松村克己:アウグスティヌスの「三一論」について〜神学方法論についての一考察〜
東京神学大学神学会「神学」(石原謙博士古稀記念論文集、1952年12月)
第1章 アウグスチヌス
アウグスチヌスの「三一論」は「告白」および「神国論」と並ぶ彼の主著の一つであるが、他の2書ほどに人々に親しまれていないようである。全15巻からなるこの書物は「告白」が書かれたときとほぼ同じ時期に着手されながら、完成を見るまでには20年に近い歳月を経過している。(398年~417年と推察されている)
従って前後の叙述に繰り返しが多く、また必ずしも一貫した論旨を辿っているとは思えない。書物の形としてはその意味で成功したものとは言えないかも知れない。しかし、このことは書中で彼自身が何度も繰り返して言っているように、問題そのものの困難さに基づく。「三一論」は最も困難な神学問題と正面から取り組んだ労作であるだけに、しかも晩年の大著「神国論」を準備したとも考えられる。彼の生涯の盛期における労作だけに、我々はここに神学者アウグスチヌスを評価するメドを求めるとしても、さして不当な企てと言えないであろう。しかるに、従来、ことにプロテスタントの陣営において、このような観点からこの書物を取り上げられた例を筆者は不幸にしてほとんど知らない。これから開陳しようとするところははなはだ不十分な、素描の粋を脱していないが、主として神学方法論の見地から、2、3の問題を考察して、彼の支持する方向、その動機の理解に資したいと思うのである。あわせて今日の神学界に対するアウグスチヌスの意義を考察してみたいと思う。
問題というのは、大きく言えば、神学の論理と言ってもよいが、これを2つに分けて考えたい。一つはアナロギアの問題であり、他は心理の問題である。筆者はかつて十数年前に、神学のロゴスの特殊性格について簡単な考察を試みたことがある(波多野精一先生検定論文集『哲学及び宗教と其の歴史』所載「学としての神学」昭和13年、岩波書店)が、本稿はいはばその発展とも見られようか。ところで第1のアナロギアの問題については今はこれを立ち入って諭ずることを差控ヘたい。これについては数年前「福音の論理」として基礎的な考究に着手されたのであったがこの論文は未完のまゝで終わっている。その理由は、当初の意図と見通しとをさえぎって、心理の問題が次第に強く筆者の関心を把えるにいたり、具体的なロゴスは論理と倫理との相即、相互媒介による弁証法的理解というには留まることが出来ず、更に心理を加えての三一的構造における理解を要求することが次第に明らかになってきたので、構想を根本的に建て直されねばならない必要を感じたからであった。その際に脳裏に浮び上って来たものは外ならないアウグスチヌスの「三一論」であった。かつて通読して問題の所在と意図とを充分に掴み得ないままに放置したこの書物に、何か示唆が含まれているように感じられて仕方がなかった。それ数年、身辺の事情の変化に伴ってこの課題は何等解決えの糸口を見出すことができないまま経過し、今日といえどもその時ではないが「三一諭」を見直す機を得て、いま心に残る事どもを、一応覚え書きとしてまとめて見ることにした。
心理主義とか心理的説明とかいう類のものは由来、哲学においても神学においても非常に受けの悪いものであった。それは原理的にものを考え探求することを怠り、手軽に気の効いた、いはば素人だましのような通俗的説明に堕することえの警戒と、諭点を移したままこれに帰ることを忘れ顧みて他を言う安易さに留って、本来的な問題の解決に寄与するところが少いと見える不信に基くようである。しかしロゴスが人間の真理である限り、それは心理的側面を除外しもしくは無視して成立たないであろうことは洞察に難くない。心理主義の抽象性、不充分さ、排他的全体主義的要求の不当さについては、諭理主義および倫理主義のそれと同じく同位的立場に依るものとして語られねばならない。自然科学の発達と共に登場した科学的要素的心理学の限界については今日既に多くの考察と批判とがなされている。人間心理が単に分析科学的にのみ究明されるとはもはや考えられてはいない。具体的人間の全体的把握ということが人間理解のための心理学の本来的指向であった。哲学的心理学の復権が今日この問題について再考されなくてはならない。独断的な心理学として廃棄されたかつての哲学的心理学を再び墓から呼び出そうとするのではなく、これに対するアンチテーゼとして登場した客観的心理学としての自然科学的心理学が正に人間心理の一般的抽象化として反省されるに至った今日、また主観といわれたものを主体として把握し直す道が様々な人間学の名の下に試みられつつ一種の思想的無政治状態を結果している今日、思想のリアリティーを求めるものはどうしても心理におけるそれの明証性を確立しなくてはならないからである。思想が単なる思想として客観的文化的な存在を保つに留らず、それが生ける力として個人を動かし社会を変革・形成するものとなるためには、心理的リアリティーを欠くわけにはいかない。力は単純なものから生れる。しかしまた、それが歴史と自然の形成力となるためには、様々な変化と姿とを貫いてそれのロゴス性があらゆる面において証されなくてはならない。今日神学が、巌密な客観的な学であることを要求しつつ一種の諭理主義に堕しているきらいがあるとすれば、それの救済えの道は恐らく、従来不当にさげすまされてきた人間心理の領域に注目し、哲学的であるのみならず更に神学的ともいうべき心理学の探求、樹立えの努力にこれを求めることが出来るのではないだろうか。このような道を既に1500年の昔において開拓したアウグスチヌスの洞察力と逞しさとには、改めて注目するだけの価値は充分にあろうかと考えられる。
第2章 神学の方法論としての根源的論理
「三一諭」におけるアウグスチヌスの意図は一体何であったか。言うまでもなく、それは三位一体の神というキリスト教信仰の秘義を人々に理解させようとすることであった。彼はこの場合、信仰の権威に基ずきこれに従ってこの教えを受容するだけに満足せず、更にこの秘儀の真理たることを理性によっても証明したいと欲する人々を読者として想定する。彼自身も彼等と同じくこの教えの真理なることを聖書を典拠とし、カトリック信仰の権威に従って、信受する。しかし、それだけでは満足しないで、やはりこれを知性によっても確実なものとして理解することを欲する。後者によって信仰が証明されたともまた確実になったとも考えるのではない。ただそれによってより強く、より正しく生きることが出来ることを期侍する。彼自身の言葉を用いるならば「幸幅な生活」に進み入らんことを願う。だからこの意図からすれば、この書物は正統的な神学書であって哲学の書物ではない。にも拘らず従来の研究の関心は多くこの書の中に見出される哲学的考察に向けられて、その神学的意義に注目する者は少なかった。
いま本書の構成を大観するならば、大別して2部に、詳しく見れば3部に分けることが出来る。第8巻以後の後半部が本書の固有の部分として注目されるのであるが、前半部はさらに2つの部分で出来ている。第1巻から第4巻までは聖書の語り示すところに従って、啓示の神が父・子・聖霊の三位にして一体なることをザッハリッヒに 実証的に理解しようとする。この部分を聖書神学的と呼びうるならば、第5巻から第7巻の部分はこれを歴史神学的考察と見ることが出来る。すなわち、この教えに対して提出される様々な異る理解、即ち異端的な試みに対して聖書を典拠としつつ正しい教理の形式を確立しようとする。それはラテン語では una essentia, tres personae. として示される。
ギリシャ教父の伝統的用語をそのままに用いる場合には persona の代りに hypostasis の語が、または、これをラテン語に移し訳して substantia の語を用いることが行はれていたが、彼はこれが事態の正しい理解を妨げ混乱を生ずる不幸の原因と考え、聖書にその用語例はないが persona の語を用いることが適当だと主張する。substantia は essentia と同義と解せられ、従って、「ミア ウーシア、トレス ヒュポスタシス」(ギリシャ語)をラテン語に移す場合には una substantia, tres personae. とすべきであるという。 用語の巌密な批判を歴史的に取上げ、これを確定するという仕事は教義の形成にとって重大な貢献であって、三一論のフォーミュラの確立は本書に負うところが多いと言ってもよいのではあるまいか。なおついでながら、これらの用語の差違が何処から由来したかを考えて見るならば、思弁的的傾向の強い東方教会においては、神の一を保持しようとして子および聖霊の具体性を危くする Docetism ないしは Adoptionism のような考え方がしばしば現れた。これに対して正統的信仰は父・子・聖霊の三つが実体性において同格であるという三一論における三の面を強調する傾向が強い。この事が tres substantiae vel hypostases という表現を選ばせたと考えられるに対し、実際的な関心の強い西方教会においては、父・子・聖霊の神格と、同じ本質についての思弁的疑惑は生じない代りに、実際的には三神であるかのような印象を与えて、三一論における一の面が十分に生かされない傾向があった。アウグステチヌスが本書において特に力説している点もここにある。persona の概念は関係(relatio)概念であって相互の区別を示すものではあるが、その区別は natura の区別を示さないというのがそれである。
さて本書の主要部門である第8巻以下はそれではどのように理解すべきであろうか。言うまでもなくそれは聖書神学および歴史神学に対して、組織神学的部門と言える。信仰の真理を一般的真理意識すなち理性に訴えてそれの真理性えと人々の眼を開こうとするのであるが、そこで信仰と理性との秩序の相違、同じように真理を求めつつもその真理の性格の差、およびそれにも拘らず人間の真理として相通う類似性の問題が根本的な問題として自覚されて来る。不等における等、不似における似、 あるいは似における不似、等における不等というアナロギアの関係は、神と人間との関係を示す根本的な論理として立ち現れてくる。この論理が三一論の根抵にあってそれを成り立たせている秘密である。三一論の秘儀は論理的にはアナロギアの秘密に懸っている。この事を自覚せずして単なる人間の悟性の諭理、ことに当時にあっては唯一の諭理とされていた形式論理の立場からこれに近づこうとする時、さまざまな疑惑と共に事態に即しない異る理解、異端が生じることは避け難い結果と言わねばならない。アウグスチヌスは先づ究極的存在者・創造者である神にあっては、実体——属性、一——多、等の一般的根本的範が適用されないことを繰返して注意する。分析的論理は二肢的に働くが、創造の秘密を受け留める信仰における行為的実存の論理は存在の最も深い姿を三一的構造において示す。アウグスチヌスは神の究極的三一性を理解するために、被造である人間の世界において見出される諸々の三一像を追求しつつ外なるものから内なるものへと進むことによって、遂に神の三一の直観へと魂の浄化されて行くこと、終わりの日の完き直観の希望に生きる信仰の生の浄幅を人々に確信させようとする。この場合、人間経験の領域における三一像のうちに神の三一の像(imago)を認めうるならばこれを通して、現在の、鏡に映るようにおぼろげな認識より将来の全き認識、顔と顔とを相合わせて見るように神の直感に生きる浄福ヘの希望に固うされる事が出来ると考える。ここで中心的な叙述を形造っているものが人間の魂、意識における三一像の追求と吟味とであり、心理的な分析なのである。
第3章 三一論の諸問題
ところで私たちは次の諸点を確認しておくことが必要である。アウグスチヌスの「三一論」は上述のように根源酌な諭理の問題を取り上げながら、これを正にそのようなものとしては前面に持ち出してはいないということ、第2には、問題の形として終始前面に持ち出され展開されているのは心理的事実だということである。この事は何を意味するかと言えば、彼は根本的な諭理の問題と取り組みながらこれを方法論的に自覚することなしに、問題自体の圧力・推進力に押し出されつつ方法的には心理の問題ヘの回り道を辿ることによって問題解決ヘの道を切り開いたということである。福音の論理を根本的に把握し、神学の方法綸的基礎を築くことは今日といえどもなお成し遂げられていない問題なのである。更に第3の、もう一つ注意すべき事柄がある。それは、アウグスチヌスは本書において論証(demonstratio) ないしは弁証(apologia)を企ててはいないということである。「告白」が文字通り讃美・告白の書であり、「神国論」にアポロギアの性格が強いとするならば、この書の性格はむしろアペラチオ(appellatio)と言われるべきである。その根抵に告白(confessio)が控ヘていることは言うまでもないが、この性格こそ神学本来のそれであることに留意したい。彼は人々の気付かない人間経験の、ことに魂の心理的事実を提示して、これに人々の眼を向けさせようとする。問題はこの事実を見る眼にある。眼が対象をよく見うるためには、見ようとする努力と共に、充分な光を必要とする。それ故に彼は探求の途上において、始めにおいて、また終わりにおいて、神の助けをしばしば祈り求める。内なる光としての神の恩寵、内なる教師としてのキリスト・聖霊の賜物なしには、肉体の重みに圧せられ罪の闇に閉された人間の魂は、被造の中に秘められた神の像を見ること、把えることは出来ないからである。
比量的思惟による推諭や論証ではなく、直観が終始方法として取り上げられていることは注目に値する。信仰とは神に向って開かれた内なる眼であって、地上の経験の中で出会うさまざまな三の姿のうちに神の三一の像を洞察させるものは実にこの信仰の眼なのである。信仰は人間の内なる眼であると共に、それ自身神の賜物である。神を知るということはやはり直感として考えられているのであって、ここで nosse と intelligere との異同を明らかにしておく事が必要となる。nosse とは何ものかが意識に現前することであって、後述するように memoria の働きである。従ってこのいはば直接興件ともいうべき notitia は意識(memoria)が感官によって外界の事物を内に受けとる場合も、思想や教えの形で他人の語るところを内に受容する場合も、またこのようにして受容されたものが想起によって忘却の中から取り出される場合にも、同じように見出される。notitia はいわば第1次の認識であるが、これに対し第2次の認識は cognitio と呼ばれる。言うまでもなくratio (Verstand)によって他との媒介を遂行する思惟——cogitare (diseursives Denken)——の結果である。第1次の認識を第2次の認識に高めるこの働きはしかしまだ真理認識の必要燦件ではあっても十分な条件とはならない。認識の真理性を保証するものはデカルトの場合のように観念の明晰判明な直証性に求められる。それは先きに述べた心理におけるリアリティーに他ならない。アウグスチヌスの言葉を用いるならば「魂における」リアリティーということになる。単なる意識におけるそれとは区別されるこの明澄性は「真理の光の中に真理を見る」「汝の光のうちに汝を見ん」(詩36:9)の表現にうかがえるような究極的直観に他ならない。このような直観的能力を知性(intellectus)と呼ぶ。 従って credo ut intelligam という命題の示す信と知との2 つのものは元来異質的なものではない。確実的なものの直観はもはや論理を必要としない。不確実なものの直観が論理を要求するのである。私たちの思惟が観念の間を右往左往して真理を求めるのは、確実なものの直観に到達するためである。notitia がmemoria に属するに対し intelligentia は cogitare に属するにしても、何れも認識としては確実なものの直観として成立つ。intelligenti はいわば思惟の眼である。
確実なものの直観とは何であるか。見るものと見られるものとが何等かの意味において同一となるような直観である。感性的直観は身体を媒介とする限り、この事は厳密には不可能である。身体性とは自と他とを空間的に分つ原理だからである。しかもこの区別の原理が同時に行為的には自他を実在的に結合する原理ともなる。認識は自他の同一という矛盾を含んでいるが、それは自己認識が他者の認識を媒介として始めて可能であるということを意味している。この事は更に、確実なものの認識は不確実なものの認識を媒介として行われるということになる。アウグスチヌスは身体の秩序における認識を scientia と呼び、精神の秩序におけるそれを sapientia と呼ぶ。そして後者は前者なしにはあり得ないと考える。前者は行為を、後者は観想を蝶介として成立する。行為に関わる認識とは身体と関係するそれに他ならない。信仰の真理は精神の秩序における認識ではあるが、それの認識は身体の秩序における認識、即ち scientia をやはり必要とすあ。何となればイエス・キリストは肉体を執って人となり給うた神であり、御子の真理は歴史的な事実の認識を欠いては成立しないからである。scientia は人間が生き行動する限りにおいて必要な知識であるが、sapientia は人間が神の子として、永遠に生きるものとして欠くことの出来ない知識である。scientia の意味を把えるものこそ sapientia だと言うべきである。
sapientia が神と関係における知識であるとするならば、それは神の創造にかかる事物の認識を通して得らるべきは推察に難くない。三位一体の神を知解し、また洞察することも、人間と世界の経験の中に見出される三一像を注視し、それらを秩序の段階に従って外から内ヘ、このようにして被造者のそれより創造者のそれへと直観的飛躍の道によって到達されうると考えたことは、彼にとって極めて自然な方法であった言える。私たちはは次に彼の辿った道を跡づけることにしよう。
第4章 三一論の概観(8巻以降)
第8巻以後の主要部においてアウグスチヌスはこのように考える。
神が真理であるということは聖書によれば、神は単に考えられたものではなく、信仰の教えの示すように確かに事実として、私たちを罪から救い生命と浄福とを与えるということである。このような救う神、働きにおける神の真理が三一の神として教えられているのである。だから三一の神を知るということは、神をものとして対象として知るということとは明白に区別されなくてはならない。世にあるすべてのものは対象として、即ち物的な像として知ることができる。これが感性的認識の特色である。そこで、神を知るためには2つの事が必要となる。第1に、神を私たちを救う神として知るためには、私たちは知る前に、この救いの働きを受ける立場に立たねばならない。これが信仰である。「私たちの知解にとって未だ明白にはならない事柄を、信仰の確かさから決して手離してはならない」という規則を最初に掲げる理由である。しかしこのことは、信仰によって受け取ったものを知性の解明に委ねるということではない。神の働きを受け取るという信仰の立場に立ちつつ、知性によって信仰の言葉(教え)の意味を追求しこれを明らかに理解しようというのである。神学の立場とは元来こういうものに他ならない。従って神を知ることは、神の働きを受ける自己を知ることと別ではない。この2つは分離することが出来ない。「神と魂とを知らんことを」と希求した初期の言葉もここで正しく理解されるであろう。第2に、魂の眼を外なる物的な像から出来るだけ遠ざけて純粋に内に向けること、それが神に向い、神を求める道である。
さて聖書は「神は愛なり」と教え、また神に至るために愛の誠命を示している。神を知るというのは神の愛を知り、これを受けることに他ならない。従って神の三一の真理を知る道も神を愛する他にはない。神を愛するためには神を既に知っていなければならないが、この知は信仰が与えてくれる。信仰によって知る神は未だ知性によって明らかに知られていないために、魂は神を知ることを願い、神を愛する。神を愛する魂は神に知られていることを知るので、神をもっと知ろうとする。しかし神を愛するということが単なる憧憬、パッション、欲求に過ぎない場合は神に至ることが出来ず、従ってまた神を知ることが出来ない。三一の神な知るためには真の愛が必要である。真の愛とは、思っているだけの愛ではいけない。思っているもの(quod putat) と知っているもの(quod scit)とは区別されなくてはならない。真の愛は思っているだけの愛ではなく現実に愛していることを知っている愛、即ち自覚的な愛でなくてはならない。聖書は神を愛するということを、単に思っているだけの愛に終らせないで、また真に神を愛することと思っている
こととの混同を避けるために、兄弟を愛せよ、という命令を回り道として示している。アウグスチヌスもまたこの事に注目し、聖徒の足跡に倣って兄弟を愛することこそ神を知る道であると奨める。「人もし兄弟を愛するならば、彼はそのとき、愛そのものを愛しているのである。何となれば彼はその時、その愛する兄弟よりも兄弟を愛する愛そのものを、よりよく知るからである。従ってまた『神は愛であるが故に』それによって彼は兄弟を知るよりも、よりよく神を知ることが出来る。よりよくという理由は、『見えない』神は、『見える』兄弟よりも一層内にあり、 現前的であり、確かであるから。愛を確く抱け、この愛は神に他ならないので、愛によって汝は神を抱くであろう」(第8巻8:12)と語る。
見えない神に至る道は、見えるものを媒介とし見えるものの、外なる経験から内なる経験にと進む他はない。被造なる自然の中に既に神は知られている。被造物はすべて創造者なる神の足跡(vestigium)である。しかしそれはなお謎や記号のようなものであって、これを正しく読み解く
には言葉(verbum)を必要とする。神の言、真理の言なる御子が肉をとり人とならねばならなかった理由がそこにある。ところで人間は神の被造物の中にあって特殊な地位を占め、人間のみが神の像(imago Dei)だと聖書は教えている。身体的人間は自然と連る物の秩序に属し、そこには物言わぬ物体や動物と異るものはない。ここには万物と共に神の足跡は認め得ても神の像は恐らく見出されない。人間を他の被造と区別するものは精神(mens)的な存在である。人間が神の像と言われるのは人間を精神において、魂として把えた場合でなければならない。何故なら身体としての人間は万物と共に転化・生滅の運命を免れず、神の永遠と愛とを映す場所としては精神の他には考えられないからである。かくして第8巻の終り近くアウグスチヌスは、既に見たように「神は愛なり」とすれば、神の三一の像を人間精神の愛の事象のうちに見出すことは出来ないだろうかと問う。多くの人々が神と人間との類似(analogia)を知性に求める中にあって、アウグスチヌスが特にこれを愛に求めたのは卓見であり、聖書的な理解を離れないものと言うべきである。彼もまた、知性を神との密接な関係において理解する。しかし言うならば、知性は未だ消極的な原理に留って、積極的な原理というべきものは愛である。この両者が人間精神——たましい——の相即する根元的な働きであることによって、神と人間との関係は保たれる。
彼は先づ日常一般的な愛の現象を取上げて考える。そこには常に愛するものと愛されるものと愛することとの三者が密接な仕方で一つの事態を成立たせていることに気付く。この場合、愛するもの(我)と愛されるもの(他)とを一つに結んでいるものは愛であるが、今ここでは精神が内に帰って愛の姿を見ようというのであるから、愛が外に向う場合を一応遮断する。そして愛する我と愛されるものとが同一であるような場合、即ち自愛の場合——精神が自己を愛するとき——を考へて見る。この場合には明らかに愛の三肢的構造は二肢酌となって三一の像は見失はれるかに見える。しかしこの事は実に三が一に凝収する方向を示すのであって、自愛においては、愛するものと愛されるものとが一となるのみならず、愛することが自覚として(前頁)自知という隠された相を新たに導入してくることとなる。ここでは我は身体的な我ではなく純粋に精神的な我、詳しく言えば思惟する我(ego cogitans)としての精神(mens)である。精神はこのようなものとして自己を知る(se nosse)ことが出来る。この場合にのみ、精神は自己を対象として知るのではなしに、愛することにおいて自己を知る。この自知(自己認識)は自愛の自覚であるが、自覚とは精神が目醒めている状態に他ならない。換言すれば精神が働いているということである。目醒めている精神の状態は意識(Bewusstsein)と呼ばれるが、アウグスチヌスはこれを memoriaと呼ぶ。神を知るためには相関的な関係において自己を知らねばならなかった(前出)。しかも確実にこれを知るためには確実なる足場を持たねばならない。神の三一を知るために、人間精神における愛の現象を神の三一の像として注目したアウグスチヌスは今や、愛の三一的構造から、精神の中に神を知るための確実な認識の足場を把える必要を感じた。思惟によって目醒めている精神は自知の意識において幾つかのことを明澄的に確実なものとして知っている。自己が存在すること(esse)、生きていること(vivere)、意欲すること(velle)、知解をもつこと(intelligere)、記憶を持つこと(meminisse)等である。この「知っている」は既に述べたように「思っている」こととは区別される。「人は人間の精神を空気であると思い、空気が知解の能力(知性)を持っていると思うにしても、自分が知解しているということは知っている。これに反して自分が空気であるということは知らない」。この「知る」は ego cogitans の自覚において与えられる se nosse の根源的な内容である。そこで精神(mens)、自己認識(notitia)、自己愛(amot) の三一像として先きに取り上げられたものは、自覚における精神の直接的確実性という見地から見直され一般化された場合には memoria (記憶)、intelligentia (知見)、voluntas (意欲)の三一像として置き換えられることになる。
以上が第8巻から第10巻に至る叙述の筋道である。「mens, notitia, amor の三者が一体となって、それらが完全である場合には三者は互に相等しい」。またこの三者は互に区別されながら、 しかもそのどの一を取って考えて見ても、それは他二者の中に含まれているという関係にある。それは三者が実体的には一であるということを示している。ところで第9巻においては、一応出発点として取り上げられた愛の三一性といういわば形式的な構造を、精神そのものを知ろうという具体的要求によって精神の三一性の把握えと、新らしい局面を展開することとなる。彼は言う「自知、自愛という働きにおいて精神が愛しまた知るものは必ずしも不動なものとは言えない。人が自らの精神の中に生起するものに注意を向けつつその精神を言い表わす場合と、類または種の認識に従って人間精神を規定する場合とでは同じではない」。これは精神をそのものとして知ること(notitia rei in ipsa re )と、永遠の真理において知ること(notitia rei in ipsa aeterna veritate )との別をいう。またこの事は精神が、変化・生滅の相においてある物的秩序の事物を知ると同じような仕方でも、知られうることを言い表はしている。むしろ精神は感性的認識と叡知的詔識との両者の行われる場であることを物語っている。そして形体的物的事物の認識において、これを形相の純粋直観による永遠の真理の認識に基いて判断するのが精神である。感性的認識の構成については第11巻に至って検討されるが、精神が永遠の真理を直観するに当たって大切なものは眼でり、眼の役割を担当するものが知性(intelligentia)である。精神の眼が形相を直観する場合にこれを映す場所また保存される場所が memoria である。この直観された形相は概念となるが、これを言葉(verbum)と彼は呼ぶ。というのは、事実の真の認識(rerum verace notitia)を直観として孕んだ精神は、これを内に語るという仕方で、言葉として生み落すからである。そして生れて後は私たちを離れない。ところでこの言葉(概念)を孕ませるものは愛であると言う。この愛は創造者の愛である場合があり、被造物の愛である場合がある。即ちその愛は不動な真理に向けられる場合と可動的な自然に向けられる場合もあり得る。ただ前者の場合にのみ、言葉は魂の中に孕まれるや否や生み落されるという。
精神の自己認識は精神から生れた子であり、言葉において成立つが、愛は精神の生んだ子だとは言えない。では愛はどこから由来するかというならば、自己を愛すること、追求すること、知ろうとすることが精神の本性として、直接的な自己認識において把えられていると言わねばならない。愛の直接経験によってむしろ精神の存在と生命とが、知の自覚と共に与えられたのであった。と言って愛は精神の父であるとは言えない。愛が精神の子であるとは考えられないのと同様である。上のように愛を精神にとって根源的なもの、従って直接経輪として把えられる自明的なリアリティとして立てたことは、幸幅への要求を哲学及び宗教えの出発点としたことと別のことではない。人として幸幅えの求めを持たない者はないと彼は考える。何が幸福であるかについては意見を異にするとしても。さてアウグスチヌスがこれ等の事を疑い得ないこと、自明な直接経臓としてすべての探求の前提としていることは、方法論的に、今日十分に考えて見る価値がある。愛が自実を支えているの根源的な基礎縄験とされ、確実な認識えの手懸りとされている意義は重要である。デカルトの cogito, ergo sum をマールブランシュは je veux, donc je suis. と言い換えたが、アウグスチヌスの場合には後者の方がより根源的と考えられている。cogito は velle から出てくる。 認識においては愛が何に向うかが決定的な事柄となる。愛の秩序( ordo amoris)が認識的にも倫理的にも問われなければならない。そこでアウグスチヌスは愛を意欲として一般的な形に還元すると共に、mens, notitia, amor を memoria, intelligentia, voluntas の三一像に置き換へつつ、再びこれを外なる人の認識、即ち感性的認識の場において三一像がどうなるかを問う。これが第11巻の仕事である。
感性的認識は感官によって導入される感覚による。いま五感のうち代表的なものとして視覚を取り上げるならば、視覚的認識は見られるもの=物体(res ipsa )、見られたもの=視像(visia)、注意=意志(animi intentio)の三つから成り、そこにものの形像(forma, similitudo)が生まれる。神の被造である限りあらゆる物において神との類似(similitudo)はそれぞれの類に従って存在はするが、それはまだ直ちに神の像(imago)とは言えない。感性的認識の一つの変形に想起と想像(imaginis, forma) がある。外なる物体が現存しなくなっても、記憶にはなおそのものの形像(simillitudo)が残っていて、意志が新たにそこに思惟の眼差しを向けるときには、内的な形 visio interna が形造られる。これは注意(attendio mentis)の informatio (働き)による像(imago) である。想像の場合には、感性的経験において外物の記憶に残した形がそのまま再現されるのではなく、経臓の抽象によって得られた類的知識が像の性格をもって現われる。ところで先きに見た知的直観の場合には、そこに把えられる事物の純粋形相は、多くの外なる物を肉眼をもって見てその類似を抽象によって概念としたのではなかった。 ここに想像と呼ばれるものの中間的な意味がある。それは感性的認識と叡知的認識とを媒介する場所であるかに見える。想像の場合にも知的直観の場合にも、像的性格を持った形が見られる。そしてその現はれる場所は memoria である。 とすると memoria は予めそれを内に隠し持っていたと考えなくてはならない。ところで形は形によって孕まれまた生み出されると考える他はない。そして彼に従えば、また「形に従ったあらゆる認識は対象(認識されたもの)に類似する」(omnis secundum speciem simiilis est er rei quam novit)。この場合 species とは感性的事物の形と本質的形相との両方を含み単に後者のみを指すとは考えられない。続いて彼はこう語っている。「そこで魂が何らかの形を認識する時には、そのものとの何らかの類似をもつことになる。それ故、私たちは神を知る限じり神と等しいわけである。ただしこの類似は一致(aequalitas)にまでは至らない。神が自己を知るほどとには私たちは神を知らないからである。同様に感官を通じて物体を知るとき、私たちの魂の中にはそのものとの一種の類似を生ずる。これは記憶のなす業(phantasia memoriae)である。何故なら私たちがそれを考えるとき、私たちの中にあるのは決して物体それ自身ではなくそれの類似=形にすぎないから。……にも拘らず魂の中にある物体の想像(imaginatio) はかの物体の形(species)よりも優れてい。というのはそれらの像は魂と呼ばれる生ける実体、よりよきものの中に見出されるからである。同様に私たちが神を知る場合には、私たちは神を知らなかった時よりもよりよくなるし、その知識は何らかの類似を神と持ちはするが、 それは神に劣る。それは神より劣ったものの中に見出され、魂は被造物だからである。そこで次のように結論しなくてはならない。精神が自己を知りもしくは確認する場合、その認識(notitia)は精神の言葉(verbum)と全く同じであり一致する。何故ならこの知識は物体のように精神より劣ったものの認識でもなければ、神のように精神より優れたものの認識でもないから。……」知識はこの場合、知りまた知られる精神と完全にして等しい類似をもつ。従ってその知識は同時に精神の像(imago)であると共に言葉=概念(verbum)である。imago であると共に verbum であるというのは、感性的認識と同じく自己のうちに対象である自己の像を生むと共に、この生まれた表現、いはば子はこれを生んだ自己と等しいが故に、像は自己の本質(言葉=概念)と全く一致するというのである。即ち精神の自己認識においては、感性的認識の性格と知的直観の性格とが共通に見られるということになる。しかし忘れてならないことはこの場合の自知が完全である場合は、という条件である。自知が完全であるとはどんな場合か。言うまでもなく、自己を知ることと神を知ることとが相即して行われる場合である。
第5章 神の三一像
そこで最後に重要な帰結が生れてくる。外的人間における感性的認識の中に神の三一像を求めることが出来なかったばかりではなく、上に見たような内的人間の自覚の中に見出された三一像といえども、それだけでは神の三一の imago と呼ぶことは出来ないということである。この事が第12巻の題目である。そして第14巻に至って彼は memoria, intelligentia, amor の三一的な精神像は、精神が三一の神に向けられる時にのみ始めて神の三一の imago となると語る。それはこうである。三一の神の教えが信仰によって受け容れられ、魂=記憶に移される場合、精神の中には特殊な(sui generis)三一像が形成される。即ち人は未だこの信仰の言葉の意味を理解しないままこれを記憶に留める。丁度知らないギリシャ語やラテン語を記憶する時のように。言葉の音は、それを意識しない時にも記憶にある。やがてこれを意識するとき、記憶から思惟が生れる。そして最後に記憶と思惟とを結ぶ意志が。しかし、ここにはまだ外的(身体的)人間の三一像しか見られない。信仰の言葉の意味を問うに至って内的人間の働きは始まるが、それでもなおそれだけではまだ内的人間の三一像を認めるわけには行かない。今一つの条件がある。それは彼が信仰の言葉の中に含まれている教え・誠命・約束を愛しこれを抱きしめつつ聖徒の敬虚に歩んで、この探求を進めるということである。その時、人は自らの中に見出す三一像を神の三一像として、神をよりよく知るに至る。これが第13巻を終わる言葉である。
上の事は裏返して言えばこうなる。人間は堕罪によって、創造における神の像を失いもしくは損うている。彼を創り給うた者の像=キリストに従い、更新された魂の中に始めて神の三一の像を見出すことが出来るということである。しかし地上にある限り私たちの見るところは朧ろであり不完全である。かの日、彼と相見て彼に化する日の希望が私たちの絶えざる探求の歩みを支ヘ、また地上の悪と不幸とがこのような場所でなお新しき人を訓練し真理を戦いとるために存在することを知って、感謝と讃美の生を続けることが出来る。
第6章 結尾
「三一論」が様々な試みをした後に明確な結論を示し得ずに、問題を放り出し、祈りに逃避したと見るのは、この書を単なる哲学、思辨の書、または論証を目的とするものと見るからである。アウグスチヌスは既に言うべき事を語り尽くして筆を置いた。結論は読者が銘々自らの中に求めればよい。神学が逞しい思惟を追いつつも究極においてはなおそれが信仰の告白の特殊な学的一形態と見られる理由はそれが論証や説得による弁証を目的とするのではなく、曇りのない眼をもって神の恩寵を仰ぎ、見たところを厳密に言葉によって言い表そうとする営みに他ならないからである。このような性質の労作は常に全体として理解されることを要求する。
「再論」(Retractiones)第2巻15章で彼は本書成立の事情を語ったなかで、かう言っている。第12巻まで書き進んで筆を留めていたとき、早く読みたいと切望して辛棒し切れなくなった人々がこれを彼に隠して公にしてしまった。そこで彼は本書はもうここまでで打切ってしまい、書き残した事柄ほ別の形で公にしようと一応は決心したのであるが、完成してほしいという友人の奨めもあり、手許にある草稿に加筆して完成さすことにしたのであると。これは明白に、全体として受けとられない場合の誤解を恐れ責任を感じたからであると思われる。この点からすれば「三一論」が読む者の興味に従って部分的に取上げられ、ことに哲学的な面からのみ考察されることは不幸である。私たちは哲学者の不遜を責める前に、このような事態の責任の一半は正に神学者の怠慢に帰せられねばならない点を反省したい。アウグスチヌスに逞しい思索と深い哲学の存することは何人も否定出来ない。しかしそれらのものがどのような背景を持ち、どんな動機に動かされているかを、たとえ哲学者は無観して彼の哲学を語るとしても、神学者までがこれに引づられて行くということは、不幸を通り越しておかしい。アウグスチヌスの哲学は実は神学なのである。そして彼にあっては神学は哲学を生み哲学を育んでいる。それが彼の思想の永遠的な影響力の秘密であると思われる。神学と哲学との関係の理解について一つの課題がここに与えられている。神学から哲学を排除することによって神学の純粋性を保たうとする試みがある。しかしこの事は事実として不可能であった。無意識のうちに不知不識のうちに人は何らかの哲学的立場に動かされている。他方、都合のよい哲学を便宜的に採用して哲学を神学の中に導入しようとする試みがある。これも実りは薄い。事態に即した神学は自らの哲学的立場を必ず自覚すると共に、神学形成の途上において哲これをも生み之を育んで行く。 だからその思想は信仰という前提と場所とを離れてもなを真理として通用する一般性・妥当性を主張しうるのである。このような迂回路を経て神学は始めて本来の生産性と象徴性とを発揮しうるのではあるまいか。
付記
(1) アウグスチヌスの「三一論」を神学方法諭の観点から見直すことヘの示唆を賜ったのは田辺元先生であった。
(2) 畏友 中川秀恭君が 「宗教研究」129号に「アウグスチヌスの三位一体諭について」なる諭文をエール大学から寄稿された。偶々参照の機会を得て有盆であった。(1952.8.3)
※ 註は省略する。
東京神学大学神学会「神学」(石原謙博士古稀記念論文集、1952年12月)
第1章 アウグスチヌス
アウグスチヌスの「三一論」は「告白」および「神国論」と並ぶ彼の主著の一つであるが、他の2書ほどに人々に親しまれていないようである。全15巻からなるこの書物は「告白」が書かれたときとほぼ同じ時期に着手されながら、完成を見るまでには20年に近い歳月を経過している。(398年~417年と推察されている)
従って前後の叙述に繰り返しが多く、また必ずしも一貫した論旨を辿っているとは思えない。書物の形としてはその意味で成功したものとは言えないかも知れない。しかし、このことは書中で彼自身が何度も繰り返して言っているように、問題そのものの困難さに基づく。「三一論」は最も困難な神学問題と正面から取り組んだ労作であるだけに、しかも晩年の大著「神国論」を準備したとも考えられる。彼の生涯の盛期における労作だけに、我々はここに神学者アウグスチヌスを評価するメドを求めるとしても、さして不当な企てと言えないであろう。しかるに、従来、ことにプロテスタントの陣営において、このような観点からこの書物を取り上げられた例を筆者は不幸にしてほとんど知らない。これから開陳しようとするところははなはだ不十分な、素描の粋を脱していないが、主として神学方法論の見地から、2、3の問題を考察して、彼の支持する方向、その動機の理解に資したいと思うのである。あわせて今日の神学界に対するアウグスチヌスの意義を考察してみたいと思う。
問題というのは、大きく言えば、神学の論理と言ってもよいが、これを2つに分けて考えたい。一つはアナロギアの問題であり、他は心理の問題である。筆者はかつて十数年前に、神学のロゴスの特殊性格について簡単な考察を試みたことがある(波多野精一先生検定論文集『哲学及び宗教と其の歴史』所載「学としての神学」昭和13年、岩波書店)が、本稿はいはばその発展とも見られようか。ところで第1のアナロギアの問題については今はこれを立ち入って諭ずることを差控ヘたい。これについては数年前「福音の論理」として基礎的な考究に着手されたのであったがこの論文は未完のまゝで終わっている。その理由は、当初の意図と見通しとをさえぎって、心理の問題が次第に強く筆者の関心を把えるにいたり、具体的なロゴスは論理と倫理との相即、相互媒介による弁証法的理解というには留まることが出来ず、更に心理を加えての三一的構造における理解を要求することが次第に明らかになってきたので、構想を根本的に建て直されねばならない必要を感じたからであった。その際に脳裏に浮び上って来たものは外ならないアウグスチヌスの「三一論」であった。かつて通読して問題の所在と意図とを充分に掴み得ないままに放置したこの書物に、何か示唆が含まれているように感じられて仕方がなかった。それ数年、身辺の事情の変化に伴ってこの課題は何等解決えの糸口を見出すことができないまま経過し、今日といえどもその時ではないが「三一諭」を見直す機を得て、いま心に残る事どもを、一応覚え書きとしてまとめて見ることにした。
心理主義とか心理的説明とかいう類のものは由来、哲学においても神学においても非常に受けの悪いものであった。それは原理的にものを考え探求することを怠り、手軽に気の効いた、いはば素人だましのような通俗的説明に堕することえの警戒と、諭点を移したままこれに帰ることを忘れ顧みて他を言う安易さに留って、本来的な問題の解決に寄与するところが少いと見える不信に基くようである。しかしロゴスが人間の真理である限り、それは心理的側面を除外しもしくは無視して成立たないであろうことは洞察に難くない。心理主義の抽象性、不充分さ、排他的全体主義的要求の不当さについては、諭理主義および倫理主義のそれと同じく同位的立場に依るものとして語られねばならない。自然科学の発達と共に登場した科学的要素的心理学の限界については今日既に多くの考察と批判とがなされている。人間心理が単に分析科学的にのみ究明されるとはもはや考えられてはいない。具体的人間の全体的把握ということが人間理解のための心理学の本来的指向であった。哲学的心理学の復権が今日この問題について再考されなくてはならない。独断的な心理学として廃棄されたかつての哲学的心理学を再び墓から呼び出そうとするのではなく、これに対するアンチテーゼとして登場した客観的心理学としての自然科学的心理学が正に人間心理の一般的抽象化として反省されるに至った今日、また主観といわれたものを主体として把握し直す道が様々な人間学の名の下に試みられつつ一種の思想的無政治状態を結果している今日、思想のリアリティーを求めるものはどうしても心理におけるそれの明証性を確立しなくてはならないからである。思想が単なる思想として客観的文化的な存在を保つに留らず、それが生ける力として個人を動かし社会を変革・形成するものとなるためには、心理的リアリティーを欠くわけにはいかない。力は単純なものから生れる。しかしまた、それが歴史と自然の形成力となるためには、様々な変化と姿とを貫いてそれのロゴス性があらゆる面において証されなくてはならない。今日神学が、巌密な客観的な学であることを要求しつつ一種の諭理主義に堕しているきらいがあるとすれば、それの救済えの道は恐らく、従来不当にさげすまされてきた人間心理の領域に注目し、哲学的であるのみならず更に神学的ともいうべき心理学の探求、樹立えの努力にこれを求めることが出来るのではないだろうか。このような道を既に1500年の昔において開拓したアウグスチヌスの洞察力と逞しさとには、改めて注目するだけの価値は充分にあろうかと考えられる。
第2章 神学の方法論としての根源的論理
「三一諭」におけるアウグスチヌスの意図は一体何であったか。言うまでもなく、それは三位一体の神というキリスト教信仰の秘義を人々に理解させようとすることであった。彼はこの場合、信仰の権威に基ずきこれに従ってこの教えを受容するだけに満足せず、更にこの秘儀の真理たることを理性によっても証明したいと欲する人々を読者として想定する。彼自身も彼等と同じくこの教えの真理なることを聖書を典拠とし、カトリック信仰の権威に従って、信受する。しかし、それだけでは満足しないで、やはりこれを知性によっても確実なものとして理解することを欲する。後者によって信仰が証明されたともまた確実になったとも考えるのではない。ただそれによってより強く、より正しく生きることが出来ることを期侍する。彼自身の言葉を用いるならば「幸幅な生活」に進み入らんことを願う。だからこの意図からすれば、この書物は正統的な神学書であって哲学の書物ではない。にも拘らず従来の研究の関心は多くこの書の中に見出される哲学的考察に向けられて、その神学的意義に注目する者は少なかった。
いま本書の構成を大観するならば、大別して2部に、詳しく見れば3部に分けることが出来る。第8巻以後の後半部が本書の固有の部分として注目されるのであるが、前半部はさらに2つの部分で出来ている。第1巻から第4巻までは聖書の語り示すところに従って、啓示の神が父・子・聖霊の三位にして一体なることをザッハリッヒに 実証的に理解しようとする。この部分を聖書神学的と呼びうるならば、第5巻から第7巻の部分はこれを歴史神学的考察と見ることが出来る。すなわち、この教えに対して提出される様々な異る理解、即ち異端的な試みに対して聖書を典拠としつつ正しい教理の形式を確立しようとする。それはラテン語では una essentia, tres personae. として示される。
ギリシャ教父の伝統的用語をそのままに用いる場合には persona の代りに hypostasis の語が、または、これをラテン語に移し訳して substantia の語を用いることが行はれていたが、彼はこれが事態の正しい理解を妨げ混乱を生ずる不幸の原因と考え、聖書にその用語例はないが persona の語を用いることが適当だと主張する。substantia は essentia と同義と解せられ、従って、「ミア ウーシア、トレス ヒュポスタシス」(ギリシャ語)をラテン語に移す場合には una substantia, tres personae. とすべきであるという。 用語の巌密な批判を歴史的に取上げ、これを確定するという仕事は教義の形成にとって重大な貢献であって、三一論のフォーミュラの確立は本書に負うところが多いと言ってもよいのではあるまいか。なおついでながら、これらの用語の差違が何処から由来したかを考えて見るならば、思弁的的傾向の強い東方教会においては、神の一を保持しようとして子および聖霊の具体性を危くする Docetism ないしは Adoptionism のような考え方がしばしば現れた。これに対して正統的信仰は父・子・聖霊の三つが実体性において同格であるという三一論における三の面を強調する傾向が強い。この事が tres substantiae vel hypostases という表現を選ばせたと考えられるに対し、実際的な関心の強い西方教会においては、父・子・聖霊の神格と、同じ本質についての思弁的疑惑は生じない代りに、実際的には三神であるかのような印象を与えて、三一論における一の面が十分に生かされない傾向があった。アウグステチヌスが本書において特に力説している点もここにある。persona の概念は関係(relatio)概念であって相互の区別を示すものではあるが、その区別は natura の区別を示さないというのがそれである。
さて本書の主要部門である第8巻以下はそれではどのように理解すべきであろうか。言うまでもなくそれは聖書神学および歴史神学に対して、組織神学的部門と言える。信仰の真理を一般的真理意識すなち理性に訴えてそれの真理性えと人々の眼を開こうとするのであるが、そこで信仰と理性との秩序の相違、同じように真理を求めつつもその真理の性格の差、およびそれにも拘らず人間の真理として相通う類似性の問題が根本的な問題として自覚されて来る。不等における等、不似における似、 あるいは似における不似、等における不等というアナロギアの関係は、神と人間との関係を示す根本的な論理として立ち現れてくる。この論理が三一論の根抵にあってそれを成り立たせている秘密である。三一論の秘儀は論理的にはアナロギアの秘密に懸っている。この事を自覚せずして単なる人間の悟性の諭理、ことに当時にあっては唯一の諭理とされていた形式論理の立場からこれに近づこうとする時、さまざまな疑惑と共に事態に即しない異る理解、異端が生じることは避け難い結果と言わねばならない。アウグスチヌスは先づ究極的存在者・創造者である神にあっては、実体——属性、一——多、等の一般的根本的範が適用されないことを繰返して注意する。分析的論理は二肢的に働くが、創造の秘密を受け留める信仰における行為的実存の論理は存在の最も深い姿を三一的構造において示す。アウグスチヌスは神の究極的三一性を理解するために、被造である人間の世界において見出される諸々の三一像を追求しつつ外なるものから内なるものへと進むことによって、遂に神の三一の直観へと魂の浄化されて行くこと、終わりの日の完き直観の希望に生きる信仰の生の浄幅を人々に確信させようとする。この場合、人間経験の領域における三一像のうちに神の三一の像(imago)を認めうるならばこれを通して、現在の、鏡に映るようにおぼろげな認識より将来の全き認識、顔と顔とを相合わせて見るように神の直感に生きる浄福ヘの希望に固うされる事が出来ると考える。ここで中心的な叙述を形造っているものが人間の魂、意識における三一像の追求と吟味とであり、心理的な分析なのである。
第3章 三一論の諸問題
ところで私たちは次の諸点を確認しておくことが必要である。アウグスチヌスの「三一論」は上述のように根源酌な諭理の問題を取り上げながら、これを正にそのようなものとしては前面に持ち出してはいないということ、第2には、問題の形として終始前面に持ち出され展開されているのは心理的事実だということである。この事は何を意味するかと言えば、彼は根本的な諭理の問題と取り組みながらこれを方法論的に自覚することなしに、問題自体の圧力・推進力に押し出されつつ方法的には心理の問題ヘの回り道を辿ることによって問題解決ヘの道を切り開いたということである。福音の論理を根本的に把握し、神学の方法綸的基礎を築くことは今日といえどもなお成し遂げられていない問題なのである。更に第3の、もう一つ注意すべき事柄がある。それは、アウグスチヌスは本書において論証(demonstratio) ないしは弁証(apologia)を企ててはいないということである。「告白」が文字通り讃美・告白の書であり、「神国論」にアポロギアの性格が強いとするならば、この書の性格はむしろアペラチオ(appellatio)と言われるべきである。その根抵に告白(confessio)が控ヘていることは言うまでもないが、この性格こそ神学本来のそれであることに留意したい。彼は人々の気付かない人間経験の、ことに魂の心理的事実を提示して、これに人々の眼を向けさせようとする。問題はこの事実を見る眼にある。眼が対象をよく見うるためには、見ようとする努力と共に、充分な光を必要とする。それ故に彼は探求の途上において、始めにおいて、また終わりにおいて、神の助けをしばしば祈り求める。内なる光としての神の恩寵、内なる教師としてのキリスト・聖霊の賜物なしには、肉体の重みに圧せられ罪の闇に閉された人間の魂は、被造の中に秘められた神の像を見ること、把えることは出来ないからである。
比量的思惟による推諭や論証ではなく、直観が終始方法として取り上げられていることは注目に値する。信仰とは神に向って開かれた内なる眼であって、地上の経験の中で出会うさまざまな三の姿のうちに神の三一の像を洞察させるものは実にこの信仰の眼なのである。信仰は人間の内なる眼であると共に、それ自身神の賜物である。神を知るということはやはり直感として考えられているのであって、ここで nosse と intelligere との異同を明らかにしておく事が必要となる。nosse とは何ものかが意識に現前することであって、後述するように memoria の働きである。従ってこのいはば直接興件ともいうべき notitia は意識(memoria)が感官によって外界の事物を内に受けとる場合も、思想や教えの形で他人の語るところを内に受容する場合も、またこのようにして受容されたものが想起によって忘却の中から取り出される場合にも、同じように見出される。notitia はいわば第1次の認識であるが、これに対し第2次の認識は cognitio と呼ばれる。言うまでもなくratio (Verstand)によって他との媒介を遂行する思惟——cogitare (diseursives Denken)——の結果である。第1次の認識を第2次の認識に高めるこの働きはしかしまだ真理認識の必要燦件ではあっても十分な条件とはならない。認識の真理性を保証するものはデカルトの場合のように観念の明晰判明な直証性に求められる。それは先きに述べた心理におけるリアリティーに他ならない。アウグスチヌスの言葉を用いるならば「魂における」リアリティーということになる。単なる意識におけるそれとは区別されるこの明澄性は「真理の光の中に真理を見る」「汝の光のうちに汝を見ん」(詩36:9)の表現にうかがえるような究極的直観に他ならない。このような直観的能力を知性(intellectus)と呼ぶ。 従って credo ut intelligam という命題の示す信と知との2 つのものは元来異質的なものではない。確実的なものの直観はもはや論理を必要としない。不確実なものの直観が論理を要求するのである。私たちの思惟が観念の間を右往左往して真理を求めるのは、確実なものの直観に到達するためである。notitia がmemoria に属するに対し intelligentia は cogitare に属するにしても、何れも認識としては確実なものの直観として成立つ。intelligenti はいわば思惟の眼である。
確実なものの直観とは何であるか。見るものと見られるものとが何等かの意味において同一となるような直観である。感性的直観は身体を媒介とする限り、この事は厳密には不可能である。身体性とは自と他とを空間的に分つ原理だからである。しかもこの区別の原理が同時に行為的には自他を実在的に結合する原理ともなる。認識は自他の同一という矛盾を含んでいるが、それは自己認識が他者の認識を媒介として始めて可能であるということを意味している。この事は更に、確実なものの認識は不確実なものの認識を媒介として行われるということになる。アウグスチヌスは身体の秩序における認識を scientia と呼び、精神の秩序におけるそれを sapientia と呼ぶ。そして後者は前者なしにはあり得ないと考える。前者は行為を、後者は観想を蝶介として成立する。行為に関わる認識とは身体と関係するそれに他ならない。信仰の真理は精神の秩序における認識ではあるが、それの認識は身体の秩序における認識、即ち scientia をやはり必要とすあ。何となればイエス・キリストは肉体を執って人となり給うた神であり、御子の真理は歴史的な事実の認識を欠いては成立しないからである。scientia は人間が生き行動する限りにおいて必要な知識であるが、sapientia は人間が神の子として、永遠に生きるものとして欠くことの出来ない知識である。scientia の意味を把えるものこそ sapientia だと言うべきである。
sapientia が神と関係における知識であるとするならば、それは神の創造にかかる事物の認識を通して得らるべきは推察に難くない。三位一体の神を知解し、また洞察することも、人間と世界の経験の中に見出される三一像を注視し、それらを秩序の段階に従って外から内ヘ、このようにして被造者のそれより創造者のそれへと直観的飛躍の道によって到達されうると考えたことは、彼にとって極めて自然な方法であった言える。私たちはは次に彼の辿った道を跡づけることにしよう。
第4章 三一論の概観(8巻以降)
第8巻以後の主要部においてアウグスチヌスはこのように考える。
神が真理であるということは聖書によれば、神は単に考えられたものではなく、信仰の教えの示すように確かに事実として、私たちを罪から救い生命と浄福とを与えるということである。このような救う神、働きにおける神の真理が三一の神として教えられているのである。だから三一の神を知るということは、神をものとして対象として知るということとは明白に区別されなくてはならない。世にあるすべてのものは対象として、即ち物的な像として知ることができる。これが感性的認識の特色である。そこで、神を知るためには2つの事が必要となる。第1に、神を私たちを救う神として知るためには、私たちは知る前に、この救いの働きを受ける立場に立たねばならない。これが信仰である。「私たちの知解にとって未だ明白にはならない事柄を、信仰の確かさから決して手離してはならない」という規則を最初に掲げる理由である。しかしこのことは、信仰によって受け取ったものを知性の解明に委ねるということではない。神の働きを受け取るという信仰の立場に立ちつつ、知性によって信仰の言葉(教え)の意味を追求しこれを明らかに理解しようというのである。神学の立場とは元来こういうものに他ならない。従って神を知ることは、神の働きを受ける自己を知ることと別ではない。この2つは分離することが出来ない。「神と魂とを知らんことを」と希求した初期の言葉もここで正しく理解されるであろう。第2に、魂の眼を外なる物的な像から出来るだけ遠ざけて純粋に内に向けること、それが神に向い、神を求める道である。
さて聖書は「神は愛なり」と教え、また神に至るために愛の誠命を示している。神を知るというのは神の愛を知り、これを受けることに他ならない。従って神の三一の真理を知る道も神を愛する他にはない。神を愛するためには神を既に知っていなければならないが、この知は信仰が与えてくれる。信仰によって知る神は未だ知性によって明らかに知られていないために、魂は神を知ることを願い、神を愛する。神を愛する魂は神に知られていることを知るので、神をもっと知ろうとする。しかし神を愛するということが単なる憧憬、パッション、欲求に過ぎない場合は神に至ることが出来ず、従ってまた神を知ることが出来ない。三一の神な知るためには真の愛が必要である。真の愛とは、思っているだけの愛ではいけない。思っているもの(quod putat) と知っているもの(quod scit)とは区別されなくてはならない。真の愛は思っているだけの愛ではなく現実に愛していることを知っている愛、即ち自覚的な愛でなくてはならない。聖書は神を愛するということを、単に思っているだけの愛に終らせないで、また真に神を愛することと思っている
こととの混同を避けるために、兄弟を愛せよ、という命令を回り道として示している。アウグスチヌスもまたこの事に注目し、聖徒の足跡に倣って兄弟を愛することこそ神を知る道であると奨める。「人もし兄弟を愛するならば、彼はそのとき、愛そのものを愛しているのである。何となれば彼はその時、その愛する兄弟よりも兄弟を愛する愛そのものを、よりよく知るからである。従ってまた『神は愛であるが故に』それによって彼は兄弟を知るよりも、よりよく神を知ることが出来る。よりよくという理由は、『見えない』神は、『見える』兄弟よりも一層内にあり、 現前的であり、確かであるから。愛を確く抱け、この愛は神に他ならないので、愛によって汝は神を抱くであろう」(第8巻8:12)と語る。
見えない神に至る道は、見えるものを媒介とし見えるものの、外なる経験から内なる経験にと進む他はない。被造なる自然の中に既に神は知られている。被造物はすべて創造者なる神の足跡(vestigium)である。しかしそれはなお謎や記号のようなものであって、これを正しく読み解く
には言葉(verbum)を必要とする。神の言、真理の言なる御子が肉をとり人とならねばならなかった理由がそこにある。ところで人間は神の被造物の中にあって特殊な地位を占め、人間のみが神の像(imago Dei)だと聖書は教えている。身体的人間は自然と連る物の秩序に属し、そこには物言わぬ物体や動物と異るものはない。ここには万物と共に神の足跡は認め得ても神の像は恐らく見出されない。人間を他の被造と区別するものは精神(mens)的な存在である。人間が神の像と言われるのは人間を精神において、魂として把えた場合でなければならない。何故なら身体としての人間は万物と共に転化・生滅の運命を免れず、神の永遠と愛とを映す場所としては精神の他には考えられないからである。かくして第8巻の終り近くアウグスチヌスは、既に見たように「神は愛なり」とすれば、神の三一の像を人間精神の愛の事象のうちに見出すことは出来ないだろうかと問う。多くの人々が神と人間との類似(analogia)を知性に求める中にあって、アウグスチヌスが特にこれを愛に求めたのは卓見であり、聖書的な理解を離れないものと言うべきである。彼もまた、知性を神との密接な関係において理解する。しかし言うならば、知性は未だ消極的な原理に留って、積極的な原理というべきものは愛である。この両者が人間精神——たましい——の相即する根元的な働きであることによって、神と人間との関係は保たれる。
彼は先づ日常一般的な愛の現象を取上げて考える。そこには常に愛するものと愛されるものと愛することとの三者が密接な仕方で一つの事態を成立たせていることに気付く。この場合、愛するもの(我)と愛されるもの(他)とを一つに結んでいるものは愛であるが、今ここでは精神が内に帰って愛の姿を見ようというのであるから、愛が外に向う場合を一応遮断する。そして愛する我と愛されるものとが同一であるような場合、即ち自愛の場合——精神が自己を愛するとき——を考へて見る。この場合には明らかに愛の三肢的構造は二肢酌となって三一の像は見失はれるかに見える。しかしこの事は実に三が一に凝収する方向を示すのであって、自愛においては、愛するものと愛されるものとが一となるのみならず、愛することが自覚として(前頁)自知という隠された相を新たに導入してくることとなる。ここでは我は身体的な我ではなく純粋に精神的な我、詳しく言えば思惟する我(ego cogitans)としての精神(mens)である。精神はこのようなものとして自己を知る(se nosse)ことが出来る。この場合にのみ、精神は自己を対象として知るのではなしに、愛することにおいて自己を知る。この自知(自己認識)は自愛の自覚であるが、自覚とは精神が目醒めている状態に他ならない。換言すれば精神が働いているということである。目醒めている精神の状態は意識(Bewusstsein)と呼ばれるが、アウグスチヌスはこれを memoriaと呼ぶ。神を知るためには相関的な関係において自己を知らねばならなかった(前出)。しかも確実にこれを知るためには確実なる足場を持たねばならない。神の三一を知るために、人間精神における愛の現象を神の三一の像として注目したアウグスチヌスは今や、愛の三一的構造から、精神の中に神を知るための確実な認識の足場を把える必要を感じた。思惟によって目醒めている精神は自知の意識において幾つかのことを明澄的に確実なものとして知っている。自己が存在すること(esse)、生きていること(vivere)、意欲すること(velle)、知解をもつこと(intelligere)、記憶を持つこと(meminisse)等である。この「知っている」は既に述べたように「思っている」こととは区別される。「人は人間の精神を空気であると思い、空気が知解の能力(知性)を持っていると思うにしても、自分が知解しているということは知っている。これに反して自分が空気であるということは知らない」。この「知る」は ego cogitans の自覚において与えられる se nosse の根源的な内容である。そこで精神(mens)、自己認識(notitia)、自己愛(amot) の三一像として先きに取り上げられたものは、自覚における精神の直接的確実性という見地から見直され一般化された場合には memoria (記憶)、intelligentia (知見)、voluntas (意欲)の三一像として置き換えられることになる。
以上が第8巻から第10巻に至る叙述の筋道である。「mens, notitia, amor の三者が一体となって、それらが完全である場合には三者は互に相等しい」。またこの三者は互に区別されながら、 しかもそのどの一を取って考えて見ても、それは他二者の中に含まれているという関係にある。それは三者が実体的には一であるということを示している。ところで第9巻においては、一応出発点として取り上げられた愛の三一性といういわば形式的な構造を、精神そのものを知ろうという具体的要求によって精神の三一性の把握えと、新らしい局面を展開することとなる。彼は言う「自知、自愛という働きにおいて精神が愛しまた知るものは必ずしも不動なものとは言えない。人が自らの精神の中に生起するものに注意を向けつつその精神を言い表わす場合と、類または種の認識に従って人間精神を規定する場合とでは同じではない」。これは精神をそのものとして知ること(notitia rei in ipsa re )と、永遠の真理において知ること(notitia rei in ipsa aeterna veritate )との別をいう。またこの事は精神が、変化・生滅の相においてある物的秩序の事物を知ると同じような仕方でも、知られうることを言い表はしている。むしろ精神は感性的認識と叡知的詔識との両者の行われる場であることを物語っている。そして形体的物的事物の認識において、これを形相の純粋直観による永遠の真理の認識に基いて判断するのが精神である。感性的認識の構成については第11巻に至って検討されるが、精神が永遠の真理を直観するに当たって大切なものは眼でり、眼の役割を担当するものが知性(intelligentia)である。精神の眼が形相を直観する場合にこれを映す場所また保存される場所が memoria である。この直観された形相は概念となるが、これを言葉(verbum)と彼は呼ぶ。というのは、事実の真の認識(rerum verace notitia)を直観として孕んだ精神は、これを内に語るという仕方で、言葉として生み落すからである。そして生れて後は私たちを離れない。ところでこの言葉(概念)を孕ませるものは愛であると言う。この愛は創造者の愛である場合があり、被造物の愛である場合がある。即ちその愛は不動な真理に向けられる場合と可動的な自然に向けられる場合もあり得る。ただ前者の場合にのみ、言葉は魂の中に孕まれるや否や生み落されるという。
精神の自己認識は精神から生れた子であり、言葉において成立つが、愛は精神の生んだ子だとは言えない。では愛はどこから由来するかというならば、自己を愛すること、追求すること、知ろうとすることが精神の本性として、直接的な自己認識において把えられていると言わねばならない。愛の直接経験によってむしろ精神の存在と生命とが、知の自覚と共に与えられたのであった。と言って愛は精神の父であるとは言えない。愛が精神の子であるとは考えられないのと同様である。上のように愛を精神にとって根源的なもの、従って直接経輪として把えられる自明的なリアリティとして立てたことは、幸幅への要求を哲学及び宗教えの出発点としたことと別のことではない。人として幸幅えの求めを持たない者はないと彼は考える。何が幸福であるかについては意見を異にするとしても。さてアウグスチヌスがこれ等の事を疑い得ないこと、自明な直接経臓としてすべての探求の前提としていることは、方法論的に、今日十分に考えて見る価値がある。愛が自実を支えているの根源的な基礎縄験とされ、確実な認識えの手懸りとされている意義は重要である。デカルトの cogito, ergo sum をマールブランシュは je veux, donc je suis. と言い換えたが、アウグスチヌスの場合には後者の方がより根源的と考えられている。cogito は velle から出てくる。 認識においては愛が何に向うかが決定的な事柄となる。愛の秩序( ordo amoris)が認識的にも倫理的にも問われなければならない。そこでアウグスチヌスは愛を意欲として一般的な形に還元すると共に、mens, notitia, amor を memoria, intelligentia, voluntas の三一像に置き換へつつ、再びこれを外なる人の認識、即ち感性的認識の場において三一像がどうなるかを問う。これが第11巻の仕事である。
感性的認識は感官によって導入される感覚による。いま五感のうち代表的なものとして視覚を取り上げるならば、視覚的認識は見られるもの=物体(res ipsa )、見られたもの=視像(visia)、注意=意志(animi intentio)の三つから成り、そこにものの形像(forma, similitudo)が生まれる。神の被造である限りあらゆる物において神との類似(similitudo)はそれぞれの類に従って存在はするが、それはまだ直ちに神の像(imago)とは言えない。感性的認識の一つの変形に想起と想像(imaginis, forma) がある。外なる物体が現存しなくなっても、記憶にはなおそのものの形像(simillitudo)が残っていて、意志が新たにそこに思惟の眼差しを向けるときには、内的な形 visio interna が形造られる。これは注意(attendio mentis)の informatio (働き)による像(imago) である。想像の場合には、感性的経験において外物の記憶に残した形がそのまま再現されるのではなく、経臓の抽象によって得られた類的知識が像の性格をもって現われる。ところで先きに見た知的直観の場合には、そこに把えられる事物の純粋形相は、多くの外なる物を肉眼をもって見てその類似を抽象によって概念としたのではなかった。 ここに想像と呼ばれるものの中間的な意味がある。それは感性的認識と叡知的認識とを媒介する場所であるかに見える。想像の場合にも知的直観の場合にも、像的性格を持った形が見られる。そしてその現はれる場所は memoria である。 とすると memoria は予めそれを内に隠し持っていたと考えなくてはならない。ところで形は形によって孕まれまた生み出されると考える他はない。そして彼に従えば、また「形に従ったあらゆる認識は対象(認識されたもの)に類似する」(omnis secundum speciem simiilis est er rei quam novit)。この場合 species とは感性的事物の形と本質的形相との両方を含み単に後者のみを指すとは考えられない。続いて彼はこう語っている。「そこで魂が何らかの形を認識する時には、そのものとの何らかの類似をもつことになる。それ故、私たちは神を知る限じり神と等しいわけである。ただしこの類似は一致(aequalitas)にまでは至らない。神が自己を知るほどとには私たちは神を知らないからである。同様に感官を通じて物体を知るとき、私たちの魂の中にはそのものとの一種の類似を生ずる。これは記憶のなす業(phantasia memoriae)である。何故なら私たちがそれを考えるとき、私たちの中にあるのは決して物体それ自身ではなくそれの類似=形にすぎないから。……にも拘らず魂の中にある物体の想像(imaginatio) はかの物体の形(species)よりも優れてい。というのはそれらの像は魂と呼ばれる生ける実体、よりよきものの中に見出されるからである。同様に私たちが神を知る場合には、私たちは神を知らなかった時よりもよりよくなるし、その知識は何らかの類似を神と持ちはするが、 それは神に劣る。それは神より劣ったものの中に見出され、魂は被造物だからである。そこで次のように結論しなくてはならない。精神が自己を知りもしくは確認する場合、その認識(notitia)は精神の言葉(verbum)と全く同じであり一致する。何故ならこの知識は物体のように精神より劣ったものの認識でもなければ、神のように精神より優れたものの認識でもないから。……」知識はこの場合、知りまた知られる精神と完全にして等しい類似をもつ。従ってその知識は同時に精神の像(imago)であると共に言葉=概念(verbum)である。imago であると共に verbum であるというのは、感性的認識と同じく自己のうちに対象である自己の像を生むと共に、この生まれた表現、いはば子はこれを生んだ自己と等しいが故に、像は自己の本質(言葉=概念)と全く一致するというのである。即ち精神の自己認識においては、感性的認識の性格と知的直観の性格とが共通に見られるということになる。しかし忘れてならないことはこの場合の自知が完全である場合は、という条件である。自知が完全であるとはどんな場合か。言うまでもなく、自己を知ることと神を知ることとが相即して行われる場合である。
第5章 神の三一像
そこで最後に重要な帰結が生れてくる。外的人間における感性的認識の中に神の三一像を求めることが出来なかったばかりではなく、上に見たような内的人間の自覚の中に見出された三一像といえども、それだけでは神の三一の imago と呼ぶことは出来ないということである。この事が第12巻の題目である。そして第14巻に至って彼は memoria, intelligentia, amor の三一的な精神像は、精神が三一の神に向けられる時にのみ始めて神の三一の imago となると語る。それはこうである。三一の神の教えが信仰によって受け容れられ、魂=記憶に移される場合、精神の中には特殊な(sui generis)三一像が形成される。即ち人は未だこの信仰の言葉の意味を理解しないままこれを記憶に留める。丁度知らないギリシャ語やラテン語を記憶する時のように。言葉の音は、それを意識しない時にも記憶にある。やがてこれを意識するとき、記憶から思惟が生れる。そして最後に記憶と思惟とを結ぶ意志が。しかし、ここにはまだ外的(身体的)人間の三一像しか見られない。信仰の言葉の意味を問うに至って内的人間の働きは始まるが、それでもなおそれだけではまだ内的人間の三一像を認めるわけには行かない。今一つの条件がある。それは彼が信仰の言葉の中に含まれている教え・誠命・約束を愛しこれを抱きしめつつ聖徒の敬虚に歩んで、この探求を進めるということである。その時、人は自らの中に見出す三一像を神の三一像として、神をよりよく知るに至る。これが第13巻を終わる言葉である。
上の事は裏返して言えばこうなる。人間は堕罪によって、創造における神の像を失いもしくは損うている。彼を創り給うた者の像=キリストに従い、更新された魂の中に始めて神の三一の像を見出すことが出来るということである。しかし地上にある限り私たちの見るところは朧ろであり不完全である。かの日、彼と相見て彼に化する日の希望が私たちの絶えざる探求の歩みを支ヘ、また地上の悪と不幸とがこのような場所でなお新しき人を訓練し真理を戦いとるために存在することを知って、感謝と讃美の生を続けることが出来る。
第6章 結尾
「三一論」が様々な試みをした後に明確な結論を示し得ずに、問題を放り出し、祈りに逃避したと見るのは、この書を単なる哲学、思辨の書、または論証を目的とするものと見るからである。アウグスチヌスは既に言うべき事を語り尽くして筆を置いた。結論は読者が銘々自らの中に求めればよい。神学が逞しい思惟を追いつつも究極においてはなおそれが信仰の告白の特殊な学的一形態と見られる理由はそれが論証や説得による弁証を目的とするのではなく、曇りのない眼をもって神の恩寵を仰ぎ、見たところを厳密に言葉によって言い表そうとする営みに他ならないからである。このような性質の労作は常に全体として理解されることを要求する。
「再論」(Retractiones)第2巻15章で彼は本書成立の事情を語ったなかで、かう言っている。第12巻まで書き進んで筆を留めていたとき、早く読みたいと切望して辛棒し切れなくなった人々がこれを彼に隠して公にしてしまった。そこで彼は本書はもうここまでで打切ってしまい、書き残した事柄ほ別の形で公にしようと一応は決心したのであるが、完成してほしいという友人の奨めもあり、手許にある草稿に加筆して完成さすことにしたのであると。これは明白に、全体として受けとられない場合の誤解を恐れ責任を感じたからであると思われる。この点からすれば「三一論」が読む者の興味に従って部分的に取上げられ、ことに哲学的な面からのみ考察されることは不幸である。私たちは哲学者の不遜を責める前に、このような事態の責任の一半は正に神学者の怠慢に帰せられねばならない点を反省したい。アウグスチヌスに逞しい思索と深い哲学の存することは何人も否定出来ない。しかしそれらのものがどのような背景を持ち、どんな動機に動かされているかを、たとえ哲学者は無観して彼の哲学を語るとしても、神学者までがこれに引づられて行くということは、不幸を通り越しておかしい。アウグスチヌスの哲学は実は神学なのである。そして彼にあっては神学は哲学を生み哲学を育んでいる。それが彼の思想の永遠的な影響力の秘密であると思われる。神学と哲学との関係の理解について一つの課題がここに与えられている。神学から哲学を排除することによって神学の純粋性を保たうとする試みがある。しかしこの事は事実として不可能であった。無意識のうちに不知不識のうちに人は何らかの哲学的立場に動かされている。他方、都合のよい哲学を便宜的に採用して哲学を神学の中に導入しようとする試みがある。これも実りは薄い。事態に即した神学は自らの哲学的立場を必ず自覚すると共に、神学形成の途上において哲これをも生み之を育んで行く。 だからその思想は信仰という前提と場所とを離れてもなを真理として通用する一般性・妥当性を主張しうるのである。このような迂回路を経て神学は始めて本来の生産性と象徴性とを発揮しうるのではあるまいか。
付記
(1) アウグスチヌスの「三一論」を神学方法諭の観点から見直すことヘの示唆を賜ったのは田辺元先生であった。
(2) 畏友 中川秀恭君が 「宗教研究」129号に「アウグスチヌスの三位一体諭について」なる諭文をエール大学から寄稿された。偶々参照の機会を得て有盆であった。(1952.8.3)
※ 註は省略する。