ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

ティリッヒにおける宗教的象徴の意義──組織神学の根拠について──(5)

1968-03-05 13:11:31 | 論文
第2部 組織神学成立の根拠

第1章 現代における組織神学への関心
この小論の課題は組織神学成立の根拠は何かということ、言いかえるならば有限存在である人間がいかにして無限存在である神を認識し、語ることが出来るか、ということである。
20世紀前半のプロテスタント神学を支配した弁証法神学は「神を語る」あらゆる人間の行為を自然神学の名をもって批判し、神学はただ「神が語る」神の言を「聞く」ことに関心を集中すべきであるとし、自らを「神の言の神学」と称した。このことは教会へ自己を啓示した神、つまりキリストへの関心の集中と普遍的な神への思惟の放棄を意味し、存在論的な組織神学は放棄せられ、神学はただ教会の学として実存論的なキリスト論にのみとどまる「教義学」であるとされた。
問題の所在を明きらかにするために、フォイエルバッハの次の言葉を引用する。
「ブロテスタンティズムは、もはやカトリシズムのように、神がそれ自身何であるかを心にかけず、それが人間にとって何であるかを問題とする。だから(中略)プロテスタンティズムはもはや神学ではなく、本質的にはキリスト論すなわち宗教的人間学にすぎない。」(1)
彼にとってこの言葉はプロテスタント神学に対する否定的意味を持つのではなく、むしろ肯定的意味を持っている。ここで直接意味せられているプロテスタント神学とはシュライェルマッヘルの神学であろう。しかし今日われわれがこの引用文を最後の語句を取除いて聞くならば、それはバルト神学に向けて語られていると考えても誤りではないように思う。もちろんバルト神学におけるこの最後の語句の除去という仕事は現代神学と近代神学とを分ける大事業であった。しかし「神の言の神学」におけるこの作業はプロテスタント神学を人間学化する危険からは救ったけれども、フォイエルバッハの指示している非神学的キリスト論化の道を進んでいることには変わりはない。
しかし20世紀後半のプロテスタント神学界にはすでに新しい関心の徴候が見られる。(註25)それは今後どのように展開していくかは確定的に予測することは出来ないが、少くとも現時点においては、今世紀前半を支配した「神の言の神学」において放棄せられた「神」への関心が高まっているように思う。
そこでまずすべての時代の転換期にありがちな、極端なそして否定的な主張を持つ「神の死の神学」をとりあげて問題の方向を明きらかにしたいと思う。
「神の死の神学」はそのセンセーショナルな名称の故に多少ジャーナリズムに騒がれすぎている傾向はあるが、現代神学の問題の中心を突いていると思われる。それを取りあげる理由は上のことの外に、「神の死の神学」側においてティリッヒをその神学の「父」と考えているからである。
この新しい神学の共通の問題意識を次のように要約することが出来るであろう。
キリスト教信仰はイエス・キリストの出来事に基づいて成立している。古代の神話的世界においてはそれは神との関連において理解された。もはや神話を信ずることの出来なくなった現代の「成人した世界」においては「神」という語は何の意味も持っていない。20世紀前半の神学においては「神」はただキリスト論の前提にすぎない。(註24)教会としての教義学においてはその前提は許容せられるかも知れないが、その信仰が教会の外の世俗社会においても受け入れられるためにはその前提を取除き、「神」との関連なしにイエス・キリストを語るべきであり、それは可能である。このような問題意識と確信とをもって、彼らは思い切って「神の死」を宣言し、神学の世俗化をめざすのである。
現在のところ、この新しい神学はヴァンピューレン、アルタイザー、W・ハミルトンの3人によって代表せられている。(註25)これらの神学者たちは共通の課題と共通のスローガンを持ってはいるが、「神の死」という表現によって意味せられていることには相当の相違がある。カウフマンはこの神学をヴァンピューレンによって代表せられる「キリスト教無神論」と、アルタイザーによって代表せられる「ポスト・キリスト教有神論」の2つに分けている。(2)ここではその分類に従って、ヴァンピユーレンとアルタイザーの考え方を取りあげる。
ヴアンピューレンはバルトのもとでカルヴァンの和解論を研究し、「われわれの場所に立つキリスト」(5)を著わすことによって最優秀賞と共に学位を与えられた。パルト神学から出発した後、分析哲学の決定的影響のもとに、ブルトマンの神概念を分析し、客観的でもなく主観的でもない「何か」を指示する「神」という語の意味は空虚であると考える。そこで彼はバルトやブルトマンを否定するのではなく、むしろそこにとどまってただこの無意味な「神」という語の放棄を主張するのである。彼にとって「神の死」とは神の存在の有無の問題ではなく、「神」という言葉の死を意味している。この点までの彼の主張はいかに急進的表現を取っているにしても「神の言の神学」の枠内にあるのであり、むしろそれを徹底しているとみなすことが出来る。
しかしここに一つの問題がある。組織神学への関心の強い彼は神学をただ教会の学にとどめて置くことで満足出来ず、文化の領域の中で神学を構築しようとする。そのときにどうしても「神」を問題とせざるを得ない。そこで彼は否定的に「神」を問題とする。それが彼の「神の死の神学」である。
次に「神の死の神学」のもう一人の代表者であるアルタイザーの考え方を考察する。
彼はシカゴ大学にてエリアーデのもとに宗教学を専攻し、ティリッヒに決定的影響を受けて神学へ転向した。彼は彼の神学をティリッヒ神学の延長であると考え、ティリッヒを「現代の急進的神学の父」(4)と呼んでいる。
彼が「神の死」という表現で意味していることは伝統的には「神の受肉」と呼ばれて来た事柄にほかならない。彼は宗教を聖と俗との緊張の中で考え、東洋的神秘主義の諸宗教は聖と俗との対立を俗を否定することによって、聖俗の分裂以前の「原初的統一性」(5)に還る後向きの運動であるとみなし、本来のキリスト教は世俗化の究極的終局(6)をめざす預言者的信仰であり終末論的運動であると考える。ところが伝統的キリスト教は過去の聖なる時の「想起」(7)を中心とする祭儀的あるいは祭司的宗教となり、東洋的神秘主義の諸宗教と異ならない後向きの運動となっている。その結果キリスト教は独自性を喪失している。そこでキリスト教は従来の過去的な受肉理解を改めて、受肉を現在的に理解して「原始的聖の死、つまり神自身の死」(8)を宣告すべきである。神はもはや現実的世俗世界と関係のない聖なる超越的世界に存在するのではな<、世俗世界の中におられる。キリスト者はイエスにおいてそのような神を経験しているのである。故に「イエスは神である」という告白は無意味であり、「イエスである神」(9)への信仰を告白すべきである。
ここで注目すべきことは聖と俗とが同一化されていることである。これに対してティリッヒは「神の死の神学」において聖が俗に完全に吸収せられていると批判する。(1O)
「神の死の神学」には共通して世俗社会へのこびがあるように思う。そこでは「神」に代って「世俗」が支配している。そしてその結果、宗教はその独自性を失い、シュライエルマッヘル以前の状態に戻ってしまう。根本的な誤りの原因は彼らの宗教理解にある。ティリッヒは言う。「彼らは魔術や占星術を拒絶するのと同じ仕方で宗教そのもの、つまり神観そのものを拒絶している。」(11)
ヴァンピューレンがバルト神学の立場に立ってティリッヒの問題意識を展開している実例であるとするならば、アルタイザーはティリッヒの立場に立ってバルトとは反対の方向へ展開したにもかかわらず、結果的にはバルトの立場に非常に接近した実例であると考えることが出来る。アルタイザー自身、彼の立場がバルトに非常に近いことを意識している。(12)アルタイザーのそのような結果の原因は彼のティリッヒ評価に基づいている。彼は真のティリッヒは革新的なティリッヒであると言う。(13)ティリッヒの神学には常に保守的な面と革新的な面とが同時に存在するのであって、どちらかを真のティリッヒであるとするのは誤りであろう。確かにティリッヒの中には「神の死の神学」のモチーフと同じものが存在する。例えば彼は伝統的な「神」という語の代りに「存在そのもの」という語を用いて、伝統的な有神論を批判し、「神」は「存在」ではないと言う。また世俗文化に対する関心は強く、彼のめざす神学は「文化の神学」である。しかしそれらは決して神の拒絶でもなく、文化即啓示でもない。むしろそれは「存在」から分離した神や、世界史から遊離した救済史を考えることを拒否するのである。その意味で彼は古い信仰の擁護者である。ただ彼はその古い信仰を今日の状況の中で再解釈するのである。

(1) Feuerbach,Ludwig: Grundsatze der Philophie der Zukunft, 1843 松村一人・和田楽共訳 『将来の哲学の根本命題』 岩波文庫 1967 p.8
(2) Hodgson,P.C.:The Death of God and the Crisis in Christology, Journal of Religion,Vol.46 No.4, 1966 p.446
(3) "Christ in Our Place"
(4) Altizer,T.J.J.:The Gospel of Christian Atheism, Westminster, Philadel.1966 p.10
(5) "a primordia1 Totality" Ibid., p.54
(6) "a future and final End" Ibid., p.35
(7) "anamnesis" Ibid., p.35
(8) "the death of the original sacred,the death of God himself", Ibid., p.54
(9) "the God who is Jesus", Ibid., p.62
(10) Tillich,P.:The Future of Religions, 1966 p.83 ( 以下Future. と略す)
(11) Ibid., p.82
(12) Hodgson,P.C.:Ibid., p.447
(13) Altizer,T.J.J.: Ibid., p.10

最新の画像もっと見る