ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 12/08~12/14

2013-12-15 08:31:36 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 12/08~12/14

日々の聖句2013 12月08日(日)
あなたたちは、あなたがたの神、主に仕えなければならない。わたしはあなたがたのパンと水を祝福するであろう。(出エジプト23:25)
イエスの言葉:「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものが、みなあなたがたに必要であることをご存じである。(マタイ6:31,32)
私の黙想:
わたしたちは神に対して人間として当然のことをする。神はわたしたち対して神として当然のことをする。これが神人関係の基本。神としての当然のこと、それはわたしたちに必要なものを与えてくださるということ。「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」。わたしたちは「神によって祝福されたもの」としての日ごとの糧を頂く。今日の聖句で、「主はあなたのパンと水を祝福するであろう」という言葉が光っている。これを聖餐式のパンとワインに限定してはならない。それはまさにわたしたちにとって「必要な日ごとの糧」である。ここには「電力」も入っている。それは祝福された電力である。病気の原因となるエネルギーではない。今日の聖句に続く一言に注意。「あなたがたのうちから病を除き去るであろう」。

日々の聖句2013 12月09日(月)

見よ、主の言葉を侮っていながらどんな知恵を持っているというのか。(エレミヤ8:9)
どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるように。(エフェソ1:17)
私の黙想:
ここで批判されているのは「賢者」と呼ばれている人々である。それはホンモノの賢者ではない。ただ世間的に「賢者」と呼ばれているに過ぎない。現代でいうとテレビやマスコミに登場する「コメンテーター」と呼ばれる人種を想像すればいい。彼らは「主の言葉を侮っている」。口語訳、フランシスコ会訳「捨てた」、新改訳では「退けた」、ケンブリッジ旧約聖書注解では「軽蔑した」と訳している。主の言葉を無視・軽視していながら、彼らは何を根拠に、さも賢者であるかのように語るのか。彼らは何を見て、何を聞いて、何を知っているというのか。
ここで問題とされている点は8節の「我々は賢者といわれる者で主の律法を持っている」 という彼らの主張に対する反論である。彼らも「私たちは主の言葉持っている」と主張する。エレミヤは「あなたが持っていると言う主の言葉とは、『書記が書いた嘘』である」という。さぁ、どちらがホンモノか。まさに現在の日本の状況そのものではないか。原発の安全性、軍事力の必要性、憲法問題、秘密保護をめぐる議論。いろいろなコメンテーターが現れいろいろなことを言う。緊急にして、深刻な問題がグルメと同レベルのエンターテイメントにしてしまっている。若者たちの間では、リアルがバーチャル化し、バーチャルがリアル化している。
エレミヤは嘆く。「彼らは、おとめなるわが民の破滅を手軽に治療して平和がないのに『平和、平和』と言う」(11節)と。今の問題は「手軽に治療」できるような事柄ではない。根本的な(ラディカル)変革が求められている。

日々の聖句2013 12月10日(火)

柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。(箴言15:1)
だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。(ヤコブ1:19)
私の黙想:
Fbの面白さはバーチャルな人間関係である。何か言葉を発信する。すると誰か見知らぬ人が応答する。その人のことはリアルにはその人のアイコンや自己紹介でしか知り得ない。しかし何回か応答を繰り返しているとだんだんその人のことが分かってくる。勿論あくまでもネット上での認識である。時にはその人に会いたくなってくる場合もある。先日もそんなFbでの友人とリアルに会った。バーチャルな関係がリアルになった。最初の一言から長年の友人のような気分になった。
ネット上での関係は基本は「言葉」である。書かれた言葉によってその人の人格を分析する。「柔らかな応答」は会話を楽しくし、友情を深める。「傷つける言葉」は 関係を断絶する。本日の聖句の「柔らかな応答」をフランシスコ会訳では「穏やかな答え」、「傷つける言葉」を「刺のある言葉」、新改訳はそれぞれ「柔らかな答え」と「激しい言葉」と訳している。面白いのは岩波訳で「傷つける言葉」を「侮辱する言葉」と訳している。
勿論、箴言の言葉はリアルな関係を前提にしているが、それをネット上に移して読むと、リアルな関係以上にリアルになる。それは身体的表情や語調、社会的諸関係等、言葉を包む包装紙がなくて、言葉だけがむき出しになっているからであろう。その意味ではFbでの会話は危険な面を持っている。ただバーチャルな人間関係はリアルな人間関係と違って、お互いに何時でも、撤退することが出来ることであろう。

日々の聖句2013 12月11日(水)

御旨のままにシオンを恵みをくださるように。(詩51:20)
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。(1ヨハネ3:1)
私の黙想:
詩51はダビデ王が罪を犯した時の懺悔の祈り。ただし20~21節は時代背景も状況がも異なる。そのような文献上の時代錯誤を一応括弧に入れて黙想する。一国の長たる者が国民の信頼を失うような深刻な犯罪を犯したとき、その罪をどのように告白し、神の前に祈るのか。今日の聖句はそういう文脈で読むと、国王は自分の個人的な罪によって国家が重大な損失を招くことを心配し、そうならないように神に願っている。一国の長の犯罪の結果は個人に留まらず、国を滅ぼすことになる。その意味では「御旨のままに」という言葉が光っている。私の罪の結果が国の運命を決するのではなく、「みこころが天に行われるとおり、このシオンにも行われますように」。

日々の聖句2013 12月12日(木)

主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。(民数記11:23)
神は約束したことを実現させる力を、お持ちです。 (ロマ4:21)
私の黙想:
「主の手が短い」という表現はイザヤ書にも見られ面白い。神の全能を示す言葉である。イスラエルの民は既に「マナ」を与えられることによって神の業を見た。ところがそのマナもマンネリ化すると神の業だということを忘れてしまう。次に「肉」が食べたいと言う。それは「贅沢な不満」であろう。モーセは民の不満にはついて行けないと言う。しかし神は民の不満に答えて、ウズラの肉を与えてくださった。
神を信じるということは、神の業を信じることである。それはいわば「奇跡信仰」である。神は人間の奇跡信仰を否定しない。受け入れ、それに答えて下さる。それが「神の手の長さ」である。しかし奇跡も毎日続くと奇跡でなくなる。そこが奇跡信仰の限界である。私たちは奇跡信仰を否定しないが、そこに留まっていてはならない。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)。

日々の聖句2013 12月13日(金)

御手がわたしを造り、固く立ててくださいました。あなたの戒めを理解させ、学ばせてください。(詩119:73)
キリストの言葉:わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。(ヨハネ15:12)
私の黙想 :
神による人間創造の秘密。神は先ず肉体を形作り、「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者になった」(創世記2:7)。問題は「理解」と「学ぶ」の関係である。文語訳では「知恵を与えて」「誡めを学ばせる」。岩波訳では「悟らせて」「学ばせる」。フランシスコ会訳では「悟りを与え」「学ばせる」。新改訳は『悟りを与えて」「学ぶようにする」。つまり、学ぶの目的語は「戒め」であり、戒めを学ぶ前提(前段階)として「悟り」が与えられている。その点で新改訳だけがおかしい。神は人間の肉体を創造し、理解能力を与え、神の言葉を学ばせる。これでスッキリする。新共同訳の変な翻訳のお陰で、素通りしてしまう創造の秘密が明らかにされた。人間の理解能力の第1の役割は神の言葉の学びにある。自然科学者たちは自然の構造を理解し、そこから神の言葉を読み取る。哲学者は人間の認識能力の不思議さを分析し、言葉そのものの持つ神秘を理解して、神の言葉を学ぶ。

日々の聖句2013 12月14日(土)

恵みと慈しみを追い求める人は、命と恵みと名誉を得る。(箴言21:21)
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイ6:33)
私の黙想:
今日の聖句は何か違和感がある。そこで口語訳を見る。「正義といつくしみとを追い求める者は、命と誉とを得る」。かなりスッキリする。「ツェダカ(正義)」の訳語に「恵」を当てるのは新共同訳の特徴。新共同訳はヘブライ語本に、口語訳はギリシャ語本に依拠。現代風に読むと「正義と愛とを求める者は、命と名誉を得る」。
この格言をどういう場面で人は口にするのだろうか。親が子供を育てる時に、口にしない訳ではないだろうが、少々異なるであろう。むしろ、これは国民が民族の指導者に向けて発する言葉であろう。国政が「正義と愛」に基づいているなら、私たちの生活は恵まれ、民族の名誉は高まる。逆に正義と愛とが軽んじられるとき、貧困と恥知らずが横行する。正義と愛とを高々と掲げる国は、国際関係においても平和を実現し、その国は尊敬される。原発を開発し、国内を汚染だらけにし、しかもそれを輸出する国を誰が誉め讃えるであろうか。

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