ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

ティリッヒにおける宗教的象徴の意義──組織神学の根拠について──(7)

1968-03-07 14:32:14 | 論文
第3節 神学と哲学
具体性と普遍性との極間に立つ組織神学における具体性への徹底という面をキリスト教と諸宗教との関連において論じて来た。次の問題は普遍性への徹底という面であり、それを神学と哲学との関連において論じたいと思う。
ともかく、キリスト教神学がその成立の過程からすでに普遍的真理を探究する哲学と密接な関係を持って来たことは否定出来ない。神学的思惟において用いられている諸概念は哲学によって形成せられ、規定せられている。従って少くとも神学が学としての厳密性を維持しようとするならば必然的に哲学と関係せざるを得ない。むしろ、キリスト教神学はその信仰の普遍性の確信の故に、積極的に哲学の諸概念を用いてその信仰を表現して来たとみるべきではなかろうか。そもそも原始教団が「イエスはキリストである」と自己の信仰を表現したとき、歴史的具体的要素と人間に普遍的な救済者への探求を表現する普遍的概念とが結合せられたのである。(18)キリストとしてのイエスの徹底的具体性と徹底的普遍性との確信に立って、原始教団の宣教は世界への宣教として「遠心的運動」(19)であり得たし、ヨハネ福音書に典型的に見られるように当時の哲学的概念の採用が可能であったのである。
哲学の本質は現存在を抽象することによって存在の本質と構造を問うことにある。(20)しかし存在の本質は現存在を離れては現実ではなく、現存在においては本質と共に本質の歪曲をも表現している。そこで存在の本質を問う人間は現存在における本質の歪曲と被制約性を自覚せざるを得ない。このことは人間存在の本質を問うときに悲劇的となる。ここに現代の実存主義哲学が本質主義哲学に対する意義がある。(註28)
ティリッヒは哲学を以上のように理解することによって、哲学と神学とを二重の仕方で関係づける。一つは実存論的分析によって明きらかにされた人間存在の問いに対して神学は宗教的象徴を解釈することによって答えを与えるという関係であり、他は存在論的探究によって得られた存在の構造が神学の内容に対して形式を与えるという関係である。(21)
まず第1の問いと答えという関係において、問いは具体性を欠除しているということが特徴である。(22)それに対して神学は徹底的に歴史に与えられている実存の困窮を救う出来事に固執し、その出来事から生まれた宗教的象徴を解釈することを任務とする。
キリスト教神学の場合、それはイエス・キリストの出来事であり、ティリッヒはそれを「新存在」の出来事と言う。新存在とは現存在に対する概念である。現存在における存在と非存在の分裂を克服する存在は現存在の中にはなく、全く別の源泉すなわち新存在から来る。実存哲学においては唯その新存在は探究せられるのみであるが、神学においてはそれは歴史的具体性の中でイエスという人物において現実となったということが基礎である。
かくしてティリッヒの組織神学においては実存論とキリスト論とが相関々係にある。すでに論じたようにキリスト教神学が組織神学を形成するためにはキリスト論が跳躍板となるのであって、組織神学の成否はキリスト論に依存している。
その意味でシュライエルマッヘルの神学の失敗の原因はキリスト論にあるとティリッヒは考えている。シュライエルマッヘルはキリスト教が他の諸宗教に対して2つの点で優れているとする。一つは倫理的唯一神教であること、他はナザレのイエスによる救いに全てが関係づけられていることである。シュライエルマッヘルにとって救いとは継続的自覚的な神との交りであり、それは完全な宗教意識によって達成される。しかるに完全な宗教意識を持ち、継続的自覚的に神との交りを持ち得たのはイエスだけであり、それ故にイエスは彼自身のためには救いを必要とせず、むしろ全人類の「救い主」なのである。イエスは人間に対する単なる「模範」ではなく、人間が本質的に持っている神との一致を示す「原像」である。(23)かくして、彼は「キリスト中心」の信仰論を教義学として建設するのである。しかしそのキリスト中心の教義学は、人間としてのイエスの宗教意識に根拠を置く限り心理学への偏向を結果し十分にキリスト中心とはなり得ず、従ってその教義学は十分な説得力を持ち得ない。
むしろキリスト教は歴史的存在であるイエスをキリストとして受容したときに生まれたのである。重要なことは何がその受容を可能にしたかということである。それは単なる歴史学的問題ではなく宗教的問題である。新約聖書はその出来事を復活のイエスとの出会いの経験として述べている。それは日常的経験ではなく、明きらかに宗教経験である。それは自己の存在そのものを古きもの、過ぎゆくもの、空しきものとする「新存在」の経験である。従ってイエスの復活とは単にイエス自身の死の克服ではなく、普遍的な実存の困窮に対する勝利である。しかも復活のイエスはあの十字架上で苦しみ死んだイエスと同一者である。ここにキリスト教が基礎づけられている出来事の「異常性」(24)この宗教経験から「キリストの十字架」と「キリストの復活」という2つの中心的象徴が生まれたのである。従ってこの2つの象徴は相互に密接に関連し切り離すことは出来ない。前者は本来実存の困窮を超越している新存在がイエスとして実存へ服していることを象徴し、後者は実存の困窮を克服する新存在を象徴している。
神学は宗教的象徴を所与し、これに基づいて実存哲学が提出する問いに答えを与えるのである。しかし問いと答えとの関係はそれ程単純ではない。実存哲学は必ずしも問いを提出はしないし、また神学的命題が必ずしも答えであるか否か確かではない。実存哲学が問いとなるためには実存の困窮を克服する何かがすでに現存していなければならない。しかしその現存する何かが答えであることが知られるためには神学による解釈が必要である。そこに現存する何か、それが宗教的象徴である。故に宗教的象徴が現在するということが実存論的分析を問いとなし、神学をそれに対する答えとするのである。従って神学は歴史的具体的な教会を離れては成立しないのである。
次に神学と哲学のもう一つの関係について論じなければならない。そして組織神学としてはこの関係の方がより重要である。なぜなら組織神学の組織性つまり形式はこの関係によって与えられるからである。もちろん実存主義哲学もある形式を持っている。故にそれを問いとする答えとしての神学も形式を持っている。しかし実存主義哲学に形式を与えているのはそれに対応する本質主義哲学であるとティリッヒは言う。ともかく神学の内容に関係するのは実存論であり、神学の形式に関係するのは存在論である。(25)特に組織神学の組織性は存在論によって与えられるのである。
ティリッヒの組織神学は5つの相関によって構成されている。その中で特に重要な神論、キリスト論、聖霊論の3つの主要部分は、それぞれ存在、実存、生の3つの存在論的概念に対置せられ、神は「存在そのもの」、キリストは「新存在」、聖霊は「霊的現在」と解釈せられている。そもそもティリッヒは存在を、本質と実存と生との3つの概念によって理解しているのであり、このことによっても彼の組織神学かいかに存在論に依存しているかは明白である。
以下彼の存在理解に基づいて、彼の神学の構造を簡単に考察する。
彼は現存在とは本質的要素と実存的要素との混合であるとし、それを生と称する。そして生は無機的生の次元と有機的生の次元に分けられ、さらに後者は自他の識別という特徴によって植物界と動物界とに分けられ、人間はさらに自他の識別の特殊性に基づいて、動物界から区別される。つまり人間は生における最高次の存在として全ての生の次元を自己のうちに含み、それを意識する存在である。それ故に人間はまた存在の本質と構造とを問い、存在の矛盾つまり本質と実存の分裂を自覚し、非存在への顛落におびえ、本質と実存の統一を求める存在である。このような人間の存在の次元をティリッヒは小文字の霊(spirit)という語を用いて「霊的存在」(26)と表現する。
ティリッヒは霊的存在としての人間理解とさきに述べた彼の「具体的な霊の宗教」という概念とをわれわれは関連させざるを得ない。彼においては大文字の霊は厳密に神的存在を意味している。(27)故に彼の神学を理解するためには大文字の”霊”と小文字の霊との区別は決定的に重要である。ティリッヒは「霊が何であるかを知ることなくして、”霊”が何であるか知ることは出来ない」(28)と言う。つまり霊的存在の自己超越としての宗教が指示しているものは超越的な”霊”すなわち神である。神と人間との間にある何らかの共通性つまりアナロギアは霊である。(29)イエスを「新存在」すなわちキリストとして受け入れることを可能とする場は、「霊的現在」すなわち聖霊の働く所であり、そこで経験せられる救済とは「存在そのもの」への参与である。
かくして、ティリッヒの組織神学は存在論的構造によって組織化されている。むしろ逆に哲学的存在論は神学によって内容が満たされ、単なる観念的形而上学ではなく、現実的形而上学となる。ティリッヒはこのような立場を「信仰的現実主義」(30)と言う。
以上のようなティリッヒの存在論的神学に対して実存主義の立場から批判がなされる。ティリッヒもこの間題つまり人格的な聖書の神と存在論的な究極的実在とはいかにして一致せられるか、ということが彼の組織神学における中心問題であることを認めて『聖書的宗教と究極的実存の探究』(31)という書を著わしている。従ってこの書は彼の多くの著書の中でも最も尖鋭的な重要性を持っていると思う。いわば数週間雌鳥の羽根の下で暖ためられた卵の中ひなが固い殻を破って外界に出る一瞬のように、教会内の教義学が組織神学として普遍的世界に出ることが出来るか否かの最後の一線が最も尖鋭的な形で問われ、答えられているのがこの書である。そこでわたしはこの点に関してはこの書における彼の主張を理解することにのみとどまりたいと思う。
まず彼は宗教における神人の出会いにおける人格性ということは宗教経験に普遍的な現象であって、必ずしも聖書の宗教の特徴ではなく、ただ聖書においてはその人格性は徹底的であり、むしろそこでは「人格とは何を意味するか」(32)ということが知らされるのであると言う。そこで人格とは相互の主体の応答の自由と言葉を媒介とする「人格的距離」(33)とを意味している。人格に関するこの理解は「一存在」と「存在そのもの」との関係という存在論的理解とは一致しない。「聖書の人格主義は神の言が一人の人格的生命つまりイエスの生涯に受肉したという使信において完成する。」(34)しかし「もし存在論がイエスはキリストであるという聖書の中心的主張を受け入れることが出来ないとすれば」(30)両者は決して一致することは出来ないであろう。
問題を主観的側面に移して考察するならば、信仰者も哲学者も相互に排他的ではあるとしても、共に究極的実存に関わっているということにおいては共通している。「哲学者は持たずして持ち、信仰者は持ちつつ持たない。存在論と聖書の宗教とが互いに相手を発見するのはこの基礎においてである。」(36)
そこで彼は「哲学的信仰」という語を用いて哲学者も何らかの信仰を必要としていることを論じつつ、他方聖書の宗教においても神の自己啓示の諸象徴はそれぞれ存在論的解釈を要求していることを解明する。そして両者を結合し、「普遍的なロゴスを背景とするときにのみ、受肉のロゴスは意味ある概念となり得る」(37)と言う。存在するすべてのものの中で活動する普遍的なロゴスはキリストとしてのイエスの人格的生命におけるロゴスと同一のロゴスである。「キリストとしてのイエスはロゴスが可見的になる具体的な場所であるということは、究極的関心の対象の啓示であるキリストによって捕えられた者のみがなし得る信仰の主張である。」(38)しかし「存在論はそのキリスト論的問題を受け容れることが出来る」(39)とティリッヒは言う。最後に彼は結論として次のように言う。
「パスカルに反してわたしは言う、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と哲学者たちの神とは同一の神である。彼は一人格者であると同時に、また一人格者としての彼自身の否定でもあると。」(4O)

(1) ST1. p.20
(2) Ibid., p.20
(3) Perspective. p.78
(4) 小林栄:「福音と諸宗教──ホッキングとクレーマーにおける対立をめぐって──」神学研究第8号 1958 p.61,67ff
(5) Encounter. p.62
(6) Troeltsch,E:Der Historismus und seine Uberwilldung,1924  大坪重明『歴史主義とその克服』 理想社 1956 p.115
(7) Encounter. p.62
(8) "the lasting necessity of religion", Future. p.82
(9) "the Religion of the Corcrete Spirit"
(10) Future. p.91
(11) "revelatory history", Ibid., p.85
(12) Ibid., p.85
(13) "the final revelation", ST1. p.147ff
(14) Future. p.88
(15) Ibid., p.89
(16) ST1. p.147ff
(17) Future. p.89
(18) ST1. p.102ff
(19) Blauw,J.:Gottes Werk in dieser Welt, 1961 Kapiet.5,6
(20) ST1. p.22ff
(21) ティリッヒ:「神学と哲学」 神学第19号 p.10
(22) ST1. p.25ff
(23) "Vorbild" と "Urbild" ,F.Schleirmacher:Der chistliche Glauben, Walter de Gruyter & co., 1960 Bd.2, s.54ff
(24) Tillich,P.:Aspects of Religious Analysis of Culture, p.40
(25) ティリッヒ:「神学と哲学」 神学第19号 p.10
(26) "Spiritual being", ST3. p.22
(27) ST3. p.22 以下 大文字のSpiritには”霊”を当てる。
(28) Ibid., p.25
(29) 松村克巳:「キリストのほか自由」、論文集『文化対キリスト教の問題』1966 基督教共助会刊  p.360
(30) "glaubiger Realismus" , Tillich,P.: Die religliose Lage der Gegenwarf, Verlag ullstein, Berlin 1926 s.48
(31) Bibilical Religion and the Search for ultimte Reality,1955
(32) Ibid., p.27
(33) Ibid., p.36
(34) Ibid., p.37
(35) Ibid., p.39
(36) Ibid., p.62
(37) Ibid, p.75
(38) Ibid., p.76
(39) Ibid., p.75f
(40) Ibid., p.85

最新の画像もっと見る