今週のローズンゲン 2016/04/24~04/30
2016 日々の聖句 04月24日(日)
彼らは泣きながら帰って来る。わたしは彼らを慰めながら導き、流れに沿って行かせる。彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。わたしはイスラエルの父となる。(Jer.31:9)
今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。(Jh.16:22)
私の黙想:
今日の聖句、美しい。描かれている情景が美しい。最後の「父となる」という言葉が特に印象的である。この父は弱くてだらしのない父ではない。力強く、頼りがいのある父である。口語訳、フランシスコ会訳では「父である」。新改訳は面白い「わたしはイスラエルの父となろう。エフライムはわたしの長子だから」、なかなか含蓄がある。友人、松浦君の訳では「私はイスラエルに対して父となったし、エフライムは私の長子であるからだ」。
誰かが誰かの父であること、あるいは父になることは何によるのであろうか。息子が息子であることが先か、父が父であることが先か。いろいろなケースが考えられる。母子関係と違って父子関係は難しい。そこに「運命的な必然」と同時にそれ以上に意志と決断とが介入する。私たちが「父なる神」と唱えるとき、それがどれ程大きなことか、考えさせられる。
2016 日々の聖句 04月25日(月)
思い起こせ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはいない。わたしは神であり、わたしのような者はいない。(Isa.46:9)
万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストによって万物もわたしたちも存在しているのです。(1Cor.8:6)
私の黙想:
「思い起こせ、初めからのことを」。「初めからのこと」といっても、どこからのことか。初めの方に遡れば遡るほど、曖昧になり「思い起こすこと」が少なくなり、曖昧になる。ハッと気が付けば「今のこと」になる。口語訳だと「いにしえよりこのかたの事をおぼえよ」で、過去の歴史を勉強せよという意味になり、これなら納得する。フランシスコ会訳では「以前から、先に起こったことを覚えよ」で、注釈に1章から33章の預言のことと思われるとし、それはいまや大部分成就されたと説明している。新改訳では「遠い昔のことを思い出せ」と訳している。つまり、ここでは自分たちが経験したことというよりも、民族が経験した過去の歴史、とくに自分たちの民族に対する神のお取り扱いを思い起こせ、という意味であろう。自分自身はまだ経験していないが、先祖たちが既に経験したこと、ここでは特に神による約束の成就で、だからこれからのこと、将来のことにおいて私たちが経験するであろうことを語る。
歴史に学ぶということは大切である。歪められた歴史は将来について歪められたイメージをもつ。
2016 日々の聖句 04月26日(火)
神はわたしの道を見張り、わたしの歩みをすべて数えておられるではないか。(Job.31:4)
神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。(Heb.4:13)
私の黙想:
倫理観の根本は絶対者に見られているということ。宗教なき倫理は怪しい。今日の聖句、ヨブは神に対して自分の潔癖さを主張している。1節の言葉が面白い。「自分の目と契約を結んでいる」。ここでは、契約の内容は「乙女に目を注ぐ」ということについてである。勿論ここで意味していることは、乙女をいやらしい目で見ない、ということであろうが、乙女を見ないということではなく「いやらしい目」で見ない。「いやらしい目」というのは「目」の問題ではなく、私の内面にひそむ「邪心」「野獣の目」である。そのことを「目との契約」という表現は面白い。
「目」は外部の情報を取り入れる機能であると考えられるが、実は「受け入れる」だけではなく、「発信」もする。つまり、内側にあるものを外側に現す。
マタイ5:29に恐ろしいことが書かれている。「 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」。「目」とは私が躓かないために道路の状況を「見る」機能であるが、その「目」が逆に私を躓かせるとしたら目の機能(責任)を果たしていない。そんな「目」は抉り出してしまえという。この話が人体に関することだから、恐ろしい話しになるが、社会的機能としての種々の「センサー」、それらの働きによって私たちの生活は安全に守られている。そのセンサーが歪められたり、機能不十分であるならば、直ちに破棄するか修繕しなければならない。そこには私たちとセンサーとの間に一種の「契約関係」がある。
今日の聖句では、「神」が「わたしの道」を見張っているセンサーだという。「神よ、わたしの道をしっかりお守りください」。
2016 日々の聖句 04月27日(水)
夢や空想が多いと饒舌になる。神を畏れ敬え。(Ecc.5:6)
愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。(Tit.3:9)
私の黙想:
今日の聖句、どう理解したらいいのだろう。前半は前半で成る程と納得する。後半は後半でやはり納得する。ところがこれらが並ぶと、何かアンバランスな感じがする。とにかく、コヘレトの言葉はバシッと決める言葉と、ニヤニヤ笑いながら皮肉る言葉とが混在している。「神を畏れ敬う」人は、コヘレトの言葉などに心を惑わされてはならない、というアイロニーか。
12:9以下のところに、コヘレト自身がコヘレトの言葉についての記した「裏話」がある。
<コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた。多くの格言を吟味し、研究し、編集した。コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとした。
賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した。
それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。>
どうですか、この覚めた裏話。そして、最後の「一言」が効いている。
<すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。>
昔の訳ではこうなっていた。「事の全体の帰する所を聴くべし。曰く、神を畏れその誡命を守れ、これすべての人の本文たり。神は一切の行為ならびに一切の隠れたることを善悪共に審判給うなり」。この最後の「一言」こそ、私の父の愛唱聖句でした。
2016 日々の聖句 04月28日(木)
主よ、わたしは貧しく身を屈めています。わたしのためにお計らいください。(Ps.40:18)
イエスは五つのパンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。(Mk.6:41~42)
私の黙想:
今日の聖句、かなり格好が悪い。相手が神だから、仕方がないとは思うが、信仰とはそんなものだろうか。こういう信仰者の姿を見てニーチェは吐き気をも様子のであろう。人間は確かに無能だし、神に寄らなければ一日たりとも生きられないが、少なくとも生きている間は、背筋を伸ばして神の前に立ちたいものだと思う。口語訳では「わたしは貧しく、かつ乏しい。しかし主はわたしをかえりみられます」この訳でいいではないか。「顧みる」、人間に対する神の姿勢は「顧みる」。真っ正面から見つめるのでもなく、上から見下ろすでもなく、厳しい目で見定めるでもなく、何かがあったら、その気配を感じて振り返って見る。
イエスが先頭を歩いてい居られる。その後ろから少し離れて弟子たちが歩いている。弟子たちは弟子の中で誰が一番偉いのかなどとつまらない議論をしている。イエスはその気配を知りながら黙って歩いている。宿に着いてからイエスは弟子たちに問う、「途中で何を議論していたのか」(Mk.9:33)。神と人間との関係はこれでいい。これが良い。アブラハムと神との関係をこんな関係であったと想像する。(Gen.22:1~19)。
2016 日々の聖句 04月29日(金)
神の言葉:わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。(Isa.57:16)
神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられました。(2Tim.1:9)
私の黙想:
正直に告白すると、日本人である「私」は神をそういう神として受け止める感覚が分からない。私にとって神はデーンと構えて居られて、私を見ているような見ていないような、しかし、いざという時には、確かに、何とはなしに助けてくださっている様な気がする。私にとって「神」とはそんな方です。今日の聖句のような神だとさぞ息苦しいことだろうと思う。
2016 日々の聖句 04月30日(土)
主はその民を御自分のひとみのように守られた。(Deut.32:10)
わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。(1Jh.4:16)
私の黙想:
「ひとみのように」守る。一瞬で守る。「一瞬き(ひとまばたき)」、と「瞳のように」。確かに、目を瞳は一瞬きで守る。それは決して瞳を守っているのではない。瞳が目を守っているのである。この句はその速さを述べているのであろう。
しかし、考えてみると何らかの危険に面して瞳が目を守るということは、その「瞬間」眼を閉じることになる。危ない「め」にあったときは、眼を閉じてはならない。しっかり危険な対象を見定める必要がある。ところが人間は本当に危険なめに会うと、眼を閉じてしまう。見えなくなれば、危険がなくなるかのように。
2016 日々の聖句 04月24日(日)
彼らは泣きながら帰って来る。わたしは彼らを慰めながら導き、流れに沿って行かせる。彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。わたしはイスラエルの父となる。(Jer.31:9)
今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。(Jh.16:22)
私の黙想:
今日の聖句、美しい。描かれている情景が美しい。最後の「父となる」という言葉が特に印象的である。この父は弱くてだらしのない父ではない。力強く、頼りがいのある父である。口語訳、フランシスコ会訳では「父である」。新改訳は面白い「わたしはイスラエルの父となろう。エフライムはわたしの長子だから」、なかなか含蓄がある。友人、松浦君の訳では「私はイスラエルに対して父となったし、エフライムは私の長子であるからだ」。
誰かが誰かの父であること、あるいは父になることは何によるのであろうか。息子が息子であることが先か、父が父であることが先か。いろいろなケースが考えられる。母子関係と違って父子関係は難しい。そこに「運命的な必然」と同時にそれ以上に意志と決断とが介入する。私たちが「父なる神」と唱えるとき、それがどれ程大きなことか、考えさせられる。
2016 日々の聖句 04月25日(月)
思い起こせ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはいない。わたしは神であり、わたしのような者はいない。(Isa.46:9)
万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストによって万物もわたしたちも存在しているのです。(1Cor.8:6)
私の黙想:
「思い起こせ、初めからのことを」。「初めからのこと」といっても、どこからのことか。初めの方に遡れば遡るほど、曖昧になり「思い起こすこと」が少なくなり、曖昧になる。ハッと気が付けば「今のこと」になる。口語訳だと「いにしえよりこのかたの事をおぼえよ」で、過去の歴史を勉強せよという意味になり、これなら納得する。フランシスコ会訳では「以前から、先に起こったことを覚えよ」で、注釈に1章から33章の預言のことと思われるとし、それはいまや大部分成就されたと説明している。新改訳では「遠い昔のことを思い出せ」と訳している。つまり、ここでは自分たちが経験したことというよりも、民族が経験した過去の歴史、とくに自分たちの民族に対する神のお取り扱いを思い起こせ、という意味であろう。自分自身はまだ経験していないが、先祖たちが既に経験したこと、ここでは特に神による約束の成就で、だからこれからのこと、将来のことにおいて私たちが経験するであろうことを語る。
歴史に学ぶということは大切である。歪められた歴史は将来について歪められたイメージをもつ。
2016 日々の聖句 04月26日(火)
神はわたしの道を見張り、わたしの歩みをすべて数えておられるではないか。(Job.31:4)
神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。(Heb.4:13)
私の黙想:
倫理観の根本は絶対者に見られているということ。宗教なき倫理は怪しい。今日の聖句、ヨブは神に対して自分の潔癖さを主張している。1節の言葉が面白い。「自分の目と契約を結んでいる」。ここでは、契約の内容は「乙女に目を注ぐ」ということについてである。勿論ここで意味していることは、乙女をいやらしい目で見ない、ということであろうが、乙女を見ないということではなく「いやらしい目」で見ない。「いやらしい目」というのは「目」の問題ではなく、私の内面にひそむ「邪心」「野獣の目」である。そのことを「目との契約」という表現は面白い。
「目」は外部の情報を取り入れる機能であると考えられるが、実は「受け入れる」だけではなく、「発信」もする。つまり、内側にあるものを外側に現す。
マタイ5:29に恐ろしいことが書かれている。「 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」。「目」とは私が躓かないために道路の状況を「見る」機能であるが、その「目」が逆に私を躓かせるとしたら目の機能(責任)を果たしていない。そんな「目」は抉り出してしまえという。この話が人体に関することだから、恐ろしい話しになるが、社会的機能としての種々の「センサー」、それらの働きによって私たちの生活は安全に守られている。そのセンサーが歪められたり、機能不十分であるならば、直ちに破棄するか修繕しなければならない。そこには私たちとセンサーとの間に一種の「契約関係」がある。
今日の聖句では、「神」が「わたしの道」を見張っているセンサーだという。「神よ、わたしの道をしっかりお守りください」。
2016 日々の聖句 04月27日(水)
夢や空想が多いと饒舌になる。神を畏れ敬え。(Ecc.5:6)
愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。(Tit.3:9)
私の黙想:
今日の聖句、どう理解したらいいのだろう。前半は前半で成る程と納得する。後半は後半でやはり納得する。ところがこれらが並ぶと、何かアンバランスな感じがする。とにかく、コヘレトの言葉はバシッと決める言葉と、ニヤニヤ笑いながら皮肉る言葉とが混在している。「神を畏れ敬う」人は、コヘレトの言葉などに心を惑わされてはならない、というアイロニーか。
12:9以下のところに、コヘレト自身がコヘレトの言葉についての記した「裏話」がある。
<コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた。多くの格言を吟味し、研究し、編集した。コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとした。
賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した。
それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。>
どうですか、この覚めた裏話。そして、最後の「一言」が効いている。
<すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。>
昔の訳ではこうなっていた。「事の全体の帰する所を聴くべし。曰く、神を畏れその誡命を守れ、これすべての人の本文たり。神は一切の行為ならびに一切の隠れたることを善悪共に審判給うなり」。この最後の「一言」こそ、私の父の愛唱聖句でした。
2016 日々の聖句 04月28日(木)
主よ、わたしは貧しく身を屈めています。わたしのためにお計らいください。(Ps.40:18)
イエスは五つのパンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。(Mk.6:41~42)
私の黙想:
今日の聖句、かなり格好が悪い。相手が神だから、仕方がないとは思うが、信仰とはそんなものだろうか。こういう信仰者の姿を見てニーチェは吐き気をも様子のであろう。人間は確かに無能だし、神に寄らなければ一日たりとも生きられないが、少なくとも生きている間は、背筋を伸ばして神の前に立ちたいものだと思う。口語訳では「わたしは貧しく、かつ乏しい。しかし主はわたしをかえりみられます」この訳でいいではないか。「顧みる」、人間に対する神の姿勢は「顧みる」。真っ正面から見つめるのでもなく、上から見下ろすでもなく、厳しい目で見定めるでもなく、何かがあったら、その気配を感じて振り返って見る。
イエスが先頭を歩いてい居られる。その後ろから少し離れて弟子たちが歩いている。弟子たちは弟子の中で誰が一番偉いのかなどとつまらない議論をしている。イエスはその気配を知りながら黙って歩いている。宿に着いてからイエスは弟子たちに問う、「途中で何を議論していたのか」(Mk.9:33)。神と人間との関係はこれでいい。これが良い。アブラハムと神との関係をこんな関係であったと想像する。(Gen.22:1~19)。
2016 日々の聖句 04月29日(金)
神の言葉:わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。(Isa.57:16)
神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられました。(2Tim.1:9)
私の黙想:
正直に告白すると、日本人である「私」は神をそういう神として受け止める感覚が分からない。私にとって神はデーンと構えて居られて、私を見ているような見ていないような、しかし、いざという時には、確かに、何とはなしに助けてくださっている様な気がする。私にとって「神」とはそんな方です。今日の聖句のような神だとさぞ息苦しいことだろうと思う。
2016 日々の聖句 04月30日(土)
主はその民を御自分のひとみのように守られた。(Deut.32:10)
わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。(1Jh.4:16)
私の黙想:
「ひとみのように」守る。一瞬で守る。「一瞬き(ひとまばたき)」、と「瞳のように」。確かに、目を瞳は一瞬きで守る。それは決して瞳を守っているのではない。瞳が目を守っているのである。この句はその速さを述べているのであろう。
しかし、考えてみると何らかの危険に面して瞳が目を守るということは、その「瞬間」眼を閉じることになる。危ない「め」にあったときは、眼を閉じてはならない。しっかり危険な対象を見定める必要がある。ところが人間は本当に危険なめに会うと、眼を閉じてしまう。見えなくなれば、危険がなくなるかのように。