ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

太宰治の『トカトントン』

2009-03-14 13:52:29 | ときのまにまに
昨日、本を読んでいたら太宰治の『トカトントン』という小説のことが出ていた。どんな小説だったかと思って青空文庫を調べてみると幸い掲載されていたので、早速読み直してみた。太宰の作品を読むのは久し振りのことである。

一人の平凡な青年が太宰自身を思わせる「某小説家」に手紙で悩みを打ち明ける。彼の悩みは日本敗戦の日から始まる。その日のことについて次のように描かれている。
≪昭和20年8月15日正午に、私たちは兵舎の前の広場に整列させられて、そうして陛下みずからの御放送だという、ほとんど雑音に消されて何一つ聞きとれなかったラジオを聞かされ、そうして、それから、若い中尉がつかつかと壇上に駈けあがって、「聞いたか。わかったか。日本はポツダム宣言を受諾し、降参をしたのだ。しかし、それは政治上の事だ。われわれ軍人は、あく迄も抗戦をつづけ、最後には皆ひとり残らず自決して、以て大君におわびを申し上げる。自分はもとよりそのつもりでいるのだから、皆もその覚悟をして居れ。いいか。よし。解散」
そう言って、その若い中尉は壇から降りて眼鏡をはずし、歩きながらぽたぽた涙を落しました。厳粛とは、あのような感じを言うのでしょうか。私はつっ立ったまま、あたりがもやもやと暗くなり、どこからともなく、つめたい風が吹いて来て、そうして私のからだが自然に地の底へ沈んで行くように感じました。
死のうと思いました。死ぬのが本当だ、と思いました。前方の森がいやにひっそりして、漆黒に見えて、そのてっぺんから一むれの小鳥が一つまみの胡麻粒を空中に投げたように、音もなく飛び立ちました。
ああ、その時です。背後の兵舎のほうから、誰やら金槌で釘を打つ音が、幽かに、トカトントンと聞えました。それを聞いたとたんに、眼から鱗が落ちるとはあんな時の感じを言うのでしょうか、悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、私は憑きものから離れたように、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持で、夏の真昼の砂原を眺め見渡し、私には如何なる感慨も、何も一つも有りませんでした。そうして私は、リュックサックにたくさんのものをつめ込んで、ぼんやり故郷に帰還しました。≫
それ以後、青年は何かに燃えたり、喜んだりするクライマックスになると幽かなトカトントンという音が聞こえてきてしらけてしまうのである。小説を書いてもいよいよ最後の頁というところであの音がしてきてしらけてしまい、その小説もつまらないものに思えてしまう。恋愛においても一番燃え上がっている場面で、トカトントンという音が聞こえてきて高まっていた感情がいっぺんに冷えてします。労働運動に燃え上がってもデモの最中にあの音が聞こえてきて醒めてしまう。
青年は某小説家に問いかける。≪いったい、あの音はなんでしょう。虚無などと簡単に片づけられそうもないんです。あのトカトントンの幻聴は、虚無をさえ打ちこわしてしまうのです。≫
この状態はますますエスカレートして、≪もう、この頃では、あのトカトントンが、いよいよ頻繁に聞え、新聞をひろげて、新憲法を一条一条熟読しようとすると、トカトントン、局の人事に就いて伯父から相談を掛けられ、名案がふっと胸に浮んでも、トカトントン、あなたの小説を読もうとしても、トカトントン、こないだこのに火事があって起きて火事場に駈けつけようとして、トカトントン、伯父のお相手で、晩ごはんの時お酒を飲んで、も少し飲んでみようかと思って、トカトントン、もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもトカトントン、自殺を考え、トカトントン。≫
太宰はこの小説を次の言葉で閉じる。
≪この奇異なる手紙を受け取った某作家は、むざんにも無学無思想の男であったが、次の如き返答を与えた。

 拝復。気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。マタイ10章28節「身を殺して霊魂(たましい)をころし得ぬ者どもを懼(おそ)るな、身と霊魂(たましい)とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」。この場合の「懼る」は、「畏敬」の意にちかいようです。このイエスの言に、霹靂を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈です。不尽。≫
ここで作者が使っている「霹靂(へきれき)」という言葉は、「急激な雷鳴」を意味する。ここに太宰のアイロニーが隠されている。

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