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ぶんやさんの記録

2019 日々の聖句 1月20日㈰~1月26日㈯

2019-01-27 10:14:26 | ローズンゲン
2019 日々の聖句 1月20日㈰~1月26日㈯
2019 日々の聖句 1月20日㈰
汝はわが歩むをもわが臥をも、さぐりいだし、わがもろもろの途をことごとく知たまえり。 (詩139:3)
二羽の雀は一錢にて賣るにあらずや、然るに、汝らの父の許なくば、その一羽も地に落つること無からん。(マタイ10:29)
私の黙想:
今日から残り少ない日々、「文語聖書回帰」しようと思う。日本聖書協会では多くの人々の希望に応えて、2001年に文語聖書を再版している。聖書の翻訳については明治時代からいろいろ試みられたが、それらを総括して旧新約聖書として出版されたのはいわゆる「大正改訳」である。私の手元にある文語訳は1955年改訳版である。それでもで64年前である。確かに、その頃の若者たちには文語訳が理解困難になっていたことも事実であった。
さて、現時点で文語約聖書がどれだけ理解できるか、試みたいと思う。もちろん、適時現代語の邦訳聖書も参照する。(註:2001年版でも句読点等ひらがなの使用が異なるので適時補うこととする。)
今日の聖句、新共同訳では「歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる」。ここでは最後の「通じておられる」という特殊な言葉が使われているが、ほとんどの現代語訳では「知る」である。文語訳の「探りいだし」が面白い。
最新の協会訳では「旅するのも休むのもあなたは見通し、私の道を知り尽くしておられる」と訳している。それらと比べても決して違和感はない。要するに単純に「神は私のことを隅から隅まで全部ご存知である」、ということを述べているのである。
さて、こういう親に育てられた子供は大変だろうなぁと思う。子供が幼い頃はそれも大切だ。子供が自分自身のことを知っている以上に親は子供のことを知っていなければならない。しかし子供の成長とともに、子供自身の自己認識と親の認識との比率は逆転し、親の知らない部分が増えていく。それが創世記2:24の「人は父母を離れ」という正常な成長というものである。親子関係における「知る」と「信じる」との関係である。「知らないけれども信じている」。
この親子関係を立場を変えて考えると、幼い子供は親のことを全く知らない状態、つまり100%信じるところから始まり、成長とともに親のことを知っていく。「親の心、子知らず」から「子を持ってみて、親の気持ちが理解できるようになる」へ。人間における神との関係も同じで「知」に「信」が先行する。「信じるが故に我知る 」。カール・バルトはこれを中世の神学者アンセルムスの立場に立って「知解を求める信仰」と表現した。
2019 日々の聖句 1月21日㈪
萬軍の主は我らと偕なり。ヤコブの神は我らの高き櫓なり。(詩46:8)
されど神は眞實なれば、汝らを堅うし、汝らを護りて、惡しき者より救い給はん。(2テサロニケ3:3)
私の黙想:
文語(聖句)の良さは、何と言っても文語体の歯切れの良さこの断定性である。「萬軍の主は我らと偕なり」。これを新共同訳では「万軍の主はわたしたちと共にいます」、口語訳では「万軍の主はわれらと共におられる」で、意味には違いがないことは分かる。が、「なり」という言葉が印象的である。こうして故意にに並べてみると口語文の「間の抜けた感じ」がよくわかる。「萬軍」は横に置き、「偕」という漢字は魅力的である。それは平板な「共に」ではない。「皆」とニンベンとが組み合わされて共同体の中に存在している感じが強調されている。こういう芸当は文語体だからこそできることである。口語体は単なる言文一致ではなく日本語の良さの破壊である、とさえ言える。ヘブル語原典では、「アドナイ ツェヴァオット イマーヌ」、細かい解説は不要であろうが最後の「イマーヌ」は無視できない。これこそ「インマヌエル」である。
この漢字について、三省堂の新漢和中辞典に面白い用法が紹介されている。それは「偕老同穴」で夫婦の契りが非常にかたく、永遠に変わらないこと。仲良く年をとり、死んで一緒に葬られること」。
2019 日々の聖句 1月22日㈫
汝と汝の子等(こども)ともに汝の神、主に起(た)かえり、汝の神、主、俘擄(とらわれ)を解(と)きて、汝を憐れみたまう。(申命記30:2,3)
神に近づけ、さらば神なんぢらに近づき給はん。罪人よ、手を淨めよ、二心の者よ、心を潔(いさぎ)よくせよ。(ヤコブ4:8)
私の黙想:
「俘擄(とらわれ)を解(と)きて」の部分、新共同訳では「あなたの運命を回復し」、口語訳では「あなたを再び栄えさせ」と訳している。それぞれかなり抽象化し、万人向きの聖句になっている。その点、文語訳はイスラエル史においてがこれから起こるであろう出来事を直接的に述べている。これはもはや文体の問題ではなく解釈の問題である。
こういう場合に最も信頼できるのは岩波訳で、そこでは「あなたの捕囚を元に戻し」と訳されている。要するに、文語訳に近い。最新版の協会訳も、「あなたを捕らわれの身から連れ戻し」である。最古の訳と最新の訳とが同じラインにあることは興味深い。
日本語として面白いのは、現代訳がほとんど「立ち帰り」としているのを文語訳は、現代文では用いられない「主に起(た)かえり」としている。祖国への復帰はただ単純に「立ち帰る」、祖国に向かって旅に出るのではなく、具体的には「起ち上がる」という決断が含まれている。その意味で、現代語訳は事柄自体を矮小化している。現在の若者たちにも、文語約聖書を通して「起(た)ち上がる」という言葉を教えたいものだ。それは決して難しいことではない。
2019 日々の聖句 1月23日㈬
我かれらと和平(やわらぎ)の契約を立てん。是は彼らに永遠の契約となるべし。(エゼキエル37:26)
(キリストは)かつ來りて、遠かりし汝等にも平和を宣べ、近きものにも平和を宣べ給へり。(エフェソ2:17)
私の黙想:
新共同訳では「わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる」。読んでいる限り意味の違いはない。口語訳も協会訳ほぼ同じ。ただ、細かいことを言うなら、「和平(やわらぎ)」と「平和」は同じか。ただ、この点に関しては文語訳と現代語訳との時代背景の違いが前提にあると思う。あの時代「平和」という言葉には抵抗があったのであろう。ということで、この問題を済ます訳にはいかない。
「やわらぎ」には「平和」以上に深い意味がある。ただ単に「仲良くする」ことではなく、「共に生きる」、「運命を分かち合う」である。その深い意味とは、これに続く言葉によって明らかにされる。ヤハウェとの「やわらぎ」とは、「我かれらを堅うし、彼らを殖(ふや)し、わが聖所を長久(とこしなえ)にかれらの中におかん」。またまた難しい言葉が出て来た。「長久(とこしなえ)」、とは「永遠」とは異なる。「武運長久」というような言い方をする。これは観念的な「永遠」ではない。私たちの世界が続く限りである。
どうです、文語聖書を通して学ぶべきことは沢山あるであろう。
2019 日々の聖句 1月24日㈭
彼ら悲泣來(かなしみきた)らん。我かれらをして祈禱をもて來(きた)らしめ、直くして蹶(つまず)かざる途より、水の流に歩みいたらしめん。我はイスラエルの父にして(エフライムは我長子なればなり)。(エレミヤ31:9)
それ人の子の來れるは、失せたる者を尋ねて救わん爲なり。(ルカ19:10)
私の黙想:
今日の聖句は確かに難しい。しかし、漢字交じりの文章は何とのく通じるからいい。とくに、「我かれらをして祈禱をもて來(きた)らしめ」という部分。要するに祖国へ帰るに際して、ヤハウェは民らに祈らせるということであろう。新共同訳では「彼らは泣きながら帰って来る。わたしは彼らを慰めながら導き、流れに沿って行かせる。彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。わたしはイスラエルの父となり(エフライムはわたしの長子となる)」。
「祈らせる」のか「慰める」のか。それぞれで考えるといい。この部分岩波訳は面白い。「彼らは感涙にむせびながら、やって来る。私は彼らを、慰めつつ連れ戻る。わたしは彼らを水の流れの辺へと導き、彼名は、平らな道に躓くことがない」。なかなかドラマチックである。翻訳とはそういうものなのだ。
祖国への復帰のために、安全で豊かな道を準備してくださるという。その道中はほとんど砂漠で「水の流に沿って歩くことができるという」。こういう細かい配慮によってヤハウェと民との「親子関係が成立する」。
それはいわば出エジプトの再現である。ローズンゲンが省略した「長子エフライム」は、実は北のイスラエル王国に属し、いわばもう既に滅んでしまっている。
2019 日々の聖句 1月25日㈮
主よ、汝の事跡(みわざ)はいかに多(さわ)なる。これらは皆なんぢの智慧にてつくりたまへり。汝のもろもろの富は地に満つ。(詩104:24)
イエスの言葉:野の百合は如何にして育つかを思へ、勞せず、紡がざるなり。されど我なんぢらに告ぐ、榮華を極めたるソロモンだに、その服裝この花の一つにも及かざりき。(マタイ6:28~29)
私の黙想:
「多」という漢字を「さわ」と読めるとは知りませんでした。広辞苑によると「平面に広がり散らばってものにいう」と解説している。協会訳では「あなたの業はいかに豊かなことか」と訳している。新共同訳は「主よ、御業はいかにおびただしいことか」。祈祷書は思い切って、「あなたの造られたものは数え切れない」、要するに神によって創造された世界の多様性(それを人間は秩序のない散らばった状況としか捉えられない。それを「豊かさ」とか「おびただしい」という言葉では表現しきれない。「汝の事跡(みわざ)はいかに多(さわ)なる」という言葉で表現こそが、日本語の豊かさそのものである。(それをヘブライ語原典がどの様に表現しているのかは、私には不明)。
ここで詩人は率直に神の知恵の前に圧倒されている。
新約の「野の百合」へ言及も、この驚きに通じるものとして読まねばならないであろう。
2019 日々の聖句 1月26日㈯
視よ、此邑(まち)ハナネルの塔より隅の門まで、主の爲に建つ日きたらん。(エレミヤ31:38)
人々は諸國の民の光榮と尊貴(とうとき)とを此處にたづさえ來らん。(黙示録21:26)
私の黙想:
残念ながら、「日々の聖句」では、「ハナンエルの塔から角の門まで」が省略されている。「新共同訳では「見よ、主にささげられたこの都が、ハナンエルの塔から角の門まで再建される日が来る」。
口語訳「見よ、この町が、ハナネルの塔から隅の門まで、主のために再建される時が来る」。
「ハナンエルの塔」とはエルサレムの北側に立っていた塔である。「隅の門」とはエルサレムの北西の角にあった門である。当時のエルサレムの領域が明記されている。これらの翻訳の違いは面白い。誤訳とまでは言わないが、「邑」から「町」へ最後に「都」、翻訳者の「エルサレム・イメージ」が端的に示されている。
預言者エレミアの最期は不明である。あのままユダ王国の保守的なリーダーたち(エジプト派)に強制的にエジプトに連行された後のエレミアは行方は不明のままである。従って、今日のエレミア書の聖句も誰に発するものかは明白ではない。
ここでは荒廃したエルサレムの「邑」情景が背景にある。預言者はこのが昔の栄光を取り戻す日が来ると語る。
黙示録の聖句は、時代をさらにずらし、ローマによって完全に破壊されたエルサレムが「世界の中心」となると語る。これが初期のキリスト者たちの終末論であり、希望であった。

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