今週のローズンゲン 2015/05/17~05/23
2015日々の聖句 05月17日(日)
モーセは主に言った。「お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください」。(出エジプト33:13)
羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。(ヨハネ10:3~4)
私の黙想:
どんなに偉大な指導者でも弱気になることがある。いや、偉大であればあるほど、自分の責任の大きさに押し倒されて、方向感覚を見失ってしまうことがある。今日のモーセがそれである。しかしモーセが真の指導者であることはその弱さを自覚し、また人々にもヤハウェにも隠さなかったことである。そしてモーセはひとり、民全員から離れ、「臨在の幕屋」に入りヤハウェの前に立つ。モーセの一の部下ヨシュアはモーセをひとりにさせるために天幕の前で番兵に立つ。非常に緊迫した雰囲気である。天幕の中では「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」(11節)という。これが今日の場面である。今日の聖句は、そのときかヤハウェに語った(友のように)モーセの泣き言である。しかし、これがモーセの本当の力であり、偉大さである。強さ一点張りが強いリーダーではない。リーダーには「ひとりで泣く場所」が絶対に必要である。
「ご好意」と訳されている言葉を口語訳は「恵み」、フランシスコ会訳、新改訳では「心にかなった」と訳している。文語訳では「めぐみ」という言葉に「恩」という漢字を当てている。要するに、出エジプトという大事業のためにモーセが「相応しい」、あるいは「その資格がある」と認めたのはヤハウェだというのである。いわば、それがヤハウェに対するモーセの「強み」である。
フッと変なことを考える。聖職者が聖職者であるということ、その人が聖職者としての任に堪えられるかどうかを、誰が決めるのだろうか。ペーパーテストで決められるのか。人間同士の「面接」で判定できるのか。それではその聖職者がその任に堪えられなくなって行き詰まったとき、どこに「ひとりで泣く場所」があるのか。わたしをその任に堪えられると認定したのはどなたですか、と誰に迫ったらいいのだろうか。
2015日々の聖句 05月18日(月)
打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。(詩51:19)
ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。(マタイ9:11)
私の黙想:
「悔いる心」と「侮る」、口語訳では「悔いる心」と「かろしめる」、フランシスコ会訳、新改訳では「さげすむ」。今日の聖句について、これ以上の黙想は出来ない。それで、「悔」と「侮」とを見比べて、あまりにもよく似ているのに驚く。「悔いること」「侮る」ということはそれ程似ているのだろうか。要するに「りっしんべん」と「にんべん」のちがいである。前者は「心」を意味し後者は「人」を意味する。「悔いる」ということは人間だけが(いや、例外的には神も)できる心の態度である。じゃぁ、「侮る」の方はどうか。これも似たようなものだ。神が何かを「侮る」ということがあるのか。本質的にはないであろう。いやない。神が「侮る」なんて聞いたこともないし、読んだこともない。だとすると、今日の聖句は「あり得ない」ことである。つまり、侮るのは人間的な、人間だけの行為である。つまり、屁理屈に屁理屈を重ねて、到達したところは「悔いる」ということは「侮られる」こと、侮られて当然のことなのだ。人間とは「侮られて当然の存在」、しかしその人間を「神は侮られない」。今朝は少し遊びすぎました。ああ、恥ずかしい。
2015日々の聖句 05月19日(火)
主はモーセに言われた。「わたしは同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。」(申命記18:18)
神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。(ヘブル1:1~2)
私の黙想:
申命記18章はレビ人、つまり祭司族に関するモーセへの指示である。語られている内容はなかなか面白い。ただし、レビ族とここで述べられている「預言者」との関係は明瞭ではない。その預言者は「レビ族出身者」なのか、そうではないのか。
話題は15節からレビ族のことから預言者のことに変わっているように見える。その辺りのことは「専門家」に任せて、今日の聖句の「あなたのような預言者」について、初代教会では、これをイエスに当てはめている。つまり、この句がイエスは「モーセのような預言者」であるとする貴重な根拠である。その預言者がホンモノかニセモノか。イエスが本当にヤハウェがモーセに約束された「預言者」なのか。それを見極める言葉が19節から22節に述べられている。この部分の「論理」がほとんどそのままヨハネ福音書におけるイエスが神から遣わされた者であるか否かの「証明」になっている。
私自身の興味は、この部分がほとんどそのまま、今日の聖職者の問題にあたはマルという点である。彼が語っていることが本当に「神の言葉」なのか否かをどう判定するのだろうか(21節)。その答えは、「主の何よって語って」いることが、実現しているか、どうか。言い換えると、聖職者が語っていることを聖職者自身が生きているかどうか。そうでなければ「それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない」(22節)。なんという厳しさであろう。
2015日々の聖句 05月20日(水)
遠い海、地の果てに至るまで、すべてのものがあなたに依り頼みます。(詩65:6)
あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられています。(コロサイ1:23)
私の黙想:
今日の聖句、これ自体は美しい言葉であるが、口語訳と比べてみると、対比できないぐらい違い、同じ原文の翻訳とは思えない。ポイントとなる部分はこうなっている「地のもろもろのはてと、遠き海の望みであるあなた」、文語訳では、「きわめて遠きものの恃みとする汝は」、フランシスコ会訳では「あなたは地の果てと遠い海のより所」、新改訳では「あなたは、地のすべての果て果て」となっている。このようにして翻訳文を並べて見ると、問題点が明らかになってくる。この文章は「あなたに寄り頼みます」ではなく、「全世界が寄り頼んでいるあなた」で、「あなた」に対する修飾語という構造になっている。なぜ、全世界の果て果てまでもが「あなた」に寄り頼んでいるのかということが前半の部分で、「あなたがなさった不思議な業」であり、その不思議な業が実はわたしたちすべてに対する「答えだ」というのがこの詩のポイント。その意味ではフランシスコ会訳と新改訳とが正確に訳している。「あなたは正義によって不思議を行い、わたしたちに答えられます。わたしたちの救いの神よ、あなたは地の果てと遠い海のより所」。新改訳では、この「不思議を行い」の部分を「恐ろしい事柄をもって」と訳しているが、その違いは、なかなか微妙である。いずれにせよ、神の行為は不思議で恐ろしい事柄である。
この詩における、この節のポイントは、そこではなく、これが「神の答え」だということである。神の業を神の答えとして受け止める。では、その答えは何という「問い」に対する答えなのだろうか。果たして、わたしたちは(私は)、いや人類は、神に対する「問い」があるのだろうか。問いに先行する神の答え、答えから「問い」を問う。答えのある問い。その答えを拒否する人間。私の黙想はまだまだ続く。
2015日々の聖句 05月21日(木)
あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。(詩32:8)
マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。(ルカ10:39)
私の黙想:
この詩の構造は1~7節までの「あなた(神)」と「わたし(詩人)」が、8~9節では逆になり、10~11節では詩人が第3者に呼びかける言葉になる。従って今日の聖句は神の詩人へのセリフである。7節までの部分でヤハウェと詩人とは「罪」を挟んで向かい合っている。そのときの「神の手」、毎日毎日、昼も夜も「重くのしかかっている」(4節)。とうとう我慢が出来ず、詩人は神に罪を告白する。この時の開放感は何ものにも代えられない喜びであった。それで8節、罪から解放された後からは、毎日毎日、昼も夜も、「神の目がわたしに注がれている」。「神の手」から「神の目」への変化、これがこの詩にポイントであろう。毎日毎日、朝、目が醒めると、神の目がわたしにその日になすべきことを勧めてくれる。わたしはただ神の声を聞き、それに従いさえすれば、日々を楽しく過ごすことが出来る。
究極、信仰者として生きるということは、こういうことであろう。
2015日々の聖句 05月22日(金)
あなたは主によって喜び躍り、イスラエルの聖なる神によって誇る。(イザヤ41:16)
主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。(フィリピ3:1)
私の黙想:
何の変哲もない「旧約聖書らしい」聖句である。ところが、この句の前後を見ると驚く。この直前には「虫けらのようなイスラエルよ」という激しい言葉、しかもそのイスラエルが 諸国民を裁く「鋭く、多くの刃をつけた打穀機」とされるという。脱穀機とは米や麦の収穫で、穂から実の部分を切り離す機械である。つまり有用な部分と無用な部分とを分けて、無用な部分を捨てる作業をする。つまり「裁きの機械」で、イスラエルが諸国民を裁く役割をするという。その作業を見てイスラエルは喜び踊り、聖なる神を自慢するらしい。
その民族、あるいはその人がそこに存在するということが、善人と悪人、17節によると富者と貧者とを切り分け、悪人を追放し、貧者を救済する。そういう役割をイスラエルの民は、誇りを持ってするのだという。
現在のユダヤ人たちも、この文書を読んで、そこにアイデンティティを見出しているのだろうか。
2015日々の聖句 05月23日(土)
あなたに望みをおく者はだれも、決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。(詩25:3)
あなたがたは、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。(1ペトロ1:8~9)
私の黙想:
「あなたに望みを置くもの」と「いたずらに人を欺く者」とが対比されているが、これはアンバランス(非対称)である。後者について口語訳では「みだりに信義にそむく者」、フランシスコ会訳では「むなしい言葉で裏切る者」、「ゆえもなく裏切る者」となっている。これで問題点が明白になった。新共同訳の非対称性の原因は「人を」という言葉が入っているからであるらしい。要するに、あなたを信頼している者は誰も恥を受けないが、あなたを理由もなく騙す奴は恥をかく、ということであろう。もう一つ、後半の言葉は「恥をかく」のではなく、「恥をかかせて下さい」という願望文である。神を騙すことが「恥程度」で済めばいいが。それでは済まないであろう。
旧約聖書に神を騙した預言者の話がある。ヨナ物語である。この時受けた「恥」は恐ろしい。嵐の海の中に放り込まれ、大魚に飲まれ、その胃袋の中で神に懺悔の祈りをしなくてはならない羽目になった。あの時、胃袋の中で祈らなければ、一巻の終わりであった。
2015日々の聖句 05月17日(日)
モーセは主に言った。「お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください」。(出エジプト33:13)
羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。(ヨハネ10:3~4)
私の黙想:
どんなに偉大な指導者でも弱気になることがある。いや、偉大であればあるほど、自分の責任の大きさに押し倒されて、方向感覚を見失ってしまうことがある。今日のモーセがそれである。しかしモーセが真の指導者であることはその弱さを自覚し、また人々にもヤハウェにも隠さなかったことである。そしてモーセはひとり、民全員から離れ、「臨在の幕屋」に入りヤハウェの前に立つ。モーセの一の部下ヨシュアはモーセをひとりにさせるために天幕の前で番兵に立つ。非常に緊迫した雰囲気である。天幕の中では「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」(11節)という。これが今日の場面である。今日の聖句は、そのときかヤハウェに語った(友のように)モーセの泣き言である。しかし、これがモーセの本当の力であり、偉大さである。強さ一点張りが強いリーダーではない。リーダーには「ひとりで泣く場所」が絶対に必要である。
「ご好意」と訳されている言葉を口語訳は「恵み」、フランシスコ会訳、新改訳では「心にかなった」と訳している。文語訳では「めぐみ」という言葉に「恩」という漢字を当てている。要するに、出エジプトという大事業のためにモーセが「相応しい」、あるいは「その資格がある」と認めたのはヤハウェだというのである。いわば、それがヤハウェに対するモーセの「強み」である。
フッと変なことを考える。聖職者が聖職者であるということ、その人が聖職者としての任に堪えられるかどうかを、誰が決めるのだろうか。ペーパーテストで決められるのか。人間同士の「面接」で判定できるのか。それではその聖職者がその任に堪えられなくなって行き詰まったとき、どこに「ひとりで泣く場所」があるのか。わたしをその任に堪えられると認定したのはどなたですか、と誰に迫ったらいいのだろうか。
2015日々の聖句 05月18日(月)
打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。(詩51:19)
ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。(マタイ9:11)
私の黙想:
「悔いる心」と「侮る」、口語訳では「悔いる心」と「かろしめる」、フランシスコ会訳、新改訳では「さげすむ」。今日の聖句について、これ以上の黙想は出来ない。それで、「悔」と「侮」とを見比べて、あまりにもよく似ているのに驚く。「悔いること」「侮る」ということはそれ程似ているのだろうか。要するに「りっしんべん」と「にんべん」のちがいである。前者は「心」を意味し後者は「人」を意味する。「悔いる」ということは人間だけが(いや、例外的には神も)できる心の態度である。じゃぁ、「侮る」の方はどうか。これも似たようなものだ。神が何かを「侮る」ということがあるのか。本質的にはないであろう。いやない。神が「侮る」なんて聞いたこともないし、読んだこともない。だとすると、今日の聖句は「あり得ない」ことである。つまり、侮るのは人間的な、人間だけの行為である。つまり、屁理屈に屁理屈を重ねて、到達したところは「悔いる」ということは「侮られる」こと、侮られて当然のことなのだ。人間とは「侮られて当然の存在」、しかしその人間を「神は侮られない」。今朝は少し遊びすぎました。ああ、恥ずかしい。
2015日々の聖句 05月19日(火)
主はモーセに言われた。「わたしは同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。」(申命記18:18)
神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。(ヘブル1:1~2)
私の黙想:
申命記18章はレビ人、つまり祭司族に関するモーセへの指示である。語られている内容はなかなか面白い。ただし、レビ族とここで述べられている「預言者」との関係は明瞭ではない。その預言者は「レビ族出身者」なのか、そうではないのか。
話題は15節からレビ族のことから預言者のことに変わっているように見える。その辺りのことは「専門家」に任せて、今日の聖句の「あなたのような預言者」について、初代教会では、これをイエスに当てはめている。つまり、この句がイエスは「モーセのような預言者」であるとする貴重な根拠である。その預言者がホンモノかニセモノか。イエスが本当にヤハウェがモーセに約束された「預言者」なのか。それを見極める言葉が19節から22節に述べられている。この部分の「論理」がほとんどそのままヨハネ福音書におけるイエスが神から遣わされた者であるか否かの「証明」になっている。
私自身の興味は、この部分がほとんどそのまま、今日の聖職者の問題にあたはマルという点である。彼が語っていることが本当に「神の言葉」なのか否かをどう判定するのだろうか(21節)。その答えは、「主の何よって語って」いることが、実現しているか、どうか。言い換えると、聖職者が語っていることを聖職者自身が生きているかどうか。そうでなければ「それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない」(22節)。なんという厳しさであろう。
2015日々の聖句 05月20日(水)
遠い海、地の果てに至るまで、すべてのものがあなたに依り頼みます。(詩65:6)
あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられています。(コロサイ1:23)
私の黙想:
今日の聖句、これ自体は美しい言葉であるが、口語訳と比べてみると、対比できないぐらい違い、同じ原文の翻訳とは思えない。ポイントとなる部分はこうなっている「地のもろもろのはてと、遠き海の望みであるあなた」、文語訳では、「きわめて遠きものの恃みとする汝は」、フランシスコ会訳では「あなたは地の果てと遠い海のより所」、新改訳では「あなたは、地のすべての果て果て」となっている。このようにして翻訳文を並べて見ると、問題点が明らかになってくる。この文章は「あなたに寄り頼みます」ではなく、「全世界が寄り頼んでいるあなた」で、「あなた」に対する修飾語という構造になっている。なぜ、全世界の果て果てまでもが「あなた」に寄り頼んでいるのかということが前半の部分で、「あなたがなさった不思議な業」であり、その不思議な業が実はわたしたちすべてに対する「答えだ」というのがこの詩のポイント。その意味ではフランシスコ会訳と新改訳とが正確に訳している。「あなたは正義によって不思議を行い、わたしたちに答えられます。わたしたちの救いの神よ、あなたは地の果てと遠い海のより所」。新改訳では、この「不思議を行い」の部分を「恐ろしい事柄をもって」と訳しているが、その違いは、なかなか微妙である。いずれにせよ、神の行為は不思議で恐ろしい事柄である。
この詩における、この節のポイントは、そこではなく、これが「神の答え」だということである。神の業を神の答えとして受け止める。では、その答えは何という「問い」に対する答えなのだろうか。果たして、わたしたちは(私は)、いや人類は、神に対する「問い」があるのだろうか。問いに先行する神の答え、答えから「問い」を問う。答えのある問い。その答えを拒否する人間。私の黙想はまだまだ続く。
2015日々の聖句 05月21日(木)
あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。(詩32:8)
マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。(ルカ10:39)
私の黙想:
この詩の構造は1~7節までの「あなた(神)」と「わたし(詩人)」が、8~9節では逆になり、10~11節では詩人が第3者に呼びかける言葉になる。従って今日の聖句は神の詩人へのセリフである。7節までの部分でヤハウェと詩人とは「罪」を挟んで向かい合っている。そのときの「神の手」、毎日毎日、昼も夜も「重くのしかかっている」(4節)。とうとう我慢が出来ず、詩人は神に罪を告白する。この時の開放感は何ものにも代えられない喜びであった。それで8節、罪から解放された後からは、毎日毎日、昼も夜も、「神の目がわたしに注がれている」。「神の手」から「神の目」への変化、これがこの詩にポイントであろう。毎日毎日、朝、目が醒めると、神の目がわたしにその日になすべきことを勧めてくれる。わたしはただ神の声を聞き、それに従いさえすれば、日々を楽しく過ごすことが出来る。
究極、信仰者として生きるということは、こういうことであろう。
2015日々の聖句 05月22日(金)
あなたは主によって喜び躍り、イスラエルの聖なる神によって誇る。(イザヤ41:16)
主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。(フィリピ3:1)
私の黙想:
何の変哲もない「旧約聖書らしい」聖句である。ところが、この句の前後を見ると驚く。この直前には「虫けらのようなイスラエルよ」という激しい言葉、しかもそのイスラエルが 諸国民を裁く「鋭く、多くの刃をつけた打穀機」とされるという。脱穀機とは米や麦の収穫で、穂から実の部分を切り離す機械である。つまり有用な部分と無用な部分とを分けて、無用な部分を捨てる作業をする。つまり「裁きの機械」で、イスラエルが諸国民を裁く役割をするという。その作業を見てイスラエルは喜び踊り、聖なる神を自慢するらしい。
その民族、あるいはその人がそこに存在するということが、善人と悪人、17節によると富者と貧者とを切り分け、悪人を追放し、貧者を救済する。そういう役割をイスラエルの民は、誇りを持ってするのだという。
現在のユダヤ人たちも、この文書を読んで、そこにアイデンティティを見出しているのだろうか。
2015日々の聖句 05月23日(土)
あなたに望みをおく者はだれも、決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。(詩25:3)
あなたがたは、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。(1ペトロ1:8~9)
私の黙想:
「あなたに望みを置くもの」と「いたずらに人を欺く者」とが対比されているが、これはアンバランス(非対称)である。後者について口語訳では「みだりに信義にそむく者」、フランシスコ会訳では「むなしい言葉で裏切る者」、「ゆえもなく裏切る者」となっている。これで問題点が明白になった。新共同訳の非対称性の原因は「人を」という言葉が入っているからであるらしい。要するに、あなたを信頼している者は誰も恥を受けないが、あなたを理由もなく騙す奴は恥をかく、ということであろう。もう一つ、後半の言葉は「恥をかく」のではなく、「恥をかかせて下さい」という願望文である。神を騙すことが「恥程度」で済めばいいが。それでは済まないであろう。
旧約聖書に神を騙した預言者の話がある。ヨナ物語である。この時受けた「恥」は恐ろしい。嵐の海の中に放り込まれ、大魚に飲まれ、その胃袋の中で神に懺悔の祈りをしなくてはならない羽目になった。あの時、胃袋の中で祈らなければ、一巻の終わりであった。