ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 04/07~04/13

2013-04-15 06:35:59 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 04/07~04/13

日々の聖句2013 04月07日(日)
わたしはあなたとまことの契りを結ぶ。あなたは主を知るようになる。(ホセ2:22)
パウロの手紙:「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。(エフェ5:31ー32)
私の黙想:
「契り」と訳されている「アーラッシュ」は旧約聖書では7回ほど出てくるがいずれも婚姻関係を意味している。ここではそれに続く「知る」ということ語と組み合わされて、夫婦となるという意味であることは明らか。ホセア書における神とイスラエルの民との「特殊関係」については2日前の聖句の黙想でも触れたとおりである。ホセア書においてこのことに触れる場合、自分を捨てて姦夫に走った妻を許し、自分の元に帰ってくることを願う夫の「愛」を語っている。いわば石川達三の「泥にまみれて」の世界である。

日々の聖句2013 04月08日(月)
すべての命あるものは、肉なる人の霊も御手の内にあることを。(ヨブ12:10)
神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。「我らは神の中に生き、動き、存在する」のです。(使17:27-28)
私の黙想:
先ず初めにつまらぬことを一言。この文章は日本語として落ち着きがない。というより、文章になっていない。フランシスコ会訳ももう一つである。口語訳がスッキリする。「すべての生き物の命、およびすべての人の息は彼の手のうちにある。」少々強引であるが、文語訳は明解である。「一切の生物の生気および一切の人の霊魂ともに彼の手の内にあり」。参考までに中沢洽樹先生の訳「すべての生き物の生命は彼の手にあり、すべての人に肉に宿る霊も然り」。
この程度の単純な思想を変な訳文のお陰で無駄な時間を取られる。これらのことは「彼らはみな知っている」(同9節)。しかし、それをわざわざ言わなければならないところにヨブの友人たちにないする失望感がある。しかし、このことは私たちにとっても日常的な状況である。何故こんなに分かりきったことが分からないのだろうか。人間が開発した科学技術には当然限界があり、いつかは故障したり、使い物にならなくなるということを。

日々の聖句2013 04月09日(火)
主はその民の力。(詩28:8、口語訳)
キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。(コロ2:7)
私の黙想:
フランシスコ会訳では「わたしたちの」と訳され、そのヘブライ語についての詳しい説明がある。岩波訳では「あなたの民」と訳し異本では「彼の民」もあると注釈。要するに単数形であれ、複数形であれ、二人称であれ 三人称であれ、イスラエルの民を意味している。ヤハウェがイスラエルの力である。イスラエルの防衛力は軍事力ではない。一種の「神風信仰」。太平洋戦争では神風が吹くのを待てずに、国民を「神風」に仕立てた。安全保障問題と宗教との関係は複雑である。一億総玉砕主義(徹底抗戦)と無抵抗主義(戦争放棄思想)との間。思考停止。アポケー

日々の聖句2013 04月10日(水)
御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって安らかな地に導いてください。(詩143:10)
いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。(ヘブ13:9)
私の黙想:
「御旨を行うすべ」の「すべ」に引っかかる。御旨を行うのは術か。文語訳も口語訳も「行うこと」と訳し、フランシスコ会訳では「道」と訳されている。
もともと「すべ」とか「道」とかいう単語がここで用いられているのだろうか。確かに、「御旨を行う」ということについては、どうすることが「行う」ことになるのか迷う。御旨を行うということを実践の段階で考えると非常に難しい現実にぶち当たる。どう生きることが、あるいはどう行動することが御旨の実践になるのか、迷いに迷う。しかしその迷いを突破するのは技術だろうか。
このような生き方の本質に関わる事柄、それが宗教であるが、それをマニュアル化することは根本的に間違っている。たとえどういう生き方をしたとしても、それが神の御旨であるならば断固そのように生きるというのが信仰者の道であろう。その意味ではどう生きるか、という実践論は書けない。もし、書いたとしたら、その瞬間、それは「悪しき律法」になり、御旨の方が消えてしまう。

日々の聖句2013 04月11日(木)
わが主よ、わたしは責めさいなまれています。どうかわたしの保証人となってください。(イザ38:14)
御子と結ばれている人には永遠の命があります。(1ヨハ5:12)
私の黙想:
この人は今、確実な保証人を必要としている。保証人の必要な状況とは何か。その人のアイデンティティが危うくされている状況である。しかも、全ての人間の保証人は排除されている。その状況をこの人は「責めさいなまれている」という。「さいなむ」、随分古い言葉を持ち出したものだ。漢字で書くと「苛む、嘖む」と書く。意味は「いじめる、苦しめる、折檻する」。古い文語訳では 「迫りくるしめらる」と訳されている。口語訳、フランシスコ会訳では「虐げられている」。この人はユダの王ヒゼキアである。王が虐げられるというのも、似付かない。問題は誰が王を「責め、苦しめているのか」。嘖むという語には「良心の呵責」というニュアンスがある。自分の内に自分自身を責め苦しめている事柄がある。この時ヒゼキア王は「死の病」かかる。王は預言者イザヤに相談し、神に祈る。「どうかわたしの保証人になってください」。この時、神はイザヤを通して15年間寿命を延ばすと約束された。いわば「執行猶予」である。

日々の聖句2013 04月12日(金)
わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。彼らはわたしの栄光を国々に伝える。(イザ66:19)
イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)
私の黙想:
全世界に宣べ伝えられる べき神。「わたしたちの神」は「世界の神」。宗教(わたしたちの信仰)による世界制覇。この発想の正当性と危険性。マイゴッドが部分的な神であるということに耐えられない。これは当然の心情。宗教における寛容性とは何か。わたしだけが救われたらいいということに基づく寛容性。キリスト者は、他人の救済に無関心でおれるのか。バルトは「われわれはわれわれの信仰を他人に要求しない」と言う。その意味は?

平位 全一 · バルトは、要求することはしなくても、勧めること、証しすることはしましたでしょう! 神学書を書く事自体が、そのような行為ではないでしょうか?

門叶 国泰 具体的に、(諸国民などという大きなことではなく)家庭内伝道に思いを馳せています。子供たちには配偶者がおり、配偶者には夫々の家族がおります。伝道とは、背中を見せることだけか、最後の伝道は死の時か、証しとは!

文屋 善明 日本にはいろいろなバルティアンがいます桑田秀延、菅円吉、滝川克己、井上良雄、小川圭治等々、それぞれが自分流のバルティアンで、ここにもう一人、佐藤優が登場したというわけです。わたしは若い頃からバルトには魅力を感じながら、バルトには距離を保って来ました。といって、ブルンナーも好きになれず、修士論文ではティリッヒを取り上げました。という訳でどうしても「哲学的、普遍的立場」を取ってきました。

文屋 善明 門叶さん、日本人にとってキリスト教とは「個人主義」のテキストであり、キリスト教に接することによって「家」から独立したという経緯がありますからね。日本のキリスト者にとって宗教とは個人のものという意識があります。

二上 英朗 まことに、イエスさまが「家庭に剣をもたらした」は真実ですね。ユダヤの2000年前においても。まして、現代の日本においてもや。

Akira Ueda Licht und Kraftは「生き残ったもの」が少数であることを前提に、しかしそのロウソクの炎のように小さなものが世界を照らす、と言っています。

大岩 正己 そんな時代でしたね。ぼくは個人的には、R. ニーバーに引かれましたね。

石井 良則 おおむかしは一家、一村?

文屋 善明 そういう状況の下でキリスト教が入っていくためには、「個人主義的信仰」を強調せざるを得なかったのだと思います。しかし、旧約聖書にせよ、新約聖書にせよ、欧米の教会にせよ、キリスト教はほとんど常に「家庭の宗教」あるいは種族の宗教として機能していたのだと思います。そこが、どうしても日本における宣教がもう一歩踏み込むためのエネルギーが不足する原因だと思います。

日々の聖句2013 04月13日(土)
主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。(詩31:24)
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。(1コリ13:6)
私の黙想:
「愛せよ」という命令文に引っかかる。「主の慈しみに生きる人」が主を愛さないということがあるのだろうか。いろいろ調べてみると、問題はそちらではなく前の方にあった。他の翻訳では「聖徒たちよ」とか「忠実な者よ」であった。それなら十分にあり得る。全ての聖徒必ずしもヤハウェを愛している訳ではないし、全ての「忠実な僕」が主を愛している訳ではない。経営陣に不満を持つ社員もいるし、反体制的な公務員もいる。お互いに不平、不満を言い合い、憎しみ会う夫婦もいるかも知れない。同じように、神を愛していない、あるいは愛することが出来ないキリスト者もいるだろう。「恐怖に襲われて、わたしは言いました。『御目の前から断たれた』と」(23節)。人間の愛は持続しない。23節の「それでもなお」が重要。それでもなお、愛し愛される「関係」は崩れない。

日々の聖句(今日のローズンゲン 2013-04-13)
今日のローズンゲンは、詩編31:24です。新共同訳「主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。」
字句分析:(1)新共同訳が「主の慈しみに生きる人」と訳した箇所の直訳は「his pious ones(BDB)」である。よって、口語訳・新改訳は「聖徒」と訳している。(2)関根正雄は「[主を愛せよ]という言い方は旧約では比較的珍しい」という。しかし、小林和夫はこの表現の例として、「詩編26:8、119:47、申6:5、10:12」をあげている。特に、申6:5「シェマー イスラエル」は最重要律法、関根正雄は何を指摘しているのだろうか?
対する新約はⅠコリント13:6「愛は不義を喜ばず、真実を喜ぶ。」

文屋 善明 小林和夫さんの引用箇所4箇所を検討しましたが、詩編の2箇所は直接に「主を愛せよ」ではなく、「主の戒め)等、間接的であり、申命記の2箇所はシェマーとの関連です。いわば「建前論」です。その意味では旧約聖書において「直接的に」主を愛するということには内面性が要求されているように思います。聖徒が主を愛するのはいわば当然のこと、時には建前論になります。それに対して詩31:24は内面的な愛を語っているように思います。

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