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今週のローズンゲン 2017/11/26~12/02

2017-12-02 09:24:33 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/11/26~12/02

2017 日々の聖句 11月26日(日)
わたしたちは何をなすべきか分からず、ただあなたを仰ぐことしかできません。((歴代誌下20:12)

わたしたちも信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら走り抜きましょう。(ヘブル12:2)

私の黙想:
ユダ王国の第4代目ヨシャファト王の時代、周辺諸国が連合を組み(モアブ人とアンモン人、メウニム人の一部)エルサレムに攻めてきたという。まさに国難、ユダ王国は風前の灯火。ヨシャファト王はユダ王国の中でも善王に区分けされる。今日の聖句はその時のヨシャファト王のセリフである。今日の聖句は要するに「もうお手上げ状態」、降参するしか生き残る道はない。
この「あなたを仰ぐ」という言葉は日本語の「お手上げ」、「降参」とはひと味違う。これは「祈る」という姿勢であり、ヤハウェに任せるほかない。ということを意味している。
ヨシャファテ王は祈る。「わたしたちの神よ、彼らをお裁きにならないのですか。わたしたちには、攻めて来るこの大軍を迎え撃つ力はなく、何をなすべきか分からず、ただあなたを仰ぐことしかできません」。まさに国難、このどうにもならない状況の中で、幼子から高齢者まで全国民が心を一つにしてヤハウェに立ったという。
その時、一人の名もなき預言者に神の言葉が臨む。「すべてのユダよ、エルサレムの住民とヨシャファト王よ、よく聞け。主はあなたたちにこう言われる。『この大軍を前にしても恐れるな。おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである」(14節)。その上で、預言者は意表を突く作戦を提示する。これが面白い。
その劇的なラストシーンは、そのまま引用しよう。
「彼は民と協議したうえで、主に向かって歌をうたい、主の聖なる輝きをたたえる者たちを任命し、彼らに軍隊の先頭を進ませ、こう言わせた。「主に感謝せよ、その慈しみはとこしえに」。彼らが喜びと賛美の歌をうたい始めると、主はユダに攻め込んできたアンモン人、モアブ人、セイルの山の人々に伏兵を向けられたので、彼らは敗れた。するとアンモン人とモアブ人は、セイルの山の住民に立ち向かい、一人残らず討って、全滅させた。セイルの住民を絶やすと、彼らは互いに戦って自滅した」(21~23節)。

2017 日々の聖句 11月27日(月)
大地のもろもろの柱は主のもの、主は世界をそれらの上に据えられた。(1サムエル2:8)

神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます。(ヘブル1;2~3)

私の黙想:
壮大な詩の言葉である。これを歌っているのは、預言者サムエルの母、ハンナである。彼女のは子供が生まれない女性として、人々の軽蔑の対象とされた。そのような世間を見返すような出来事が彼女の身に起こった。彼女は妊娠したのである。サムエル書の冒頭を飾るこの「ハンナの祈り」は後に、イエスの誕生の原型とされた。ここでハンナは世界の「柱」という。世界を全体として支えている「柱」、もはやそこでは「世間の差別、軽蔑とは異なる次元で生きている。彼女にとってもう何も恐ろしいものはない。彼女の人生を支えている力、それは「全宇宙を支えている柱」である。
こういう感覚は男には分からない。自分自身の身体に起こっていることが、そのまま全世界を支えることと直結している。これはおそらく、女性の身体に起こる「妊娠」という出来事の直観であろう。少し大げさに言うと、(いや男には大げさに言うしか表現の道がない)、神の天地創造のみ業に参加している感覚と言うべきか。これは女性に特有の優越感かも知れない。しかし、考えて見ると、これは男だって「理解」出来る感覚なのかも知れない。(病室で、自分自身をもてあまし、わが身に起こっていることとは言え、我が身を越えたところで展開しているという感覚。)

2017 日々の聖句 11月28日(火)
もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。(創世記4:7)

あなたがたは、罪から解放され、義に仕えるようになりました。(ロマ6:18)

私の黙想:
第2世代目の人類の代表者カインの罪の問題。第1目の罪の問題はアダムとエヴァの物語で詳細に描かれている。要するに、それは創造者なる神との直接的な約束違反である。それが何故、罪なのかはハッキリしない。ところがカインの罪は弟ベルに対する嫉妬と殺人でる。今日の聖句はそのカインに対する神の告発である。これはあまり取り上げられないテーマであるが、非常に面白いテーマになりうる。神は言う。「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」。自分が正しいか、正しくないか、自分自身で考えて見よ。ある意味では罪に対して「自覚」の問題を取り上げている。そして、その結果を自分自身で引き受けなければならない。罪自体が犯した人間に対して「迫ってくる」。最後の言葉が非常に重要だ。「お前はそれを支配せねばならない」。ここでの「それ」とは何か。「支配する」とは、どういう状態か。ここでは、問題提起のみ。

2017 日々の聖句 11月29日(水)
お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。(エレミア7:3)

信者たちは財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。(使徒2:45~47)

私の黙想:
エレミアの時代、ユダの人たちにとって、エルサレムの神殿は誇りであった。この神殿に出入りすることが出来るということだけで幸せだったのだと思われる。今日の聖句は、そういうユダヤ人に対するヤハウェの言葉である。「お前たちの道と行い」の内容が、「お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない」(5~6節)。これは分かりやすい。ただ問題は、ではそうではない「道と行い」とは何か。それが4節の言葉である。面白い。「主の神殿、主の神殿、主の神殿」ということが「むなしい言葉」だという。何故だろう。いい言葉ではないか。主の神殿を大切にすること、そこで行われるいろいろな祭儀に嬉々と参加し、主を讃美すること。そういう態度が「むなしい」、と言い、そういうことでは、ここに何時までも住まわせるわけには行かない、とヤハウェが言う。こういうのを「形骸化した宗教」とは言わない。むしろ「熱心な信仰」であり、「熱い祈り」であり、敬虔な信徒と呼ぶ。それがダメだとヤハウェは言う。では、ヤハウェが喜び、受け入れ、何時までもここに住まわせるという生き方とは何か。それは、上でもう既に述べたとおりである。

2017 日々の聖句 11月30日(木)
主はモーセに言われた。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。」(出エジプト33:17)

天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(ルカ1:28)

私の黙想:
今朝のこの聖句、いったいどう読めばいいのだろう。ただ「歴史的な」モーセとヤハウェとの特別な関係としてだけ読めば済むのだろうか。神が「名指しで選んだ」のはモーセだけであろうか。モーセの選らびと私たち現在のキリスト者たちの選びとは全然別次元のことなのだろうか。私にはそうは思えない。
この日の朝、私にとっては特別な朝だ。今日から私の人生の「ラスト・ゲーム」が始まる。これは私だけではない。私と私の家族と一丸になって戦わなければならない、最後の勝負なのだ。そもそも、「あなたのこの願い」が私自身にハッキリしない。「もう、いいや」という気分と、「まだ、もう一寸なすべきことがある」という気持ちとが交錯する。
「ローズンゲン」って、ほんとうにイヤらしい。まさにその時機に適った御言葉が飛んでくる。せっかく、こっちは穏やかな気分で張り切っているのに、時には水を差すような言葉が飛んでくる。若いときにこの言葉を聞いたら、飛んで喜んだかも知れない。でも、今となっては、しんどいなぁ。

2017 日々の聖句 12月1日(金)
痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊。(箴言16:18)

実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。(各自で、)自分の行いを吟味してみなさい。(そうすれば、)自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。(ガラテヤ16:3~4)

私の黙想:
今日の聖句は、分かるようでわかりにくい。「痛い目にあうのを、先取りして、それを避けるということは「驕り」だという。同じように、「この道を進んでいくと、躓いてしまうことを先読みして今のうちにそうならないように、別な道を進む、ということが「高慢」だという。
そうだろうか。人間は先のことを予め知ることは出来ないが、場合によってはある程度予測して、それを避けるということは決して「驕り」でもないし「高慢」でもない。むしろ人間の賢さである。それは必ずしも「神より」賢いというわけではないが、自己保存のための手段である。分かるようで、分からない。
これを口語訳で読むと「高ぶりは滅びにさきだち、誇る心は倒れにさきだつ」とある。同じような意味だとは思うが、こちらの方は、何となくわかる。高慢な者は滅びに至り、誇る者の鼻はその内へし折られる。
人間の能力の一つである未来予測、それが絶対化されると、「神を待つ」という姿勢が失われ、祈らなくなる。
昨日から、私は白血病の知見に従って約4ヶ月間先までの予測を立て、治療に取り組んでいる。4ヶ月後、どうなるか分からないと医者は言う。「寛解」予測は5分5分だという。だから、この治療には「祈り」が要る。だから私は祈りながら戦う。応援よろしく。

2017 日々の聖句 12月2日(土)
立ち帰って、悪の道と悪事を捨てよ。(エレミア25:5)

悔い改めにふさわしい実を結べ。(ルカ3:8)

私の黙想:
今日の聖句では「立ち帰って」という言葉が光っている。
先ず、「立ち帰る」という言葉について考える。新共同訳では旧約で85回、新約で14回で、合わせて99回用いられている。ところが、口語訳では旧約で2回、新約で4回、合わせてもたった6回である。よほど新共同訳では「立ち帰る」という言葉お好きなようである。
今日の聖句にしても、口語訳では「立ち帰って」という言葉が見当たらない。「あなたがたはおのおの今その悪の道と悪い行いを捨てなさい」。ここでは新共同訳と口語訳としか比較できないので、厳密なことは言えないが、新共同訳の「立ち帰って」が口語訳のどの言葉に対応しているのかハッキリしない。でも、かなりの落差があるのでヘブル語の分かる方は説明して欲しい。
そのことは、さておいて口語訳での「あなたがたはおのおの今」という表現にエレミヤらしさというか、時代の移り変わりが鮮明に表れている。エレミヤ以前の時代では、イスラエルの思想状況においてはほとんど民族一体、せいぜい部族単位で行動している。
ところが、イザヤの時代からエレミヤへの時代の移り変わりの中で、ユダ国の国論は、エジプト派、アッシリア派、バビロン派に分かれ、激しい対立と論争と展開した。それらの各派行動が、バビロン軍の占領に際して明らかになり、ある人たちエジプトへの難民となり、ある人たちはバビロンへの捕囚を受け入れた。どちらにも決断できなかった人たちは、祖国残留組となった。これが当時の歴史的状況であった。
預言者エレミヤ自身はバビロン捕囚組に将来を期待したが、当時のユダの指導者たちに半ば強制的にエジプトへ連れて行かれ、その後の消息は分からない。
実は、エレミヤらしさというのは、このいわば「国難」を通して、イスラエル史において個人主義が成立したということであろう。基本的にはエレミヤの思想は個人主義(的)である。
その意味で、今日の口語訳の「あなたがたはおのおの今」という決断を迫る言葉は非常に重要であろう。各自の運命は各自の決断による。

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