いに対してイエスは直ちに答えを与えていない。そしてこの交わり、愛の共同の条件となる「戒めを守る」ということ、個人的倫理的な服従の面を繰り返して注意している。そして彼をそのような仕方で愛する者には、父の愛が注がれると共に、父と彼との交わりがその人のうちに実現される。神と彼との交わりがその人のうちに実現される。父なる神とイエスとが来て、その人の中に住むと教える。しかし、これに反して彼を愛さない者、世は彼の言を守らない。従って、世にはご自分を現そうにも不可能なことであると答え、これらの言葉は彼自身が勝って言っていることではなく、彼を遣わしている父なる神の言葉であると重ねて注意している。

25節
「これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである」が、それらはあなたがたが知らなければならないことをすべて話し尽くしたわけではない。今、語った「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう」。聖霊はイエスの教えを展開し完成するものである。イエスの言葉は人間の言葉として限界がある。これを神の言葉として受けるためには聖霊の内なる証しが必要であり、また聖霊の教えとして発展させられる必要がある。聖霊のもう一つの重要な働きは「わたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう」ことである。過ぎ行く時間の地平で、相対的な事物の連関(文脈)の中で語られた断片的な支離滅裂な言葉を、想起によって明確な神の言葉として再編成する。想起は発展、拡充と別のものではない。信徒は聖霊によってすべてのことを持つ。

3.別離の言葉(27~31)
「心を騒がせないがよい」という14章の冒頭に語られた言葉が再び繰り返される。心を騒がせないで、おじけないでいられる理由は、既に明らかなように、信仰の所有として確信された彼との交わりである。これこそが今、世を去ろうとしているイエスが弟子たちに遺す「平安」である。「わたしの平安」、つまり彼らに「イエスの平安」が与えられる。「わたしの」と言われる理由はイエスが父なる神との交わりの中で持っている平安であり、暴風の中でも眠ることができた平安である(マルコ4:38)。イエスはこれを、地上で知った弟子たちとの短くはあったが寝食を共にした共同生活の思い出として弟子たちに遺そうとする。それだけではない。今、死に臨んで弟子たちとの交わりの中で確認された平安、それを弟子たちへの遺産として与えようと言う。それはこの世が与えてくれるようなものではない。だからこそ、わたしが父なる神のもとに行くのを喜ぶべきである。「わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る」と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。愛する者同士の間では別れもまた喜びでありうる。まして、イエスが「わたしよりも大きいかた」のもとに行き、その交わりが完成し、その結果が弟子たちにまで及ぶとすれば、それは大きな喜びであるはずだ。29節は例によって著者の註である。「もはや、あなたがたに多くを語るまい」。もうこれ以上語るべき必要もない。互いに信頼と愛とによって結ばれた者たちの間では多弁は不要である。「この世の君が来るからである」。これももう一つの理由である。「だが、彼はわたしに対して、なんの力もない」。彼らの手に自分自身を委ねるのは彼を愛する父を愛してその命令に従うからに他ならない。「この世の君」に対して無抵抗と平静とで迎えるのは、世の人々にこのことを知らせるためである。そう言ってイエスは弟子たちを促して立ち上がった。「立て。さぁ、ここから出かけて行こう」。 

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