ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:顕現後第4主日(2019.2.3)

2019-02-01 15:19:46 | 説教
断想:顕現後第4主日(2019.2.3)

故郷では歓迎されない  ルカ4:21~32

<テキスト>
21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」
24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、
26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、
29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
31 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。
32 人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。

<以上>

1. この記事の位置づけの問題
マルコ福音書ではイエスの故郷での出来事は6章に置かれている。つまりガリラヤでの伝道活動がかなり進められ、イエスの評判がそれなりに高まった状況の中で「故郷にお帰りになった」(マルコ6:1)という設定である。ルカ福音書でも故郷での出来事の前提としてカファルナウムでの活動の噂(ルカ4:23)が前提となっており、マルコの位置づけの方が妥当性がある。そういうことをすべて理解した上で、ルカはなぜこの出来事をガリラヤ伝道の最初に位置づけているのだろうか。そこには明らかにルカ独自の編集の意図がある。
ルカは福音書を編集するに当たってそれまでに明らかになっている諸資料を「順序正しく」(1:3)書くということに留意している。ルカにとっての「順序」とは事柄自体の時間的順序というよりも「神の歴史(=救済史)」的順序を意味しているように思われる。ルカにとっての救済史とは「ガリラヤから始まって」(ルカ23:5)エルサレムに至り、エルサレムからユダヤとサマリアの全土、そして地の果てに至る(使徒言行録1:8)という地理的な拡大に伴う時間配列がある。そのガリラヤの中でもナザレが出発点で「カファルナウムに下る」(4:31)。そしてイエスの生涯はエルサレムで終わる。従ってルカ福音書では徹底的にエルサレムにこだわり、イエスの生涯をナザレからエルサレムへの道とする。それがメシアとしてのイエスの道である(9:51)。そのような文脈においてイエスの出発点はあくまでも「お育ちになったナザレ」(4:16)でなければならない。ルカはこの必然にこだわる。

2. 郷里での出来事の意味
本日の出来事を複雑していることは、このテキストで2つのことが意味されているからであろう。そのうちの1つは編集者ルカによる枠付けに関わる編集者の意図であり、もう一つは出来事そのものが含蓄している事柄である。それら2つが必ずしも一体化されていない。
ルカはこの時のイエスの行動について「いつものとおり」ということにこだわる。ナザレこそがイエスの出自である。イエスとは「ナザレのイエス」(4:34、18:37、24:19)である。当然ナザレの住民もイエスをよく知っている。そこにはイエスの家族も居る。まさにイエスにとってナザレとは「故郷(ふるさと)」である。 故郷の人々はイエスの里帰りを歓迎し、礼拝でイエスに説教を依頼した。彼らはイエスの説教を聞いて「その口から出る恵み深い言葉に驚き」、非常に喜んだ。
ところがその後何かの行き違いからイエスは郷里の人たちを怒らせてしまい、人々から追われ、崖の上から突き落とされそうになるが、危うく「人々の間を通り抜けて」立ち去った。これが事件の概要である。マルコ福音書では郷里の人々はイエスに躓きはするが、殺そうとまでには至らない。マタイ福音書も同様である。
ところがルカだけは郷里の人々は憤慨し殺そうとする。これは尋常ではない。異常な事態である。むしろ、こんなことはあり得ないことである。その結果、イエスは故郷を出て「カファルナウムに下る」ことになる。これがルカがこの出来事をイエスの公的活動の最初に置いた理由であろう。つまりパターン化してまとめるならば、イエスは郷里ナザレで同胞から理解されず殺されそうになる。実質的には殺したも同然である。これはまさに十字架事件の先取りではないか。イエスの最期は同胞ユダヤ人から理解されず十字架刑によって殺される。この2つの事件の間にイエスの人生がある。ナザレの事件とエルサレムでの事件とを対応させているのはルカである。

3. 議論のすれ違い
ここでのイエスと郷里の人々との会話を並べるとそのすれ違い具合はよく分かる。郷里の人たちは「この人はヨセフの子ではないか」と言う。それに対してイエスは「カファルナウムで行ったことをここでもしてくれというだろう」と言う。会話が成立していない。もともと、全然別な文脈の言葉である。郷里の人たちの言葉は後で取り上げるとして、ここでのイエスの言葉が郷里の人たちを憤慨させたのである。もともとこの出来事はマルコ福音書にあるとおりであろう。しかしルカはこの出来事をそんな悠長な物語で納めることはできない。変な話、郷里の人たちを憤慨させイエスを殺そうとしなければならないのである。そこでルカがマルコ福音書から取り上げるのはイエスはナザレではほとんど奇跡らしい奇跡を行わなかった(マルコ6:5)ということと「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」という言葉だけである。しかも、この言葉を「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と書き換え、さらに預言者エリアの奇跡と預言者エリシアの事象を付加する。かくしてルカの狙い通り郷里の人たちは憤慨し、イエスを殺そうとする。

4. 預言者エリアと預言者エリシャ
ここで預言者は故郷では歓迎されなものだということについては4つの福音書がすべて取り上げている。共観福音書ではすべてナザレでの出来事で語られたとするが、ヨハネ福音書だけは何か思い出したように唐突にこの言葉が出てくる。ルカ以外ではこの言葉は「敬われる」という言葉が用いられているがルカだけは「歓迎されない」と表現する。またルカ以外はそのことについての実例には触れないがルカだけが歴史的事例を取り上げている。
預言者の原型になったといわれている紀元前9世紀の中半頃の預言者エリアが取り上げられる。エリアについての記事は列王記上の17章から同下の2章にある。ここで語られている出来事は列王記上17:8~24に見られる。3年半雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、シドン地方のサレプタのやもめだけがエリアを歓迎し飢饉から守られた。
預言者エリシャとはエリアの弟子で紀元前9世紀の後半に活躍した。その記述は列王記上の19章から同下の13章に記されている。ここで取り上げられている「イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった」という出来事は列王記下5章に記されている。
ここで注目すべき点は、サレプタのやもめにせよ、シリアのナアマンにせよ、ともに非ユダヤ人であったということである。従って、ここで預言者は故郷では歓迎されないというだけではなく、神の祝福の業はユダヤ人から非ユダヤ人へと移るということであろう。これは実際にイエスがそう語ったというよりも非ユダヤ人としてのルカやルカの時代の多くのキリスト者の中に非ユダヤ人が含まれていたという時代性を反映しているものであろう。もちろん、このような実例をあげられてはユダヤ人(当然ナザレの人々もそこに含まれている)が憤慨するのも当然であろう。

5. 「この人はヨセフの子ではないか」
さてルカの編集意図とは別にこの物語自体にも重要なメッセージが隠されている。それを読み取らねばならない。もう一度マルコ福音書の言葉に戻る。郷里の人たちはイエスについて、「『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか』このように、人々はイエスにつまずいた」(マルコ6:1~2)という。この郷里の人たちの率直な言葉をルカはほとんどすべて省略し、ただ一点「この人はヨセフの子ではないか」ということだけを問題にする。むしろ、イエスと郷里の人たちをこの1つの言葉で向かい合わせる。問題は実際に郷里の人たちが何を言ったのかということではなく、ルカはイエスと郷里の人たちとの間にある「問題」をこのように理解しているということである。ルカ福音書で問題になっている点はイエスの行為、姿勢、生き方である。むしろ郷里の人たちはイエスがヨセフの子として当然なすべき義務、ナザレ村の人間としてなすべき務めを果たしていないということを問題にしている。
このことはすべての人間がかかえている根本的な問題である。問題というよりも「枠組み」と言うべきか。すべての人間は単独では存在していない。何らかの形で生まれた瞬間から枠組みをもっている。様々な枠組みの中で最も根源的なものが「誰かの子」というあり方である。すべての人間は「誰かの子」として生まれ、生き、そして死ぬ。周りの人々、イエスの場合郷里の人々はイエスがこの枠組みの中で生きることを期待し、要求する。その期待に応えて枠組みの中で忠実に生きれば、それが善人である。他方、人間は常にこの枠組みを破り、枠組みの外で生きようとする欲求、あるいは「内的衝動」をもっている。その欲求にはもちろん個人差があり、非常に強い人間もおれば、それ程強く感じない人間もいるだろうが、すべての時代のキリスト者に共通する悩みであり、問題意識である。キリスト者として生きるということは民族や文化の差異を超えて普遍的な神と関わって生きることである。その意味ではイエスの弟子として、キリスト者として生きるのは「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者」(ルカ18:29)であると言い、さらに「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」(ルカ21:16,17)と言われる。「あなたはヨセフの子ではないか」という言葉にはこう意味が込められている。従って、これはイエスと郷里の人々との会話であるが同時に、すべてのキリスト者に共通の課題でもある。

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