ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 8/21~27

2011-08-28 06:30:08 | ローズンゲン
今日のローズンゲン 8月21日(日)
主は剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。(サムエル上17:47) わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。(ルカ22:27)
私の黙想
ゴリアテとの一騎打ちの場面である。「剣や槍」は不要であったが「石投げ紐」を持っていた。原子力に対して再生可能エネルギーで戦う。強力な軍事力に対して言葉と国際協力という平和外交で戦う。

今日のローズンゲン 8月22日(月) 
見よ、わたしは苦しみの炉でお前を試みる。(イザヤ48:10)
一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われるとたちまち、重い皮膚病は清くなった。(マタ8:2-3)
私の黙想
今日のローズンゲンは苦難の意味と目的について、「炉で鍛える」というが、「銀としてではない」と付け加える。(ローズンゲンでは省略している)。じゃ、なぜか。素材の値打ちの故ではなく、ただ民族を内部から民族を破滅させる不純物を取り除くためである。わが国を破滅させる不純物とは何だろう。

今日のローズンゲン 8月23日(火)
万軍の神、主よ、わたしたちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、わたしたちをお救いください。(詩80:20)
私達の主イエス・キリスト御自身、ならびに、私達を愛し永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えて下さる、父なる神が、あなた方の心を励まし、強め、常に善い働きをし、善い言葉を語る者として下さるように。(2テサロニケ2:16-17)
私の黙想: 「万軍の神」という表現にひっかかる。旧約聖書の神の原型は「万軍を率いて戦う神」なのだ。「軍神八幡様」だ。他国を征服し「私達を守り、祝福する神」である。「万軍の神」が味方なのに、何故イスラエルは滅ぼされたのか。その疑問が不信仰にならない不思議。

これについて、@godlitespeed さんから次のような返信をいただきました。
<「万軍の神」は私も引っかかっていて、結局「天使軍の神」としています。一時期、聖典の登場する星、星座についてばかり翻訳していた時に、これは天空の星星を軍に見立てた表現だろう、と勝手に解釈するに至りました。如何でしょうか?>
その後、さらに@godlitespeed さんから次のようなコメントをいただきました。
<また一つヒントを頂きました。ヘブライ聖典の成立時期からみると、多分アモス預言書にツァバオートが登場するのが初ではないかと思います。トーラーが文書化されるのはそれより時代が下りますから、伝承口伝と成文の差とか、ギリシア神話の影響とかいろいろ考えなければなりませんね。>
それに対する私の返信。<ありがとうございます。私もあれから「万軍の神」の用例を調べてみました。不思議なことにこの用語は五書には見られず、おそらく捕囚期以後の概念であろうと予想されます。そうするとこの概念は彼らにとっても「大昔の神」で、神話的表現であったように思われます。>

今日のローズンゲン 8月24日(水):
ヨセフは、兄たちを慰め、優しく語りかけた。(創世記50:21)
だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。(ロマ12:17)
私の黙想: 兄たちは「人を介して」(16節)、父親の遺言としてヨセフに迫る。しかしヨセフは「言われたからした」のではないということが重要である。何でもパウロのように「倫理化」してしまっては、ヨセフの兄弟たちに対する真情が虚しくなってしまう。

今日のローズンゲン 8月25日(木):
翼を広げた鳥のように、万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。これを守り、助け、かばって救われる。(イザヤ31:5)
今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。(ロマ5:9)
私の黙想: 「万軍のヤハウェ」の加護は「エルサレムの上に」ある。神殿信仰の極地。だから「神殿に住む」ことに憧れる。しかし、その神殿もやがて壊滅する。従って神殿崩壊のショックは大きい。日本における「国体(天皇制)」崩壊以上のものであろう。

今日のローズンゲン 8月26日(金) :
彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられた。(イザヤ53:5)
イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。(ロマ4:25)
私の黙想: 「謎の人物」は謎のままにしておく。それにしても「彼」が懲らしめられることによって、私たちに平和が与えられるという思想はユニークである。「身代わりの懲罰」ということが古代ユダヤ人の生活の中で、どういう場面で行われたのであろうか。母親が子供の身代わりになって、刑罰を受けて、子供が赦されるというようなことが、実際にったのだろうか。

今日のローズンゲン 8月27日(土)
エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。(ミカ5:1)
「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。(ルカ2:15)
私の黙想
これはまた困ったテキスト。どうしたってクリスマス物語と絡んでしまう。このテキストが預言者の言葉であることには違いない。ということは逆に、イエスのメッセージから類推して、誕生物語を「ベツレヘム」の出来事と結びつけた聖書学者がいたのであろう。初代教会にはすごい聖書学者がいたものだ。その人の判断は正しい。普通、人間はその人が一生をかけて語るメッセージと誕生の場所とは関係ないものである。

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