今週のローズンゲン 2016/03/27~04/02
2016 日々の聖句 03月27日(日)
あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き(聖なる山、)あなたのいますところにわたしを伴ってくれるでしょう。(Ps.43:3)
実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。(1Cor.15:20)
私の黙想:
ローズンゲンの編集者、イースターをしっかり意識して、この句を選んだのであろう。イースターを「あなたの光とまこと」の現れとみている。まさにそうだ。理屈ではない。キリストの御復活とは神の光と真の現れである。死が終わりではない。イースター、おめでとうございます。
2016 日々の聖句 03月28日(月)
わたしたちに命を得させ、御名を呼ばせてください。(Ps.80:19)
キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。(2Tim.1:10)
私の黙想:
「わたしたちに命を得させ」、かなり硬い表現である。その他の邦訳では「わたしたちを生かし」である。その中で、カトリック教会の典礼委員会の訳はユニークである。「わたしたちは、あなたから離れることなく、いのちである あなたを呼び求める」。
この詩全体のテーマは「生きとし生けるもの」の命の源泉である(特に15~16節)。従って、ここで問題になっている点は、「わたしたちを生かす」ことではなく、「わたしたちに命を得させる」ということであって、重心は「命」にある。少々強引に解釈すると、わたしたちを生かす、その命の源泉はあなたにあり、命はあなたから来る」ということ。
そう読むことによって、新約聖書の聖句に対応する。キリストの復活によって現れた「不滅の命」を求めている。
2016 日々の聖句 03月29日(火)
災いの過ぎ去るまで、あなたの翼の陰を避けどころとします。(Ps.57:2)
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(Jh.20:19)
私の黙想:
「災いの過ぎ去るまで」、避難と言うこと。避難民のことを思う。「翼の陰」がない。ただ、無目的に災害の現場を逃げ回るしかない。逃げ回る避難民の頭上には敵の翼があり、爆弾が落とされる。敵の強力な翼のもとでは完全に無力である。「あなたの翼の陰」がない。各自が自己責任によって避難所を探し回る。ここなら安全と思ったところでは場所を取り合い、争いが始まる。それが避難民である。
詩人は言う。「わたしの魂は獅子の中に火を吐く人の子らの中に伏しています。彼らの歯は槍のように、矢のように舌は剣のように、鋭いのです」。避難民にとって「わたしの魂」の問題ではない、私の身体の問題である。ただ生きる、生き残るということだけが課題である。
私たちは常に「難民化」する可能性、危険性の中で生きている。・・・・・もうこれ以上は書けない。
2016 日々の聖句 03月30日(水)
主よ、あなたは正しくいます。(わたしたちユダの者、エルサレムの住民、すなわち、あなたに背いた罪のために全世界に散らされて、遠くにまた近くに住むイスラエルの民すべてが、)わたしたちが今日のように恥を被っているのは当然なのです。(Dan.9:7)
イエスの言葉:ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言った。兄は「いやです」と答えたが、後で考え直して出かけた。(Mt.21:28~29)
私の黙想:
今日の聖句、ローズンゲンでは括弧内が省略されているが、これを補わないと、「私たちが今日のように恥を被っている」ということの当然さが分からない。祖国を追われバビロンに捕囚されているユダヤ人たちは、この歴史的現実を「神に背いた」結果として受け止めたうえ、それを当然のことと考えている。今の流行の言葉で言うと「自己責任」として受け止めている。そう受け止めることによって「神の正しさ」を語る。逆に言うと、神の正しさを前提として現在の不幸を自己責任として引き受けている。重要なことは「神の正しさ」である。彼らの信仰によれば「律法の正しさ」である。悪い律法のもとでは不幸を自己責任として引き受けることは出来ない。その場合は、私は正しいのに律法が悪いためにこういう状況に置かれているということになり、不満は爆発する。
世界は今、悪法に支配されている。戦争によって自己利益を追求する軍需産業の支配者たちによって世界の平和は崩されている。昨日から戦争法が施行された。この法規の成立は「暴力」による。国民は納得していない。当然、自衛隊だって納得していない。こういう状況に置いて、戦地に送られる兵士たちはとうてい「自己責任」とは思えないであろう。
2016 日々の聖句 03月31日(木)
主よ、わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。(Ps.141:4)
人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。(Jam.4:17)
私の黙想:
今日の聖句は面白い。いったい「心が悪に傾く」とはどういうことなのだろうか。考えさせられる。これに続く言葉を読むと、要するに「悪い連中の仲間になるな」ということらしい。面白いのは、その次の言葉、「彼らの与える好餌にいざなわれませんように」が重要。悪い連中は「天使のような顔をして」「甘い言葉で」、おまけに「好餌(こうじ)」で誘う。ここを口語訳では「彼らのうまき物を食べさせないでください」と訳している。江戸でも一番の寿司屋に招かれて、にこやかに歓談する。それだけのことである。美味いものを食って歓談する、それだけのこと、何が悪い。それは決してスキャンダルでもないし、とやかく文句を言われることもない、とマスコミのお偉方は言う。
フランシスコ会訳はもっと面白い、「彼らの珍味を味わせないでください」。人間は「珍味」に弱い。「珍味」には時々毒がある。毒があればあるほど珍味は美味いという。一回味わうと、また誘われれば、また行くことになる。「珍味」の味は繰り返されることを求める。誘われたら、また行きたくなる。これが「わたしの心が悪に傾く」ことである。だから、詩人は「誘われない」ことを祈る。
2016 日々の聖句 04月01日(金)
主よ、あなたをあがめます。(あなたは敵を喜ばせることなく)わたしを引き上げてくださいました。(Ps.30:2)
キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。(2Cor.1:5)
私の黙想:
ローズンゲンでは括弧内が省略されている。この詩は神殿奉献の歌とされる。彼らにとって「神殿奉献」とは「敵」に対する勝利の徴のようである。昔の日本でいうと「天守閣」みたいなものか。敵に負けるということは神殿が破壊されること、敵に勝つということは神殿を奉献することという感覚か。
この詩にはいわゆる名文句が多い。たとえば、6節の「泣きながら夜を過ごす人にも喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」。ユーモラスな名文句もある。10節の「わたしが死んで墓に下ることに何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげあなたのまことを告げ知らせるでしょうか」などは読んでいて思わず微笑んでしまう。
2016 日々の聖句 04月02日(土)
力を捨てよ、知れわたしは神。(Ps.46:11)
さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。(Mk.6:31)
私の黙想:
今日の聖句、いきなりこの言葉が目の前に現れると、もう文脈も何もなくなる。日本語的に言うと「力を抜け」とか「自然体で行け」という感じでしょうか。現代風に言うと「リラックス、リラックス」かな?
日本の武道の奥義は、柔道であれ、剣道であれ、空手であれ、合気道であれ、肩から力を抜いてダラーンと自然体になることだという。信仰の奥義も(私はまだまだそこまで達していないが)、自然体になることだと思う。そこで初めて「知れ、わたしは神」という神に出会う。「ダラーンとすること」、いいね。
2016 日々の聖句 03月27日(日)
あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き(聖なる山、)あなたのいますところにわたしを伴ってくれるでしょう。(Ps.43:3)
実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。(1Cor.15:20)
私の黙想:
ローズンゲンの編集者、イースターをしっかり意識して、この句を選んだのであろう。イースターを「あなたの光とまこと」の現れとみている。まさにそうだ。理屈ではない。キリストの御復活とは神の光と真の現れである。死が終わりではない。イースター、おめでとうございます。
2016 日々の聖句 03月28日(月)
わたしたちに命を得させ、御名を呼ばせてください。(Ps.80:19)
キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。(2Tim.1:10)
私の黙想:
「わたしたちに命を得させ」、かなり硬い表現である。その他の邦訳では「わたしたちを生かし」である。その中で、カトリック教会の典礼委員会の訳はユニークである。「わたしたちは、あなたから離れることなく、いのちである あなたを呼び求める」。
この詩全体のテーマは「生きとし生けるもの」の命の源泉である(特に15~16節)。従って、ここで問題になっている点は、「わたしたちを生かす」ことではなく、「わたしたちに命を得させる」ということであって、重心は「命」にある。少々強引に解釈すると、わたしたちを生かす、その命の源泉はあなたにあり、命はあなたから来る」ということ。
そう読むことによって、新約聖書の聖句に対応する。キリストの復活によって現れた「不滅の命」を求めている。
2016 日々の聖句 03月29日(火)
災いの過ぎ去るまで、あなたの翼の陰を避けどころとします。(Ps.57:2)
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(Jh.20:19)
私の黙想:
「災いの過ぎ去るまで」、避難と言うこと。避難民のことを思う。「翼の陰」がない。ただ、無目的に災害の現場を逃げ回るしかない。逃げ回る避難民の頭上には敵の翼があり、爆弾が落とされる。敵の強力な翼のもとでは完全に無力である。「あなたの翼の陰」がない。各自が自己責任によって避難所を探し回る。ここなら安全と思ったところでは場所を取り合い、争いが始まる。それが避難民である。
詩人は言う。「わたしの魂は獅子の中に火を吐く人の子らの中に伏しています。彼らの歯は槍のように、矢のように舌は剣のように、鋭いのです」。避難民にとって「わたしの魂」の問題ではない、私の身体の問題である。ただ生きる、生き残るということだけが課題である。
私たちは常に「難民化」する可能性、危険性の中で生きている。・・・・・もうこれ以上は書けない。
2016 日々の聖句 03月30日(水)
主よ、あなたは正しくいます。(わたしたちユダの者、エルサレムの住民、すなわち、あなたに背いた罪のために全世界に散らされて、遠くにまた近くに住むイスラエルの民すべてが、)わたしたちが今日のように恥を被っているのは当然なのです。(Dan.9:7)
イエスの言葉:ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言った。兄は「いやです」と答えたが、後で考え直して出かけた。(Mt.21:28~29)
私の黙想:
今日の聖句、ローズンゲンでは括弧内が省略されているが、これを補わないと、「私たちが今日のように恥を被っている」ということの当然さが分からない。祖国を追われバビロンに捕囚されているユダヤ人たちは、この歴史的現実を「神に背いた」結果として受け止めたうえ、それを当然のことと考えている。今の流行の言葉で言うと「自己責任」として受け止めている。そう受け止めることによって「神の正しさ」を語る。逆に言うと、神の正しさを前提として現在の不幸を自己責任として引き受けている。重要なことは「神の正しさ」である。彼らの信仰によれば「律法の正しさ」である。悪い律法のもとでは不幸を自己責任として引き受けることは出来ない。その場合は、私は正しいのに律法が悪いためにこういう状況に置かれているということになり、不満は爆発する。
世界は今、悪法に支配されている。戦争によって自己利益を追求する軍需産業の支配者たちによって世界の平和は崩されている。昨日から戦争法が施行された。この法規の成立は「暴力」による。国民は納得していない。当然、自衛隊だって納得していない。こういう状況に置いて、戦地に送られる兵士たちはとうてい「自己責任」とは思えないであろう。
2016 日々の聖句 03月31日(木)
主よ、わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。(Ps.141:4)
人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。(Jam.4:17)
私の黙想:
今日の聖句は面白い。いったい「心が悪に傾く」とはどういうことなのだろうか。考えさせられる。これに続く言葉を読むと、要するに「悪い連中の仲間になるな」ということらしい。面白いのは、その次の言葉、「彼らの与える好餌にいざなわれませんように」が重要。悪い連中は「天使のような顔をして」「甘い言葉で」、おまけに「好餌(こうじ)」で誘う。ここを口語訳では「彼らのうまき物を食べさせないでください」と訳している。江戸でも一番の寿司屋に招かれて、にこやかに歓談する。それだけのことである。美味いものを食って歓談する、それだけのこと、何が悪い。それは決してスキャンダルでもないし、とやかく文句を言われることもない、とマスコミのお偉方は言う。
フランシスコ会訳はもっと面白い、「彼らの珍味を味わせないでください」。人間は「珍味」に弱い。「珍味」には時々毒がある。毒があればあるほど珍味は美味いという。一回味わうと、また誘われれば、また行くことになる。「珍味」の味は繰り返されることを求める。誘われたら、また行きたくなる。これが「わたしの心が悪に傾く」ことである。だから、詩人は「誘われない」ことを祈る。
2016 日々の聖句 04月01日(金)
主よ、あなたをあがめます。(あなたは敵を喜ばせることなく)わたしを引き上げてくださいました。(Ps.30:2)
キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。(2Cor.1:5)
私の黙想:
ローズンゲンでは括弧内が省略されている。この詩は神殿奉献の歌とされる。彼らにとって「神殿奉献」とは「敵」に対する勝利の徴のようである。昔の日本でいうと「天守閣」みたいなものか。敵に負けるということは神殿が破壊されること、敵に勝つということは神殿を奉献することという感覚か。
この詩にはいわゆる名文句が多い。たとえば、6節の「泣きながら夜を過ごす人にも喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」。ユーモラスな名文句もある。10節の「わたしが死んで墓に下ることに何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげあなたのまことを告げ知らせるでしょうか」などは読んでいて思わず微笑んでしまう。
2016 日々の聖句 04月02日(土)
力を捨てよ、知れわたしは神。(Ps.46:11)
さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。(Mk.6:31)
私の黙想:
今日の聖句、いきなりこの言葉が目の前に現れると、もう文脈も何もなくなる。日本語的に言うと「力を抜け」とか「自然体で行け」という感じでしょうか。現代風に言うと「リラックス、リラックス」かな?
日本の武道の奥義は、柔道であれ、剣道であれ、空手であれ、合気道であれ、肩から力を抜いてダラーンと自然体になることだという。信仰の奥義も(私はまだまだそこまで達していないが)、自然体になることだと思う。そこで初めて「知れ、わたしは神」という神に出会う。「ダラーンとすること」、いいね。