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『ネグリ、日本と向き合う』(NHK出版新書)を読む

2014-05-06 19:17:56 | 小論
『ネグリ、日本と向き合う』(NHK出版新書)を読む。
先日、友人(読書仲間)から、「最近面白い本を見つけましたのでお知らせします。『ネグリ、日本と向き合う』(NHK出版新書)です。良かったら、お読みくださると嬉しく存じます」という葉書を頂きました。彼はパソコンもメールも携帯電話も使わず、阿蘇の山奥で読書と薪割りとで每日を過ごしています。彼の読書量はすごく、私などは比較になりません。彼から本を薦められるのは珍しいことですが、薦められて失望したことはありません。
早速、注文し買いましたが、私もいろいろと忙しく、なかなか手につきませんでした。仕事も一段落したので、4月26日にやっと読み始めました。そもそも「ネグラ」は知っていても「ネグリ」が人の名前なのかどうかも知らないままに読み始めましたが、読み始めてすぐにこの本はそう簡単に読めるシロモノではなく、最初の論文「グローバリゼイションの地政学」をの読むだけで半日かかってしまいましたが、読めば読むほど頭の中はこんがらがってきます。やっと、その概要がわかり始めたのは、この論文に対する姜尚中さんのレスポンスを読んでからで、そうなるとやっと面白くなってきました。
読み始めて2日目に第2の論文「3・11後の日本と向き合う」を読みましたが、これは非常に迫力に満ち、これからの日本と世界との関係を考える場合の重要な方向性を示しています。
そこで2~3日、間をおいて5月1日に市田良彦氏の「『社会的なもの』の行方」、上野千鶴子氏の「日本のマルチチュード」、毛利嘉孝氏の「3・11以降の反原発運動に見る政治と文化」を立て続けに読みました。いずれも「さすがに」と思わせる力作で読み応えがあります。特に毛利氏の反原発運動の分析は鋭く問題点を切り開いて見せてくれます。
5月2日、第3論「原発危機からアベノミクスまで、『日本の現在』と向き合う」を読みました。これはネグリ氏が日本を離れてから後に書き下ろされた論文で、それだけに興味深い論述でした。それに対する白井聡氏の「『原子力――主権国家体制』の行方」は核エネルギーがもたらす核心的問題を切り開いてくれるものです。何故、原発という一企業では担いきれないような大事業を民間企業という形で行っているのか、というような原発問題についてのもやもやした気持ちをスッキリさせてくれるものでした。例えばこういう発言があります。「旧枢軸国であり、したがって敗戦国であって、また従って核クラブへの参入ができない国家であるドイツとイタリアが福島第1原発事故をきっかけに脱原発を決断することができた端的な理由は、ここに見いだされる。これらの国々では核武装が視野にはいらないがゆえに、内なる小リバイアサンとその利害関係者共同体の規模が比較的小さなものにとどまり、それゆえに原発を放棄することが可能になった、と推測しうる」(204頁)。ここで暗に述べられていることは日本は「核クラブ」の準会員であり、「潜在的核保有国」で、その担い手が「原子力ムラ」の存在が示しているのだということである。
ネグリに対するコンメンテータの殿(しんがり)の役を務める大澤真幸氏の論文「絶対的民主主義への道はどこに」は、資本主義とはその本質において「宗教」であり、それを問うマルクス主義も宗教批判をする宗教であり、その教義の中心は剰余価値の生産と最後の審判とのアナロジーにあるとする。最後にこう述べる。
「ネグリとハートの資本主義批判を宗教的な基礎において反復することに驚異的な可能性があるかもしれない、とわれわれが予想するのは、こうした事実があるからだ」(234頁)。
ネグリに対する日本人の知性が語るレスポンスはわかりやすい。しかし、やはり『ネグリ、日本と向き合う』においてネグリが語っていることをまとめることは、私には無理である。

それで、ネグリの思想については主要な用語の解題にとどめておく。先ず「帝国」から。

「帝国(empire)」
帝国とは、単一の支配論理のもとに統合された一連の国家的かつ超国家的な組織体を意味する。ネグリにおいては、その特徴を脱中心性かつ脱領域性にあるとし、現代世界ではアメリカがその特権的地位を占めているが、従来の「アメリカ帝国主義」とは異なり、その支配の論理はアメリカという一国による「求心性と領域性」を脱していることにあり、それをグローバリゼーションという。

「マルチチュード」
マルチチュードとは、スピノザ哲学に由来する言葉で、従来、「群衆」とか「多数性」「多性」などといった訳されてきたが、ネグリの場合には、主体的な多数者を意味し、多数の個人が共通の目的のために、ゆるやかな結びつき、相互に作用し合う政治的プロジェクトである。その意味で、グローバルな「帝国」に対する対抗勢力である。そこには中心的権力はない。マルクスにおけるプロレタリアに対する新しい意味付けがマルチチュードであるとも言える。

「コモンウエルス(commonwealth)」
コモンウエルスの原義は「共同の富」、「共有財」で、公益を目的として組織された政治共同体、つまり「国家」を意味する。ネグリにおいては各個、の独立性を尊重したネットワーク型の共同体を意味する。ネグリは近代国家の「公」と「私」の二文法に対立する「共」が重視され、真の意味の「共和国」を意味する。

以上の3つの概念がネグリにおいて最も基本的な概念であり、それぞれネグリ・とハートの2人の共著によりその題名により出版されている。
『<帝国>』(2000年)、『マルチチュード』(2004年)、『コモンウエルス』(2009年)。ネグリはこれらを「私たちの3部作」(p33)という。

「帝国と国民国家」
個々の国民国家の主権を超えたグローバル資本主義のネットワーク状の権力を意味する。

「非物質的労働と認知的労働」
労働の変容、産業労働(工業労働)から非物質的労働へ、フォーディズム(大量生産・大量消費)からポストフォーディズムへ、近代からポスト近代へ。認知的労働とは非物質的労働の重要な側面。
知識や情報、コミュニケーション、関係性、情報的反応といった非物質的な生産物を創り出す労働を非物質的労働と呼ぶ。

「コモン」
近代以降の憲法においては「私的なもの」と「公的なもの」だけで「コモン」が失われている。コモンとは私たちが現在その中に生きており、かつ、私たち自身が生み出している生産的全体を意識化することである。

「ガバメントとガバナンス」
一元的統治をガバメントと呼び、マルチチュードによる脱中心的な民主主義をガバナンスと呼ぶ。

「ワシントン・コンセンサス」
ベルリンの壁の崩壊(1989年)により、IMF,世界銀行、米国国務省の間で合意された米国流の対外経済戦略で、「小さな政府」「規制緩和」「市場原理」「民営化」を世界に広め、米国主導の資本主義を押し広げようとする動き。要するに新自由主義経済の推進。日本も、小泉純一郎(2001年4月、総理就任)内閣以来、これに参加させられている。

「プレカリアート(非正規雇用者」)
現代のポスト産業社会においてはプロレタリアートはほぼ消滅している。それに代わるのがプレカリアートである。

「カテコン(Katechon)」
世界を終わりを遅らせる否定的な力。パウロがキリストの再臨を遅らせる働きとしてアンチ・キリストの登場を述べた時に用いた用語(2テサロニケ2:6)。

「生政治、生権力(バイオポリティクス)」
フーコーの『監獄の誕生』(1975年)による概念。近代以前の権力は、ルールに従わなければ殺すという論理。それに対して現代の権力は人々の生に積極的に介入することによってそれを管理し、方向づける。フーコーはそれを「生権力」と読んだ。現代の支配の特徴は国家が国民を支配する際に単に法や制度によるだけではなく、個人の聖のレベルにまで立ち入る。それを「生政治」という。

「4つの人間像」
(1)「借金を抱える人間」金融が社会を支配するようになって生み出された人間。
(2)「メディアに媒介される人間」メディア権力によって生み出された人間。
(3)「セキュリティを保障される人間」権力によって作為的に作り出された治安の悪さに怯える人間
(4)「代表される人間」仮想の権力を基板にしている人間
 
「アウトノミア」
マルチチュードがコモンを生み出す実践の場がアウトノミアである。

「原子力国家」
原子力国家とは、「原発列島」日本のように、原子力発電を推進する産官学メディアの癒着構造が国家体制の中核を支配し、主権を乗っ取っている国家のこと。
「原子国家(アトミック・ステート)」第2次大戦後1970年代まで、テクノロジーによる統治形態の名を借りて資本主義を正当化し、各技術を極端まで押し進め、安全を脅かす核攻撃能力を蓄積する国家に与えられた名前である。先進諸国が原子力発電を本格化するのは、1973年の石油危機以後である。
原子力技術のイノベーションは単に産業政策の表現であるだけでなく、絶対的な国家再建のオプションでもある。「原子力国家」は主権者として「例外状態」を物理的なかたちで押し付け、圧倒的なテクノロジーの力を通して国家政治の自立的領土を思いのままにかたどり踏み固めていく。
「原子力国家」はテクノクラート組織によって資本主義の支配を保障し、わたしたちを資本主義の支配のなかに閉じ込め、それ以外のかたちで社会を組織する可能性を閉ざす。これこそは、「原子力国家」の技術的機能による絶対主権の伝統の更新ではないのか。

最後に、本書を2回ほど読み返してのネグリについての私の印象は一言でいうと、彼は「現代の預言者」だということである。その印象には何の根拠もいし、理屈もない。ただ何となく「預言者」だなぁ、と思うだけである。それで旧約聖書でいうとイザヤだろうか、エレミヤだろうか、エゼキエルだろうか、と考えてみる。体制維持的なイザヤではないと思う。むしろ政治状況からいうとエレミヤのようだと思うが、エレミヤには積極性という政治行動が欠けており、やはりむしろエゼキエルだろうかと思う。破滅の中で、次の時代への希望を語るという意味で、エゼキエルに比べられるかもしれない。
70年代の激しい思想闘争に敗北し、方向性を失っているプレカリアートに新しい方向の可能性を語るという意味で預言者エゼキエルに似ている。

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