■■■■■タイと日本の心の故郷・チェンマイ■■■■■
阪南大学大学院企業情報研究科兼経済学部教授
特定非営利活動法人日タイ国際交流推進機構理事 石井雄二 ■「農耕文化の源流」
●チェンマイは、かつてのラーンナータイ王朝の首都で、現在の北部タイ
の諸県(チェンマイ・チェンラーイ・ランプーン・ラムパーン・ナーン・パヤオ
・プレー・メーホーソン県)の領域の中心地=都であった。「百万の田」を意
味する「ラーンナー」という名称からも理解されるように、生活の糧としてコ
メ作りが盛んに行われていた。
●チャオプラヤ川の上流域の山間盆地に開けたチェンマイ地域は、タイの
中でも最も水に恵まれ、堰や用水路を敷設して、その水を引き込み、地形
の高低を利用して水を各田圃に万遍なく落流させるのに好都合であった。
13世紀末の日本の鎌倉時代相当する古い時代から、今日と変わらずチェ
ンマイ地域は、タイの中でも、格別に稲作の最適地であった。
●このことは、日本の場合でも同様で、コメ作りは山間の上流域から
始まり、山から平野部に移り変わるところに集落ができ、そこから水供
給に不安定な中流域、人間が住めない瘴癘(しぇうれい)の湿地帯で
ある下流域へと開田=開墾が進められ、同時に人々の移住による生
活圏の拡大も進むことになる。しかしタイの場合 ラーンナータイ王朝
は、タイ族の中のユアン族を中心に形成された王国で、19世紀末の
近代国家形成期に併合されるまで、タイ国の属領として定住し、かろ
うじて独立を保ってきた。
●それは、山間盆地から台地・丘陵地帯へ遷移する地域に樹立され
たスコータイ王朝、中流域から下流域にかけての氾濫原に位置するア
ユタヤ王朝、さらに海に近い下流域の湿地帯にある現在のラタナコ-
シン王朝に至る、
いわゆるシャム族中心史観のタイの正史から外れた存在として存続し
てきた。その意味でチェンマイは、古来のタイ族の固有の文化を保持し
てきたともいえる。
■「壮大な歴史のロマン」
●タイ国の公定の歴史は、国の大動脈=チャオプラヤ川の上流から下流に
沿って、王朝の舞台が変遷してきた歴史であり、「スコータイ以前」(13世紀
以前)、「スコータイ時代」(13世紀~14世紀)、「アユタヤ時代」(14世紀~
18世紀) 「トンブリ時代」(18世紀)「ラタナコーシン時代(18世紀~現在)と
なっている。
●この意味でラーンナータイ王朝は、タイの公定史観では「スコータイ
以前」古代の時代に一括して扱われ、さらにそれ以前の日本文化の源
流の一つとして話題を集めている中国雲南省領内のタイ族自治州・シ
ーサンパンナ(西双版納)は、近代世界の制度化された国史という考え
方からすれば、タイ文化の源流をたどる旅から、国境の制約で視界から
外れることになる。
●稲作を生業とするタイと日本の文化の源流が「スコータイ以前」の歴史
に鍵があり、現在の北部タイと中国が接する山間地域に合流するという発
想は、歴史の壮大なロマンを語る以上の重みをもっているのではないか?
●当時、チェンマイの山岳地域を訪れた時に見た神社形式の家屋(千木、
鰹木)や食したササで巻いたおこわのお菓子(ココナッツミルク味)、お米
の脱穀風景、そして何よりも、そこに稲作を基軸とする日本文化の香りの
源郷を嗅ぎ取った自分の感覚によってたしかに「タイの中の日本」を既視
感で凝縮して見出したのかもしれない。
●高齢者となって、若いときに遠かった異国の国タイのチェンマイを初めて
訪れた日本人は、そこに、はるか遠くの後景に退いていた日本の原風景を
ふと垣間見るかもしれない。
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