ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/10/04~10/10

2015-10-10 13:36:38 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/10/04~10/10

2015日々の聖句 10月04日(日)
どうか、この僕の願いにも、あなたの民イスラエルの願いにも御目を向け、いつあなたに呼びかけても彼らに耳を傾けてください。(列王上8:52)
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。(マタイ7:7)
私の黙想:
先代のダビデ王から託された神殿建築が無事に終わり、契約の箱等宝物も搬入され、国中喜びの落成式におけるソロモン王の祈りの一節である。この言葉に神殿の意義が込められている。神殿こそが神の臨在の象徴であり、祈りの場である。
神殿がなくても神はいつも民を見守り、民の祈りに耳を傾けている。その関係は神殿の有無に関係ない。しかし人間には神殿が必要なのである。その神人関係を形象化したモノが必要なのが人間である。と同時に、それは偶像化の一歩手前でもある。この微妙な紙一重のトコロに宗教がある。
今日は主日、人間にとって、教会に集って神を讃美し、神に祈る場所が与えられていることを感謝する。たとえそれがどんなに貧弱であっても、そこは神との交わりのトコロである。

2015日々の聖句 10月05日(月)
わたしたちの神は、その呪いを祝福に変えてくださった。(ネヘミヤ13:2)
つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。(2コリント5:19)
私の黙想:
エズラとネヘミヤ、バビロン捕囚後のイスラエル再建の二人の英雄。エズラは宗教家(祭司)としてネヘミヤは政治家(総督)として。
今日の聖句は、その再建の苦闘の中で、つまり最も苦しい状況にあるとき、イスラエルを助けず、かえって呪った者(アンモン族とモアブ族)は神によって呪われ、イスラエルが受けたその時の呪いは神によって祝福に変えられる。個人間であれ、民族間であれ、相手が弱っているとき、苦しいときに助けるのは人間として当然のこと。それを逆に、攻め、苦しみを増すような行為は赦されない。
日本が地震と津波で、最も協力が欲しいとき、助けてくれた友好国を敵国として想定するような姿勢は最低。今、難民問題を考える。この時、内は今忙しいからと言って、難民に難民が最も必要とする「住むところ」を提供できない民族は呪われる。

2015日々の聖句 10月06日(火)
主はこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。(アモス5:4)
そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとした。(ルカ19:2~3)
私の黙想:
ローズンゲンの聖句の選びからが少し変わったように思う。例えば、今日の聖句、間接目的語の「イスラエルの家に」をカットしている。そのために、今日の「主の言葉」は時代的・状況的文脈から独立して人類に普遍的な命題となる。今日の黙想はそれに乗ってみることとする。「神を求める」ということと「生きる」ということが、直結している。神を求めることなしには人間は生きられない。いや、生きていても、生きていることにならない。この言葉は、生きている者に対する言葉ではなく、「生きていない者」への「神を求めよ」というメッセージである。神を「手に入れたら」人間は「生きる者」になるというのではない。「神を求める」ということ、まさにそのことが「生きる」ということに繋がる。神を求めないということは、自ら「死」を選ぶことになる。まさに自己が「生きる」か「死ぬ」かの分岐点が「神を求める」ということにかかっている。つまり、そのことが一つの、そして明確な「裁き」である。
ヨハネ福音書では、「神の言葉」、「生きるということ」「裁きということ」について次のように「はっきり」言っている。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである」(ヨハネ5:24~27)。

2015日々の聖句 10月07日(水)
翼を広げた鳥のように、万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。これを守り、助け、かばって救われる。(イザヤ31:5)
もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。(ロマ8:31)
私の黙想:
今日の聖句から名古屋城の有名な金の鯱(しゃちほこ)を連想する。エルサレムの城にもシャチホコがあったのだろうか。ただ単なる万軍の神の守りをイメージ化しただけなのだろうか。これは新共同訳によって引き出された連想。口語訳では「鳥がひなを守るように、万軍の主はエルサレムを守り」でここからは、母鳥の羽の下で安心しきっている雛鳥を想像する。フランシスコ会訳では「宙を旋回する鳥のように」で、ここでは軍用機がスクランブルする情景を思う。まさかイザヤの時代に戦闘機など亡かったので、新改訳では「飛びかける鳥のように」と訳している。
一寸した訳語の選択によって、読者はその言葉からさまざまなイメージを描く。この句の直前の「万軍の主は、そのようにシオンの山とその丘の上に降って戦われる」(4節後半)という言葉の「そのように」を受けているのであろう。ここでは「落下傘部隊」のようなイメージだ。いずれにせよ、戦争が背後にある。闘うのはヤハウェであって、「私たち」ではない。

2015日々の聖句 10月08日(木)
主は言われた。わたしが喜ぶのは愛であって、いけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。(ホセア6:6)
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。(ロマ12:9~10)
私の黙想:
今日の聖句はイエスの思想、新約聖書の思想に直結する旧約聖書の根拠(ルーツ)である。この一連の句は「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし我々を打たれたが、傷を包んでくださる」という言葉で始まる。預言者ホセア自身は前750年ころ、北のイスラエルで活動したが、ホセア書自体はかなり後期の編纂によるので、この言葉が語られたのは何時のころか不明。いずれにせよ、神殿祭儀がかなり定着し、形骸化した時代の預言であろう。イスラエルの歴史を考えると、民族的堕落が頂点に立ったとき、預言者たちにより宗教(神との関係)の神髄が語られる。このことは、ある意味で、人類史的には面白ことであるかも知れない。日本の歴史においても、軍国主義が頂点に立った置き、敗戦を経験し、人類史上稀に見る高度な「(国際)平和主義」が生まれた。

2015日々の聖句 10月09日(金)
主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富み、くだした災いを悔いられるからだ。(ヨエル2:13)
あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。(ヤコブ5:11)
私の黙想:
ヨエル書の執筆年代は不明。それを判定するのが、今日の聖句にある、ヤハウェの「思い直し」の思想。この思想を中心に据えた預言書がヨナ書より以前のものであろう。ヨナ書は智恵文学に近く、年代は前5~4世紀と見られる。いずれにせよ、捕囚後の作品。イスラエルにおいては捕囚とその解放をとおして、神の「悔い改め」の思想が定着したと思われる。この思想は、新約思想にも通じる偉大な「発見、経験」である。神は、神自身において、絶対ではない。捕囚中に編纂された律法の書(トーラー)においては、一旦決定された神の決定は絶対・不変であると信じられていた。そして、捕囚期を通してとくに捕囚からの解放という「想定外の経験」を通して神の思想に大きな変化がもたらされたのであろう。「思い直す神」という思想は、ただそれだけでは収まらない。本当の意味での「神の人格性」の根拠になる。神のパーソナリティはそのままイエスの神観に通じ、新約思想を生み出した。

2015日々の聖句 10月10日(土)
主はすべてを喪失した者の祈りを顧み、その祈りを侮られませんでした。(詩102:18)
まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。(ルカ18:7)
私の黙想:
この詩のタイトルに「貧しい人の詩」とある。この詩は貧しい人の祈りなのだ。その貧しさも極限的だ。人生において「すべてを喪失する」という経験はめったにあることではない。しかし、確かにそれはある。私も10歳の時それを経験した。家も家財道具も預貯金も仕事も一切合切、一瞬にして喪失するということがありうる。その時は、ただ人の情けだけが生きる頼りだ。その情けがどういう理由で、どういう企みによって与えられようと関係ない。とにかく、今、口に入れられるモノが与えられたら、嬉しい。「わたしはパンに代えて灰を食べ、飲み物には涙を混ぜた」(10節)。その時受けた人の情けは一生忘れられない。
古代イスラエルの民にとって、それは敗戦・捕囚の経験であった。
この詩を歌っている時点で、彼らはその時のことを回顧している。貧しい中で復興を目指して立ち上がっている。今日の聖句は、その時の経験を思い起こし語っている。
私の思いはシリア難民に向けられる。まさに、彼らは今、その状況に置かれている。誰が彼らの「祈り」を受け止めるのだろうか。この時、受けた情けは、そして非情は、一生忘れないであろう。「理屈」を言っている場合ではない。何が「正義」かなんて論じている状況ではない。ともかく、何をさておいても、難民状況に置かれている人に、安全な居場所と飢えをしのぐ食糧を届けなければならない。そこにメルケル首相と何とか首相との違いがある。

最新の画像もっと見る