ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/07/17~07/23

2016-07-24 08:50:28 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/07/17~07/23

2016 日々の聖句 07月17日(日)
主は御自分の民に贖いを送り、契約をとこしえのものと定められた。(詩111:9)

群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。(マタイ15:31)

私の黙想:
「贖いを送り」という表現には違和感を感じるが、これが直訳らしい。フランシスコ会訳では単に「ご自分の民を贖い」、口語訳は「贖いを施し」、要するに「贖う」とは「負債を肩代わりする」という意味であり(ルツ記4:1~9)、そのための金銭、あるいはそれに代わる物を意味する。その意味では、今日の聖句はなかなか意味が深い。イスラエルの民はヤハウェによって「買い戻された」のであり、ヤハウェとイスラエルの民との契約はその時に成立した。
「贖い」というとすぐに血生臭い動物の犠牲を想像するが、必ずしもそれには限らない。要するに、本来神の所有であった者が神から離れ、誰か他人の者になっていたのを、神が買い戻したということである。そこで「他人」とは誰かとか、その贖いの物品とは何かということを問い出すと、問題がややこしくなる。要するに、人間とはそういう存在なのだという「自己理解」の問題である。

2016 日々の聖句 07月18日(月)
主の慈しみは決して絶えない。(主の憐れみは決して尽きない。)それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。(哀歌3:22~23)

わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。(2コリント4:16)

私の黙想:
日常的なことはしばしば「当たり前のこと」となる。あれほど感動したマナも、毎日のこととなると飽きてくる。そこには驚きがなくなる。当然、「違うもの」「新しいもの」「新奇なもの」を求める。
今日ので聖句で、私は「それほど深い」という言葉に惹かれている。口語訳では「あなたの真実は大きい」。ここには驚きはない。フランシスコ会訳では「あなたの誠実は偉大」、新改訳は「あなたの真実は力強い」。新共同訳が「あなたの真実は深い」なら、これらの訳と同列である。しかし「それほど」という言葉が入ることによって、そこに驚きがある。この驚きは、前半の日常性を破る。「当たり前」ではない。「当たり前」でないことが毎朝起こっている。毎朝がハップニングである。

2016 日々の聖句 07月19日(火)
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道は、あなたたちの道と異なると、主は言われる。(イザヤ55:8)

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」(マルコ9:38~39a,40)

私の黙想:
今日は先ず新約の言葉から、39節の「わたしの名」「わたしの悪口」と40節の「わたしたちに逆らわない者」「わたしたちの味方」との対比に注目したい。イエスは弟子たちと一体化して「私たち」といわれている。
今日の聖句(旧約)では、「わたしの思い」と「あなたたちの思い」とが対比されている。ここには教師と弟子との関係がある。教師が見ているコト、教師の考え方(方法)とが違う。そこから教師と弟子との対話が始まる。そしてその目的は教師が弟子たちと共に「わたしたちの思い」、「わたしたちの道」に至ることである。

2016 日々の聖句 07月20日(水)
あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ、献げ物を携えなさい。(申命記16:17)

あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。(1ペトロ4:10)

私の黙想:
今朝の聖句は、献金の問題。献金は「祝福に応じて」献げるもの。献げる前に祝福がある。ところで、私たちは「祝福に応じて」献げることが出来るのだろうか。それでは祝福の量を私が量るということになる。そんなことは出来ない。この聖句、口語訳ではこうなっている。「主が賜わる祝福にしたがい、おのおの力に応じて、ささげ物をしなければならない」。ここでは「おのおの力に応じて」という言葉が入っている。「祝福に応じて」ではない。どちらが正しいのだろうか。フランシスコ会訳も新改訳も新共同訳と同じだ。文語訳では「その力におよぶ程の物」となっている。
ルカ福音書には「罪深い女がイエスの足に接吻して(高価な)香油を塗ったエピソードが記されている。その時、イエスは「子人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる」と述べられた。このエピソードが、問題の答えになるのだろうか。

2016 日々の聖句 07月21日(木)
主なるわたしは、わが語るべきことを語り、それは必ず成就する。決して延びることはない。(エゼキエル12:25、口語訳)

どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。(2テサロニケ3:5)

私の黙想:
なぜ口語訳を採用しているのだろう。おそらく「わが語るべきことを語り」の部分が新共同訳では意味不明だからであろう。
ここでは人間が語る言葉の「いい加減さ」と対比されている。人間は語っても、都合が悪くなると自由勝手に延期したり、無かったことにしてしまう。ここには面白い諺が紹介されている。「日々は長引くが、幻はすべて消えうせる」(22節)。これを口語訳では、「日は延び、すべての幻はむなしくなった」と訳している。この諺が流行っているという。おそらくこれは権力者を揶揄した言葉であろう。いわゆる「公約」である。そういう時代においては、神の言葉にさえ人びとは信じなくなる。人間不信が神不信につながる。政治の腐敗が宗教の腐敗になる。これ何も古代のことに限らない。

2016 日々の聖句 07月22日(金)
主よ、あなたの定めはわたしの楽しみです。わたしに良い考えを与えてくれます。(詩119:24)

良心はイエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。(ルカ2:46)

私の黙想:
フランシスコ会訳は面白い。「あなたの諭しこそわたしの楽しみ、わたしの相談相手」。面白いことに新改訳もほぼ同じ訳、これは珍しい。岩波訳では「あなたの定めこそ、わが楽しみ、わが相談相手」。岩波訳では、直訳では「わが計画の人ども」と訳注がある。さらに70人訳では「わが相談相手はわが掟」であると註している。新共同訳では「相談相手」という言葉はロマ書11:34にだけ出てくる。
口語訳では「あなたのあかしは、わたしを喜ばせ、わたしを教えさとすものです」。
わたしの独断、これこそ「弁護者としての聖霊」(ヨハネ14:15,26,16:7)であると思う。

2016 日々の聖句 07月23日(土)
人に嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな。(イザヤ51:7)

すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。(ルカ6:26)

私の黙想:
今日の聖句は、全体の後半である。前半は「わたしに聞け正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ」である。ここには前半と後半とが対比されている。「神の言葉」と「人間の言葉」。神の言葉を心に持つ者は、人間の言葉などにうろたえるな。大河の流れにも、川岸では渦を巻き逆流するところもある。大海も岸辺では波立っている。神の言葉を心に持つ者は、小さなことに囚われない。
私が若い頃、よく歌った聖歌にこんなのがある。(日本福音連盟発行 聖歌597)

「父なる神の恵みは、限りなき海ぞ。とも綱を解きて、沖へいでてみよや。
    沖へいでよ、岸を離れ、主の恵みのただ中へ、いざ、漕ぎいでよ」
「世の人は岸に立ちて、沖を見るのみ、主の恵みの深さなど、あえて知らんとせず。
    沖へいでよ、岸を離れ、主の恵みのただ中へ、いざ、漕ぎいでよ」

この歌を、大きな声で、会衆と共に歌うとき、心が晴れ晴れとする。

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