ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

概説:エラスムス著『痴愚神礼讃』(4)

2014-04-03 08:09:04 | 小論
概説:エラスムス著『痴愚神礼讃』(4)

Ⅴ「世相を切る」(49節~60節)
(a) 49節 学問批判
(b) 50節 著述家批判
(c) 51節 法律家批判
(d) 52節 哲学者批判
(e) 53節 神学者批判
(f) 54節  修道士・隠修士批判
(g) 55節 権力者批判
(h) 56節 高級官僚批判
(i) 57節  高位聖職者批判(教会批判)


Ⅴ「世相を切る」(49節~60節)
(a) 49節 学問批判
人間界を眺めてみますと、馬鹿らしいことや狂気の沙汰が満ち溢れている。そこで人間界では知恵に満ちていると言われている人たちの様子を調べてみまることとする。そういうことになると、何と言っても言語学者(文法学者)がトップでしょう。彼らは他人の言葉遣いを俎上に載せて実に細かいことの正確さを徹底的に追求する。私はある人のことを思い浮かべているが、彼はギリシヤ語、ラテン語、数学、哲学、医学に精通し、もう60歳になるが、ここ20年ほどそれらの諸学問を全部放ったらかしにして文法の研究に熱中し、特に八品詞を明瞭に区別する方法を確立しようというわけである。なにしろギリシャ人もラテン人も、誰も八品詞を完全に区別した人はいないというわけですから彼が熱中するのも成る程と思う。誰かが副詞に属すべきものを接続詞だとでも言うものなら、戦争を引き起こしかねないらしいのである。
まぁ、どういうことになるでしょうか。
(b) 50節 著述家批判
ここで批判されているのは、詩人、弁論家、作家等で、今で言う「評論家」であろう。彼らが最も親しくしているのがうぬぼれとへつらいで言い換えると「おべんちゃら」。彼らは哲学者ににじり寄ったりするときもあるが、私を尊敬してくれている。彼らの多くは苦労の割には報われないことを誇りにしているようである。彼らの中でも「我が党」に属する連中は遊び半分で楽をして儲けようとしている。彼らの中で最も賢い奴は他人の作品を自作として公刊してしまう手合です。人様が粒々辛苦の末に得る栄光を、ちょっと手を加えるだけ横取リ仕様とするが、大体はすぐバレて痛い目にあること間違いなし。しかしなんといっても愉快極まりないのは、愚か者が愚か者を、無学な輩が無学な輩を、互いに大いに褒め合っていることである。 
(c) 51節 法律家批判
学者仲間で自他共にトップの座を占めているのが法律家で、彼らは「自己満足」の塊である。いろいろ言いたいこともあるが、私の大の仲良しが法律家なのでこのぐらいにしておく。
(d) 52節 哲学者批判
法律家の次に威張っているのが哲学者である。神が天地を創造されたとき、その秘書役を担ったかのようにいろいろなことに口を出すが、その根拠は甚だ薄弱である。何にも知らないくせに、すべてを知っていると公言するのがこの輩である。イデア、ウニウェルサリア、フォルマ・セバラクタ、プリマ・マテリア、クイディタス、エッケイタス、などなどリュンケイウスでさえも見分けることができないような微細なものが見えるのだと高言する。
(e) 53節 神学者批判
この節では、宗教改革の前夜の神学的状況が描かれている。(40節、41節では教会の現場の状況)というわけで、特別に詳しく読むこととする。以下のことを語っているのは全て痴愚女神なのですからお許しいただきたい。

まず最初に、神学者と呼ばれている連中は「恐ろしく傲慢で怒りっぽい人種である」。彼らがこんなに威張っておられるのは、私が彼らには特別に「うぬぼれ(ピラウティア)」を与えているお陰である。彼らは「自分たち以外の人間すべてを地を這う野獣とみなし、高きところより見下ろしている」。彼らの手法は、ややこしい定義や、結論や、推論などを並べて身を固め、逃げ道を準備している。その上で「秘められた神秘の世界」を形成して人々をたぶらかしている。それが原罪論であり、処女降誕論であり、「聖体の秘跡」なのであるが、それらのことはもう既に議論し尽くされている。それで新しもの好きな神学者たちは色々に工夫して新しい問題を作り出している。それは最早クイズ問題のようなもので、たとえば「神による創造には定められた瞬間というものがあったか」、とか「神は女だの、悪魔だの、驢馬だの、かぼちゃだの、火打ち石だの形をとって姿をあらわすことができたであろうか」等というような議論をしている。
要するに、こういう微細に輪をかけたような微細な論議を、スコラ学派を中心に、実在論者、唯名論者、トマス派、アルベルトゥス派、オッカム派、スコトス派などが入り乱れて議論をしている。この縺れた議論の網の目から脱出するのは、迷宮から逃れ出るより難しいであろう。痴愚女神はつくづく言う。「使徒たちご自身でさえも、もう一つ別の聖霊を必要とするだろうと思われますね」。(この言葉は痴愚女神のセリフというよりエラスムスの自身の実感であろう。議論はまだまだ続く)。
彼らの議論から比べるとパウロの信仰論のほうがはるかにスッキリしている。パウロはコリントの信徒の手紙13章で、愛について語っているが、決して「弁証法を用いて分類したり定義したりしていない」。また、使徒たちは、聖体の秘跡について「変化の瞬間は何時か」などという議論もしていない。またペトロ自身は「天国の鍵」を授けられたが、そのことについてペトロ自身は一言も触れていない。
例えば、洗礼について、形相因、質料因、能動因、目的因について「一度たりとも教えたことはなく、洗礼を受けたことによる資格が、消失すのかしないのかということについては、どこにも言及していない」。まぁ、いろいろなことを議論するものである。(要するに、使徒時代の「神学」はエラスムス時代の神学とは比較にならないほど粗野なものであったということでしょう)。
にも拘らず、「当節の先生方」が使徒たちの議論を「論難しない」のは、「古い時代のもの」であるということと「使徒の名前」の権威を尊重してのことである。(こういう話を長々と話した上で、結論として次のように言う。ここらあたりがエラスムスの本音であろう)。
「ところが、わが神学者先生たちときたら、自己満足にひたって得意満々、みずからを褒めちぎって、昼夜を分かたずこの心楽しいたわごとに没頭していますから、一度もたりとも福音書やパウロの書簡を繙く暇もありません。それでいて、学校でこんな馬鹿げた遊びに耽っていながら、自分こそは三段論法で全教会を支えており、さもなくば教会は崩壊するであろうと考えている」。ここでも、面白い実例を一つ。「尿瓶よ、お前は臭い」という文章と「尿瓶は臭い」という文章とは同じことを意味していると言ったら、その人は直ちに異端とされたなんていうことがありうるだろうか。(ところが当時、実際にそれに類することがあったらしい。訳注によると、「ソクラテスよ、汝は走る」と「ソクラテスは走る」とは意味することは同じだと断定した修道士が異端とされたという事例があったとのことである)。
「神学者の威厳とは、まったく驚くべきものです。もっとも、そんな程度の威厳なら、多くの人足風情も同じく持っていますけれどね」。
以上のように痴愚女神は、当時の神学者について痛烈に批判している。
(f) 54節 修道士・隠修士批判
前節で神学者を痛烈に批判した痴愚女神はこの節ではいわゆる「修道士」や「隠修士」と呼ばれる輩を標的にする。もっとも現在ではこういう人々はあまり目にしないが、当時はかなり沢山いたようである。痴愚女神の目には彼らが目に余る存在であったらしい。
彼らは前節の神学者と正反対の立場で、無学であることが「最も敬虔なこと」だと信じている連中である。「物を読むことさえできない」と言われている。呆れるほどいろいろな実例が挙げられているが、結論として、彼らは「キリスト教徒」と言われるだけでは不足らしく、いろいろな会派の名前、ベネディクト派とか、アウグスチヌス派だとかいろいろな名前をつけたがる。彼らの内の多くは典礼とか伝統を重視し、それらを守ることに専心した報いとして天国で優遇されると信じているが、キリストがご自分の教え、つまり慈愛を実践したかどうかを問われるのだということに関心がない。
以下、この部分ではあまりにも差別的な論述が多いので「読むだけ」にしておくが、ただ後半の「説教」に関する部分は現在の教会でなされる説教とも関連し非常に面白いので書き出しておく。
この連中は、説教をおこなうに際しては始めのうちはおだやかに、あまり大声を立てないようにすることが必要だと、誰かから教えられたらしく、話し始めるときには自分の声が聞き取れないほど小さな声でしゃベる。そうすることによって聴衆は側耳をたてて聞く。また、感動を呼ぶためには時折は感嘆の声を発するのがいいと聞いているので、しばらくの間は控えめに静かな声で話していて、必要もないのに、突然大声を張り上げる。場所も状況もわきまえず大声でわめき立てる人には鎮静剤を飲ませたほうがいいと思うでしょう。おまけに彼らは説教とは話を進めるに従って熱を帯びるものだということも教えられているらしい。だんだん声が大きくなり、最後の部分では息切れして話を終える。
こんなことも付け加えている。彼らは弁論家の著書の中で笑いについて触れられていること耳学問で聞いたらしく、なんとか笑いを取ろうと努め、時折説教に場違いな冗談をまぶす。要するに、彼らの仕草は大道芸人からから学んだものと思われる。(今風に言えば、「テレビのお笑いタレントから学んだギャグ」とでも言いましょうか。面白いでしょう。エラスムスの時代から、この種の「説教」があったのですね。) 
(g) 55節 権力者批判
次に槍玉に挙げているのがいわゆる権力者たちである。彼らはよほど甘い汁を吸っているらしく、偽証や親殺しをしてでもその権力を手に入れたいと思っている。本来ならば権力者を握った者は私事を捨てて公のために働き、自分個人の利益は顧みずに、公の利益のみを考えねばならない筈である。
権力者にはプライバシーはなく、生活が廉潔であることによって国民にとって大いなる救いをもたらす吉祥の星となる。もちろん、その逆もある。ともかく、権力を握りそれを維持するためには、さまざまな陰謀、憎悪、危険や恐怖が伴うが、最も恐ろしいことは、その頭上に真の王者がおられ、最後には彼が地上で行なったことを細大漏らさず釈明することが求められる。
ところが権力者たちは痴愚女神のお陰でさまざまな心配事をすべて神々に委ね、つまり自然の成り行きのままに放置し、自分たちは遊蕩惰弱な生活に耽り、いかなる心の平安をかき乱すようなことはしたくないので、取り巻き連中の快い言葉だけを聞いて、「狩猟に出かけたり、立派な馬を飼つたり、自分の利益になるように司法官職や長官職を売りに出したり、臣下たちの懐を軽くして、その金を自分の金蔵に収めるための手口を毎日考え出したり、それも実際には不当そのものなのに、公正さを装った口実を設けておこなうのですが、そんなことをしていれば、それで王侯の務めを立派に果たしていると思っている始末です。ですが民心を離反させぬようにとの目論見で、少しばかり民衆におもねることもするのです」。
(h) 56節 高級官僚批判
権力者批判についでこの節では今で言う高級官僚が取り上げられている。一言で言ってしまえば、「この人種の大部分ほど、卑しく、卑屈で、つまらぬ、下等な連中はいないのですが、そのくせ、あらゆる人間の中で第1級の地位を占めていると見られたがっているのです」。ただ一点彼らに良いところがあるとしてら、それは謙虚さである。その謙虚さによって彼らは安逸な生活が保証され、それに満足しきっている。
(i) 57節 高位聖職者批判(教会批判)
57節から60節までの4節は教皇や枢機卿等、高級聖職者についてかなり痛烈な批判を展開している。これだけ痛烈な批判をしながら、なおカトリック教徒としてとどまるエラスムスの不思議。あくまでも組織内部の批判に徹する姿勢なのであろう。この部分については、私自身の批判と間違われると困るので、できるだけ本文をそのまま引用することにする。
57節
王侯貴族のような生活に勝るとも劣らないのが教皇、枢機卿、司教たちの生活である。この中のどなたか御自分のまとっている衣装の意味をじっくりお考えください。
身にまとった雪よりも純白な衣装は一点の穢れもない生活を示し、両端が一つの結び目でつながれている二つの角のある司教冠(ミトラ)は旧約と新約に関して全き知識をもっていること、手にはめている手袋は秘跡を授ける際に一切の人間的なるものの汚れに染まっていないことを示している。手にしている杖は神に託された羊の群れを怠りなく見張るため、前に吊るした十字架はあらゆる情欲に打ち勝った印である。
つまりそれは「悲しみと不安に満ちた生活を送られた」イエスの代理人であることを示している。ところが、現在の高位聖職者たちは、「御自分を養うことにかけては、実に見事にやってのけていますが、羊たちの面倒を見ることはキリスト御自身にそっくりおまかせするか、彼らが「兄弟(修道士)と呼んでいる連中ゃ司教代理に押しつけているのです。自分たちが担っている「司教(エピスコポ)」という称号が、労働と、世話と、心遣いを意味していることなどほとんど念頭にないのである。ところが金をかき集めるとなると、完璧な「見張り人(エピスコポ)」としての役目を果たされています。
58節
それは枢機卿についても同じで、自分たちが使徒たちの後継者であって、使徒たちの生き方を模範としなければならないことをすっかり忘れている。
自分のまとっている法衣の持つ意味をすっかり忘れている。「純白の法衣は純潔無垢な生き方、内にまとった緋の衣は、神への燃え立つような愛、広く広がっている外套は、広い範囲に及び、万人を助ける慈愛を示している。つまり教化し、励まし、慰め、おこないを正さしめ、訓戒し、戦争を調停し、悪しき君主に抵抗し、キリストから託された羊の群れのために、財宝を投げ出すだけでなく、喜んで血を流す用意があることを、意味している」のである。ああ、それなのに、それなのに、なんという現実。
59節
キリストの代理である教皇たちが、キリストに倣って生きておれば、誰があらゆる手段を弄して、その地位を買おうとする者などいないでしょう。
ここから後、痴愚女神が語る言葉はあまりにも辛辣すぎて、書き写すのでさえも差し控えたいと思う。次の言葉は結論的にまとめられた文章である。
「老いぼれの老人たちでありながら、若者のような強鞠な胆力を見せて、出費も惜しまず、労苦に疲れ果てることもなく、何物にもひるむことなく、法であれ、宗教であれ、平和であれ、人間に関する一切のことを、めちゃくちゃに引っ掻きまわすのです。にもかかわらず、博学無双のお追従屋どもが控えておりまして、こんな誰の眼にも明らかな狂気の沙汰を、熱意だとか、敬虔だとか、強さだとか言いくるめ、キリストの教えが同じキリスト教徒の隣人に対して抱かねばならぬと説いた、あの至高の慈愛に背くことなく、死をもたらす剣をその兄弟の臓腑ヘ突き刺すには、いかなるやり方によるベきか、などということを考え出すのです」。
60節
このような状況をつぶさに見て、一般の司祭たちは、敬虔さにおいては高位の方々に負けてはならないと思い、自分たちの取り分である十分の一税の権利を守るために、剣であれ、槍であれ、投石機であれ、あらゆる武器を動員して、なんとまあ勇敢に、本物の兵士よろしく戦っている。古ぼけた古文書の中から何かを見つけ出すことにかけては、なんまぁ目ざとく、それでもってあわれな民衆を脅しつけ、十分の一以上の税を払わねばならないと説教をする。そのくせ民衆に対してなすべき自分たちの義務について、あらゆる文書を読んで知っているはずなのに知らん顔をして怠けている。外見上は司祭の格好をしているが、司祭職の本分を一切お構いなしである。
「このお気楽坊主どもは、祈祷の文句を適当に唱えてさえいれば、それでもう自分の務めを立派に果たしていると称しているのですが、その祈祷なるものが、ヘラクレスにかけて、どこぞの神様が聞き入ってその意味がわかったら、それこそ驚き桃の木山淑の木という代物なのです。なにしろそれをがなり立てている本人たちが、ろくろく聞いてもいませんし、意味もわかっちゃいないときているんですからね」。
以上のように、さんざん聖職者に罵詈雑言を浴びせかけてから、最後に痴愚女神は次のように言う。
「ですが、教皇や司祭の生活をとやかく詮索するのは、わたしの意図するところではありません。自己礼賛を述べ立てているのではなく、諷刺の文を綴ったり、悪しき君主を礼賛して、よき君主を謗っていると思われたら困りますからね。このことでちょっとばかり触れたのは、この世の人間として生まれたもので、わたしの秘儀に、その恩恵に浴さぬ限り、楽しく生きられる者は一人もいないということを、明らかにするためだったのです」。

この部分については全体の流れから見て意味がよくわからない。要するにエラスムスが言いたいことは、本書の目的は痴愚女神の自己礼賛ということであって、聖職者の生活をあれこれ詮索してそれを戯画化することではないということであるという。つまり、聖職者の悪行や善行についてはいろいろな意見があるであろうから、わたしが悪行と思っても善行だと思う人もいるだろうと突き放している。その上で、重要な事は全ての人間は痴愚女神の恩恵がなければ楽しく生きられないということを明らかにする。それが61節以下の主題である。

最新の画像もっと見る